日本海軍巡洋艦開発小史
(その1) 防護巡洋艦の系譜
さて、今回は艦船模型サイトらしく(胸を張って、いうんじゃない!・・・おっしゃる通りです)、日本海軍の巡洋艦開発(装甲巡洋艦・巡洋戦艦は主力艦として既に紹介済みなので、それ以外)を辿るシリーズの第一回です。少し細切れに、6回程度のシリーズにする予定ですが、今回は、これまでにすでに紹介した内容の再録もあるので、日本海軍成立からの防護巡洋艦を一気にご紹介。
日本帝国海軍の防護巡洋艦
本稿ではこれまで何度も触れてきたので、「またか」の感はあるかとは思いますが、防護巡洋艦は基本、舷側装甲を持たず、機関部を覆う防護甲板により艦の重要部分を防御し、舷側の防御は石炭庫の配置に委ねるという設計構想を持った艦種で、艦の重量を軽減し高速と長い航続距離を両立させることができました。
一般に巡洋艦の主たる使命を、仮想敵の通商路破壊と自国通報路の防御においた欧州各国にとっては非常に有用な艦種と言え、一世を風靡しました。
その時期は明治初年の日本海軍の黎明期と重なり、早急な海軍整備のためには欧州先進国からの軍艦購入に頼らざるを得ない日本にとっては、乏しい国家財政も勘案して比較的調達の容易な(程度の問題ではありましたが)艦種として、多くが購入されたことは、本稿でも紹介してきたところです。
まさに日清戦争時における、日本海軍の主力艦群であったと言えるでしょう。
日清戦争期までの防護巡洋艦(浪速級から吉野級)については、本稿の第3回、第4回で、ご紹介しています。以下、再録(抄録)しておきます。
「トーゴー」さんと一緒に有名になっちゃった。日本海軍、最初の巡洋艦。
浪速級防護巡洋艦 -Naniwa class :protected cruiser-(浪速:1886-1912 /高千穂:1886-1914)
Naniwa-class cruiser - Wikipedia
日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦の建造を決定。
そのうち、イギリスに発注された2隻が、浪速級防護巡洋艦であり、「浪速」「高千穂」と命名されました。
設計にあたっては、当時、世界の注目を浴びた優秀艦「エスメラルダ」(後述)をタイプシップとして、防御甲板の増強による防御力の向上、主砲口径の拡大など、若干の改良が盛り込まれました。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する、日本海軍最初の防護巡洋艦です。
船体はタイプシップである「エスメラルダ」より少し大型化し3,700トンとなり、26センチ主砲2門、15センチ砲6門を主要兵装として備え、速力は18ノットを発揮することが出来ました。(77mm in 1:1250 Hai)
日清開戦時の「浪速」の艦長が東郷平八郎であり、彼と「浪速」は、開戦劈頭の「高陞号事件」で名を挙げました。
日清戦争後、兵装を15.2センチ速射砲に換装し、日露戦争に望みました。日露戦争では第二艦隊に所属、主力の装甲巡洋艦を補佐しました。
「高千穂」は、第一次世界大戦で、ドイツ太平洋艦隊の根拠地青島要塞の攻略戦に封鎖艦隊の一員として参加しました。その際、ドイツの水雷艇S-90の雷撃を受け、補給用に搭載していた魚雷が誘爆、轟沈しました。日本海軍における、敵艦との交戦で失われた最初の艦となってしまいました。
待てど暮らせど・・・。どこに行っちゃったんだろう?
幻の防護巡洋艦「畝傍」-Unebi :protected cruiser-
Japanese cruiser Unebi - Wikipedia
明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦を英仏2両国に発注しましたが、このうちフランスに発注された1隻が「畝傍」でした。
3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮しました。(::mm in 1:1250 Hai)
同時期に発注された当時の最新式の防護巡洋艦であるにも関わらず、「浪速」級とは異なり、直上の写真のように、流麗でやや古めかしい三檣バーク形式の船でした。フランスから日本への回航途上で行方不明となったことはつとに有名です。
浪速級と比較すると、やや低めの乾舷と、舷側の4箇所の砲座に搭載された24センチの主砲が、ややバランスの悪さを感じさせます。フランス艦には時に復元性能に問題がある場合があり、回航途上に暴風雨などに遭遇しその弱点が瞬時の転覆をもたらしたのかもしれません。
しかしその流麗な艦容で高速を発揮し敵に肉薄する姿など、見てみたかったと思いませんか?
(直上の写真は、「浪速級」と「畝傍」の関係の比較。同年代なのに、基本設計が異なるのでしょうね。後述の「松島級」のそうですが、フランスの設計は、好きだなあ)
舷側装甲帯を持った防護巡洋艦?そんなのあり?
千代田 -Chiyoda :protected cruiser- (1891-1927)
Japanese cruiser Chiyoda - Wikipedia
「千代田」は、前出のフランスから日本への回航途上で消息を絶った巡洋艦「畝傍」の保険金により調達されたといういわく付きの巡洋艦です。イギリスで建造され、舷側水線部に貼られた装甲帯を持つところから「日本海軍初の装甲巡洋艦」ともいわれることもありますが、2,500トン、主砲は持たず12センチ速射砲を舷側に10門装備した、正確には装甲帯巡洋艦、一般的には防護巡洋艦に分類されるでしょう。(75mm in 1:1250 WTJ)
19ノットの速力を持ち、当時としては快速でありながら、重厚な連合艦隊主隊に組み込まれたため(おそらく、その装甲帯のため?)、その快速を発揮する機会は、黄海海戦においてはありませんでした。
三景艦:松島級防護巡洋艦 -Matsushima class :protected cruiser-
(厳島:1891-1925/ 松島:1892-1908/ 橋立:1894-1925 )
Matsushima-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「松島」。「松島」は主砲を後ろ向きに搭載している。フェアリー企画製レジンキット)
(「厳島」と「橋立」は同型艦。主砲を前向きに搭載している。Hai製。ベルタンの設計では、主砲を後ろ向きに搭載した「松島型」2隻と、前向きに主砲を搭載した「厳島」「橋立」の4隻で、一セットの戦隊として戦場に投入される予定だったと言われています)
この3隻が、フランスの天才造船家エミール・ベルタンの設計であることはつとに知られています。清国の当時アジア最強を謳われた定遠級戦艦(砲塔装甲艦)「定遠」、「鎮遠」に対抗する艦として設計されました。
これらの艦の最大の特徴は、4,000トン強の小さな船体に巨大な38口径32センチ砲を主砲として一門搭載していることで、主砲自体の性能は、射程、口径、弾丸重量ともに、「定遠級」の主砲(20口径30センチ砲)を凌駕していました。「厳島」と「橋立」はこの主砲を前向きの露砲塔に搭載し、「松島」は後ろ向きに搭載しています。「アジア最強の戦艦を上回る強力艦を手に入れた」と国民の少年のような高ぶりが伝わってくるような気がします。
早速、連合艦隊も「松島」をその旗艦に据えました。(75mm in 1:1250 Hai)
**本稿でのラーニング:筆者は以前から、この「松島級」の特に「松島」に装備された後むきの主砲はどの様に使用される目的があったのだろうかと、疑問を持っていました。この疑問に対し、ご投稿(「通りすがり」さん)をお寄せいただき、「設計者ベルタンのオリジナルの設計はもう少し大きな艦型になるはずだった。日本海軍は予算の関係で船体を小さなものにせざるを得なかった」(これは筆者も聞いたことがありました)、そして「その設計では、もう少しまともに舷側方向に射撃ができたはず」(なるほど!)、さらに「何れにせよ使いにくい巨砲ではあったので、中口径砲の乱射で敵艦の行動の自由をある程度奪ったのちに、必中のタイミングでトドメを刺すような使い方を想定したのではないか。標的と想定された「定遠」級装甲砲塔艦の装甲を撃ち抜くには、この巨砲しかなかったのだから」という趣旨の解釈を伺うことができました。眼から鱗、とはこのことです。ありがとうございました。
初の国産巡洋艦。結構良いんじゃない?
秋津洲 Akitsushima :protected cruiser- (1894-1927)
Japanese cruiser Akitsushima - Wikipedia
「秋津洲」は、巡洋艦のような大型艦としては、設計から建造まで初めて日本国内で行われた、記念すべき軍艦です。
3,150トン、19ノットの快速を発揮し、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備した、国産のいわゆるエルジック・クルーザーです。設計当初から巨砲を主砲とせず、当初から速射砲を装備しています。他の防護巡洋艦の多くが、就役時に装備した主砲を、その後速射砲に換装していること考えると、まさに慧眼と言えるでしょう。あるいは、巨砲を調達できなかった、案外、実情はそういうことかも知れませんが。経緯はさておき、本艦以降、日本海軍の防護巡洋艦は、速射砲中心でその兵装を整えて行くことになります。(80mm in 1:1250 WTJ)
元祖エルジック・クルーザーを手に入れた!
防護巡洋艦「和泉」、元は「エスメラルダ」-Esmeralda :protected cruiser: Izumi - (1884-1912: 1894、日本海軍に売却、以降、巡洋艦「和泉」)
Japanese cruiser Izumi - Wikipedia
「エスメラルダ」は、当初、チリ海軍によってイギリス・アームストロング社に発注された、防護巡洋艦です。(68mm in 1;:1250 Navis)
建造時には、3000トン弱の船体に、主要兵装として25.4センチ単装砲2門を主砲、他に15センチ砲6門を装備し、18ノットの速力を出すことが出来ました。
日清戦争中の1895年に日本に売却され、艦名を「和泉」としました。日本海軍に移籍後、主砲を15センチ速射砲に、その他を12センチ速射砲に換装するなどして、日露戦争では、第三艦隊の序列に加わり戦いました。
本艦がアームストロング社エルジック造船所で建造されたところから、以降、同様の設計で建造された防護巡洋艦は、造船所の場所に関わらずエルジック・クルーザーと呼ばれるようになりました。いわゆる元祖エルジック・クルーザーという「記念的」な巡洋艦と言えるでしょう。日本海軍の防護巡洋艦は、フランスで生まれた「松島級」、舷側装甲を持った「千代田」を除いて、すべてこの形式です。
世界最速の・・・
吉野級防護巡洋艦 -Yoshino class :protected cruiser - (吉野:1893-1905/高砂:1898-1904)
Japanese cruiser Yoshino - Wikipedia
明治24年度計画で、イギリス・アームストロング社に発注されました。建造は同社エルジック造船所で行われ、まさに本家のエルジック・クルーザーです。
その特徴は何をおいても23ノットという高速にあり、就役当時は世界最速巡洋艦、と言われました。4,200トンの船体に、「秋津洲」同様に兵装は全て速射砲で揃えていました(15.2センチ速射砲4門・12センチ速射砲8門)。 (95mm in 1:1250 WTJ)
黄海海戦にあたっては、第一遊撃隊の旗艦として、坪井少将が座乗しました。
準同型艦、高砂は日清戦争後に発注され、主砲口径を20.3センチにするなど、いくつかの改良点が見られます。
その後、「吉野」は日露戦争には、第3戦隊の一隻として参加しましたが、いわゆる日本海軍「魔の1904年5月15日」、封鎖中の旅順沖を哨戒中に濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没しました。同日、機雷で戦艦「初瀬」「八島」を喪失し、日本海軍にとって5月15日は、まさに災厄の1日となりました。
同型艦「高砂」も、同年12月13日にやはり旅順閉鎖作戦中に触雷して失われました。
これで国産定着?
須磨級防護巡洋艦 -Suma class :protected cruiser-(須磨:1896-1923 /明石:1899-1928)
Category:Suma-class cruisers - Wikipedia
「須磨」級防護巡洋艦は、前出の初の国産巡洋艦「秋津洲」を小型化し改良したものです。
2,657トンの「秋津洲」よりも二回りほど小さな船体に、「秋津洲」と同様の兵装、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備し、同級より若干優速の20ノットを発揮します。(78mm in 1:1250 WTJ)
日清戦争には間に合いませんでしたが、日露戦争では建造年次の新しい防護巡洋艦として高速をいかした前哨索敵等の任務でほぼ全ての主要な海戦に参加し活躍しました。
さらに第一次世界大戦では、青島要塞攻略戦やインド洋でのANZAC護衛任務等に参加した後、「明石」は第二特務艦隊旗艦として地中海での対Uボート作戦に派遣されています。
(直下の写真は、前回ご紹介したWTJ製の3D printing model。防護巡洋艦「笠置」級(奥)と「須磨」級(手前)。今回ご紹介する「須磨級」「笠置級」両防護巡洋艦は、これを仕上げたものです)
「吉野」をもう2隻!
笠置級防護巡洋艦 -Kasagi class :protected cruiser-(笠置:1898-1916 /千歳:1899-1928)
Kasagi-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「吉野級」と「笠置級」。「笠置級」は「吉野級」をタイプシップとしたため、類似点が多い)
「笠置級」防護巡洋艦は、「吉野級」の2番艦「高砂」をタイプシップとして、アメリカで建造されました。日本海軍としては、海外に発注された最後の防護巡洋艦となりました。
武装はタイプシップである「高砂」に準じて、20.3センチ速射砲2門、12センチ速射砲10門を主兵装としています。速力は22.5ノットを発揮しました。(95mm in 1:1250 WTJ)
日露戦争では、海軍主力艦隊の第一艦隊に所属し、戦艦戦隊を補佐しほぼ全ての主要海戦に参加しました。
偵察専任!無理のない設計で、しかも国産。
新高級防護巡洋艦 -Niitaka class :protected cruiser-(新高:1904-1922 /対馬:1904-1939)
Niitaka-class cruiser - Wikipedia
「新高級」防護巡洋艦は、日本海軍としては初めて設計当初から偵察任務を想定して建造された国産巡洋艦です。そのため前級にくらべやや小型の艦型となりました(3,366トン)。雷装を廃止し、兵装も15.2セント速射砲6門、速力も20ノットととやや抑えたものとなっています。(81mm in 1:1250 Navis)
この様に一見したスペックでは華々しさには欠ける同級ですが、一点、堅牢性、実用性は大変高く評価された様です。(日本海軍は、ともすると「一点豪華」へのこだわりが強く見られ、ともすればその「豪華」装備へのこだわりで、設計に齟齬をきたす様なことが時折みうけられたりするのですが、本級における成功は、米軍におけるシャーマン戦車やドイツ軍の4号戦車などの様な成功例と何処かに通ずるところがある様な気がします)
第一次世界大戦では、インド洋でのシーレーン防御任務に活躍し、南アフリカのケープタウンあたりまで遠征しています。
予算がちょっと足りないから、少し小ぶりに作ってみました
音羽 Otowa :protected cruiser- (1904-1917)
Japanese cruiser Otowa - Wikipedia
前出の「新高級」同様に 偵察任務を想定し1隻のみ建造されました。予算の関係で、「新高級」をさらに小型化した設計となり、3,000トンの船体で21ノットを発揮しました。
兵装は前級同様、雷装は持たず、15.2センチ速射砲2門、12センチ速射砲6門と、艦型の小型化に準じさらに抑えたものになっています。
偵察巡洋艦の本領を発揮して、日露戦争に続き、第一世界大戦でも主として警備活動に活躍しました。
(本艦の1:1250スケールの艦船模型は、未入手です。Hai社から製品化されてはいる様なのですが。写真はLaWaRuというモデルショップのものを拝借。いずれはセミスクラッチにトライしてみようかな。何処かに資料があったかな?)
やっぱり「吉野」は良かったよね。国産でも作ってみよう。
利根 Tone :protected cruiser- (1910-1931)
Japanese cruiser Tone (1907) - Wikipedia
前出の「吉野級」防護巡洋艦をタイプシップとして、日露戦争直後の臨時軍事費で1隻のみ建造されました。タイプシップを 「吉野級」にしたところからも、艦隊型巡洋艦として設計され、前級「新高級」「音羽」では廃止されていた雷装を装備し、兵装も「吉野」に準じて15.2センチ速射砲2門、12センチ速射砲10門としています。(99mm in 1:1250 Navis)
本艦の最大の特徴は、これまで戦果実績が見られず、一方では両艦同士の衝突などによる喪失事故が見られた艦首の衝角を廃止し、クリッパー型の艦首を持ったところにあります。
4,113トンの船体にレシプロ蒸気機関を搭載し23ノットの速力を発揮しました。本艦は日本海軍の巡洋艦として、レシプロ機関を主機とした最後の巡洋艦となりました。
筑摩級防護巡洋艦 -Chikuma class :protected cruiser-(筑摩:1912-1931 /矢作:1912-1940 /平戸:1912-1940)
Chikuma-class cruiser - Wikipedia
本級は明治40年度計画で3隻の建造が 承認されました。一番艦「筑摩」は佐世保海軍工廠で建造されましたが、「矢作」は三菱長崎造船所、「平戸」は川崎造船所、といずれも初めて民間造船所で建造された巡洋艦となりました。
前級「利根」同様に艦首衝角を廃止しクリッパー型艦首を持ち、艦型は一気に5,000トンと大型化しています。主機には初めて蒸気タービンが採用され、26ノットの高速を発揮します。
3基の魚雷発射管と、15.2センチ速射砲8門を主要な兵装として装備しています。(177mm in 1:1250 Navis)
本級は防護巡洋艦から後の軽巡洋艦(軽装甲巡洋艦)への過渡的な存在と言え、防護巡洋艦本来の舷側防御である石炭庫の配置に加え、舷側の一部に87mmの舷側装甲を有していました。
第一次世界大戦では、ニューギニアドイツ領の攻略戦や、ドイツ太平洋艦隊(シュペー提督指揮)の通商破壊戦への警備活動、のちにはインド通商路の警備活動などに活躍しました。
(その2) 軽巡洋艦の誕生
タイトルの流れを少し乱暴に整理すると、巡洋艦に対する機動性・高速化への要求から、その主機にタービンが採用され、その燃料も効率の良い重油へのシフトが加速化されました。
本稿ではこれまで何度も触れてきたので、「またか」の感はあるかとは思いますが、防護巡洋艦とは、基本、舷側装甲を持たず、機関部を覆う艦内に貼られた防護甲板と舷側の石炭庫により艦の重要部分を防御する構想を持った設計で、艦の重量を軽減し、限られた出力の機関から高速と長い航続距離を得ることを両立させることを狙った艦種で、一般に巡洋艦の主たる使命を、仮想敵の通商路破壊と自国通報路の防御においた欧州各国にとっては非常に有用な艦種と言え、一世を風靡しました。
しかしこの燃料の重油化への流れの中では、これまでの防護巡洋艦の防御設計の根幹を成してきた石炭庫による舷側防御に代わるものとして、一定の舷側装甲が必要となるわけです。その上で、速力への要求との兼ね合いもあり「軽い舷側装甲を持った巡洋艦」という艦種が発想されます。これが、軽装甲巡洋艦=軽巡洋艦です。
日本海軍について、この流れにもう少し付け加えると、機動性に対する要求の背後には、魚雷の性能の飛躍的な向上と、駆逐艦の発達も合わせて考える必要がありそうです。
魚雷性能の向上
下表は日露戦争期から太平洋戦争の終結までの日本海軍の水上艦艇用の魚雷形式の一覧です。これらの他にも潜水艦用、あるいは航空機用の航空魚雷があるわけです。
西暦 | 和暦 | 形式名称 | 直径(cm) | 炸薬量(kg) | 雷速(低)kt | 射程(m) | 雷速(高)kt | 射程(m) | 装気形式 |
1899 | 明治32 | 32式 | 36 | 50 | 15 | 2,500 | 24 | 800 | 空気 |
1904 | 37 | 日露戦争 | |||||||
1905 | 38 | 38式2号 | 45 | 95 | 23 | 4,000 | 40 | 1,000 | 空気 |
1910 | 43 | 43式 | 45 | 95 | 26 | 5,000 | 空気 | ||
1911 | 44 | 44式 | 45 | 110 | 36 | 4,000 | 空気 | ||
44式 | 53 | 160 | 27 | 10,000 | 35 | 7,000 | 空気 | ||
1914 | 大正3 | 第一次世界大戦 | |||||||
1917 | 6 | 6年式 | 53 | 203 | 27 | 15,500 | 36 | 8,500 | 空気 |
1921 | 10 | 8年式2号 | 61 | 346 | 28 | 20,000 | 38 | 10,000 | 空気 |
1931 | 昭和6 | 89式 | 53 | 300 | 35 | 11,000 | 45 | 5,000 | 空気 |
1933 | 8 | 90式 | 61 | 373 | 35 | 15,000 | 46 | 7,000 | 空気 |
1935 | 10 | 93式1型 | 61 | 492 | 40 | 32,000 | 48 | 22,000 | 酸素 |
1939 | 14 | 第二次世界大戦 | |||||||
1941 | 16 | 太平洋戦争 | |||||||
1944 | 19 | 93式3型 | 61 | 780 | 36 | 20,000 | 48 | 15,000 | 酸素 |
表の見方を説明しておくと(必要ないかも知れませんが)、例えば6年式(大正6年制式採用)の場合、魚雷の直径は53cm、弾頭の炸薬量が203kg、低速設定の27ノットで射程が15,500m、高速設定の36ノットで射程が射程が8,500mということになります。
これが、93式1型(皇紀2593年制式採用)のいわゆる酸素魚雷の場合、魚雷の直径は61cm、弾頭の炸薬量が492kg、低速設定の40ノットで射程が32,000m、高速設定の48ノットで射程が射程が22,000mとなり、性能の高さが際立っていることがわかります。
それ以前にも6年式あたりから、つまり53センチ口径の魚雷の登場から、炸薬量、魚雷の速度(雷速)、射程が顕著に向上し、魚雷の兵器としての実用性が格段に高まったことが想像できます。(上表以前の日清戦争期の日本海軍の魚雷は、炸薬量が約20kg程度、射程が最大で 1000m程。有効射程は300mと言われていました。それが日露戦争期にようやく1000mでも何とか使えるかも、という状況だったわけです)
艦隊駆逐艦の発達
一方、下表は日露戦争期から昭和初期にかけての日本海軍が建造した艦隊型駆逐艦(一等駆逐艦)の艦級の一覧です。
Class | 竣工年次 | 同型艦 | 基準排水量(t) | 速度(kt) | 主砲口径(cm) | 装備数 | 魚雷口径(cm) | 装備数2 | 備考 |
雷級 | 1899 | 6 | 345 | 31 | 8 | 1 | 45 | Tx2 | 英国製 |
東雲級 | 1899 | 6 | 322 | 30 | 8 | 1 | 45 | Tx2 | 英国製 |
暁級 | 1901 | 2 | 363 | 31 | 8 | 1 | 45 | Tx2 | 英国製 |
白雲級 | 1902 | 2 | 322 | 31 | 8 | 1 | 45 | Tx2 | 英国製 |
春風級 | 1903 | 7 | 375 | 29 | 8 | 2 | 45 | Tx2 | |
1904 | 日露戦争 | ||||||||
神風級(I) | 1905 | 25 | 381 | 29 | 8 | 2 | 45 | Tx2 | |
海風級 | 1911 | 2 | 1,030 | 33 | 12 | 2 | 45 | Tx3/TTx2 | |
浦風 | 1913 | 1 | 810 | 30 | 12 | 1 | 53 | TTx2 | 英国製 |
1915 | 第一次世界大戦 | ||||||||
磯風級 | 1915 | 4 | 1,105 | 34 | 12 | 4 | 45 | TTx3 | |
江風級 | 1918 | 2 | 1,180 | 34 | 12 | 3 | 53 | TTx3 | |
峯風級 | 1920 | 12 | 1,215 | 39 | 12 | 4 | 53 | TTx3 | |
野風級 | 1922 | 3 | 1,215 | 39 | 12 | 4 | 53 | TTx3 | |
神風級(II) | 1922 | 9 | 1,270 | 37.3 | 12 | 4 | 53 | TTx3 | |
睦月級 | 1926 | 12 | 1,315 | 37.3 | 12 | 4 | 61 | TTTx2 |
大雑把に分類すると、日本海軍初の駆逐艦である「雷級」から初代の「神風級」までの6クラスが日露戦争を想定し急速に整備された「日露戦争型」の駆逐艦、続く「海風級」から「江風級」が日本海軍独自の艦隊駆逐艦の模索期、その後の「峯風級」以降が第一次の決定版艦隊駆逐艦、と言えるのではないでしょうか?(この他にも、駆逐艦としては、模索期以降、中型(1000t以下)の二等駆逐艦の艦級も存在します。第一次世界大戦で、地中海に派遣された「樺級」「桃級」などがこれに該当します。艦隊型駆逐艦としては、実はこの表の後、つまり「睦月級」の後には、いわゆる「特型駆逐艦」以降の艦級が控えています。「太平洋戦争型」の駆逐艦、日本海軍の駆逐艦の黄金期であり、その頂点かつ終焉のシリーズ、ということになり、上表の「酸素魚雷」との組み合わせで、スペック的にはとんでもないことになるのですが、それらはもしかすると別の機会に)
えっ!模型出せよって!
しょうがないなあ。出します、出します。
(直上の写真は、日本海軍の駆逐艦の各級を一覧したもの。手前から、日露戦争期の代表格で「東雲級」と「白雲級」、模索期から「海風級(竣工時の単装魚雷発射管、その後の連装魚雷発射管への換装後の2タイプ)」、「磯風級」、そして第一次決定版艦隊駆逐艦として「峯風級」、「睦月級」。(「神風級(II)」は現在、日本に向け回航中です。いずれは・・・)
(直上の写真:東雲級駆逐艦:50mm in 1:1250 by Navis 2本煙突が特徴)
(直上の写真:白雲駆逐艦:51mm in 1:1250 by Navis 日露戦役時の駆逐艦の標準的な形状をしています)
模索期の艦隊駆逐艦
(直上の写真:海風級駆逐艦、竣工直後の姿。単装魚雷発射管を装備:78mm in 1:1250 by WTJ)
(直上の写真:海風級駆逐艦、連装魚雷発射管への換装後の姿)
(直上の写真:磯風級駆逐艦:78mm in 1:1250 by WTJ。軽巡洋艦「天龍級」はこの磯風級駆逐艦の形状を拡大した、と言われています。連装魚雷発射管を3基装備し、雷撃兵装を重視した設計です)
峯風級」は、それまで主として英海軍の駆逐艦をモデルに設計の模索を続けてきた日本海軍が試行錯誤の末に到達した日本オリジナルのデザインを持った駆逐艦と言っていいでしょう。12cm主砲を単装砲架で4基搭載し、連装魚雷発射管を3基6射線搭載する、という兵装の基本形を作り上げました。1215トン。39ノット。同型艦15隻:下記の「野風級:後期峯風級3隻を含む)
(直上の写真:「峯風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces)
「野風級:後期峯風級」は「峯風級」の諸元をそのままに、魚雷発射管と主砲の配置を改め、主砲や魚雷発射管の統一指揮・給弾の効率を改善したもので、3隻が建造されました。
(直上の写真:「野風級:後期峯風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces)
(直上の写真は、「峯風級」(上段)と「野風級:後期峯風級」(下段)の主砲配置の比較。主砲の給弾、主砲・魚雷発射の統一指揮の視点から、「野風級」の配置が以後の日本海軍駆逐艦の基本配置となりました)
「神風級」駆逐艦
「神風級」は、上記の「野風級:後期峯風級」の武装レイアウトを継承し、これに若干の復原性・安定性の改善をめざし、艦幅を若干拡大(7インチ)した「峯風級」の改良版です。9隻が建造されました。1270トン。37.25ノット。
(直上の写真:「神風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces)
(直上の写真:「峯風級」(上段)と「神風級」の艦橋形状の(ちょっと無理やり)比較。「神風級」では、それまで必要に応じて周囲にキャンバスをはる開放形式だった露天艦橋を、周囲に鋼板を固定したブルワーク形式に改めました。天蓋は「睦月級」まで、必要に応じてキャンバスを展張する形式を踏襲しました)
***今回ご紹介したモデルは、あまりこれまでご紹介してこなかったThe Last Square製のホワイトメタルモデルです。同社は、1:1250 Costal Forcesというタイトルのシリーズで、タイトル通り第二次世界大戦当時の主要国海軍(日・米・英・独・伊)の沿岸輸送、或いは通商路護衛の艦船、駆逐艦、護衛駆逐艦、駆潜艇、魚雷艇などの小艦艇のモデルや護衛される側の商船などを主要なラインナップとして揃えています。
http://www.lastsquare.com/zen-cart/index.php?main_page=index&cPath=103_146
:直下の写真は同社の米海軍護衛空母「ボーグ」の未塗装モデル:これから色を塗ろうっと。このモデルは、エレベーターが別パーツになっていたり、結構面白いのですが、少し小ぶりに仕上がり過ぎているかもしれません。
そして「睦月級」駆逐艦
「睦月級」駆逐艦は「峯風級」から始まった日本海軍独自のデザインによる一連の艦隊駆逐艦の集大成と言えるでしょう。
(直上の写真:「睦月級」駆逐艦の概観 83mm in 1:1250 by Neptune)
艦首形状を凌波性に優れるダブル・カーブドバウに改め、砲兵装の配置は「後期峯風級」「神風級」を踏襲し、魚雷発射管を初めて61cmとして、これを3連装2基搭載しています。太平洋戦争では、本級は既に旧式化していましたが、強力な雷装と優れた航洋性から、広く太平洋の前線に投入され、全ての艦が、1944年までに失われました。1315トン。37..25ノット。同型艦12隻。
(直上の写真:「睦月級」(下段)と「神風級」(上段)の艦首形状の比較。「睦月級」では、凌波性の高いダブル・カーブドバウに艦首形状が改められました)
艦隊決戦構想と軽巡洋艦
軽巡洋艦の紹介の前に、魚雷だの駆逐艦だの、何を長々書いているんだ、という声が聞こえてきそうですが、もう少しお付き合いを。
これも、これまでに何度も本稿では繰り返し記述してきたことなので、「しつこい」と言われそうですが、日本海軍は、その成立の過程の特異性として、常に「艦隊決戦」というものを目的に設計されてきています。
日露戦争での「勝利」(まあ、戦争全体を見れば、「?」がつくかもしれませんが、海軍の戦歴、戦果から戦術的に見ればそう言ってもいいでしょう)によって、それはさらに確信的なものになったと思われます。
巡洋艦の設計においてもこの傾向は色濃く見られ、他国の海軍においては、巡洋艦は偵察や通商路の破壊、防御を主任務と想定されるため、長期間の作戦行動や航洋性などに重点が置かれるのに対し、日本海軍では常にその戦闘力に設計の重点があり、他を圧倒する火力や速度などを追い求める傾向が顕著で、「一点豪華」な設計ではありながら、ともすれば運用にやや無理が生じることがありました。偵察任務等を目的に建造された艦級は本稿前々回、「防護巡洋艦」の回にご紹介した「新高級」「音羽」くらいで、逆にこれらの艦は設計に無理がなく運用面では大変高評価だったということです。
さて、「艦隊決戦」を目的に設計された日本海軍なのですが、日露戦争の次の仮想敵は、太平洋を挟んで向き合うアメリカ、ということになります。国力、工業力の差は如何ともし難く、日本海軍の決戦構想は、受け身になります(対ロシアの時もそうだった、それでうまくいった、という前例主義的な思いも幾分かあったでしょうね)。
つまり渡洋してくるアメリカ艦隊を迎え撃つ、ということになる訳ですが、主力艦の物量の差を米艦隊の渡洋の途上で少しでも縮めておこうという、いわゆる「漸減戦術」がその作戦構想の根幹に常に持たれることになります。
補助戦力で、渡洋してくる米艦隊の戦力をできるだけ削り、主力決戦に持ち込もう、という訳です。
この構想の具体化の第一弾が、実用化された魚雷と、それを搭載し有力な戦力となった駆逐艦を組み合せた「水雷戦隊」で、軽巡洋艦はその司令塔としての役割(旗艦)を担うことになってゆきます。(ああ、やっと繋がった)
天龍級軽巡洋艦 -Tenryu class light cruiser-(天龍:1919-1942 /龍田:1919-1944 )
Tenryū-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真:天龍級軽巡洋艦:116mm in 1:1250 by Navis)
(直上の写真: 第18戦隊の天龍級軽巡洋艦2隻:天龍と龍田)
初めてギヤードタービンを搭載し、前級の筑波級防護巡洋艦の倍以上の出力から、33ノットの高速を発揮することができました。艦型は前年に就役した「江風級」駆逐艦を拡大したもので、当初から駆逐艦戦隊(水雷戦隊)を指揮することを目的とした嚮導駆逐艦的な性格の強い設計でした。
主砲には14センチ単装砲を中央線上に4門装備し、両舷に4射線を確保しました。日本海軍の巡洋艦としては初めて53センチ3連装魚雷発射管を搭載しました。この発射管は当初は発射時に射出方向へ若干移動して射出する方式採っていましたが、運用面で機構状の不都合が生じ、装備位置を高め固定して両舷に射出する方式に改められました。
舷側装甲は、アメリカ駆逐艦の標準兵装である4インチ砲に対する防御を想定したものでした。
本級は、当初計画では、水雷戦隊旗艦とさらに主力部隊の直衛としても使用する予定で、8隻の建造が計画されていましたが、同時期のアメリカ海軍の「オマハ級」軽巡洋艦が、本級よりもはるかに強力なスペックを持っていること、および本級の就役直後に就役を開始したため「江風級」の次の「峯風級」駆逐艦が39ノットの高速力を有しており、その戦隊の旗艦としては、物足りないこと等から、2隻で毛像を打ち切り、次級「球磨級」軽巡洋艦の建造に計画を移行させました。
太平洋戦争では、既に旧式艦となりながらも、開戦当初2隻で第18戦隊を構成し、南方作戦で活躍しました。
両艦は南方の攻略戦を転戦後、ラバウルに新設された第8艦隊に編入され、ソロモン方面で活躍しました。
「天龍」はその最中、1942年12月18日、ニューギニア方面への輸送作戦中に米潜水艦の雷撃で撃沈され、「龍田」はその後、水雷戦隊旗艦等の任務を経て、輸送船団護衛任務中、1944年3月13日に八丈島沖で、こちらも米潜水艦の雷撃により失われました。
本格的水雷戦隊旗艦から重雷装型まで。魚雷を使いこなせ!
球磨級軽巡洋艦 -Kuma class light cruiser-(球磨:1920-1944 /多摩:1921-1944/北上:1921-1945/大井:1921-1944/木曽:1921-1944 )
Kuma-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真:球磨級駆逐艦:119mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:3D printing modell :写真の姿は太平洋戦争当時の「球磨」。航空機による索敵能力を得るために、後の改装で5番砲塔と6番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)
本級は「天龍級」の艦型を5500トンに拡大し、併せて主砲を「天龍級」の14センチ単装砲4門から7門に増強しています。雷装としては、53センチ連装魚雷発射管を各舷に2基、都合4基搭載し、両舷に対し4射線を確保する設計となっています。
速力は、同時期の「峯風級」駆逐艦(39ノット)を率いる高速水雷戦隊の旗艦として、機関を強化し36ノットを有する設計となっています。
主力艦隊の前衛で水雷戦隊を直卒する任務をこなすため、高い索敵能力が必要とされ、その具体的な手段として航空艤装にも設計段階から配慮が払われた最初の艦級となり、水上偵察機を分解して搭載していました。しかしこの方式は運用上有効性が低く、「球磨」と「多摩d」では、後日、改装時に後橋の前に射出機(カタパルト)を装備し水上機による索敵能力を向上させることになります。
一方、同級の最終艦「木曽」では、水上偵察機ではなく陸用機を搭載し艦橋下に格納、艦橋前の滑走台から発艦させる、という構想を実現しました。このため「木曽」は同型艦でありながら、異なる外観の艦橋を有しています。(「木曽」は最後まで射出機を装備しませんでした)
(直下の写真は、異なる形状の艦橋を持つ「木曽」 by Tiny Thingamajigs)
(直上の写真:「球磨」と「木曽」の艦橋形状の比較。「木曽」は艦橋下に搭載機の格納庫を設け、偵察機の発進時にはその前部にある1・2番主砲等の上に滑走台を展開した)
重雷装艦への改装
1941年に、旧式化した(「球磨級」は53センチ魚雷搭載艦であり、当時の61センチ酸素魚雷を標準装備とする水雷戦隊の旗艦任務は難しくなっていました)同級の3番艦以降(「北上」「大井」「木曽」)を61センチ4連装魚雷発射管10基(片舷5基)を搭載する重雷装艦への改装が決定され、「北上」「大井」については同年中に改装を完了しました。
(直下の写真は、重雷装艦に改装された「北上」「大井」:by Trident)
(直下の写真:「北上」と「大井」:艦の中央部に61センチ4連装魚雷発射管を片舷5基装備した。その後、魚雷発射管の搭載スペースを活用して、高速郵送巻に改装された)
しかし、想定された艦隊決戦は発生せず、両艦が実戦に重雷装艦として投入されることはありませんでした。その後、戦局が厳しくなると、両艦はそのペイロード(多数の魚雷発射管の装備甲板)に注目され、高速輸送艦への改装が計画されました。その改装は魚雷発射管を8基撤去、主砲を全廃し、高角砲を装備、その他積荷の積載装備の追加などに及び、結局、工程がかかりすぎるとして本格的な改装には至りませんでしたが、魚雷発射管の撤去などの小改装による輸送艦任務への適応は随時実施されました。
その後「北上」は損傷修理の際に回天搭載艦への改装が実施されました。これは、主砲、魚雷発射管を全て撤去、高角砲に換装し、艦尾に回天発進用のスロープと投下用のレールを設置し、航行しながら回転を発進させられるようにする、というようなものでした。改装は完成しましたが、実戦に投入されることはありませんでした。
トピック:艦船模型メーカーによるグレードアップ
これまで1:1250スケールの艦船模型メーカーについて、あれこれ紹介してきましたが、実はコレクターにとって、かなり嬉しくて、しかし少し悩ましい問題が、艦船模型メーカー自身による、モデルのグレードアップなのです。
くどくど説明するより、見ていただいた方が早いと思うので、まずは実例をご紹介。
重雷装艦「北上」のケース
EbayでTrident社製の日本海軍軽巡洋艦「北上」の重雷装艦形態の最近の模型を入手しました。
(直上の写真は、重雷装艦「北上」の最近のモデル(上段)と従来のモデル(下段)の比較。メーカーはいずれもTrident社)
ご覧のように、特に魚雷発射管のディテイルが、格段に再現度が向上されています。
(直上の写真は、重雷装艦「北上」の最近のモデル(左列)と従来のモデル(右列)の細部の比較。上段では魚雷発射管のディテイルの再現度が格段に進歩していることがわかります。さらに下段では艦尾部の再現も随分変更されていることがよくわかります)
その戦歴
「球磨」は、南方攻略戦に従事したのち、南方拠点での警備、訓練支援、輸送等の任務に活躍したのち、1944年1月11日に、ペナン島沖で英潜水艦の雷撃で失われました。
「多摩」は、開戦時以来、主として北方警備を担当する第5艦隊に所属し、アリューシャン攻略等に参加、さらにキスカ島の撤退作戦などにも参加しました。その後、南方での輸送作戦等に従事したのち、1944年にレイテ沖海戦に第3艦隊(小沢囮艦隊:空母機動部隊)に編入され、米機動部隊による空襲で損傷し、1944年10月25日、沖縄への退避中に米潜水艦の雷撃により失われました。
「北上」は、重雷装艦として第1艦隊に編入後、上記の次第で高速輸送艦に改装されました。高速輸送艦として南方での多くの任務に従事した後、日本に帰還しそこで今度はこれも上記のように回天搭載艦への改装を受けることになりました。改装は完了しましたが、出撃機会の無いままに呉軍港で米機動部隊の空襲で大破し航行不能となり、その状態で終戦を迎えました。
終戦後は復員支援の工作艦、輸送艦として運用された後、1946年に解体されました。いわゆる5500トン型軽巡洋艦14隻の中で唯一、終戦を迎えた艦です。
「大井」は、「北上」とともに重雷装艦として第1艦隊に編入され、「北上」同様高速輸送艦に改装され、ソロモン諸島方面、インド洋方面での輸送任務に従事した後、1944年7月19日、米潜水艦の雷撃を受け香港沖で撃沈されました。
「木曽」は、開戦時、北方部隊の第5艦隊に編入され、北方警備活動、アリューシャン列島攻略戦に従事しました。キスカ島撤退作戦に参加した後、南方での輸送任務等に従事しました。レイテ沖海戦後に、同海戦に参加した第5艦隊に編入され、1944年11月13日レイテ作戦敗退後の同艦隊司令部輸送のためにフィリピン、マニラ湾に待機中に米機動部隊の空襲を受け大破着底し、失われました。
こうして戦歴を見てみると、同級は、高速水雷戦隊旗艦として設計されながら、太平洋戦争時には既に旧式化しており、本来の活躍ができなかった不運な艦級と言えるでしょう。
(その3) 5,500トンシリーズ
前回に引き続き、日本海軍の軽巡洋艦の主軸となった5500トン型のお話です。
今回登場する二つの艦級の軽巡洋艦は、いずれも、太平洋戦争前半は水雷戦隊旗艦などとして大暴れした船ばかりです。
日本海軍のワークホース!
長良級軽巡洋艦 -Nagar class light cruiser-(長良:1922-1944 /五十鈴:1923-1945/名取:1923-1944/由良:1923-1942/鬼怒:1922-1944/阿武隈:1925-1944 )
Nagara-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「長良級」軽巡洋艦の概観。119mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:3D printing modell :写真の姿は太平洋戦争開戦時の姿。航空機による索敵能力を得るために、後の改装で5番砲塔と6番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)
本級は5500トン級軽巡洋艦の第2グループとして、1917年計画 1918年計画で各3隻、合計6隻が建造されました。球磨級軽巡洋艦の改良型であり、基本設計は大きく変わりません。前級である球磨級からの変更点は、 魚雷性能と駆逐艦の発展に応じ搭載魚雷の口径を53センチから61センチに拡大したところと、主力艦隊の前衛としての索敵能力の充実のために、設計時から航空機を羅針艦橋下部の格納庫に収納する構造を、前級最終艦「木曽」にならい艦橋構造に組み込んでいたところにあります。格納庫を組み入れたため、艦橋の形状は箱型となりました。
航空艤装の話
搭載機には水上偵察機ではなく10年式艦上戦闘機(陸用機)をあて、格納庫前の1番・2番砲の上部に展開された滑走台を用いて発艦させる、という運用方法でした。
前級の「球磨級」では、竣工時には水上偵察機を艦後部の格納庫に収容し、必要都度、水面に降ろして海面から発進させる方式をとったため、その発進の度に艦の航行を停止、あるいは微速まで速力を落とす必要がありました。この運用方法は、平時はさておき、特に戦闘時には軽巡洋艦に求められる高い機動性を阻害するものでした。
そこで、前級「球磨級」最終艦の「木曽」では、羅針艦橋下部に収納庫を設け、そこに搭載した陸用機を滑走台から発艦させる運用を試み、「長良級」はこの形式を踏襲した訳ですが、発進等の即応性には、ある程度目処が立ったものの、運用された陸用機には当然の事ながら母艦への着艦の術がなく、帰投後に母艦周辺に着水して操縦者のみを回収するか、あるいは陸上の基地まで自力で帰還するか、いずれかの方法しか、操縦者が生還する方法がありませんでした。そのため訓練等においても、10式艦上戦闘機の航続距離を考慮した沿岸距離での演習に限られるなど、実用性に乏しく、就役後には航空機は稀にしか搭載されず、ほとんど使用されませんでした。
(直上の写真は、竣工当時の「長良級」の航空艤装。多分、こんな感じだっただろう、と、WTJのストックモデルの艦橋前を少し整形した後、プラ板とプラロッドでちょっと悪戯してみました。固定式の滑走台を艦橋前に設置。羅針艦橋下の格納庫に収納した陸用機:10年式艦上戦闘機を組み立てて(翼を展張して)発進させる形式でした。実際には発進時には艦橋下の収納庫の扉は開け放たれていたはず。今回は、そこまでは再現できず・・・。ごめんなさい。併せてもう一つ「ごめんなさい」。写真の滑走台上の航空機は10年式艦上戦闘機ではなく、90式艦上戦闘機です。翼に日の丸つけたかったけど、そこまでの技術ないし・・・。1:1250スケールの問題点の一つはその小ささ。魅力でもあるのですが・・・。この90式艦上戦闘機の翼長は約7ミリ。ピンセットで摘むのですが、一度落とすと、探すのが大変です。ちなみにこの90式はSNAFU store製:3D printingモデルです。・・・それにしても、実戦時での即応性を高めるためにこの形式にしたはずなのですが、高速航行時にこんな狭い所で、搭載機の整備(組み立ても?)ができたんでしょうか?まあ、ほとんど実用例がないようですが)
後に射出機(カタパルト)が装備され水上偵察機の実際的な運用が可能になるまで、ライバルの米海軍のオマハ級軽巡洋艦が設計当初からカタパルトを搭載していた事も鑑みて、同級の課題として残されたままでした。
カタパルト装備後は、航空艤装が艦後部に移ったことから、羅針艦橋下の航空機格納庫は戦隊旗艦業務に転用されました。
ちょっとブレイク:5500トン級のライバル「オマハ級」軽巡洋艦
(直下の写真は、米海軍が建造した「オマハ級」軽巡洋艦。136mm in 1:1250 by Neptune)
Omaha-class cruiser - Wikipedia
「オマハ級」軽巡洋艦(1923- 同型艦10)は、「チェスター級」に次いで米海軍が建造した軽巡洋艦で、7000トンのゆとりのある船体に、6インチ砲(15,2センチ)12門と3インチ高角砲8門と言う強力な火力を有していました。4本煙突の、やや古風な外観ながら、主砲の搭載形態には連装砲塔2基とケースメイト形式の単装砲を各舷4門という混成配置で、両舷に対し8射線(後期型は7射線)を確保すことができる等、新機軸を盛り込んだ意欲的な設計でした。最高速力は35ノットと標準的な速度でしたが、20ノットという高い巡航速度を有していました。また最初からカタパルト2基による高い航空索敵能力をもっていました。
(直上の写真は、「オマハ級」軽巡洋艦のカタパルト2基を装備し充実した航空艤装(上段)と連装砲塔とケースメートの混成による主砲配置、写真の艦は後期型で、後部のケースメートが2基減じられています)
再び「長良級」の話。
「長良級」の主砲は前級と同じ14センチ砲7門を、前級と同じ配置とし、各舷に対して6射線を確保しました。雷装としては、61センチに強化された魚雷を、連装魚雷発射管4基、前級と同様の配置として、両舷に対し4射線を確保していました。
前級と同仕様の機関を搭載し、36ノットの速力を発揮する事が出来ました。
本級を含む5500トン級巡洋艦は、その後、改装、武装の強化などが数次にわたり行われ、戦力維持が図られましたが、太平洋戦争開戦時には、既に就役後20年を経ようとする老朽艦ながら、戦争を通じて第一線で活躍しました。
筆者にとって「意外」だった搭載魚雷の話
上記の通り、前級「球磨級」では53センチだった搭載魚雷の口径を61センチに拡大し、61センチ連装魚雷発射管を搭載、ということで、当然酸素魚雷(93式1型)を搭載して太平洋戦争に臨んだのだろうと思い込んでいたのですが、実は、下記の「戦歴」に記述しますが開戦以前に酸素魚雷を運用できたのは、酸素魚雷が射出可能な魚雷発射管を装備していた「阿武隈」のみでした。「川内級」でも、太平洋戦争開戦直前の魚雷発射管の位置移転、換装で「神通」「那珂」は酸素魚雷の運用が可能となりましたが、実は水雷戦隊旗艦を輩出した「長良級」「川内級」のうちで併せてこの3隻のみが、酸素魚雷の運用が可能だった、というのは少々驚きでした。
その後、防空巡洋艦への大改装を受けた「五十鈴」は、「阿武隈」同様の仕様で、酸素魚雷の搭載能力を得ます。「長良」については、魚雷発射管自体の改造により、発射管配置はそのままで、酸素魚雷発射能力を持った、という未確認の情報もあるようです。
(直上の写真は、魚雷発射管装備の変遷を示したもの。上段の二枚は「長良級」の一般的な魚雷発射管の配置を示し英ます。61センチ連装発射管を艦橋直後と艦後部に片舷2基装備しています。下段の二枚は「長良級」最終艦「阿武隈」の魚雷発射管の装備状況。「阿武隈」では艦橋直後には発射管は装備せず、艦後部に93式魚雷(61センチ酸素魚雷)が射出可能な4連装発射管を片舷1基づつ、装備しています。射線数は変わりませんが、より強力な酸素魚雷の運用が可能となりました。この形式は、防空巡洋艦への大改装を終えた「五十鈴」と、次級「川内級」の、「神通」「那珂」にも採用されています)
その戦歴
「長良」:開戦劈頭から南方攻略戦に転戦した後、ミッドウェー海戦には空母機動部隊の直衛戦隊(第10戦隊)旗艦の任を務めました。機動部隊旗艦「赤城」の被弾後は、一時的に機動部隊残存部隊の旗艦となりました。その後、新空母機動部隊である第3艦隊に所属して、ソロモン海を転戦した後、主として輸送任務・輸送護衛任務につきました。この間、損傷修理等の間に、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備、対空機銃の増設等の改装を受けています。
その後、中部太平洋、沖縄方面での輸送任務に従事中、1944年8月、熊本県天草沖で米潜水艦の雷撃により失われました。
「五十鈴」:開戦時、香港や南方の攻略戦に参加した後、第2水雷戦隊旗艦として南太平洋海戦、第3次ソロモン海戦等に参加しました。その後、米機動部隊の空襲による損傷復旧の際に、全主砲を高角砲に換装するなど、対空兵装を格段に充実・強化した防空巡洋艦に生まれ変わりました。この対空兵装の強化は、既に旧式化した全ての「長良」級巡洋艦に実施される予定でしたが、実現したのは「五十鈴」1艦のみでした。この改装の際に、魚雷発射管の搭載・射出方式を改め、前部連装発射管を撤去、後部発射管を4連装発射管に改め、酸素魚雷の運用能力を持ちました。
(直上の写真は、「長良級」2番艦「五十鈴」の防空巡洋艦への改装後の概観。本来はこれと同等の改装を、「長良級」の他艦にも実施する予定でした)
(直下の写真は、「五十鈴」の対空兵装の配置を少し詳細に示したもの。すべての主砲を撤去し、艦後部に搭載したカタパルトを撤去し、3基の連装高角砲と多数の対空機銃座を増設しています。この改装の際に、「五十鈴」は前述の魚雷発射管の配置、換装を併せて行いました)
その後、レイテ沖海戦では、第3艦隊(小沢「囮」機動部隊)に編入され、海戦に参加しました。海戦では米艦載機の攻撃により損傷。第3艦隊の解散後は輸送任務につき、1945年4月、スンダ列島の陸軍部隊の撤退作戦に従事中、小スンダ列島スンバワ島沖で米潜水艦の雷撃により撃沈されました。
「名取」:開戦時、第5水雷戦隊の旗艦として、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦などを歴戦しました。その後、第16戦隊の旗艦任務、東インド(現インドネシア)方面の警戒任務に従事。空襲による損傷修理時に、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、「長良」同様の対空兵装の強化が行われました。
マリアナ沖海戦参加後の輸送任務従事中に、1944年8月、フィリピン諸島サマール島沖で、米潜水艦の雷撃により失われました。
「由良」:開戦時には、第5潜水戦隊の旗艦として、マレー攻略戦、ボルネオ攻略戦等に参加しました。第5潜水戦隊旗艦任務を解かれた後も、南方作戦部隊に留まり、その後のジャワ攻略戦にも従事しました。その後、損傷した軽巡洋艦「那珂」と交代して第4水雷戦隊旗艦となり、第2艦隊に所属してミッドウェー海戦、第8艦隊に所属してガダルカナル攻防戦、その後の同島への輸送作戦に従事しました。
1942年10月ガダルカナル島での陸軍部隊の総攻撃に呼応した同島周辺での作戦行動中に、米軍機の空襲により航行不能となり、味方駆逐艦の雷撃で処分されました。軽巡洋艦の戦没第一号となってしまいました。
「鬼怒」:開戦時には、第4潜水戦隊旗艦としてマレー攻略戦に従事。その後、旗艦任務を解かれてジャワ方面の攻略戦、ニューギニア西部での作戦に参加しました。
作戦による損傷修復時に、上述の「長良」「名取」などと同様、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、対空兵装の強化が行なわれました。
その後、レイテ作戦(捷一号作戦)では、レイテ島への兵員輸送を担当する第16戦隊に参加し、1944年10月、同作戦に従事中に米艦載機(第7艦隊)の空襲により失われました。
「阿武隈」:「阿武隈」は「長良級」の他艦とはやや異なる外観を有していました。1930年に衝突事故を起こし、艦首の損傷を修復する際に、それまでのスプーン・バウ型から、凌波性に優れたダブル・カーべチュア型に改めました。
1938年には、「長良級」では唯一、太平洋開戦以前に魚雷兵装強化の改装を受け、前部の連装魚雷発射管を撤去して、後部の連装魚雷発射管を4連装魚雷発射管に換装し、強力な酸素魚雷の運用が可能となりました。
この背景には、同艦の建造中に関東大震災があり、工期が長引き就役年次が遅れたため、「長良級」の他艦に比べると艦齢が若く、改装が優先されたという事情があったと、言われています。
(直上の写真は、「長良級」6番艦「阿武隈」の概観。カタパルトを搭載した太平洋戦争開戦時の姿を示しています)
(直下の写真は、「長良級」の他艦と「阿武隈」の艦首形状の違いを示したもの。「阿武隈」では、衝突事故による艦首の損傷時に凌波性に優れたダブル・カーブドバウに艦首形状を改めていました)
開戦時には、第1水雷戦隊の旗艦として真珠湾作戦に参加、空母機動部隊の護衛を務めました。その後、同機動部隊に帯同してジャワ攻略戦、インド洋作戦に参加した後、北方部隊である第5艦隊に編入されました。アリューシャン攻略戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤退作戦に参加した後、同級の「長良」「名取」「鬼怒」と同様、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、対空兵装の強化が行なわれました。
その後、レイテ沖海戦には第5艦隊の一員として志摩中将の指揮下で参加し、スリガオ海峡海戦で米魚雷艇群と交戦し被雷。速力が低下したため戦場を離脱後の翌朝、米艦載機、米陸軍機の数次にわたる空襲を受け損傷を重ね、1944年10月、フィリピン諸島ネグロス島沖で沈没しました。
「八八艦隊計画」の落とし子。重油消費の急増をどうやって抑えようか・・・
川内級軽巡洋艦 -Sendai class light cruiser-(川内:1924-1944 /神通:1925-1943/那珂:1925-1944 )
Sendai-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「川内級」軽巡洋艦の概観。119mm in 1:1250 by Neptune:写真の姿は「川内」の太平洋戦争開戦時の姿。復元性向上のために、一番煙突の高さを他の煙突と同じ高さに揃えています。同様の目的のため「艦橋も一段低くした」との記述もありますが、この模型では反映されていないようですね。航空機による索敵能力を得るために、6番砲塔と7番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)
「川内」級は5500トン級軽巡洋艦の第3グループにあたります。当初計画では8隻の建造が予定されていました。
「球磨級」「長良級」の前2級との相違点は、当時海軍が推進していた大建艦計画「八八艦隊計画」の推進により予測される重油消費量の飛躍的な増加への対策として、重油専焼缶(ボイラー)の数を減らし、重油石炭混焼缶を増やしたことから、煙突の数が増え4本になった事が挙げられます。
他の装備、性能は、ほぼ前2級を踏襲したものになっています。
ワシントン軍縮条約の締結で、同級の建造計画は8隻から3隻に縮小し、「川内」「神通」「那珂」の3隻が建造されました。同級は太平洋開戦時には既に艦齢15年を迎えていましたが、それでも日本海軍の最新の軽巡洋艦であったため、 3隻とも水雷戦隊旗艦として活躍しました。
外観の差異の話
3隻には外観に差異があり、「川内」は復元性改善工事により四本の煙突の高さが同じになり、艦橋の高さも一段低くなっています。一方、「那珂」は建造中に関東大震災で大きく損傷を受け、艦首を凌波性に優れたダブル・カーブドバウ形式に変更して竣工しています。「神通」は1927年の美保関事件(第8回基本演習:夜間無灯火演習中に発生した艦艇衝突事故)で艦首を損傷し、その修復の際に従来のスプーン・バウ形式から「那珂」と同様のダブル・カーブドバウ形式に艦首形状を変更しています。
(直上の写真は、「川内級」軽巡洋艦の外観を比較したもの。上段が「川内級」のネームシップ「川内」の外観。下段は「神通」「那珂」の外観を示しています。艦首形状が「川内」はスプーン・バウ、「神通」「那珂」はダブル・カーブドバウ(写真左列)。煙突形状が異なり、上段の「川内」は煙突の高さを揃えたのに対し、「神通」「那珂」では一番煙突が他の煙突よりも高い竣工時の姿を残しています。本当は艦橋の高さに差があるはずなのですが、このモデルでは再現されていないようです)
航空艤装と搭載魚雷の話
航空索敵については、ほぼ前級「長良級」と同様の形式を踏襲しています。つまり、竣工時には、陸用機を滑走台から発艦させる形式をとっていましたが、前述のようにこの形式は実用性に課題があったため、カタパルト搭載へ、順次改装されました。
(直下の写真は、「長良級」と「川内級」のカタパルト配置位置の相違を示したもの。「長良級」(上段)ではカタパルトは、5番砲と6番砲の間に装備されていますが、「川内級」(下段)では装備位置が6番砲と7番砲の間になっています)
搭載魚雷については、太平洋開戦直前の改装で「神通」「那珂」については、前述の「阿武隈」同様、前部連装発射管を撤去、後部発射管を4連総発射管に改め、酸素魚雷の運用能力を持ちました。(写真掲載のNeptuneのモデルでは、「神通」「那珂」も「川内」と魚雷発射管の装備位置には差異が見られず、上記の「改装」より以前の姿を再現していると考えられます)
その戦歴
「川内」:開戦時には第3水雷戦隊の旗艦を務め、南遣艦隊に所属し、南方作戦でマレー方面、スマトラ方面を転戦しました。
ミッドウェー海戦では第3水雷戦隊は主力艦隊(戦艦部隊)に帯同しました。同作戦の失敗後、同水雷戦隊は南西方面艦隊に転籍し、インド洋作戦に参加する予定でしたが、ガダルカナル戦の展開により同作戦が中止され、ソロモン方面に進出しました。
1942年8月から1943年8月のほぼ1年間、ガダルカナル攻防戦、その後の中部ソロモン諸島を巡る諸海戦のほぼ全てに第3水雷戦隊は活躍しますが、「川内」は常に第一線で活躍してきたため対空兵装の強化改装を受けられず、やがて水雷戦隊の昼間の行動時には戦隊司令官が旗艦を駆逐艦に変更するなど、不都合が派生していたとわれています。
1943年11月、「川内」は米軍のブーゲンビル島侵攻を阻止すべく発生したブーゲンビル島沖海戦に参加します。日米ほぼ同数の巡洋艦と駆逐艦の混成艦隊同士(日:重巡2、軽巡2、駆逐艦6・米:軽巡4、駆逐艦8)の夜戦となりましたが、レーダーで日本艦隊の接近を察知した米艦隊に対し、最も近い位置にいた川内は海戦の開始とほぼ同時に集中砲火を浴び主機が停止し舵が故障、航行不能となってしまいました。
日本艦隊主体が撤退したため、取り残された「川内」に米駆逐艦が攻撃を集中し、「川内」は魚雷2本を被雷し沈没しました。
「神通」 :第2水雷戦隊旗艦として太平洋戦争の開戦を迎えました。開戦劈頭、フィリピン攻略戦に参加。その後参加したジャワ攻略戦では、スラバヤ沖海戦に参加しています。
ミッドウェー海戦では、第2水雷戦隊はミッドウェー島上陸部隊の護衛隊として参加しましたが、機動部隊の敗北により上陸戦には至らずに帰投しています。
(直上の写真は、「神通」「那珂」の概観を示したもの。ダブル・カーブドバウの艦首形状、一番煙突が他煙突よりも高くなっている、など、特徴がよくわかります)
1942年にガダルカナル攻防戦が始まると、「神通」は第2水雷戦隊を率いてガダルカナルへの輸送任務、輸送船団護衛任務に活躍しました。第2次ソロモン海戦では米軍機の爆撃で損傷を負います。
損傷修復後、ガダルカナル撤退作戦には支援部隊として参加、その後、中部ソロモン諸島での攻防戦に転戦してゆくことになります。
1943年7月、中部ソロモン諸島コロンバンガラ島への陸軍増援部隊の増援輸送を巡り、「神通」を旗艦とする増援部隊の護衛部隊(第2水雷戦隊:軽巡1、駆逐艦5)と、増援阻止を狙う米艦隊(軽巡3、駆逐艦10)の間に夜戦が発生します。
「神通」は米艦隊発見後、探照灯でこれを照射し、魚雷戦、砲戦を麾下の部隊に下命します。一方、米艦隊の軽巡3隻はレーダー射撃を「神通」に集中し、艦橋への被弾で「神通」に座乗していた伊崎少将以下第2水雷戦隊司令部が全滅、「神通」も航行不能となりました。
米艦隊の砲撃が「神通」に集中する中、麾下の駆逐艦は砲雷戦を展開し、米軽巡洋艦3隻に損傷を負わせました。
航行不能となった「神通」は米艦隊からさらに2発の魚雷を受け、爆沈しました。
「那珂」:開戦時には、第4水雷戦隊の旗艦として、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦、スラバヤ沖開戦、クリスマス島攻略作戦等に活躍しました。クリスマス島作戦中に、米潜水艦の魚雷攻撃を受け被雷損傷し、内地に回航され修理を受けました。この修復の際に、5番主砲を撤去し連装高角砲に換装、積載小艇の変更など、その後の輸送、輸送護衛任務への適応力を硬化する改装が併せて行われました。
損傷の修復後は、内南洋警備担当の第4艦隊第14戦隊に編入され、主として担当海域である中部太平洋方面での輸送任務、輸送護衛任務に従事しました。
1944年2月、米潜水艦の雷撃で航行不能となった軽巡洋艦「阿賀野」救援のためにトラック島周辺で活動中に、米機動部隊のトラック島空襲に遭遇。機動部隊艦載機の反復攻撃を受け、爆弾、魚雷を被弾、沈没しました。
こうして両級の戦歴を見ていきますと、長い艦暦の中での数次の改装に耐えられる程度の余裕のある艦級だったのだろうなと改めて実感するわけです。その一方で、それがある意味災いして特に太平洋戦争の開戦時には、既に旧式艦の部類ながら更に続けて第一線での奮闘を求められる過酷な実情が浮かんでも来ます。
そして、次第に任務の重点が、設計本来の水雷戦の要(太平洋戦争緒戦では、まだいくつか、艦隊同士の海戦が行われます)、から輸送・輸送護衛などの任務への役割のシフト、いわゆる「艦隊決戦」的な視点から兵站重視の「総力戦」的視点への海軍設計そのものの重点のシフトへの対応を求められた、ある意味、象徴的な艦級であるとも言えるかと思います。
そして、両級の全ての艦が、失われてしまいました。
5500トン型全体を見ても、終戦時に残存していたのは「北上」1艦のみで、残りの13隻は戦没してしまいました。
(その4) 平賀デザインの巡洋艦
平賀デザイン
平賀譲は大正期から昭和初期にかけて日本海軍の艦政本部で鑑定設計に従事しました。
その設計の根幹は、少し乱暴に整理してしまうと、日本海軍が誕生から負わされた大命題、乏しい資源と予算を条件として如何に最大級の戦闘力を生み出すか、と言う一点に集約され、 コンパクトな船体と重武装の両立を追い求めたところにある、と言えるのではないかと考えます。
その秀逸な発想から「造船の神様」と賛辞する声がある一方、人の意見に耳を貸さないところから「平賀不譲(=譲らない)」と異名をつけられるなど、毀誉褒貶の多い人物でもあったようです。
本稿でもかつて紹介した映画「アルキメデスの大戦」では、おそらくこの平賀譲をモデルにした平山造船中将(田中泯さんが演じていました。さすがに抜群の存在感!)を紹介しましたが、映画では(コミックでも)大艦巨砲主義を推進する、あるいは自身の技術を示すために大艦巨砲主義者を利用するかなり政治的な存在としてとして描かれていると感じました。しかし、今回本稿の準備で資料を当たった感触では、実物はもっと一本気で周りのことは目にも入らない芸術家肌ではなかったのかな、と感じます。
天才の常として、理想の実現に向けては現有する技術の限界(造艦当事者)や、運用者(用兵当事者 )の思惑など気にしない、純粋な職人気質ではなかったかと。その為、往々にして、彼の設計はより工数がかかる、あるいはより難度の高い工作技術を要する、など、本来は限られた予算の中での有効解の発見であったはずのミッションが、時としてより高価で、量産には向かない、などの結果を生じることになりました。この辺り、零式艦上戦闘機を開発した堀越技師とも何かしら共通点があるように感じます。
或いは、「目指すべき量産」とは言いながら、来るべき「総力戦」の規模の「量産」には到底到ることが出来ない国力の限界の中で、「総力戦」に適応する造形を求められた技術者の苦悩の軌跡、と言えるのかもしれません。
ともあれ、平賀譲がこの大正期から昭和初期のかけて次々に生み出した画期的な設計の一連のコンパクト重武装艦は、第一次世界大戦後の列強に強い警戒感を生み出し、やがてワシントン海軍軍職条約、その制限範囲を補助艦艇にまで広げたロンドン海軍軍縮条約などの流れを強める一因ともなった、と言われています。
平賀マジック、始まり、始まり!
軽巡洋艦 夕張 -Yubari light cruiser-(1923-1944 )
(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune)
「夕張」は、 元々、5500トン級軽巡洋艦の9番艦(「球磨級」5隻に続く「長良級」第1期の4番艦)として建造予定だったものを、折からの不況の影響を受け予算の逼迫等の要因から、設計変更したと言う経緯で建造されました。
設計は、当時造船大佐だった平賀譲が主導し、その建造経緯は上記のようなどちらかと言うと後ろ向きなものがきっかけではありましたが、元々は本稿の初期でも触れてきたつもりですが、日本海軍設立の根本に、資源に乏しく、資金にも限界のある国が、その限界の中で国を守るための最大武装を持つには、と言う大命題と同軸線上にあるものでした。それがこの機に具現化され、画期的な軍艦が誕生し、世界を驚かせた、と言っていいでしょう。
(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」(手前)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりもひとまわり小さな船体に、航空兵装をのぞきほぼ同等の兵装を搭載し、周囲を驚かせました)
設計の基本骨子は、5500トン級と同等の兵装と速度を3000トン弱の船体で実現すると言うものでした。すべての主砲を船体の中心線上に配置、前後それぞれ単装砲と連装砲の背負式として、5500トン級に比べると主砲の搭載数は1門減りましたが、両舷に対し5500トン級と同様の6射線を確保しました。同様に連装魚雷発射管を中心線上に配置することにより、発射管搭載数は半減したものの、両舷に対して確保した射線4は、5500トン級と同数でした。
「背負式砲塔」の配置の話
「夕張」の主砲は前述のように、単装砲と連装砲塔を背負式に、艦前部と後部に振り分け配置して搭載しているのですが、単装砲を低甲板に、一段高い甲板に連装砲等を配置する形式をとていました。この門数の多い砲塔を高い位置に搭載する配置は、平賀デザインでは、後の有名は「金剛代艦級」の設計案でも登場します。素人目には逆の方が重心的に安定感が出るような感じがして、最初、なん予備知識もなく「金剛代艦」の設計を見た際には「ああ、このスケッチ、間違ってるなあ」となんの違和感もなく、思ったものでした。
より強力な砲塔に広い射界を持たせるため?発射弾数の多い砲塔により大きな弾庫を確保するスペースを確保するため?より重い砲塔に大きな動力を与えるため?どういう狙いがあったんでしょうか?
(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の主砲搭載形態を示したもの)
機関は、当時高速化が進んでいた駆逐艦型式を導入して、小型化・軽量化が図られ、36ノット(就役当初)を発揮することができました。
防御装甲として、軽巡洋艦としては初めて防御甲板を設け、船体外板の内側のインターナル・アーマー形式で、軽巡「川内級」と同等以上の防御力を得ていた、と言う評価もあるようです。
そのほかに特筆すべきこととして、誘導煙突の導入が挙げられます。
「誘導煙突」の話
これは、コンパクトな船体と、強力な武装、そして高機動力を並立させる上では、大変重要な工夫です。つまり、大きな武装の搭載にはスペースが必要で、かつ高出力の機関も同様に大きなスペースを必要とします。さらに、高度化する射撃管制等のシステムには、指揮スペースにも大きなものが必要です。これらのそれぞれの要求をコンパクトな船体で兼備しようとすると、直立の煙突では無理は生じ、例えば艦橋下にまで伸長して設置された機関からの煙路を「誘導」する必要が生じるわけです。
このように、ある意味、日本海軍の置かれた環境から生じた必然として、以後、この誘導煙突(集合煙突)は、日本の軍艦(特に巡洋艦)の特徴となってゆきます。
(直上の写真2点は、軽巡洋艦「夕張」の誘導煙突。いずれの写真も上段は竣工直後の誘導煙突。当初、高さが十分でなく、排煙が艦橋に逆流するなどの不都合があったため、後に下段のように高さが改められました。誘導煙突は艦橋下から延長されており、機関と兵装、その指揮系統のパズルのような配置への工夫が想像されます)
こうしてコンパクトな船体と強力な兵装の両立という課題を実現した高い評価を得た「夕張」ではありましたが、そのコンパクトさ故に、偵察機搭載のための航空艤装スペースを持てず索敵能力が十分でないこと、また、今後の兵装の拡張性に対する適応余地がほとんどないこと、などから、艦隊の先兵を務める水雷戦隊旗艦、偵察巡洋艦としての実戦での用兵価値が低く、実際の建造は一隻に止まりました。
しかし、上述の「誘導煙突」のみならず、「夕張」で試された種々の新機軸、設計上の試みは、以降の日本の軍艦設計に大きな影響を残してゆきます。
その戦歴
太平洋戦争開戦時には、内南洋(中部太平洋委任統治領)の警備を担当する第4艦隊、第3水雷戦隊の旗艦を務めました。太平洋緒戦でほぼ唯一日本軍が苦戦したウエーク島攻略戦に参加したのち、ラバウル、ラエ・サラモア、ブーゲンビル、ポートモレスビー 攻略戦に活躍しました。
その後、第3水雷戦隊の解体に伴い第2海上護衛隊に転籍したが、主としてそれまでと同様、ソロモン諸島、ニューギニア方面で活動を続けました。
米軍のガダルカナル島侵攻に伴い、米軍の揚陸を阻止すべく出撃した新編成の第8艦隊(外南洋警備担当)に帯同して、第一次ソロモン海戦に参加しました。その後中部太平洋方面での護衛任務の後、正式に第8艦隊所属となり、ラバウル、ブーゲンビル方面での、警備・護衛任務につきました。
ラバウルで米軍機の爆撃で被弾、内地で修理の後、再び第3水雷戦隊旗艦として中部太平洋方面艦隊所属となり、同方面での船団護衛の任務に就きます。1944年4月、ソンソル島(パラオの南西)への輸送任務から帰投中に、米潜水艦により撃沈されました。
古鷹級重巡洋艦 -Furutaka class heavy cruiser-(古鷹:1926-1942 /加古:1926-1942)
Japanese cruiser Yūbari - Wikipedia
Furutaka-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「古鷹級」の概観。 146mm in 1:1250 by Trident : 新世代の偵察巡洋艦として、初めて20cm主砲を搭載しました。下は「古鷹」と「加古」)
前出の「夕張」で成功した手法を発展させ、平賀譲が設計主導をした第二陣が、この「古鷹級」巡洋艦です。
本来は、有力な火力を持つ米海軍の「オマハ級」軽巡洋艦に対抗して、これを凌ぐ重武装の偵察巡洋艦として設計されました。
(直上の写真は、「古鷹級」(奥)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりも二回りほど大きな船体を有しています)
そうした意味では5500トン級軽巡洋艦の強化形で、二回りほど大きな7000トン級(設計時)の船体に主砲口径を20センチとして、これを砲塔形式の単装砲架6基、艦首部に3基、艦尾部にそれぞれ3基に振り分け、中央の砲架がを一段高くすると言うピラミッド型に配置しています。
(直上の写真は、「古鷹級」の特徴的な主砲配置。艦首部と艦尾部に、それぞれ中央部が一段高いピラミッド型の配置で装備されました)
雷装としては、61センチ連装発射管を船内に固定式で各舷3ヶ所に配置、都合各舷に対し6射線を有していました。
(直上の写真は、「古鷹級」の船内に配置された連装魚雷発射管:舷側の2連の円形がそれです。各舷に3箇所、艦首部に1箇所、艦やや後部に2箇所配置されています。艦内に魚雷発射管を装備することには被弾時の魚雷の誘爆など、懸念がありましたが、同級竣工時の魚雷には上甲板からの射出時の衝撃に耐えられる強度が確保されていなかったようです)
船体中央部にボイラー12基からなる機関を配置し、34.5ノットの速力を発揮しました。
「夕張」で試みた誘導煙突を利用して、前後に大きな主砲用のスペースを取り、中央の機関スペースの上に艦上構造を載せる設計となっています。
さらに、後部砲塔群上の滑走台から発艦させる形式で、索敵用の水上偵察機を搭載していました。
(直上の写真は、「古鷹級」の誘導煙突(上段)と水上偵察機の発艦用の滑走台。発艦時には水偵の搭載台である4番砲塔を発艦向きに旋回させ、その先の滑走台もその向きに、レールに沿って移動させました。滑走台の真下あたりに魚雷発射管が見えています)
主砲単装砲架の話
「古鷹級」の最大の特徴は、前後に振り分け配置されたピラミッド型配置の20センチ砲単装砲架ですが、課題の多い装備だったとされています。
単装砲形式については、設計者の平賀が艦の安定性の視点で強く拘ったと言われています。その砲塔形式の単装砲架は、重量軽減の視点から本格的な砲塔ではなく、断片防御程度の軽装甲しか施されていない「砲室」でした。かつ、揚弾、装填などの作業の多くを人力に依存する構造であった為、100キロを超える砲弾を扱う本級の場合、射撃速度の維持が困難であったと言われています。
本級よりもはるか以前に設計された「伊勢級」戦艦では、日本人の体格を考慮して人力装填の副砲口径を前級「山城級」の15.2cmから14cmに下げた経緯を持つ同じ海軍で、なぜこのような決断が下され、それに拘ったのか、これこそが「不譲」と言われる平賀の性格と、誕生期の闊達さを失い官僚的になりつつあった海軍中央の課題の、現れであったと言えるかもしれません。
この課題の単装砲架は、後に次級の「青葉級」と同様の連装砲塔形式に変更されました。この兵装の転換は大成功で、艦構造は大きな変更を行わなかったにも関わらず、射撃の安定性などに問題は生じず、用兵者側の運用は格段に優れたものになった、と言われています。
(直上の写真は、「古鷹級」の主砲の換装前後を示したもの。竣工時の単装砲架配置から、次級「青葉級」で実績の出た連装砲塔形式への換装が行われました:1936-1939)
ロンドン海軍軍縮条約で生まれた「重巡洋艦」(カテゴリーA)の話
ロンドン条約では「主砲口径が6.1インチを超え、8インチ以下で、10000トン以下の艦」をカテゴリーA:重巡洋艦とすると言う定義が行われることになります。この定義は、「夕張」「古鷹級」と言う画期的なコンパクトな重武装艦を生み出し始めた日本海軍を警戒して列強が定め、「古鷹級」とこれに続く「青葉級」をカテゴリーAの総排水量の中でカウントし、その保有数に限界を持たせることを狙ったとも言われています。
同様の制約は、その他の補助艦艇に対する制約でも現れます。その一つが機雷敷設艦艇での制限で、ここでは新造される機雷敷設艦の最大速力を20ノットと制限することで、日本海軍が高速で強力な兵装を持つ、軽巡洋艦或いは重巡洋艦に匹敵するような高速機雷敷設巡洋艦を保有することを制限する狙いがあった、と言われています。これも「夕張」「古鷹級」のもたらした副産物と言えるかもしれません。
(直上の写真は、上述の機雷敷設艦「津軽」:104mm in 1:1250 by Neptune 4000トンの船体を持ち、条約制限いっぱいの20ノットの速力を有していました。「津軽」は12.5cm 連装対空砲を2基を主砲として搭載していますが、準同型艦の「沖島」は軽巡洋艦と同等の14cm主砲を連装砲塔形式で2基、保有していました。ロンドン海軍軍縮条約で、機雷敷設艦等の補助艦艇には最高速力を20ノット以下とする、という制限がかかりましたが、これは、「夕張」「古鷹級」等のコンパクト重装備艦の登場を警戒した列強が、機雷敷設艦の名目で日本海軍が軽巡洋艦として運用できる強力な敷設巡洋艦を建造することを予防した、と言われています。実際に太平洋戦争では、中部太平洋やソロモン諸島方面で輸送船団の護衛や、自ら輸送・揚陸任務など、高速を必要とする水雷戦隊旗艦島の任務を除けば他の軽巡洋艦と同等に活躍しています)
「古鷹級」の大改装
前掲の写真のキャプションでも少し触れましたが、「古鷹級」は1936年から1939年にかけて、次級「青葉級」の要目に準じた、大改装を受けます。その改装項目は、主砲の単装砲架から連装砲塔への換装、魚雷発射管の4連装発射管への換装と上甲板への移転、対空砲の換装(8cm 単装高角砲から12cm単装高角砲へ)、航空艤装の換装(滑走台からカタパルトへ)、機関を重油専焼形式へ統一、舷側への安定性向上のためのバルジ装着等、多岐に渡りました。
これにより同級の外観は一変し、「青葉級」と類似した外観となります。
(直上の写真は、大改装後の「古鷹級」の概観。直下の写真は、大改装前(上段)と大改装後の「古鷹級」の概観比較。バルジの装着などでやや速度は低下しました)
(直上の写真は、主砲搭載形式の大改装前後の比較:単装砲架から連装砲塔へ。この際に、主砲口径が正20センチから、条約制限いっぱいの8インチ=20.3センチに拡大されました)
(直上の写真は、航空艤装の大改装前後の比較:大改装前の滑走台方式(上段)からカタパルト方式へ)
(直上の写真は、雷装形式の大改装前後の比較:船内の連装発射管形式から上甲板の4連装魚雷発射管へ)
その戦歴
「古鷹」:太平洋開戦時には、僚艦「加古」「青葉」「衣笠」と第6戦隊を編成し、内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛任務等に活躍しました。
1942年10月、ガダルカナル揚陸作戦に支援部隊として出撃中、サボ島沖で、米艦隊の初のレーダー索敵による奇襲を受け、同部隊の旗艦「青葉」の被弾後離脱(戦隊司令官戦死)援護のため前衛に出たところを集中射撃を受けて行動不能となり、やがて沈没しました。
「加古」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊の一艦として上記の「古鷹」等と行動を共にします。
1942年8月、第1次ソロモン海戦に第6戦隊の僚艦とともに参加し、記録的な勝利を収めた(戦略的には課題が多いとされますが)後、ニューギニア・ガビエンに帰投中に、米潜水艦の雷撃を受け、魚雷3本が命中し、沈没しました。
魚雷の初弾披雷から転覆沈没までわずか6分ほどであったとされ、この早期の転覆の一因として、平賀デザインの機関部の中央縦隔壁の存在が挙げられています。この縦隔壁については、設計当初から、浸水時の復元性喪失による転覆を早める恐れがある等の指摘が行われていたと言われています。
「平賀デザイン」の改訂版
青葉級重巡洋艦 -Aoba class heavy cruiser-(青葉:1927-1945 /衣笠:1927-1942)
Aoba-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「青葉級」竣工時の概観。 148mm in 1:1250 by Semi-scratched based on Trident : Trident社製「古鷹級:竣工時」のモデルをベースに、主砲搭載形式、高角砲、水上偵察機搭載形式、等をセミスクラッチし、「青葉級」の竣工時を再現してみました。実際には艦橋構造、煙突の形状などがもっと異なっていたようです)
「古鷹級」のいくつかの課題に改訂を加えて生まれたのが「青葉級」です。
本来は「古鷹級」の3番艦、4番艦として建造される計画だったのですが、同級の計画中に次級「妙高級」の基本設計が進められており、この内容を盛り込んだ、いわば「妙高級の縮小型」と言う性格も併せ持つ改訂となりました。
最大の変更点はその主砲を「古鷹級」の単装砲架形式から連装砲塔形式に変更したところで、この変更により、前述のように装弾系が射撃速度の維持等の点で問題のあった人力から機装式となり、格段な戦力強化につながりました。(後年、これに基づいた兵装転換が「古鷹級」にも行われ、同級の運用上の効率が向上した事は、前述の通りです)
「連装砲塔」の話
設計者の平賀が船体の設計上の要件から、強いこだわりを持っていた単装砲架形式での主砲搭載であったわけですが、本来同型艦であったはずの「青葉級」での、この連装砲塔形式への改定については、その承認経緯に諸説があります。既に設計が進んでいた平賀自身が携わっていた次級「妙高級」での連装砲塔採用が決まっていたことから、ようやく砲術上の要求を自覚した、とする説や、平賀の外遊中に平賀に無断で用兵側の要求に基づく設計変更が行われ、帰朝後にこれを聞いた平賀が激怒したが、既に変更不能となっていた、など、都市伝説に類するよう話まで、いろいろとあるようです。
また、この変更により、船体強度に無理が生じる事はなく、それに伴う重量の増加(300トン程度)にも関わらず速力が低下するような事はありませんでした。(35ノット)
その他の変更箇所としては、設計時からカタパルトの搭載を計画していた事で、これにより水上偵察機による索敵能力の強化されるはずでした。しかし、竣工時には予定していたカタパルトは間に合わず、当面は水上偵察機を水面に下ろして運用することとなりました。さらに対空兵装として、新造時から12センチ単装高角砲(当初はシールドなし)が4門搭載されました。
(直上の写真は、今回製作した「青葉級」の特徴を示したもの。連装主砲塔(上段)、単装12センチ高角砲(中段)、航空艤装(下段)。舷側には「古鷹級」と同様に船体内に装備された魚雷発射管の射出口が見えています)
竣工時には間に合わなかったカタパルトは、1928年から29年にかけて順次装備され、水上機の運用はカタパルトからの射出により格段に改善されました。
雷装は、就役当初は「古鷹級」と同様の船内に固定式の魚雷発射管を各舷6門づつ装備していました。後に近代化改装の際に上甲板上の旋回式4連装魚雷発射管2基に改められました。
大改装後の「青葉級』
同級の大改装による大きな変更点は、魚雷発射管の装備形式を、竣工以来、被弾時の誘爆によるダメージに憂慮のあった船体内に装備した連装発射管6基から、上甲板上に設置した4連装発射管からの射出に改めたこと、単装高角砲をシールド付きに改めたこと、さらに、魚雷発射管上に水上偵察機の整備・運用甲板を設けたことです。
(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観。 148mm in 1:1250 by Neptune : 写真はNeptuneの説明では1944年の「青葉」の姿、ということになっていますが、後述のように同艦は1942年の損傷修復の際に3番砲塔を撤去しており、この姿では復旧していません。併せて僚艦の「衣笠」は1942年に既に失われていますので、この形態の艦は存在しないことになります。模型の世界ですので往々にしてこういうことが・・・。まあ、「青葉」が完全修復していたら、とうことでご容赦を<<<お詫び:と書きましたが、よく調べると、サボ島沖夜戦での損傷後、一旦外されていた3番砲塔は、その後の修復の際に復旧されていました。従って、レイテ沖海戦等には、写真の姿で臨んでいます)
(直上の写真は、「青葉級」(上段)と大改装後の「古鷹級」の航空艤装の比較。整備甲板とカタパルトの配置の相違がよくわかります)。ちょとわかりにくいですが「青葉級」の魚雷発射管は水偵の整備甲板の下に装備されています)
その戦歴
「青葉」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊旗艦として僚艦「古鷹」「加古」「衣笠」と共に内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛島に活躍しました。
その後、1942年10月の前述の「古鷹」が失われた「サボ島沖夜戦」で、米艦隊の奇襲で、艦橋に被弾し第6戦隊司令官が戦死するなど、大損傷を受けて内地に帰還し修復を受けました。その際に予備砲身のない第3主砲塔を撤去しています。
その後再びラバウルの第8艦隊所属となりますが、再び同方面で空襲により被弾、浅瀬に座礁してしまいます。
内地に帰還して再度修復後(追記:この修復の際に、3番主砲塔を復旧しています)は、第16戦隊旗艦として戦線に復帰します。速力が28ノットに落ちたこともあり主としてシンガポール方面での輸送任務に従事しました。その後、一時的に第16戦隊に編入された重巡「利根」「筑摩・などを率いてインド洋方面での通商破壊戦を行います。
レイテ沖海戦では後方での兵員輸送に携わりますが、ルソン島西方沖で米潜水艦の雷撃で大破し、三度、内地に帰還します。しかし損傷が大きく呉での修理の見込みの立たないまま、呉軍港で係留状態で浮き砲台となり対空戦闘を行いますが、1945年7月の米軍機による呉軍港空襲で被弾し、右舷に傾斜して着底してしまい、そのまま終戦を迎えました。
「衣笠」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊の一艦として僚艦「青葉」「古鷹」「加古」と行動を共にします。
サボ島沖海戦で僚艦「古鷹」が失われ、第6戦隊旗艦の「青葉」が損傷を受け内地に引き上げ、第6戦隊が解体された後も「衣笠」は第8艦隊の基幹戦力として、ソロモン海方面でガダルカナル島への輸送をめぐる戦闘を継続します。
1942年11月、第3次ソロモン海戦の第二ラウンドにガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃部隊(第7戦隊:重巡「鈴谷」「摩耶」基幹)の支援に出撃。砲撃成功後、合流して帰投中に、米軍機の数次の雷爆撃を受けて、中部ソロモン諸島ニュジョージア島南方で沈没しました。
(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)
このように、平賀デザインの第二弾として建造された「古鷹級」とその改訂版である「青葉級」の4隻は、軽装甲巡洋艦の強化型として世に問われ、軍縮条約の定義で新たに重巡洋艦(=カテゴリーA:重兵装軽装甲巡洋艦?)という艦種を生み出す一つの起点となりました。太平洋戦争初戦には常に第一線にあって活躍しましたが、開戦から比較的早い時期、1942年に、ガダルカナルの攻防戦に投入される中、ソロモン海で3隻が失われました。 残った「青葉」は終戦間際まで残存していましたが、終戦時には行動不能の状態でした。
「夕張」の技術的なチャレンジは、「古鷹級」「青葉級」で洗練され、次級「妙高級」で、名実ともに第一線級の戦力として結実してゆくわけですが、今回はここまで。
(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊
ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約と「平賀デザイン」
1912年に締結されたワシントン海軍軍縮条約では、主力艦(戦艦・巡洋戦艦)および航空母艦には、主砲口径と基準排水量 、そして保有数には総合計排水量で制限がかけられました。
しかし、巡洋艦以下の補助艦艇には、排水量(10000トン)と搭載主砲(8インチ)に上限が設けられましたが、保有数には制限がかけられませんでした。そのために列強各国はこの条約の抜け穴ともいうべき「準主力艦」の建造を競います。
ワシントン体制で「主力艦=戦艦」の保有数に対英米60%の保有制限をかけられた日本海軍は、大正12年度計画(1923年)で、保有制限のない補助艦艇の分野で2種類の巡洋艦の建造計画を始動します。
一つは、本稿の前回(おっと、前々回?)でご紹介した、5500トン級軽巡洋艦を強化した7000トン級の偵察巡洋艦。この船は列強の軽巡洋艦を凌駕すべく、20センチ主砲を搭載した強化型偵察巡洋艦「古鷹級」として完成します。
もう一つが、今回、本稿で取り上げる、「主力艦」を補う役割の「準主力艦」として強力な打撃力を持った重装備巡洋艦「妙高級」です。
いずれも造船官平賀譲の主導のコンパクト重装備をコンセプトにおいた設計をベースとし、日本海軍は、用兵側の要求として、兵器としての実用性、有効性に自信を持ちつつあった魚雷に重点をおいた、重雷装をその特徴として付加した巡洋艦シリーズを育て上げてゆくことになります。
「飢えた狼」と呼ばれた艦級(フネ)
妙高級重巡洋艦 -Myoko class heavy cruiser-(妙高:1929-終戦時残存 /那智:1928-1944/足柄:1929-1945/羽黒:1929-1945)
Myōkō-class cruiser - Wikipedia
「妙高級」巡洋艦は、前述のようにワシントン体制の制約の中で、日本海軍初の条約型巡洋艦として設計・建造されました。すなわち、補助艦艇の上限枠である基準排水量10000トン、主砲口径8インチと言う制約をいっぱいに使って計画された巡洋艦であったわけです。
設計は平賀譲が主導しました。これまで本稿で見てきたように、彼は既に軽巡洋艦「夕張」、強化型偵察巡洋艦「古鷹型」でコンパクトな艦体に重武装を施すと言うコンセプトを具現化してきており、ある意味、本級はその「平賀デザイン」の集大成と言ってもいいでしょう。
後に、1930年のロンドン海軍軍縮条約では、それまで保有上限を設けていなかった補助艦艇にも保有数の制約が設けられました。特に巡洋艦については、艦体上限の基準排水量10000トンについては変更されませんでしたが、主砲口径でクラスが設けられ、8インチ以下6.1インチ以上をカテゴリーA(いわゆる重巡洋艦の定義がこうして生まれたわけです)とし、日本海軍は対米6割の保有上限を課せられました。「妙高級」の竣工が1929年である事を考慮に入れると、「古鷹級」「妙高級」などの登場による日本式コンパクト重装備艦に対する警戒感が背景の一つにあったと言ってもいいでしょう。
これにより、本来は上述のように強化型偵察巡洋艦であった「古鷹級」、その改良型である「青葉級」も、「準主力艦」として建造された「妙高級」も、一括りにカテゴリーA(重巡洋艦)と分類され、その総保有数が制限されることになります。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の概観。166mm in 1:1250 by Konishi)
設計と建造
「妙高級」は、その設計は、前級である「古鷹級」「青葉級」の拡大型と言えるでしょう。
しかし、強化型偵察巡洋艦として、5500トン級軽巡と同様に時として駆逐艦隊を率いて前哨戦を行う可能性のある「古鷹級」「青葉級」と異なり、強力な攻撃力と防御力を併せ持つ準主力艦を目指す本級では、平賀は、用兵側が強く要求した魚雷装備を廃止し、20センチ連装主砲塔5基を搭載する、当時の諸列強の巡洋艦を砲力で圧倒する設計を提案しました。
平賀のこの設計の背景には、竣工当時の魚雷に、上甲板からの投射に耐えるだけの強度がなく、一段低い船内に魚雷発射管を設置せねばならなかったと言う事情が強く働いていたようです。平賀は艦体の設計上、被弾時の魚雷の誘爆に対する懸念から、船内への搭載に強く抵抗し、「妙高級」では用兵側の要求であった20センチ砲8門搭載を10門に増強することにより、雷装を廃止した設計を行い、用兵側の反対を受け入れず押し切ったと言われています。
平賀にすれば、同級は20センチ砲10門に加えて、12センチ高角砲を単装砲架で6基搭載しており、「水雷戦隊を率いる可能性のある偵察巡洋艦ならまだしも、準主力艦である本級にはすでに十分強力な砲兵装が施されており、誘爆が大損害に直結する船体魚雷発射管の装備は見送るべき」と言うわけですね。
この提案は一旦は承認されましたが、軍令部は平賀の外遊中に留守番の藤本造船官に、魚雷発射管を船体内に装備するよう、設計変更を命じました。この時同時に、「青葉級」の主砲搭載形式でも、軍令部の連装砲塔搭載の要望に対し、船体強度の観点から「古鷹級」で採用した単装砲架形式を主張して譲らない平賀の設計を、やはり軍令部は藤本に命じて設計変更をさせています。用兵当事者から見れば、平賀は自説に固執し議論すらできない、融通の効かない設計官と写っており、この後、平賀は海軍の艦艇設計の中枢を追われることになります。
結局、建造された「妙高級」は、正20センチ主砲を連装砲塔で5基、12センチ高角砲を単装砲架で6基、61センチ3連装魚雷発射管を各舷2基、計4基を搭載する強力な軍艦となりました。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の主砲配置と単装高角砲の配置。かなり砲兵装に力を入れた装備ですね)
さらに、航空艤装としては水上偵察機を2機収納できる格納庫を艦中央部に設置し、当初から射出用のカタパルトを搭載していました。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の魚雷発射管。「古鷹級」と同様、当時の魚雷の強度を考慮し、船体内に搭載されています。;上段写真/ 下段写真は航空艤装。当初からカタパルトを装備していました。水上偵察機を2機収納できる格納庫はカタパルトの手前の構造物)
数値的には列強の同時期の条約型重巡洋艦よりも厚い装甲を持ち、重油専焼缶12機とタービン4基から35.5ノットの最高速度を発揮する設計でした。
すでにこの時期には平賀は海軍建艦の中枢にはいませんでしたが、ある意味「平賀デザイン」の集大成であり、ロンドン軍縮条約の制約項目まで影響を与えるほど、列強から「コンパクト強武装艦」として警戒感を持って迎えられた「妙高級」ではあったわけですが、やはり実現にはいくつかの点で無理が生じていました。一つは制限の10000トンを大きく超えた排水量となったことであり、設計と建造技術の乖離が顕在化する結果となりました。併せて、連装砲塔5基に搭載した主砲だったわけですが、その散布界(着弾範囲=命中精度)が大きく、主砲を6門、同じ連装砲塔形式で搭載した前級「青葉級」よりも低い命中精度しか得られないと言う結果となりました。さらに、上記の経緯で無理をして魚雷発射管を船体内に搭載したため、居住スペースが縮小され、居住性を劣化させることになりました。
こうしたその強兵装に対する畏怖と、一方で、あらゆる兵装を詰め込んだことから生じる劣悪な居住性などへの疑問(嘲笑)から、同級を訪れた外国海軍将校から「飢えた狼」と言う呼称をもらったことは有名な逸話となっています。
その大改装
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の大改装後の概観。166mm in 1:1250 by Neptune)
1932年からの第一次改装と1938年の第二次改装で、同級は、主砲口径を正20センチから8インチ8(20.3センチ)に拡大しました。これにより、主砲弾重量が110kgから125kgに強化されました。また高角砲を単装砲架6基から連装砲4基へと強化、さらに懸案の魚雷発射管を船内に搭載した3連装発射管4基から、上甲板上に搭載する4連装魚雷発射管4基として、各舷への射線を増やすとともに、より強力な酸素魚雷に対応できるよになりました。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時と大改装後の主要な相違点。左列は魚雷発射管の装備位置:大改装後、発射管は上甲板上に装備されました。右列は水上偵察機の搭載位置の変化:大改装後にはカタパルトが2機に増設され、整備甲板が設置されました)
上甲板上の魚雷発射管を覆う形状で水上偵察機の整備甲板を設置し、カタパルトを増設、搭載水上偵察機数も増やしています。
この大改装で、排水量が増加し、速力が33ノットに低下しています。
その戦歴
「妙高」:太平洋戦争開戦時、「妙高級」4隻は第5戦隊を編成し、「妙高」は同戦隊の旗艦でした。第5戦隊は第3艦隊に所属し、フィリピン攻略戦に従事しました。その後、同戦隊はジャワ攻略戦に転戦するためにダバオに集結。そこで米軍機の空襲を受け、「妙高」は修理に2ヶ月を要する損傷を受けました。これは太平洋戦争での、大型軍艦としては最初に損傷を受けた艦となってしまいました。
損傷修復後には、スラバヤ沖海戦の最終海戦に参加。その後、珊瑚海海戦には空母機動部隊の直衛部隊の旗艦を務めます。
ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦などに参加したのち、ブーゲンビル島沖海戦では、来攻する米軍を迎え撃つ襲撃艦隊を率いて戦いました。
マリアナ海戦を経て、1944年10月レイテ沖海戦には、第2艦隊(栗田艦隊)第5戦隊の旗艦として僚艦「羽黒」を率いて参加しますが、シブヤン海で米機動部隊の空襲で避雷し、艦隊から落伍してしまいました。海戦後、損傷修理のために内地への回航中に米潜水艦の雷撃により、艦尾部を切断、内地回航を諦めシンガポールに曳航され、航行不能状態のまま同地で防空艦として終戦を迎えました。
「那智」:太平洋戦争開戦時、第5戦隊の一員としてフィリピン攻略戦に参加。損傷した「妙高」に代わり第5戦隊旗艦となり、その後のジャワ方面の攻略戦に参加します。スラバヤ沖海戦(後述します)で、連合国艦隊(いわゆるABDA艦隊)に勝利したのち、一転して北方部隊に編入され、北方部隊の基幹部隊である第5艦隊旗艦となります。
第5艦隊旗艦としてミッドウェー作戦と並行して実施されたアリューシャン作戦に参加。アッツ沖海戦、キスカ撤退作戦に参加した後、戦局の悪化に伴い、第5艦隊は北方警備から転じて、本州南部の警備に従事し、台湾沖航空戦での残敵掃討(実は米艦隊はほとんど損傷していなかったので幻の「残敵」を追うことになったわけですが)に出撃しますが、もとより残敵に遭遇することなく南西諸島・台湾方面に待機することになりました。
1944年10月のレイテ沖海戦には、第2遊撃部隊(第5艦隊、志摩部隊)旗艦として、第1遊撃部隊別働隊の西村艦隊(第2戦隊基幹)の後を追って、スリガオ海峡に突入します。が、先行した西村艦隊の壊滅時の混乱に巻き込まれ損傷して退避中の西村艦隊の重巡「最上」と衝突、指揮官の志摩中将は突入を断念し、戦場から退避を下令します。(余談ですが、この志摩中将の判断は、欧米の戦史研究では、「同海戦での、日本海軍首脳のほぼ唯一の理性的な判断」と評価が高いようです。一見、華々しい「勇戦」(=同海戦ではこの「勇戦」は艦隊をすり潰すことにほぼ等しいのですが)よりも、戦いの粘り強さ、のようなものを評価視点にするのは、文化的な差異でしょうか?それとも、「合目的性」に対する適合性という視点でしょうか?)
海戦敗北後、同艦はマニラ周辺での輸送任務に従事しますが、1944年11月初旬の米艦載機のマニラ湾空襲で爆弾と魚雷を多数受け、沈没しました。
「足柄」:太平洋戦争開戦時には、第5戦隊の序列を離れフィリピン侵攻作戦の主隊である第16戦隊旗艦となり、同戦隊の所属する第3艦隊の旗艦も併せて務めます。同戦隊はフィリピン攻略戦、ジャワ方面攻略戦に転戦しました。
ついで第2南遣艦隊旗艦となり、シンガポール方面の警備等に従事しました。その後、第5艦隊に所属し北方警備に従事した後、第5艦隊所属のまま、台湾沖航空戦での「残敵掃討」任務(実際には米艦隊にはほとんど損害がなかったため「残敵」などなく、空振りの出撃となりましたが)に出撃し、台湾方面に遊弋中に、志摩艦隊の一員として僚艦「那智」とともにレイテ沖海戦に参加しました。
海戦敗北後、南西方面艦隊所属となり、「日本海軍の最後の組織的戦闘での勝利」と言われる「礼号作戦」に参加した後、南方に分断された艦艇で編成された第10方面艦隊に所属しました。1945年6月、単艦で陸軍部隊の輸送任務中に英潜水艦の雷撃を受け、沈没しました。
「羽黒」:太平洋開戦時には、僚艦とともに第5戦隊に所属し、フィリピン作戦、ジャワ方面での作戦に参加しました。その後、第5航空戦隊の直衛として珊瑚海海戦に参加、ミッドウェー海戦を経て、ソロモン方面に進出して第二次ソロモン海戦、ブーゲンビル島沖海戦等に参加しています。その後、マリアナ沖海戦では、米潜水艦の雷撃で撃沈された第1機動艦隊旗艦の「大鳳」から、小沢司令部を一時的に収容しました。
続くレイテ沖海戦では、第一遊撃部隊(第2艦隊主隊:栗田艦隊)に編入され、米艦載機の爆撃で損傷を負いながらサマール沖海戦で米護衛空母艦隊を追撃するなど活躍しました。
その後は 南西方面艦隊に所属し、シンガポール方面での輸送任務についていましたが、1945年5月、輸送任務中に英海軍機の攻撃で被弾損傷、その後、英駆逐艦隊と交戦し英駆逐艦の雷撃で沈没しました。
以上のように、「妙高級」はそのネームシップである「妙高」を除いて、全てレイテ沖海戦後に失われました。
スラバヤ沖海戦
この海戦は、「妙高級」4隻が揃って参加した海戦です。
第3艦隊によるジャワ方面の攻略戦支援艦隊と、これを阻止しようとした連合国艦隊の間の戦いです。連合国艦隊はイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアの4カ国の巡洋艦と駆逐艦で構成されていました。このABDA(America, British, Dutch, Australia)艦隊は巡洋艦5隻と駆逐艦9隻で編成されていましたが、その実態は、シンガポール、フィリピン等の失陥に伴って、拠点を失った各国海軍が周辺から行動可能な艦を寄せ集めて編成したもので、これをオランダ海軍のドールマン少将が指揮しました。
ABDA艦隊の編成
軽巡洋艦 デ・ロイテル (オランダ)
HNLMS De Ruyter (1935) - Wikipedia
同艦はオランダ海軍が植民地警備のために1隻のみ建造した軽巡洋艦です。6642トンの船体に15センチ速射砲(大仰角を取ることが可能で、高角砲としても機能できる)の連装砲塔3基と単装砲1基(砲架形式)、計7門を装備し、32ノットの速力を出すことができました。
大戦直前に東インド植民地艦隊の旗艦の任につきました。
(直上の写真は、軽巡洋艦「デ・ロイテル」の概観。142mm in 1:1250 by ??? どこのモデルだったっけ?そびえ立つ塔構造の艦橋が、全体の印象を軽巡洋艦らしからぬ重厚さを醸しています。植民地警備に特化した本艦ならではの外観、と言っていいのではないでしょうか?実は、このモデル、やや重厚に過ぎるようにずっと思っています。ずっと適当なモデルを探してはいるのですが・・・。実はお勧めはRhenania社製の下の写真のモデル。
ebayなどでは何度か見かけているのですが、なかなか入手できていません。写真はantics onlineから拝借しました。うーん、56£(7300円?)、しかもいつ見てもSold Out。Rhenania 1/1250 De Ruyter, Dutch cruiser, WW2 Rhe77)
(直下の写真は、「デ・ロイテル」の特徴的な主砲配置。艦首部に連装砲塔と単装砲架を背負式に、艦尾部には連装砲塔を背負式に配置しています)
(直上の写真:オランダ海軍軽巡洋艦「デ・ロイテル」の概観 137mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)
上記の様に求めているのはRhenania社製の模型でしたが、この模型が大変希少なため、なかなか入手できません。そこで、ということで、今回、最近何かとお世話にないっている3Dプリンティングモデル(Tiny Thingamajigs社製)を入手し完成させました。
(直上の写真は、ABDA艦隊の基幹部隊となったオランダ艦隊の軽巡洋艦「デ・ロイテル」と軽巡洋艦「ジャワ」「デ・ロイテル」はかなりスリムになったのですが、今度は「ジャワ」(Star社製)の乾舷の高さが気になりだしました。Star社のモデルは端正なフォルムで、概ね気に入っているのですが、時折、乾舷が高過ぎる傾向があります。ゴリゴリ削ってみましょうか?まあ、それはいずれまた。今回は大満足!)
(直上写真は新着のTiny Thingamajigs社製モデル(左)と、従来のモデルの比較。そして直下の写真は、両モデルの艦首形状の比較:下段が今回新着のTiny Thingamajigs社製モデル。従来モデルで気になっていたモデルの「大柄さ」は改善されている様に思います。満足!)
軽巡洋艦 ジャワ(オランダ)
Java-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「ジャワ級」軽巡洋艦の概観。125mm in 1:1250 by Star)
軽巡洋艦「ジャワ」はオランダ海軍が第一次世界大戦後、植民地警備の目的で建造した軽巡洋艦です。5185トンの船体に、15センチ速射砲10門を装備し、30ノットの速力を有していました。魚雷は装備していませんでした。
(直上の写真は、「ジャワ級」軽巡洋艦の兵装配置。単装砲架を10基搭載し、両舷に対し7射線を確保しています。軽巡洋艦としては強力な砲兵装を有しています。魚雷は搭載していませんでしたが、艦尾部にはかなり大規模な機雷敷設設備を保有しています。植民地警備に特化した本級ならではの特徴と言っていいのではないでしょうか?「ジャワ」はスラバヤ沖海戦で、艦尾に日本海軍の魚雷を受けて轟沈するのですが、これは艦尾の機雷庫の誘爆では?)
(直上の写真は、スラバヤ沖海戦に参加した艦艇。「デ・ロイテル」「ジャワ」の2軽巡に加えて、アドミラル級駆逐艦「コルテノール」「ヴィデ・デ・ヴィット」)
York-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、重巡洋艦「エクセター」の概観。138mm in 1:1250 by Neptune)
「エクセター」は「ヨーク級」重巡洋艦の2番艦として建造されました。「ヨーク級」は、いわゆる条約型巡洋艦の一連のシリーズに属し、英国の通商航路保護の要求によって隻数を揃えるために、前級「カウンティ級」よりも装甲が強化された代わりに、連装砲塔を1基減じて、排水量を抑え、建造費用を安価にした設計でした。「エクセター」は8390トンの船体に8インチ砲6門を搭載し、53.3cm3連装魚雷発射管を2基、装備していました。速力は32ノットを発揮。
(直上の写真は、「エクセター」の主砲配置と航空艤装。魚雷発射管の搭載位置:下段写真)
「エクセター」は、第二次世界大戦開戦後、大西洋で大暴れしたドイツが放った通商破壊艦(ポケット戦艦)「グラーフ・シュペー」の追跡戦で活躍し、「グラーフ・シュペー」の11インチ砲によって大損害を受けながらも、ラプラタ河口で自沈に追い込んだことで有名になりました。
軽巡洋艦 パース(オーストラリア)
「パース」は、「リアンダー級」軽巡洋艦の改良型として建造された「パース級」軽巡洋艦のネームシップです。「リアンダー級」からの改正点は、機関の配置で、これに伴い、前級「リアンダー級」が船体中央に大きな集合煙突を持ったいたのに対し、本級では二本煙突と、外観に差異が生じています。
(直上の写真は、オーストラリア海軍「パース級」軽巡洋艦の概観。同級は、英海軍「アンフィオン級」軽巡洋艦として3隻建造され、3隻とも後にオーストラリア海軍に供与されました。135mm in 1:1250 by Neptune)
(直上の写真は、「パース級」軽巡洋艦の前級(準同型艦)である「リアンダー級」軽巡洋艦の概観。 参考値:「リアンダー級」135mm in 1:1250 by Neptune)
直上の写真は、「リアンダー級」軽巡洋艦(上段)と「パース級」軽巡洋艦の概観比較。「パース級」との外観上の相違点は煙突の形式。「リアンダー級」は集合煙突形式ですが、「パース級」は機関配置を変更したため、二本煙突になっています)
(直上の写真は、「パース級」軽巡洋艦の主砲配置(上段・下段)と艦中央部(中段)。1941年の短期間、「パース」は航空艤装を撤去している。モデルはカタパルトを装備していいないところから、その時期を再現したものかも。魚雷発射管の搭載位置は高角砲搭載甲板の下(下段))
同級は3隻が建造され、建造当初は英海軍に属し「アンフィオン」「アポロ」「フェートン」と言う名前で就役しました。後に3隻ともオーストラリア海軍に供与され、それぞれ「パース」「ホバート」「シドニー」と改名されました。
7000トン弱の船体に、6インチ連装速射砲4基、53.3cm4連装魚雷発射管2基を搭載していました。
(直上の写真は、ABDA艦隊に参加した「エクセター」と「パース」の外観。「エクセター」が重巡洋艦としては、比較的小ぶりであることがわかります。英連邦艦隊はABDA艦隊にスラバヤ沖海戦には2隻の巡洋艦と3隻の駆逐艦で参加しました)
Northampton-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune)
「ヒューストン」は米海軍が建造した条約型重巡洋艦の第2グループ「ノーザンプトン級」の5番艦です。前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。
航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。
(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の主砲配置と航空艤装の概観。水上偵察機の格納庫はかなり本格的に見えます(中段)。同級は竣工時には魚雷を搭載していたはずですが、既にこの時点では対空兵装を強化し、魚雷発射管は見当りません)
同型艦は6隻が建造されましたが、そのうち「ヒューストン」を含め3隻が、太平洋戦争で失われました。
(直上の写真は、ABDA艦隊参加時:スラバヤ沖海戦時のアメリカ艦隊。重巡洋艦「ヒューストン」と「クリムゾン級」駆逐艦4隻:「ジョン・D・エドワーズ」「ポール・ジョーンズ」「ジョン・D・フォード」「オールルデン」「ポープ」が参加しました)
海戦の詳細は例によって他に譲るとして、この46時間の長時間にわたる海戦は、数段階に分けて行われ、その海戦前半はは第5戦隊主隊の戦隊旗艦「那智」と「羽黒」が、そして海戦後半では前半で砲弾も魚雷もほとんどを使い果たした両艦に代わり、第3艦隊旗艦として作戦全般式していた「足柄」と、爆撃による損傷の修理を終えた「妙高」が参加しました。
(雑感:酸素魚雷のこと)
こうして改めてその装備を見ると、この時点で、やはり日本海軍の魚雷装備が連合国の装備を凌駕していたことが、かなりはっきりと分かります。日本海軍が61cmの魚雷発射管を全ての重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦が装備していたのに対し、 連合国の雷装は全て53.3cmです。さらにこの時期、日本海軍は酸素魚雷を実装していましたので、その射程、威力には格段の差があったわけです。
海戦の経緯を見ると、日本艦隊はアウトレンジにこだわった戦い方をしたように見えます。これは、緒戦での軍艦に対する極度の損害恐怖症(物量で優位には立てない日本海軍は宿命的にこの損害に対する恐怖感を持っているように感じます。総力戦は、ある程度の損害は盛り込んでおかねばならないのですが、この恐怖感の為、常にどこか一歩踏み込めず、勝利を拡大する機会を失い、あるいは劣勢に対し粘りがなく、淡白になっているような気がするのですが)から来るものか、あるいは圧倒的に優位に立っている酸素魚雷の長大な射程に大きな期待を持った為か、その両者があいまった結果のような気がします。
参考までに、日本海軍の酸素魚雷(93式1型)と米海軍のMk-15(標準的な水上艦用の魚雷)の諸元を比較しておきます。
93式1型(酸素魚雷):直径61cm /炸薬量492kg /雷速40knotで射程32000m, 雷速48knotで射程22000m
Mk-15(空気式):直径53.3cm /炸薬量374kg /雷速26.5knotで射程13700m, 雷速45knotで射程5480m
炸薬の量も、射程も、圧倒的!まあ、このデータを見ると、使って威力を見てみたい、と言うのもなんとなく頷けますね。
確かにABDA艦隊の5隻の巡洋艦のうち、「デ・ロイテル」「ジャワ」の2隻は、夜戦での長距離砲戦では大した損害を受けなかったにも関わらず、明らかに遠距離から日本艦隊の放った魚雷が1本づつ命中し、行き足が止まり撃沈されています。
もう一つ、この海戦では上記のように酸素魚雷は大きな戦果をあげているのですが、実は同海戦の前半戦では水中から飛び出したり、自爆したりと言う不備が続発していたようです。これは一つには爆発栓(魚雷を命中と同時に起爆させる装置)の感度設定が高過ぎ、波浪で爆発してしまったことと、投射時の衝撃への耐性が想定より低かった、と言う事が原因として海戦後に解明されたそうです。
「妙高級」の竣工時には魚雷の強度が不足する為に、魚雷発射管を上甲板上に設置できず、一段低い船体内に発射管を設置せねばならなかったのですが、大改装の際に、魚雷の強度が向上し上甲板の旋回式の魚雷発射管での装備に変更し、被弾時の魚雷の誘爆対策としたわけです。しかし、実戦ではやはり高速航行での発射など、まだ強度が不足する場面が生じた、と言うことでしょうか。
その後の、日本海軍が修めたいくつかの海戦での勝利を見ると(その全てが、巡洋艦・駆逐艦主体の小艦隊同士の海戦だったと言っていいと思うのですが)、その殆どが魚雷戦での勝利であるように思われます。やはり、酸素魚雷の長射程、大炸薬量は効果的だった、と言うことかもしれません。
しかし、戦局を大きく左右する戦闘は、圧倒的な戦力を誇る米空母機動部隊の制するところであり、そのような海空戦では、魚雷の出番などあるはずもなく、日本海軍は勝利から遠のいて行くことになります。
戦局へ魚雷が大きな影響を与える事ができる可能性は、実は潜水艦戦にはあったと考えるのですが、優秀な潜水艦部隊を持ちながら、彼らが戦局を左右するような戦果を上げる事はありませんでした。
それでも、輸送船団相手の通商破壊戦での可能性で、日本海軍が構想していた艦隊決戦の前哨戦、と言う位置づけでは、ドイツのUボートが戦争中盤以降、船団相手ですらあれだけ封殺されたことを考えると、空母機動部隊相手では、20000m程度の射程では、やはりあまり効果を上げる機会はなかったかもしれませんね。
最後の条約型一等巡洋艦
期せずして、巡洋艦にカテゴリーA(重巡洋艦)と言う区分を設け、その保有数が制限されるロンドン体制のきっかけとなった「妙高級」重巡洋艦でしたが、いわゆる「平賀デザイン」巡洋艦の頂点として重武装コンパクト艦を実現する一方で、様々な課題を内包していた事は、本稿で既述した通りでした。
これに対する「解」として設計されたのが「高雄級」重巡洋艦だったわけなのですが、この艦級の建造により、日本海軍のカテゴリーA(=重巡洋艦=一等巡洋艦)の保有枠は制限一杯となり、以降の巡洋艦は全てカテゴリーB(=軽巡洋艦=二等巡洋艦)として設計されました。
つまり、本級が、日本海軍が設計した最後のカテゴリーAとなったわけです。
重巡洋艦の集大成
高雄級重巡洋艦 -Takao class heavy cruiser-(高雄:1932-終戦時残存/愛宕:1932-1944/鳥海:1932-1944/摩耶:1932-1944)
Takao-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の概観。 165mm in 1:1250 by Konishi )
「高雄級」重巡洋艦は、基本的に前級「妙高級」の改良型として設計されました。しかし設計は平賀譲の手を離れ、その後継者と目される藤本喜久雄(当時造船大佐)によるものでした。前回「妙高級」でも触れましたが、平賀譲は造船家として優れた設計思想をもち、その設計した軽巡洋艦「夕張」、「古鷹級」巡洋艦、「妙高級」重巡洋艦など、海外から大きな脅威として見られたシリーズ(この一連のシリーズに対する脅威から、主力艦に保有制限を設けたワシントン体制から、補助艦艇にも保有制限を設けるロンドン条約が生まれたほどです)を生み出した反面、「不譲=譲らず」の異名をつけられるほど自説に対する自信が強く、時に用兵者の要求も一顧だにせずはねつける、あるいは「完成形」を求めるあまり工数、費用、量産性などを考慮しないなど、毀誉褒貶の激しい人物でした。この為、海軍の造船中枢からは外されてしまいました。
前級との主な差異は、主砲口径を最初から条約制限上限の8インチ(20.3cm)とし、連装主砲砲塔5基の配置形態はそのままにして、前後の配置間隔を詰めることにより集中防御を強化したこと、新砲塔の採用により主砲の仰角をあげ、対空射撃能力を主砲にも持たせ、これにより高角砲の搭載数を減じたこと、そして何より被弾時の誘爆損害が大きな懸案だった船体内に装備された魚雷発射管を上甲板上に装備する配置に変更したことが挙げられるでしょう。
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の特徴をクローズアップしたもの。巨大な艦橋(下段左)。単装高角砲と、設計時から上甲板上に設置された魚雷発射管:新型砲塔の採用で主砲の仰角を上げることで対空射撃にも対応できる設計として、単装高角砲は前級の6基から4基に減じられています(上段)。拡充された航空艤装:設計当初からカタパルトを2基搭載していました(下段右))
航空艤装も強化され、前級までは1基だったカタパルトを2基装備にすることにより、水上偵察機の運用能力の向上が図られました。
一方で、上記の「平賀はずし」の経緯の反動で、用兵側の要求に対する異論が唱えにくい空気が醸成されたことも事実で、それが戦隊(艦隊)旗艦業務などに対応する為の艦橋の著しい大型化などとなって現れ、高い重心から「妙高級」に対しやや安定性と速力で劣る仕上がりとなりました。
大改装
同級のうち「高雄」と「愛宕」は、1939年から数次にわたる改装を受けました。
(直上の写真は、「高雄級」:大改装後の概観。by Konishi )
課題であった艦橋の若干の小型化とバルジの大型化による復原性(安定性)の改善、航空艤装の変更(格納庫を廃止し、基本、搭載機の甲板係留としました。整備甲板を増設し、配置を変更、水上偵察機の搭載定数を2機から3機に増加しています)、魚雷発射管の連装発射管4基から4連装発射管4基への換装、高角砲を正12cm単装砲4基から5インチ連装砲4基8門に強化したことなどが挙げられます。
この最後の高角砲の強化については、竣工時の設計では既述のように新砲塔の採用で主砲に対空射撃能力を付与することによって高角砲の搭載数を前級「妙高級」よりも減じた同級だったのですが、8インチ主砲での対空射撃では射撃間隔が実用に耐えず、結局高角砲を強化せざるを得なかった、という背景がありました。
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の概観比較。舷側の大きなバルジの追加が目立ちます。さらに、航空艤装の構造が変更され、後檣の位置が変わっています)
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の変化をもう少し詳細に見たもの。左列:艦橋が小型化してます。写真ではちょっとわかりにくいのですが、かなり大幅な小型化です。一段低くし、同時に簡素化が行われた、と言う表現がいいでしょうか?時折「最上級」に倣って、と言うような表現も目にしますが、それはちょっと言い過ぎかと。右列:高角砲は連装に変更されています。主砲での対空射撃は、構想としては両用砲的な活用の発想で、意欲的ではありましたが、射撃速度と弾速が航空機の速度を勘案すると実用的ではなかったようです。そのため、高角砲自体を強化する必要があったようです。高角砲甲板の下の魚雷発射管については、配置自体には変更は見られませんが、発射管を連装から4連装に強化しています)
「摩耶」の防空巡洋艦化
「摩耶」は上記の大改装を受けずに太平洋戦争に臨みましたが、1943年ラバウルで米艦載機の空襲で被弾大破。その修復の際に3番主砲塔を撤去し、連装対空砲を2基増設し6基12門、さらに対空機銃多数を増設し、防空巡洋艦化を行いました。この際に、復原性改善の為のバルジ増設、魚雷装備の換装なども併せて行っています。
(この状態での模型が、今、手元にありません。模型自体はNeptuneから市販されています。入手次第、公開します。ご容赦を)
その戦歴
(直上の写真は、太平洋戦争開戦時の第4戦隊。手前から「愛宕」「高雄」「鳥海」「摩耶」。舷側のバルジの有無と、後檣の位置で判別できます。同級は、その設計時に旗艦設備を組み込んだ大型艦橋をもたされていたため、他の艦隊への派出が相次ぎ、なかなか4隻揃って出撃する、と言う機会がありませんでした。1944年10月のレイテ沖海戦には、第2艦隊の旗艦戦隊として、4隻揃って出撃しましたが、出航翌日、うち3隻が米潜水艦の攻撃で被雷。2隻が沈没し、1隻が戦列を離れてしまいます)
「高雄」:太平洋開戦時には、南方作戦全般の指揮をとる第2艦隊(近藤信竹中将)の直卒主隊である第4戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦等に参加しています。
ミッドウェー海戦では、僚艦「摩耶」と共に第4戦隊第2小隊を編成し、アリューシャン作戦に分派され、その後、ソロモン方面での第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加しています。
米艦隊によるラバウル空襲で被弾。損傷修復のために内地にひきあげたのち、マリアナ沖海戦を経て、1944年10月、栗田艦隊(第二艦隊第一遊撃部隊)の一員として、レイテ沖海戦に、同型艦4隻揃って参加しました。しかし艦隊出撃の翌日、パラワン島沖で、米潜水艦の魚雷を2発被雷し、一時航行不能になり、そのままブルネイに引き返しました。その後、シンガポールに回航され修復を行いますが、英海軍のコマンド部隊の爆破工作など(戦争末期に落日の日本軍相手に、そんな危険な作戦を行ったんですね。イギリス人のモチベーションは、時折よくわからない)で再び損傷を受け、そのまま終戦を同地で迎えました。
「愛宕」:太平洋戦争開戦時には、緒戦の南方作戦統括の第2艦隊旗艦として参加しています。マレー作戦、蘭印攻略戦などを支援した後、ミッドウェー作戦では、ミッドウェー島攻略部隊本隊旗艦として参加。
その後、主戦場がソロモン方面に移ると、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に活躍しました。
第三次ソロモン海戦では、ガダルカナル島ヘンダーソン基地(飛行場)砲撃主隊である第11戦隊(「比叡」「霧島」)の支援部隊として参加。緒戦では、警戒中の米巡洋艦隊と第11戦隊が夜間遭遇戦を展開し乱戦の末、旗艦「比叡」が大損傷を受け砲撃は未遂に終わります。(「比叡」は翌日、米軍機の攻撃を受け自沈)
『愛宕」に座乗する近藤司令長官は、直卒する第4戦隊主隊とともに「霧島」による飛行場砲撃を再起しますが、途上で阻止を狙う米戦艦隊(「ワシントン」「サウスダコタ」基幹)と再び遭遇戦となってしまいます。乱戦になり「サウスダコタ」に大損害を与えつつも、16インチ砲を装備した戦艦2隻には歯が立たず(「霧島」は14インチ砲装備)、「ワシントン」のレーダー管制射撃を浴びて「霧島」は大破、翌日、沈没します。
この乱戦中に、「愛宕」は19本の魚雷を射出しますが、命中させることはできませんでした。
第2艦隊司令長官が開戦以来の近藤中将から栗田中将に交代しますが、旗艦は引き続き「愛宕」が務めることとなりました。内地での「ラバウル空襲」で受けた損傷を修理した後、マリアナ沖海戦に参加。この海戦では、第2艦隊はそれまで連合艦隊主隊として活動してきた「大和」「武蔵」「長門」など戦艦部隊も戦列に加え、小沢中将の第3艦隊(空母機動部隊)と統合艦隊(第1機動艦隊)を編成し、小沢中将がこれを統合指揮する体制に移行しています。
マリアナ沖海戦は日本海軍がそのほぼ全力を集中して戦った、いわゆる念願の艦隊決戦だったわけですが、結果、その空母戦力を喪失(特に艦載機部隊の損耗が激しく、敗戦まで、この損害を立て直せませんでした)してしまいました。
次のレイテ沖海戦では、この空母機動部隊の残存兵力(小沢中将指揮の第3艦隊基幹。その艦載機は、実質空母1隻分程度でしたが)を囮に使い、これに米空母機動部隊が誘引される隙に水上戦闘艦隊(第2艦隊基幹:栗田中将指揮)が米上陸部隊を攻撃する、という構想の戦闘計画が実行されました。
「愛宕」はこの作戦でも引き続き第2艦隊旗艦を務めました。
1944年10月、栗田中将率いる第一遊撃部隊(第2艦隊主力部隊)はブルネイを出航。戦艦5、重巡洋艦10、軽巡2、駆逐艦15からなる大艦隊でした。出航の翌日、パラワン沖で米潜水艦の雷撃を受け、4本の魚雷が命中。約20分で、沈没しました。
「愛宕」は旗艦でしたので、栗田中将以下艦隊司令部が搭乗していたのですが、彼らは海中に避難後、駆逐艦を経て、「大和」に収容され、以後は「大和」が旗艦となりました。
***栗田中将はレイテ海戦前に、この作戦は、これまでの空母機動部隊主力の作戦と異なり水上戦闘艦艇が日本艦隊の主力となる戦いとなるために、旗艦を「愛宕」から、艦隊の最も新しい戦艦で、戦闘力も防御能力もさらに情報収集のための通信能力も高い「大和」に変更する希望を連合艦隊司令部に出した、と言われています。しかし連合艦隊司令部は「第2艦隊の旗艦は開戦以来「愛宕」だから」という、理由にもならないような理由でこれを却下したと言われています。
栗田中将が連合艦隊司令部から軽んじられていた、信頼されていなかった、というような穿った見方もありますが、もしこれが真実であれば、そのような評価の人物に、この重要な、ことによると日本海軍の最後の作戦となるかもしれないような作戦の指揮を任せた、というのは、どういうことなんでしょうか?
「真面目に戦ったのは、小沢と西村だけ」というような戦後評価があり、常にそうした場面で栗田中将は割りを食ってきていますが、連合艦隊司令部、あるいは軍令部が真面目に戦ったのか、という問いかけをすることが、先のような気がします。
「鳥海」:開戦時は第4戦隊の序列からは離れ、小沢中将の指揮する南遣艦隊の旗艦を務め、マレー攻略戦を戦いました。その後、蘭印作戦に参加した後、第4戦隊に復帰し、ミッドウェー海戦には、ミッドウェー島攻略本隊に第4戦隊第1小隊(「愛宕」艦隊旗艦、「鳥海」)として参加しています。
ラバウルに第8艦隊が新設されると、この新艦隊の旗艦として「鳥海」は再び第4戦隊を離れます。同艦隊は、既述のように新たな占領地域であるラバウルに拠点を置き、ニューギニア・ソロモン諸島方面(南東方面:外南洋)をその担当領域としていました。
米軍がガダルカナル、ツラギに来襲すると、この迎撃に第8艦隊が出撃します。いわゆる第一次ソロモン海戦です。この海戦で、第8艦隊は戦闘では劇的な戦果をあげるのですが、一方で作戦目的からの(戦略的な)評価では、護衛艦隊が粉砕され丸腰になった上陸船団に指一本触れなかったことから、すでに戦闘直後から、疑問の声が多く挙げられてきたことは、皆さんもよくご存知のことと思います。
***本稿前回でも少し述べましたが、ここでも日本海軍の「損害恐怖症」とでもいうようなメンタルな部分の弱点が感じられると考えています。戦果の拡大による目的の完遂よりも、艦艇の保全の方が優先される、というか・・・。持たざる国の宿命、と言ってしまえば、その通りなのですが。
その後、ガダルカナル島をめぐる攻防戦に多くは輸送部隊の支援で出撃。第二次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦にいずれも第8艦隊旗艦として参加した後、内地に帰還し損傷箇所の修理、整備を行いました。
戦線復帰後は、再びラバウル。ソロモン方面で活動し、その後、第2艦隊第4戦隊に復帰、マリアナ沖海戦を経て、レイテ沖海戦に参加します。
1944年10月、「鳥海」は僚艦3隻とともに栗田艦隊(第2艦隊基幹:第一遊撃部隊)の一員としてブルネイを出航。翌日、第4戦隊の3隻(「愛宕」「摩耶」「高雄」)が相次いで米潜水艦の雷撃で艦隊から欠けてしまいます(「愛宕」「摩耶」が沈没。「高雄」は大破の後、ブルネイに帰還)。「鳥海」は第5戦隊(「妙高」「羽黒」)に編入され、そのまま作戦を継続しました。
その後、サマール沖で米護衛空母部隊を追撃中に、米艦載機の空爆にさらされ被弾しこれによって魚雷が誘爆、戦線を離脱しました。更に数次の空襲で被弾後、大火災を発生し、味方駆逐艦によって雷撃処分されています。
「摩耶」:太平洋戦争開戦時には第2艦隊第4戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、蘭印作戦に従事しました。その後、第4戦隊第2小隊(「高雄」「摩耶」)としてミッドウェー作戦の一環であるアリューシャン作戦参加、アッツ。キスか両島の占領を成功させています。
ガダルカナルを巡る攻防が激化すると、同方面での第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に参加。第三次ソロモン海戦では、当初予定されていた第11戦隊(「比叡」「霧島」)による飛行場砲撃が米艦隊との遭遇戦で阻止された後、代わりにがガダルカナル海域に突入して飛行場砲撃を行っています。この砲撃からの帰途に米艦載機の空襲を受け、その際に米軍機が体当たりを敢行、火災が発生し、魚雷を投棄するほどの損害を受けました。
内地で損傷修理後、一転して「摩耶」は北方部隊に編入されます。同方面でアッツ島守備隊への物資輸送をめぐり発生したアッツ島沖海戦に参加しました。この海戦は、輸送を阻止しようとする米艦隊と、これを護衛する日本艦隊の巡洋艦同士の砲撃戦でしたが、日本海軍が米海軍に対し優位にあると自信を持っていた遠距離砲撃の精度が、同等、もしくはそれ以下であったという実例を示すという結果となりました。双方に大きな損害はなかったものの、日本海軍の輸送目的は阻止され、北方占領地の防備強化はできないまま、アッツ島守備隊の玉砕を迎えてしまいます。
「摩耶」は海戦後、南方戦線に向かいますが、到着直後、米艦載機によるラバウル空襲で被弾大破し、内地で修復を受けます。この際に前述の防空巡洋艦化の改装を受け、3番主砲塔を撤去し連装高角砲を2基追加、同時にそれまで搭載していた単装高角砲を全て連装に改めたり、その他にも多数の対空機銃を装備し、併せて「高雄」「愛宕」には開戦前に行われた復原性改善の為のバルジ増設や魚雷発射管の連装から4連装への換装なども実施しています。
修復後は第2艦隊(栗田艦隊)に復帰しマリアナ沖海戦を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に参加しました。栗田艦隊のブルネイ出航の翌日、パラワン島沖で、米海軍潜水艦の雷撃を受け、4本の魚雷が命中。わずか10分そこそこで沈んでしまいました。
このように、日本海軍最後の一等巡洋艦「高雄級」は、ネームシップの「高雄」を除いて全てレイテ沖海戦で失われました。前級である「妙高級」も併せて、いわゆる諸列強が羨望した条約型重巡洋艦である「妙高級」「高雄級」は、奇しくも両級のネームシップが、シンガポールで、行動不能の状態で残存する、という状況で終戦を迎えることとなりました。
第一次ソロモン海戦
第一次ソロモン海戦は、今回ご紹介した「高雄級」重巡洋艦の3番艦である「鳥海」が旗艦となり参加した海戦です。
当時、日本が飛行場建設中だったソロモン諸島南部のガダルカナル島と、その向かいにありこちらも海軍の陸戦隊が占領したてのツラギ泊地に、米軍が突如来襲し、ツラギ守備隊は瞬時にほぼ全滅、飛行場建設中の設営隊は周辺の山に逃げ込む、という状況で、米軍が飛行場を押さえてしまった、という状況に対し、急遽、殴り込みをかける、という戦闘でした。
例によって、海戦の経緯等は別の優れた文献にお願いすることとします。
日本艦隊については、既にご紹介した艦級ばかりなので、簡単に触れるとして、同時期の米海軍の巡洋艦について触れるいい機会かな、と考え、そちらのご紹介を中心にしたいと考えています。
日本海軍第8艦隊の海戦時の戦闘序列
日本側の「鳥海」以外の参加兵力は、いずれもこれまでにご紹介してきた「青葉級」重巡洋艦2隻と「古鷹級」重巡洋艦2隻から編成されている第6戦隊と、軽巡洋艦「夕張」と第18戦隊の軽巡洋艦「天龍」、第2海上護衛隊に所属する軽巡洋艦「夕張」と駆逐艦「夕凪」(「神風級」駆逐艦)でした。これらをラバウルに新編成されたばかりの第8艦隊として三川中将が率いていました。
第8艦隊そのものが新設で、上記の構成も見ていただいても、編成の艦種バランスなど考慮されているとは思えません。ともかく米艦隊の来攻は看過できない、という一点で周辺の稼働兵力をかき集めた、という寄せ集め感満載です。
こういう、現地主義感は決して嫌いではないですね。臨場感があるというか・・・。特に、「天龍」「夕張」「夕凪」については、第18戦隊司令官が懇願した為編成に入れた、という話もあるくらいで・・・。
重巡洋艦「鳥海」(旗艦)
(直上の写真は、「高雄級」の概観:3番艦「鳥海」は第8艦隊の旗艦を務めました。「鳥海」は大改装を受けずに太平洋戦争を迎え、その後も前線で稼働し続けたため、ほぼ竣工時の状態のまま、太平洋戦争を戦い通しました)
「古鷹級」重巡洋艦(「古鷹」「加古」)
(直上の写真は、大改装後の「古鷹級」の概観)
「青葉級」重巡洋艦(「青葉」:第6戦隊旗艦、「衣笠」)
(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観)
(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)
軽巡洋艦「天龍」
初めてギヤードタービンを搭載し、前級の筑波級防護巡洋艦の倍以上の出力から、33ノットの高速を発揮することができました。艦型は前年に就役した「江風級」駆逐艦を拡大したもので、当初から駆逐艦戦隊(水雷戦隊)を指揮することを目的とした嚮導駆逐艦的な性格の強い設計でした。
主砲には14センチ単装砲を中央線上に4門装備し、両舷に4射線を確保しました。日本海軍の巡洋艦としては初めて53センチ3連装魚雷発射管を搭載しました。この発射管は当初は発射時に射出方向へ若干移動して射出する方式採っていましたが、運用面で機構状の不都合が生じ、装備位置を高め固定して両舷に射出する方式に改められました。舷側装甲は、アメリカ駆逐艦の標準兵装である4インチ砲に対する防御を想定したものでした。太平洋戦争では、既に旧式艦となりながらも、開戦当初2隻で第18戦隊を構成し、南方作戦で活躍しました。
軽巡洋艦「夕張』
(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune)
「夕張」は、 元々、5500トン級軽巡洋艦の9番艦(「球磨級」5隻に続く「長良級」第1期の4番艦)として建造予定だったものを、折からの不況の影響を受け予算の逼迫等の要因から、設計変更したと言う経緯で建造されました。
設計の基本骨子は、5500トン級と同等の兵装と速度を3000トン弱の船体で実現すると言うものでした。すべての主砲を船体の中心線上に配置、前後それぞれ単装砲と連装砲の背負式として、5500トン級に比べると主砲の搭載数は1門減りましたが、両舷に対し5500トン級と同様の6射線を確保しました。同様に連装魚雷発射管を中心線上に配置することにより、発射管搭載数は半減したものの、両舷に対して確保した射線4は、5500トン級と同数でした。
駆逐艦「夕凪』
(直上の写真は、「夕凪」が属する「神風級」駆逐艦の前級である「峯風級」駆逐艦:特型駆逐艦出現までの艦隊駆逐艦の形状の始祖となったと言えると思います。同級は太平洋戦争時には、既に旧式化していたため、主として日本近海での船団護衛任務などに投入されました。準同型艦の「野風級」も含め、15隻中10隻が失われました。本級の改良型である「神風級(II)」(「後期峯風級」と言われることもあります)は、9隻中7隻が戦没しています)
迎え撃つ米豪艦隊の編成
一方、上陸部隊を護衛する米豪艦隊は、以下のような編成でした。
サボ島南水路警戒部隊(クラッチレー英海軍少将指揮)
重巡洋艦オーストラリア・重巡洋艦キャンベラ(いずれもオーストラリア海軍):ケント級
重巡洋艦シカゴ:ノーザンプトン級 +駆逐艦2隻(「パターソン」「バックレイ」)
サボ島北水路警戒部隊(リーフコール米海軍大佐指揮)
重巡洋艦ヴィンセンス、重巡洋艦クインシー、重巡洋艦アストリア :ニューオーリンズ級 +駆逐艦2隻(「ヘルム」「ウィルソン」)
サボ島南北水路哨戒隊:駆逐艦2隻(「ラルフ・タルボット」「ブルー」)
ツラギ島東方警戒部隊(スコット米海軍少将指揮)
軽巡洋艦ホバート(オーストラリア海軍):パース級 +駆逐艦2隻(「モンセン」「ブキャナン」)
上記のうち、実際に戦闘に参加したのはサボ島南水路警戒部隊とサボ島北水路警戒部隊、サボ島南北水路哨戒隊でした。
ケント級重巡洋艦:オーストラリア、キャンベラ
County-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「ケント級」の概観。 「オーストラリア」「キャンベラ」はこの艦級に属していました。152mm in 1:1250 by Neptune )
「ケント級」重巡洋艦は、英海軍が建造した条約型重巡洋艦カウンティ級重巡洋艦の第一グループで、条約制限内での建造の条件を満たし、かつ英海軍の巡洋艦本来の通商路保護の主要任務に就く為、防御と速力には目を瞑り火力と航続力に重点を置いた設計としています。8インチ砲8門を装備し、31.5ノットを発揮しました。
今回上述の「高雄級」の主砲に関する記述でも触れましたが、本級でも主砲の仰角をあげ高角砲との兼用についての試みが行われましたが、やはり射撃速度が対空射撃に及ばず実用的ではありませんでした。
魚雷は53.3cm魚雷を上甲板に搭載した発射管から射出する形式でしたが、就役当時の魚雷には投射の衝撃に対する耐性がなく、新型魚雷の開発まで、実装は待たねばなりませんでした。
7隻が建造され、そのうち「オーストラリア」と「キャンベラ」の2隻が、オーストラリア海軍に供与されました。
Northampton-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune)
「シカゴ」は米海軍が建造した条約型重巡洋艦の第2グループ「ノーザンプトン級」の4番艦です。前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。
航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。
同級については、本稿の「日本海軍巡洋艦開発小史(その5)」で記述しています。そちらをご覧下さい
日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊 - 相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って
ニューオーリンズ級重巡洋艦:ヴィンセンス、クインシー、アストリア
New Orleans-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の概観:「アストリア」「ヴィンセンス」「クインシー」はこの艦級に属していました。142mm in 1:1250 by Neptune)
(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の特徴を示したもの。艦橋の構造を、前級までの三脚前檣構造から塔状に改めています(上段)。航空艤装の位置を改めて、運用を改善(中段)。この艦級に限ったことではないですが、アメリカの建造物は理詰めで作られているためか、時として非常に無骨に見える時がある、と感じています(下段)。フランスやイタリアでは、こんなデザインは、あり得ないのでは、と思うことも。「機能美」と言うのは非常に便利な言葉です。でも、この無骨さが良いのです)
米海軍の条約型重巡洋艦としては第四段の設計にあたります。
主砲としては8インチ砲3連装砲塔3基を艦首部に2基、艦尾部に1基搭載するという形式は「ノーザンプトン級」「ポートランド級」に続いて踏襲しています。魚雷兵装は、「ポートランド級」につづき、竣工時から搭載していません。航空艤装の位置を少し後方へ移動して、搭載設備をさらに充実させています。
乾舷を低くして艦首楼を延長することで、米重巡洋艦の課題であった復原性を改善し、32.7ノットの速力を発揮することができました。
同型艦は7隻が建造されましたが、そのうちこの海戦で参加した3隻全てが撃沈されてしまいました。
その後も、ソロモン海域での戦闘では常に第一線で活躍し、サボ島沖夜戦では同級の「サンフランシスコ」が旗艦を務める艦隊がレーダー射撃によって、日本海軍の重巡「青葉」を大破させ、「古鷹」を撃沈する戦果を上げています。一方で、第三次ソロモン海戦では、同じく艦隊旗艦を務めた「サンブランシスコ」が「比叡」「霧島」との乱打戦で大破していますし、ルンガ沖夜戦では、日本海軍の駆逐艦部隊の輸送任務の阻止を試みた同級の「ニューオーリンズ」「ミネアポリス」が、日本駆逐艦の放った魚雷で大破する、といったような損害も被っています。
米海軍の「ヤラレ役」を一身に背負った感のある緩急ですが、それだけ「切所」を踏ん張った、と言うことだと考えています。
Atlanta-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「アトランタ級」軽巡洋艦の概観。131mm in 1:1250 by Neptune)
当初は「オマハ級」軽巡洋艦の代替として、駆逐艦部隊の旗艦を想定して設計がスタートしましたが、設計途上で防空巡洋艦への設計変更が行われました。6000トン級の船体に、主砲とし38口径5インチ両用砲の連装砲塔を8基搭載し、併せて53.3cm魚雷の4連装発射管2基も搭載し、当初設計の駆逐艦部隊の旗艦任務にも適応できました。速力は32.5ノットを発揮することができました。
(直上の写真は、「アトランタ級」軽巡洋艦の細部をアップしたもの。なんと言っても全体をハリネズミのように両用砲塔が覆っているのがよくわかります。第一次ソロモン海戦では、持ち場が主戦場から離れていたため(ツラギ東方警備)、戦闘には参加しませんでしたが、こののち、ソロモン海での海戦にはたびたび登場します。前掲の「ニューオーリンズ」級とは一転して、やや華奢な優美な艦形をしています)
8基の両用砲塔の搭載により、やや復原性に課題が見出され、5番艦以降では、砲塔数を2基減じて、復原性を改善しています。
同型艦は11隻が建造され、艦隊防空の中核を担いました。
「ホバート」は、「リアンダー級」軽巡洋艦の改良型として建造された「パース級」軽巡洋艦の1隻です。同級は、英海軍「アンフィオン級」軽巡洋艦として3隻建造され、3隻とも後にオーストラリア海軍に供与されました。
(直上の写真は、オーストラリア海軍「パース級」軽巡洋艦の概観。135mm in 1:1250 by Neptune)
同級については、本稿の「日本海軍巡洋艦開発小史(その5)」で記述しています。そちらをご覧下さい
日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊 - 相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って
バグレイ級駆逐艦:「パターソン」「バックレイ」「ヘルム」「ウィルソン「ラルフ・タルボット」「ブルー」
Bagley-class destroyer - Wikipedia
(直上の写真は、「バグレイ級」駆逐艦の概観。主戦場となった南北のサボ島水路に展開していたのは、全てこの艦級の駆逐艦でした。1600t弱の船体に、5インチ砲4門と53.3cm4連装魚雷発射管を4基搭載し、38.5ノットの高速を発揮することができました。太平洋戦争に参加した米海軍の艦隊駆逐艦としては、やや古参の部類に属します。同型艦は20隻。83mm in 1:1250 by Neptune)
リヴァモア級駆逐艦:「モンセン」「ブキャナン」
Gleaves-class destroyer - Wikipedia
(直上の写真は、「リヴァモア級」駆逐艦の概観。主戦場には展開していなかったため、戦闘には参加していません。米海軍の艦隊駆逐艦としては、主力となった高名な「フレッチャー級」への導入となった量産型の駆逐艦と言っていいでしょう。いくつかサブグループがあったり、建造順で名称が異なったりしますが、ここでは「リヴァモア級」と言うことで一括りにしておきます。まあ、模型があるかどうか、も大きなファクターですが。1630tの船体に、5インチ砲4門と53.3cm4連装魚雷発射管を4基搭載し、37.4ノットの高速を発揮することができました。同型艦64隻 86mm in 1:1250 by Neptune)
海戦の概要としては、第8艦隊は深夜11時43分ごろサボ島南水路から進入し、まず南水路警戒部隊と交戦。わずか8分の間に「キャンベラ」に魚雷2本と8インチ砲弾28発を命中させ、行動不能に陥れます(翌朝、沈没)。続いて「シカゴ」に魚雷1本と多数の命中弾を浴びせ、駆逐艦「パターソン」とともにを大破させました。
次に「鳥海」が艦首左舷方向に別艦隊(サボ島北水路警戒部隊)を発見し、11時53分「アストリア」に向け砲撃を開始、命中弾多数を与え、これを沈黙させました。(翌朝、沈没)次に目標を「クインシー」に変更し砲撃を開始し丁度0時ごろに火災を発生。戦列が乱れ、別働していた「古鷹」「天龍」「夕張」が炎上する「クインシー」を反対舷側から攻撃を開始。「天龍」「夕張」の魚雷が「クインシー」に命中し、0時35分ごろ転覆し沈没しました。第8艦隊は最後に「ヴィンセンス」に砲火を集中し、「ヴィンセンス」もこれに反撃しますが、「鳥海」「夕張」の魚雷が都合4本命中し、0時直後に航行不能となりました。(0時50分に転覆沈没)
最後に水路哨戒隊の「ラルフ・タルボット」と交戦し、これを撃破(大破)しました。
ここまで、第8艦隊の各艦は大きな損害を受けたものはなく、混乱した艦列を修正するために、いったんサボ島北側に集結しました。この際に水路哨戒隊の「ラルフ・タルボット」と遭遇、これに砲撃を加え、「ラルフ・タルボット」は大破しながら離脱します。
これを最後に戦闘は終結し第8艦隊は隊列を整えるのですが、この時に、艦隊司令部では、攻撃を継続するか撤収するかの、ある種「有名」な議論があったとされています。「丸腰となった輸送船団を攻撃するために反転すべき」(早川「鳥海」艦長)という意見と、「上空援護が期待できず、空襲を避けるために早期に撤退すべき」(大西艦隊参謀長、神艦隊先任参謀)という意見が対立したわけです。
結局、三川司令長官が後者の意見を容れて、艦隊は帰途につきます。
この決断は、海戦の直後からその可否についての議論が絶えません。が、日本海軍の常として、上層部ほど「後」の議論を積極的に行う傾向があるように感じています。連合艦隊司令部、あるいは軍令部あたり。かと言って、次の作戦で事前に明確な指示を出すわけでもないのです。「現場判断尊重」の名目で、解釈に幅のある曖昧な作戦目的を前線に伝え、後に現場判断に対する批評を行う傾向があるように思うのです。うがった見方をすれば、これも「損害恐怖症」の片鱗かと。自身が明確な指示を出すことによって生じる損害に対して責任を取りたくない、ということでしょうか?
これはどうやら、真珠湾作戦当初から延々と繰り返される日本海軍の「性」とでもいえるかもしれません。
戦闘では確かに圧勝したが、そもそも作戦の目的はなんだったのか?
そしてこの海戦には、もう一つ日本海軍にはありがたくない「おまけ」がついていました。
早めの離脱の指示で、安全に、米軍の空襲域を脱出できた第8艦隊だったのですが、泊地到着寸前で米潜水艦の雷撃を受け、重巡「加古」を失います。
こうしてこの海戦は終了しましたが、実はこれがソロモン海での底無しの消耗線の始まりでもありました。
(その7) 条約型巡洋艦の建造
条約下の巡洋艦
本稿では、このシリーズの前回で触れたように、ワシントン・ロンドン体制で定められたカテゴリーA(=重巡洋艦)の保有枠を、日本海軍は「高雄級」4隻の建造で、使い切ってしまいました。このため、日本海軍が以後建造する巡洋艦は、全てカテゴリーB(=軽巡洋艦:主砲口径6.1インチ以下、排水量10000トン以下)として設計されることになります。
この時点で、日本海軍の持っていたカテゴリーBの保有枠は51000トン弱だったため、8500トンのカテゴリーB(軽巡)6隻の建造が計画されました。
具体的には、今回ご紹介する「最上級」「利根級」の2つの艦級は、15.5cm(6.1インチ)砲を機装式3連装砲塔に搭載し、一方で軽快に駆逐艦隊を率いるそれまでの軽巡洋艦とは異なり、8500トン級の大きな十分な防御力を有する船体をもち、攻撃力でも条約型の重巡洋艦と打ち負けない砲力を有する設計でした。
日本海軍の軽巡洋艦の常として、この両艦級は重巡洋艦に付けられた「山」の名前ではなく、いずれも軽巡洋艦の艦名である「川」の名前を艦名として与えられました。
条約の申し子
最上級巡洋艦 -Mogami class cruiser-(最上:1935-1944/三隈:1935-1942/鈴谷:1937-1944/熊野:1937-1944)
Mogami-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「最上級」の就役時の概観。163mm in 1:1250 by Konishi)
「最上級」軽巡洋艦は、上記のような背景で設計された、将に「条約の申し子」とでもいうべき巡洋艦です。
繰り返しになりますが、同級はそれまでの日本海軍の軽巡洋艦とは異なり、37ノットのずば抜けた機動性に加え、十分な防御力を備えた大型の船体を持ち、これにそれまでの軽巡洋艦の倍以上の火力を搭載して敵を圧倒する、と言う設計思想で建造されました。
採用された主砲は、3年式60口径15.5cm砲で、この砲をを3連装砲塔5基に搭載することが計画されました。
(直下の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔郡の配置)
この砲は27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。
75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありましたが、毎分5発程度の射撃速度では、対空砲としての実用性には限界がありました。
列強の条約型巡洋艦
同様の経緯で、米海軍、英海軍ともに同様の条約型巡洋艦を建造しています。
米海軍の条約型軽巡洋艦
Brooklyn-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真:「ブルックリン級」の概観。157mm in 1:1250 by Neptune )
ほぼ「最上級」と同じ設計思想で作られた米海軍の軽巡洋艦です。条約開け後も主砲は換装されることはありませんでした。
(直上の写真は、速射性の高Mark 16 15.2cm(47口径)速射砲の3連装砲塔を5基搭載しています。対空砲として5インチ両用砲を8門搭載していますが、後期の2隻はこれを連装砲塔形式で搭載していました。このため後期型の2隻を分類して「セントルイス級」と呼ぶこともあります)
Cleveland-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真:「クリーブランド級」の概観。157mm in 1:1250 by Neptune。主砲塔を1基減らし、対空兵装として、連装5インチ両用砲を6基に増やしし、対空戦闘能力を高めています )
上掲の「ブルックリン級」の対空兵装強化版。対空兵装を倍にする代わりに、主砲を1基減らしています。
英海軍の条約型軽巡洋艦
Town-class cruiser (1936) - Wikipedia
「タウン級」軽巡洋艦は、実は以下の3つのサブクラスを持っています。
今回ご紹介するのは「マンチェスター」。第二グループの「グロスター級」の一隻です。
(直上の写真:「グロースター級」軽巡洋艦の概観 144mm in 1:1250 by Neptune)
「グロスター級」はこの艦級の第一グループである「サウサンプトン級」の装甲強化型であり、この強化に伴い、機関も見直されています。
英海軍が軍縮条約の制限に準じて建造した軽巡洋艦です。設計の背景は日本海軍の「最上級」、米海軍の「ブルックリン級」とほぼ同じです。英海軍は、歴史的に海外植民地との間の長大な通商路の警備、保護を巡洋艦の主要任務としているため、長期間の航海に耐えられるよう、武装を若干押さえつつ居住性に配慮した設計になっています。
Fiji-class cruiser - Wikipedia
前傾の「タウン級」軽巡洋艦をタイプシップとして、数を揃えるためにやや小型化した軽量版です。
(直上の写真:「クラウン・コロニー級」の概観。145mm in 1:1250 by Neptune )
(直下の写真は、速射性の高いMk XXIII 15.2cm(50口径)速射砲の3連装砲塔を4基搭載しています。)
主砲の換装、そして名実ともに重巡洋艦に
ワシントン・ロンドン体制は、1936年に失効し、保有制限がなくなったこの機会に「最上級」各艦は主砲を50口径20.3cm連装砲に換装しました。こうして重巡洋艦を越えるべく建造された「最上級」は、名実共に重巡洋艦となりました。
(直上の写真:主砲を20.3cm連装主砲塔に換装した「最上級」の外観:by Neptune)
主砲換装の是非
(直上の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔(上段)と20.3cm連装砲塔への換装後(下段)の比較。換装後の2番砲塔の砲身は、1番砲塔と干渉するため、正正面で繋止する際には一定の仰角をかける必要がありました(下段))
本来、「最上級」に搭載されていた3年式60口径15.5cm砲は、重巡洋艦との砲戦でも撃ち負けない様に設計されただけに、射程も重巡洋艦が搭載する20.3cm砲に遜色はなく、砲弾一発当たりの威力では劣るものの、「最上級」はこれを3連装砲塔5基、15門搭載し、その高い速射性も相まって、1分あたりの投射弾量の総量では、20.3cm連装砲塔5基を上回っていました。さらに60口径の長砲身を持ち散布界が小さい射撃精度の高い砲として、用兵側には高い評価を得ていました。
これを本当に換装する必要があったのかどうか、やや疑問です。
筆者の漁った限りの情報では、貫徹力でどうしても劣る、というのが主な換装理由ですが、その後のソロモン周辺での戦闘を見ると、あるいはこれまでの日本海軍の戦歴を見ると、速射性の高い砲での薙射で上部構造を破壊し戦闘不能に陥れる、という戦い方も十分にあり得たのではないかな、と。
あるいは、米海軍を仮想敵として想定した場合に、その艦艇の生存性の高さ、あるいは後方の修復能力の段違いの高さから、必殺性が求められた、ということでしょうか?(日本海軍の場合、損傷艦の自沈、あるいは海没処分、というのが目立つのですが、米海軍では、そのような例はあまり見かけません)
また、前述の様に米海軍も英海軍も同様の設計の巡洋艦を建造していますが、いずれも換装した例はありません。
主砲換装は計画されていたのか?
「最上級」の主砲塔配置は、それまでの「妙高級」「高雄級」重巡洋艦の砲塔配置とは少し異なっています。「妙高級」「高雄級」では艦首部の3砲塔を中央が高い「ピラミッド型の配置としていました。これは砲塔間の間隔を短くし弾庫の防御装甲範囲を小さくし重量を削減するのに有効でしたが、一方で3番砲塔の射角が左右方向のみに大きく制限されました。
「最上級」の主砲塔配置は、砲身の短い15.5cm砲に合わせた設計になっており、20.3cm砲に換装した際に2番砲塔の砲身が1番砲塔に干渉してしまい、正正面で固定する場合、砲身に一定の仰角をかける必要がありました。このことから、従来定説であった条約失効後の換装計画が設計当初から決定されていたか、と少し疑問に思ってしまいます。
一方で、15.5cm3連装主砲塔の重量は、20.3cm連装主砲塔よりも重く、第4艦隊事件などで、重武装を目指すあまりに全般にトップヘビーの傾向が見られた艦船設計に対する改善策としては、理にかなった選択だった、とも言えるのではないでしょうか?
その戦歴
(直上の写真:第7戦隊の勢揃い。手前から、「最上」「熊野」「鈴谷」「三隈』)
「最上」:太平洋戦争海戦時には、同級の僚艦とともに、第7戦隊を編成し、南遣艦隊の基幹部隊として南方作戦に従事しました。マレー作戦、欄印作戦で活躍しました。バタビア沖海戦では、米重巡洋艦「ヒューストン」オーストラリア軽巡洋艦「パース」などの撃沈に参加しています。
ミッドウェー海戦には、ミッドウェー攻略部隊の第2艦隊の前衛支援部隊(第7戦隊基幹)として参加。機動部隊(空母機動部隊)の壊滅後も、機動部隊の残存兵力(水上戦闘艦艇)や、主隊による米艦隊との夜戦の機会を求めて、その支援のため、第7戦隊にはミッドウェー島の飛行場砲撃の任務が与えれました。このため第7戦隊は進撃を継続しましたが、結局、夜戦の戦機なしとの判断から、連合艦隊司令部からの撤収命令に従い反転しました。撤収中に、米潜水艦による接触を受け、回避行動中に僚艦「三隅」と衝突し艦首が圧壊し一時行動不能に陥りました。応急処置により、同じく損傷した「三隅」とともにトラック島へむけての退避航行を開始したものの、翌日、米軍の基地航空機、空母艦載機の空襲により、僚艦「三隅」は沈没、「最上」も5発の爆弾を被弾し、後部の4番・5番両砲塔に大損害を受けました。
なんとか第2艦隊に合流し、内地に帰還後、「最上」はその修復の際に、大損害を受けた艦後部の4・5番砲塔を撤去し、艦後部を全て航空甲板とするという大規模な改造を受け、11機の水上偵察機を搭載可能な航空巡洋艦として生まれ変わりました。
(直上の写真:ミッドウェー海戦での損傷修復後、航空巡洋艦となった「最上」:by Konishi。艦後部に11機の水上偵察機の繋留ができる航空甲板を設置しました)
第7戦隊に復帰後、主として中部太平洋で行動しますが、ラバウルに進出した際に、ラバウル空襲に遭遇し、再び被弾してしまいます。
損傷回復後、マリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊の第3部隊(西村艦隊)の一員として戦闘に参加しました。西村艦隊はスリガオ海峡へ突入しますが、米艦隊の砲撃で「最上」は炎上、更に後続の第二遊撃艦隊(志摩艦隊)の旗艦「那智」と衝突し損傷を大きくしてしまいました。
翌朝、米軍機の空襲をうけ、味方駆逐艦の魚雷で処分されました。
「三隅」:前掲の「最上」同様、太平洋戦争緒戦では、第7戦隊の一員として、マレー作戦、欄印攻略戦で活躍しました。
その後参加したミッドウェー海戦では、これも前掲のように機動部隊壊滅後の夜戦支援のためのミッドウェー島砲撃任務からの反転中に僚艦「最上」と衝突しました。この時点では、損傷は「最上」が大きく、「三隅」は軽微でした。第7戦隊司令部は、両艦にトラック島に退避するように指示を出しましたが、翌日、相次ぐ空襲を受け一説には被弾20発と言う大損害を受け、最後には魚雷が誘爆し失われました。
同艦は太平洋戦争で失われた最初の重巡洋艦となりました。
「鈴谷」:太平洋戦争開戦からミッドウェー海戦まで、第7戦隊の一員として、寮艦とほど同様の戦歴を辿りました。
ミッドウェー後は、僚艦「熊野」とともに インド洋での通商破壊戦に従事した後に、ソロモン諸島方面での作戦に投入されます。
第7戦隊は第3艦隊(新編空母機動部隊)に編入され、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に機動部隊として参加した後、ソロモン方面での作戦を担当する第8艦隊に編入されてガダルカナル方面への輸送作戦、支援作戦(ヘンダーソン飛行場砲撃)などに従事します。
ラバウル空襲で大損害を受けた新編第2艦隊のトラック後退し、中部太平洋での活動を行った後、マリアナ沖海戦に参加。
そして1944年10月、レイテ沖海戦に第1遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加しました。サマール島沖海戦で、米護衛空母部隊と交戦し、どう空母部隊艦載機の爆撃を受け至近弾により魚雷が誘爆し航行不能となってしまいます。その後も火災が収まらず、さらに魚雷と高角砲弾の湯爆も始まり、やがて沈没してしまいました。
「熊野」:太平洋戦争緒戦から、「最上級」4隻で構成される第7戦隊の旗艦を務めました。前掲の通りマレー作戦、蘭印作戦、ミッドウェー海戦、インド洋での通商破壊戦等を転戦した後、第3艦隊に編入されますが、当時、機関の故障が続出し、第7戦隊旗艦を「鈴谷」に譲り、第7戦隊の序列を外れました。第2次ソロモン海戦への参加を経て、南太平洋海戦では機動部隊本隊の直衛を務めましたが、米艦載機の爆撃で至近弾を被弾し損傷。内地で損傷を復旧した後、再びソロモン方面での戦闘に従事しました。
ガダルカナルからの撤退以降、戦場は中部ソロモンに移っていましたが、「熊野」は再び第7戦隊の旗艦を務めます。当時の主戦場であったニュージョージア・コロンバンガラ方面での夜戦で、夜間空襲を試みた米海軍機の雷撃で避雷し、再び内地で修理を受けました。
復帰後、第2艦隊に編入されマリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月レイテ沖海戦に参加します。
レイテ沖海戦では第1遊撃部隊(栗田艦隊)の第7戦隊の旗艦を務めました。
シブヤン海では米機動部隊の艦載機の空襲を受け、艦隊は戦艦「武蔵」を失うほどの損害を受けました。「熊野」も被弾しますが、幸いにも不発弾で、その後も作戦参加を続行しました。その後の米護衛空母部隊と交戦したサマール島沖海戦では、空母部隊直衛の駆逐艦から雷撃を艦首に受け、艦首を喪失して戦列から脱落しています。
マニラ帰着後、11月に損傷の修復のため本土帰還を目指したが、度重なる空爆で失われた。
こうして「最上級」重巡洋艦は1944年11月までにすべて失われました。
最優秀巡洋艦の呼び声
利根級重巡洋艦 -Tone class heavy cruiser-(利根:1938-終戦時残存/筑摩:1939-1944)
Tone-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「利根級」の概観。162mm in 1:1250 by Konishi)
日本海軍は早くから航空機による索敵に注目していました。すでに5500トン級軽巡洋艦から、航空索敵の能力付与についての模索は始まっていました。
しかし、具現化については米海軍が常に一歩先をゆき、例えば5500トン級と同時代の「オマハ級」軽巡洋艦はすでにカタパルトを2基搭載し、水上偵察機も2機搭載していました。その後も米海軍お優位は続き、米海軍の条約型重巡洋艦は4機の水上偵察機搭載を標準としていたのに対し、日本海軍の重巡洋艦は2機乃至3機の搭載に甘んじていました。
一方で、常に劣勢に置かれる主力艦事情を覆すべく構想された空母の集中運用、いわゆる空母機動部隊の構想においては、航空索敵の必要性はさらに高まり、「利根級」巡洋艦は、それを具現すべく設計された、と言って良いと思います。
「利根級」巡洋艦は今回の冒頭でも触れた様に、設計時点では、ワシントン・ロンドン体制の制限下で、すでにカテゴリーA(重巡洋艦)の保有枠を使い切っており、8500トンの船体をもち、15.5cm砲を主砲として搭載したカテゴリーB(軽巡洋艦)として計画され、艦名も「川」の名前を与えられていました。
その艦型は大変ユニークで、「最上級」と同じ3年式60口径15.5cm砲を主砲としてその3連装砲塔を「最上級」よりも1基減らして4基、12門をすべて艦首部に搭載し、艦尾部は水上偵察機の発艦・整備甲板として開放されていました。水上偵察機を6機搭載する能力を持ち、日本海軍は念願の空母機動部隊の目として運用することになります。
(直下の写真は、「利根級」の特徴のクローズアップ。前部主砲塔群(上段)と艦後部の水上偵察機の発艦・整備甲板))
着工後の1936年に軍縮条約が失効したことを受けて、建造途中から主砲を重巡洋艦の標準主砲であった50口径3年式20.3cm砲に変更、完成時には重巡洋艦として就役しました。
主砲塔をすべて艦首部に集中したことで、集中防御の範囲を狭め十分な装甲を施すことができ、また航続力も巡洋艦の中で最長で、高い航空索敵能力も併せて、最優秀巡洋艦の評価も聞かれたようです。
もっとも、速度の遅い水上偵察機による敵機動部隊索敵は、比較的早い時期に効果に疑問がもたれ、米海軍などは一部の艦上爆撃機を索敵機として部署し運用し始めていました。
その戦歴
(直上の写真は、第8戦隊の「利根」(手前)「筑摩」:by Neptune)
「利根」:太平洋戦争開戦時、「利根」は僚艦「筑摩」と共に、第8戦隊を編成し、空母部隊である第1航空艦隊の直衛として第1特別講堂部隊(南雲機動部隊)に編入され、真珠湾奇襲に参加します。「利根」搭載の索敵機はいわゆる「真珠湾奇襲」の1時間前に真珠湾を偵察、気象状況や湾内の様子などを伝えたと言われています。
続いてウェーク島攻略戦、ラバウル攻略戦、ポート・ダーウィン空襲、インド洋作戦に南雲機動部隊に帯同して参加した後、内地に帰還しました。
ミッドウェー海戦でも南雲機動部隊に参加、「利根」の搭載機はここでも機動部隊の目として航空索敵を担いますが、有名な「利根4号機」の不調が、米空母部隊の発見を遅らせ、敗北の一因となったと言われています。(一方で、発進の遅れが、「米機動部隊の発見」に繋がった、とする見方もあるようです)
ミッドウェーの敗北後、いったん内地で修理、整備を行なった後、第8戦隊は新編成の空母機動部隊である第3艦隊に編入され、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦などに参加、常に前衛にあって索敵、対空戦闘等に従事しました。
その後も概ね空母機動部隊の側にあってその行動を支援しました。
1944年に入ると、第8戦隊は解体され「利根」は僚艦「筑摩」と共に第7戦隊に編入されました。一時期はインド洋で通商破壊戦に従事しました。この際に、この作戦指揮を執っていた南西方面艦隊から穂陵の処刑指示が発令され、「利根」では通商破壊戦によって得た捕虜約80名に対する処刑が行われました。
この後、マリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に第一遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加。サマール沖海戦では米護衛空母を追撃し、砲撃で一隻を撃沈しています。一方で、米護衛空母の艦載機の反撃で艦後部に被弾し損傷しました。
作戦終了後、ブルネイに一旦退避後、輸送任務と修理のために内地に帰還。海軍兵学校練習艦として呉に停泊中に空襲により被弾損傷。さらに数次にわたる空襲で被弾が相次ぎ、大破着底状態で終戦を迎えました。
「筑摩」:太平洋戦争緒戦、「筑摩」は僚艦「利根」と共に第8戦隊を編成し、その戦歴はほぼ「利根」に準じています。
ミッドウェー海戦にも、「利根」と同じく南雲機動部隊の一員として参加。米機動部隊の索敵に「筑摩」からは2基の水上偵察機が参加しますが、このうち「筑摩1号機」は米機動部隊の上空を通過しながらも雲に阻まれて発見できず、また、米艦載機と接触したにも関わらず報告をせず、海戦敗北の一因となった、と言われています。
米機動部隊の一部は前出の「利根4号機」によって発見されますが、「筑摩5号機」が「利根4号機」を引き継いで米機動部隊との接触を継続し、南雲機動部隊の主力空母被弾後、一隻だけ残った「飛龍」が放ったの攻撃隊を米機動部隊に誘導した後、未帰還となっています。
海戦後、内地で修理・整備の後、「筑摩」は第8戦隊の一員として、新編成の空母機動部隊(第3艦隊)の編入されました。第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加し、南太平洋海戦では米艦載機による攻撃で艦橋付近に命中弾、至近弾による浸水、さらには魚雷発射管付近への命中弾を受けるなどして、一時は戦闘不能状態となりました。
内地で損傷箇所の修理後、中部ソロモンでの作戦活動に復帰、機関の不調を内地で修理するため戦列を離れた「利根」に代わり第8戦隊旗艦となり第2艦隊を期間に編成された水上打撃部隊(遊撃艦隊:第2艦隊司令長官栗田中将指揮)に編入され、ラバウルに進出した直後、米機動部隊のラバウル空襲により損傷。比較的損傷の軽かった「筑摩」はトラック泊地に退避後、内南洋(トラック諸島周辺)に留まり周辺での作戦行動を続けました。
その後、いったん内地で損傷修理、整備を行った後、「筑摩」は僚艦「利根」と共に南西方面艦隊に編入され、インド洋での通商破壊作戦に従事しました。
マリアナ沖海戦参加を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に、第一遊撃部隊(栗田艦隊)第7戦隊(旗艦「熊野」)の一員として参加します。
サマール島沖海戦では米護衛空部部隊を追撃し砲撃を加えますが、護衛空母艦載機の雷撃攻撃で艦尾に避雷し、舵故障と速度低下で部隊から落伍してしまいました。その後、再度米軍機の空襲を受け、艦中央部に複数の命中弾を受け、味方駆逐艦「野分」により雷撃処分されました。
「筑摩」乗組員は雷撃処分に当たった駆逐艦「野分」に収容されましたが、「野分」も後に米艦隊に撃沈され、生存者は海戦時には索敵発進し、そのまま地上基地に向かった水上偵察機の搭乗員を除くと、「野分」に救助されず、米艦隊に救助された1名と撃沈された「野分」から救助された「野分」「筑摩」の生き残り1名、計2名と言われています。
こうして、軍縮条約の制約から、本来は軽巡洋艦として生まれながら(あるいは「生まれる予定」ながら )条約終了後、重巡洋艦として就役した「条約の落し子」巡洋艦を今回は紹介してきたわけですが、彼女等は、航空機の発達に伴う海戦様式の変更から、なかなか本来の重巡洋艦としての打撃力を生かした活躍の場を見出せなかった、と言っても良いのではないでしょうか?しかし「利根級」はその設計の先見性から、その砲装備以外のところで、空母時代に適応した一定の活躍をした、と言えるでしょう。
重巡洋艦にならず、つまり主砲を換装せず、軽巡洋艦として圧倒的な火力を保持した新時代の水雷戦隊の中核としてソロモン諸島での夜戦に活躍する「最上級」や「利根級」の姿も見てみたかったなあ、と思ってしまいます。
このミニ・シリーズでは、 これまで、日本海軍の巡洋艦の建造の推移を見てきましたが、簡単にまとめると、黎明期の日本海軍の主力を構成し、やがては育成された主力艦の補助戦力となった防護巡洋艦の時代。それに続き、魚雷の性能向上と駆逐艦の高速化の流れの中での軽装甲巡洋艦(軽巡洋艦)への発展が見られました。そして軽巡洋艦を凌駕しこれを制圧するべく重装備巡洋艦(重巡洋艦)が現れ、この高性能化がやがては軍縮条約の条項追加へと結びつき、その制約下で条約型巡洋艦が設計されました。
これらの条約型巡洋艦として生まれた巡洋艦群は、条約の破棄後は重巡洋艦となりました。
今回は、その最終回として、その後、日本海軍の終焉までに建造された巡洋艦をご紹介していきます。
最後の水雷戦隊旗艦
阿賀野級巡洋艦 -Agano class cruiser-(阿賀野:1942-1944/能代:1943-1944/矢矧:1943-1945/酒匂:1944-終戦時残存)
Agano-class cruiser - Wikipedia
日本海軍では、高速化する駆逐艦と、その搭載する強力な魚雷に大きな期待を寄せ、 水雷戦隊をその中核戦力の一環に組み入れてきました。そしてこの戦隊を統括し指揮する役目を軽巡洋艦に期待してきたわけです。
その趣旨に沿って建造されたのが、一連の「5500トン級」軽巡洋艦でした。この艦級は初期型5隻(1917年から順次就役)、中期型6隻(1922年から順次就役)、後期型3隻(1924年から順次就役)、計14隻が建造されその適応力の高さから種々の改装等を受け適宜近代化に対応してきましたが、1930年代後半に入るとさすがに特に初期型の老朽化は否めず、艦隊の尖兵を構成する部隊の旗艦としては、砲力、索敵能力に課題が見られるようになりました。
(直上の写真は、「阿賀野級」の就役時の概観。138mm in 1:1250 by Neptune)
「阿賀野級」は、それまでの「5500トン級」とは全く異なる設計で、6650トンの船体に、軽巡洋艦としては初となる15.2cm砲を主砲として採用し連装砲塔を3基搭載していました。この砲自体の設計は古く、名称を「41式15.2cm 50口径速射砲」といい、「金剛級」巡洋戦艦、「扶桑級」戦艦の副砲として採用された砲でした。
同砲は、主砲を単装砲架での搭載を予定していた「5500トン級」軽巡洋艦では人力装填となるため日本人には砲弾が重すぎるとして、少し小さな14cm砲が採用されたという、曰く付きの砲でもあります。しかし。列強の軽巡洋艦は全て6インチ砲を採用しており、明らかに砲戦能力での劣後を避けたい日本海軍は、新造の「阿賀野級」では、この砲を新設計の機装式の連装砲塔で搭載することにしました。
同砲は21000メートルの射程を持ち、砲弾重量45.5kg (14cm砲は射程19000メートル、砲弾重量38kg)。連装砲塔では毎分6発の射撃が可能でした。さらに新設計のこの連装砲塔では主砲仰角が55度まで可能で、一応、対空射撃にも対応できる、とされていました。
(直上の写真は、「阿賀野級」の細部。主砲として採用された41式15.2cm 50口径速射砲の連装砲塔(上段)。高角砲として搭載した長8cm連装高角砲(左下):この砲は最優秀高角砲の呼び声高い長10cm高角砲のダウンサイズですが、口径が小さいため被害範囲が小さく、あまり評価は良くなかったようです。水上偵察機の整備運用甲板とカタパルト(右下))
対空兵装としては優秀砲の呼び声の高い長10cm高角砲を小型化した新型の長8cm連装高角砲2基搭載していました。
雷装としては61cm四連装魚雷発射管2基、艦中央部に縦列に装備し、両舷方向に8射線を確保する設計でした。
航空偵察能力は「5500トン級」よりも充実し、水上偵察機2機を搭載し射出用のカタパルト1基を装備していました。
最大速力は、水雷戦隊旗艦として駆逐艦と行動を共にできる35ノットを発揮しました。
その戦歴
「阿賀野」:同艦は1942年11月に空母機動部隊の直衛戦隊である第10戦隊の旗艦となります。
当時はガダルカナル島の攻防戦の最中で、第10戦隊はニューギニア作戦の上空警戒部隊(第2航空戦隊)の直衛として派遣されました。その後、ガダルカナル撤退作戦支援に参加の後、内地での整備を経て第3艦隊(空母機動部隊)の一員としてトラック、ラバウル方面で活動しました。南東方面部隊に編入されブーゲンビル島沖海戦に参加の後、米機動部隊の艦載機によるラバウル空襲で艦尾に魚雷を受け艦尾を失い、損傷修復のためにトラック島へ回航中に今度は米潜水艦の雷撃で避雷、航行不能となりました。「能代」「長良」等による曳航でトラック島に帰投後、工作艦「明石」による応急修理で航行能力を回復し、1944年1月、今度は本格的修理を行うために内地への回航を目指しますが、トラック泊地を出港した直後、米潜水艦の雷撃を受け沈没しました。
「能代」:1943年7月、第11水雷戦隊の旗艦を一時努めた後、第2水雷戦隊の旗艦に就役、連合艦隊主力を護衛してトラック島に向かいました。第2艦隊に編入されラバウルに進出しますが、米艦載機によるラバウル空襲により第2艦隊主力の多くが損傷しラバウルを引き上げましたが、損傷のなかった「能代」はラバウルに残留しブーゲンビル島への逆上陸作戦に支援隊として出撃しました。
米艦載機が再びラバウル空襲を実施し、残留していた水上部隊はトラックに引き上げます。トラック方面で活動した後、ニューアイルランド島への陸軍増援部隊の輸送任務に出撃しました。同輸送部隊は揚陸完了後に米機動部隊の空襲を受け、「能代」も至近弾5発、直撃弾1発を受け損傷しました。内地で損傷を修理した後、ビアク島救援作戦(渾作戦)に第1戦隊(「大和」「武蔵」)の護衛部隊として参加しましたが、米軍のサイパン来攻で戦局が大きく展開し、作戦は中断され、渾作戦部隊は第1機動艦隊(小沢機動部隊)に合流し、マリアナ沖海戦に参加しました。
1944年10月、レイテ沖海戦に第1遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加。作戦を通じ対空戦闘や米護衛空母部隊の追撃戦(サマール島沖海戦)などに従事しますが、作戦中止後帰投途上で、米機動部隊の艦載機の攻撃を受け、魚雷1発が命中し航行不能となりました。本隊が退避したため、「能代」は米艦載機の集中攻撃を受け、さらに魚雷1本を受け沈没しました。
「矢矧」:1944年10月、竣工と共に第10戦隊に編入され、損傷修復のために内地に回航される途中で米潜水艦尾雷撃で撃沈された同型1番艦「阿賀野」に代わり同戦隊の旗艦となりました。シンガポール及びリンガ泊地周辺で、空母機動部隊主力の第1航空戦隊(空母「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」)と共に訓練の後、マリアナ沖海戦に参加。第1機動艦隊主隊である上記の第1航空戦隊の直衛として戦闘に従事しました。
レイテ沖海戦では、第1遊撃部隊(栗田艦隊)の所属し、シブヤン海海戦で米機動部隊の艦載機の空襲により至近弾を受け艦首に穴が開く損傷を受けますが、その後も戦列に止まり、ついで米護衛空母部隊とのサマール島沖海戦にも参加し、米護衛空母を追撃中に護衛の米駆逐艦の砲弾を被弾するなど、さらに損傷を受けました。海戦からの帰途でも、米艦載機の空襲で至近弾を被弾しています。
海戦後、旗艦「能代」を失った第2水雷戦隊に編入され、栗田艦隊の残存主力(「大和」「長門」「金剛」)と共に内地に帰還します。(その途上、米潜水艦の雷撃で「金剛」が失われています)
損傷回復後、1945年4月、「矢矧」以下の第2水雷戦隊は、米軍の沖縄侵攻を受けて天一号作戦に出撃します。この作戦は、いわゆる「大和」以下の沖縄海上特攻作戦で、日本海軍稼働水上艦艇による最後の組織的作戦と言っていいでしょう。「矢矧」は、作戦艦隊旗艦「大和」に次ぐ大型艦であった為、米艦載機の集中攻撃を受け、第一派の空襲で魚雷を2発受けて航行不能となり、「大和」以下の主隊から落伍してしまいました。続く第二波の空襲でさらに命中弾が相次ぎ、最終的には魚雷6本(7本かも)爆弾10発以上を被弾して、沈没しました。
「酒匂」:1944年11月に竣工し、第11水雷戦隊旗艦となりました。この戦隊は新造艦の早期戦線投入と兵員の即成を主任務とした部隊でした。
上記「矢矧」が参加した1945年4月の天一号作戦には、「酒匂」も参加する予定でしたが、直前に参加は取り止めとなりました。
以降、既に、戦局は日本海軍の水上艦艇の作戦行動を許す状況ではなく、「酒匂」も空襲の相次ぐ呉から舞鶴に根拠地を移し、同地で終戦を迎えました。
終戦後は武装を撤去し、特別輸送艦に指定され、外地からの復員輸送に従事しました。
その後、戦艦「長門」など共に、米軍の「クロスロード作戦」の標的艦となり、ビキニ環礁での核実験に供され沈没しました。
このように、同級は水雷戦隊旗艦として設計されながらも、戦線に投入された時点では航空主導の情勢に戦術が移行しており、そのような水上艦艇による戦闘機会はごく稀で、「阿賀野」のブーゲンビル島沖海戦、「能代」と「矢矧」によるサマール島沖海戦など、数えるほどでした。
潜水艦隊旗艦のはずが・・・
軽巡洋艦「大淀」-Oyodo- (1943-終戦時、横転擱座状態で残存)
Japanese cruiser Ōyodo - Wikipedia
設計と戦歴
日本海軍は米海軍を仮想敵とし、艦隊決戦には、両者の物量の差をを勘案した場合、太平洋を渡洋してくる米主力艦部隊に対する漸減邀撃作戦を展開し、ある程度その戦力を削いだ上で主力艦同士の決戦に移行する必要があるという構想を立てていました。
潜水艦はその邀撃の重要な担い手で、その潜水艦部隊を指揮、誘導する旗艦として有力な航空索敵能力を持ち強行偵察が可能な偵察巡洋艦の建造を計画していまいした。その構想の元「大淀」は建造されました。
(直上の写真は、「大淀」の概観。就役時ではなく、連合艦隊旗艦への転用以降の姿を現しています。153mm in 1:1250 by Neptune)
当初設計案では航空偵察能力に重点がおかれ、主砲も魚雷も搭載しない設計でしたが、その後、強行偵察を考慮し主砲のみ装備することとなりました。主砲には、本稿前回でご紹介した「最上級」巡洋艦が竣工当初搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔を転用することが決まり、これを2基搭載しました。ja.wikipedia.org
この砲は27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。
75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありました。
(直上の写真は、「大淀」の主要部。主砲:「最上級より転用された3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔(上段)。高角砲として搭載された長 10cm高角砲(左下)。艦後部の航空艤装:就役時には、高速水上偵察機「紫雲:の射出用に、艦後部の航空艤装甲板に甲板のほぼ全長に匹敵する長大なカタパルトを装備していました(右下))
併せて対空砲として、日本海軍最優秀対空砲として評価の高い長10センチ高角砲を盾付きの連装砲架で4基、巡洋艦として唯一搭載していました。
その主装備である航空偵察には、当初、新型の長大な航続距離を持ち、戦闘機も振り切ることができる高速を発揮できる水上偵察機「紫雲」が予定され、その運用のために、「大淀」は艦中央に航空機格納庫を持ち、さらにその後部に呉式2式1号10型という形式の圧縮空気型カタパルトを搭載していました。このカタパルトは6tまでの機体を40秒間隔で射出することができましたが、全長44メートルの巨大なものであり、大淀も当初、艦の後部約3分の1を割いて、このカタパルトを巨大なターンテーブルに搭載していました。
しかし1943年の就役時点で、「紫雲」が想定の性能に到達せず、また戦術が航空戦力主導に移行したことから、想定された主力艦部隊同士の決戦とその前段としての潜水艦による漸減邀撃が成立しなくなっており、就役当初は輸送任務、あるいはその支援に従事しました。
その後「大淀」は航空機格納庫を会議室や通信機器の収納スペースに改造、大型カタパルトを通常のカタパルトに変更するなどの手が加えられ、1944年5月から、指揮専用艦として連合艦隊旗艦となりました。
しかし連合艦隊の指揮専用艦としては、司令部施設が狭く、1944年9月、連合艦隊司令部が陸上に移ると、「大淀」は第3艦隊(空母機動部隊:小沢艦隊)に編入され、レイテ沖海戦に参加します。「大淀」は当初、小沢機動部隊の艦隊旗艦を予定されていましたが、小沢長官の「空母機動部隊の指揮は空母で」という希望で旗艦は「瑞鶴」となりました。
米艦載機との交戦で、「大淀」は小型爆弾などを被弾しますが、大きな損害はなく、主砲・高角砲を動員して対空戦闘に持ち前の高い対空戦闘能力を発揮して活躍しました。やがて旗艦「瑞鶴」が被弾傾斜し指揮が困難になると、小沢長官は「大淀」に移乗し、指揮を続けました。
海戦後、奄美大島に帰着し艦隊が解隊された後、「大淀」はフィリピン方面に進出します。途中、砲弾補給などを受けながらリンガ泊地に移動。次いで第2水雷戦隊旗艦となり、ミンドロ島での戦闘支援のための礼号作戦に参加します。この際、米軍機の夜間爆撃で爆弾2発を被弾しますがいずれも不発弾でした。この作戦は第5艦隊(志摩中将)隷下の第2水雷戦隊司令官木村昌福少将(キスカ島撤退作戦に指揮など、最近になって、評価の高い指揮官ですね)の指揮により実施されましたが、木村司令官は作戦直前に旗艦を駆逐艦「霞」に変更しています。水雷戦隊に新加入の「大淀」より水雷戦隊時代から馴染みのある艦を選んだ、と言われていますが、いずれにせよ、投入された部隊は残存艦艇の寄せ集め、でした。「帝国海軍の組織的戦闘における最後の勝利」とも言われますが、実際の戦果はそれほど大きくはなく、さらに既に局地戦での「勝利」が、戦況に大きな影響を与えられる状況ではありませでした。
その後、北号作戦(南西方面に残置された残存稼働艦艇による本土への物資輸送作戦)に参加して内地に帰還しました。
1945年3月から7月までの数次の米艦載機による呉空襲で、当初は対空戦闘を実施したものの、複数弾を被弾し、最後は横転着底した姿で、終戦を迎えています。
(「大淀級」は計画当初は2隻建造される予定でした。2番艦は「仁淀」に艦名も決まっていたようです。上の写真は「大淀級」の2隻)・・・・まあ、これも模型の世界ならではの楽しみ、と言うことで・・・。
「香取級」練習巡洋艦 -Katori Class Cruiser- (香取 :1940-1944/鹿島 :1940-終戦時残存/香椎 :1940-1945)
Katori-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「香取級」の就役時の概観。103mm in 1:1250 by Neptun)
「香取級」練習巡洋艦は、それまで日露戦争時代の装甲巡洋艦を練習艦任務に用いていた日本海軍が、初めて設計した練習艦任務に特化した巡洋艦です。350名の少尉候補生を収容できるよう、商船形式の船体を採用することにより居住性に配慮された広い空間を有していました。反面、武装、速度は控えめで、14センチ連装砲2基と12.7センチ連装高角砲1基、連装魚雷発射管2基、それに加え水上偵察機射出用のカタパルト1基を有し、最高速力は18ノットでした。
(直上の写真は、「香取級」の細部。主砲として14cm砲の連装砲塔を搭載(上段)艦橋前にはおそらく5cm礼砲が再現されています。連装魚雷発射管(左下)。艦尾の高角砲と主砲(右下))
同級3隻のうち、実際に練習艦任務に従事する機会があったのは「香取」「鹿島」の2隻で、両艦は練習艦隊を組み1935年に一度だけ練習航海を行いました(昭和15年度練習航海)。
太平洋戦争開戦以降は、その広い船内と高い居住性から、方面警備艦隊旗艦、潜水戦隊旗艦などに用いられました。
その戦歴
「香取」:太平洋戦争開戦時には、「香取」は潜水艦戦を総覧する第6艦隊旗艦を務めてマーシャル諸島クェゼリン環礁に進出し、そこから真珠湾作戦に参加した配下の潜水艦の指揮を取りました。同環礁に停泊中に、米空母部隊(「エンタープライズ」「ヨークタウン」)の空襲を受け、至近弾数発を受け損傷、艦載機の機銃掃射で第6艦隊司令長官(清水光美中将)が負傷しています。内地での損傷修復後、トラック島に進出し、そこから潜水艦戦の指揮を取りました。その後もトラック島、クェゼリン環礁、ルオット島などに泊地を変えながら、一貫して第6艦隊旗艦を務めました。
1944年2月、第6艦隊旗艦の任を解かれ、海上護衛総隊に編入され、トラック島から内地に向かおうと準備する最中、米機動部隊のトラック空襲に遭遇。多数の爆弾と魚雷を受け、大火災を起こしたところを、米水上艦艇の砲撃で沈没させられました。
「鹿島」:太平洋戦争開戦時には、内南洋警備を担当する第4艦隊(井上成美中将)の旗艦を務め、トラック島からギルバート諸島攻略、ウェーク島攻略、ラバウル占領などの諸作戦を指揮しています。
その後、第4艦隊旗艦としてラバウルに進出し、珊瑚海海戦を指揮、海戦後再びトラック島に戻りガダルカナル島での飛行場建設などの指揮を取りました。その後、ニューギニア・ソロモン方面を担当する第8艦隊の新設により、第4艦隊は本来の中部太平洋警備の任務に戻り、「鹿島」はトラック泊地、クェゼリン環礁を移動しながら、輸送支援任務等に当たりました。
第4艦隊旗艦を軽巡洋艦「長良」に譲った後、「鹿島」は練習戦隊に一旦編入され輸送任務や練習任務にあたりました。
1945年、新編の第1護衛艦隊第102戦隊の旗艦となり、対潜掃討艦として対空・対潜兵装を強化し、海上輸送の護衛任務に従事し、終戦を迎えました。
(「鹿島」と「香椎」は対潜掃討艦への改造を受けました。直上の写真は対潜掃討艦としての「鹿島」の概観 by Delphin)
(直下の写真は「鹿島」の主要改造部:艦橋周り:対空機関砲を追加(上段)。魚雷発射管を撤去し、高角砲を設置(左下)。艦尾には対潜戦闘用の爆雷戦装備を搭載(右下))
戦後は、武装を撤去し、便乗者用の仮設居住施設を設置するなどの改装を施し、12回の復員者輸送に活躍しました。
「香椎」:「香椎」は「香取級」練習巡洋艦の中で唯一就役後一度も練習任務につくことなく、実戦に投入されています。太平洋戦争開戦時は南遣艦隊(小沢治三郎中将)旗艦としてサイゴンにありました。開戦後、同艦隊旗艦は重巡洋艦「鳥海」に変更されましたが、「香椎」は同艦隊に留められ、上陸支援、輸送支援、警備活動などに従事しました。
(対潜掃討艦となった「鹿島」と「香椎」)
一連の南方作戦終了後、「香椎」は第1南遣艦隊の旗艦に復帰し、シンガポールにあって同方面の輸送支援や警備に従事しました。
一旦内地に帰還し整備後、「香椎」は海上護衛総司令部部隊に編入され、前出の「鹿島」同様、対潜掃討艦への改造を受け、対空・対潜戦闘能力を強化しました。この改造は魚雷発射管を撤去し、対空砲を設置、艦尾の司令官室の爆雷庫への改造、などでした。
この改造後、「香椎」は第一海上護衛隊に編入され、主として内地とシンガポール間の航路を往復し輸送船団の護衛任務につきました。これらの護衛任務は各艦が船団司令部につど編入されるという形式で運用されており、その編成は流動的なものでした。
やがて固定編成の第101戦隊が編成されると「香椎」はその旗艦となり、内地とシンガポール間の輸送護衛を担当します。1945年1月仏印サン・ジャックから内地に向かうヒ86船団を護衛中に南シナ海に侵入していた米機動部隊の艦載機の空襲を受け「香椎」は爆弾5発、魚雷2本を受け沈没しました。
(直下の写真は、ヒ86船団護衛についた第101戦隊(上段):「香椎」を旗艦とし、海防艦「鵜来:鵜来型海防艦」「大東:日振型海防艦」「海防艦27号」「海防艦23号」「海防艦51号」(いずれも丙型海防艦)で構成されていました。下段は、日振型海防艦(奥)と丙型海防艦(手前)を比較したもの:海防艦は、その量産性を求められたため、建造時期が後になるほど次第に艦型が小型化、直線化し簡素化してゆきます)
余談ですが、光岡明さんの「機雷」という小説は、冒頭、このヒ86船団の話から始まります。主人公は海防艦に乗り組む中尉(だったかな)であり、彼は「香椎」の沈没を目の当たりにします。
実はこの小説、私の最も好きな小説の一つです。「海防艦」が冒頭現れるのもその魅力の一つですが、主人公が終戦を挟んで静かに生きてゆく姿に感動します。興味のある方は是非。
海防艦という艦種
海防艦(新海防艦と言った方がいいでしょうか)は、実は筆者が最も好きな艦種の一つです。華々しい活躍こそありませんが、来る日も来る日も船団に寄り添って、目を真っ赤にしながら海面や空を通る黒点に目を凝らす、その様な正に海軍のワークホースとでも言うべき姿に、いつも胸が熱くなるのです。
本稿でも、下記の回に少しだけ登場してもらいました。本稿は八八艦隊計画を具体化した辺りから、少し架空戦記っぽい手触りになってゆくのですが、下記もその体現化と受け止めて楽しんでいただければ、と思います。
今回は、初稿では、海防艦はもっと小さな扱いだったのですが、やはり思いが募って、結局、新海防艦のご紹介的なミニコーナーにしてしまいました。
(直上の写真は、甲型海防艦:「占守型」(手前)と「択捉型」(奥))
(直上の写真は、甲型海防艦「占守型」の概観。64mm in 1:1250 by Neptune: 平射砲を主砲とし、なんとなく平時の警備艦の趣があると思いませんか?)
(直上の写真は、甲型海防艦「択捉型」の概観。64mm in 1:1250 by Neptune: 「占守型」と外観位は大差はありません。南方航路の警備・護衛を想定し、爆雷の搭載数が定数では「占守型」の倍になっています)
当初、海防艦は、北方で頻発していた漁業紛争への対応を目的として整備されました。漁業保護、紛争解決に主眼が置かれたため、武装は控えめで、高速性も求められないかわり、経済性が高く長い航続力を有していました。こうした経済性と長い航続力は、船団護衛には最適で、ほぼ北方専用に設計された「占守型」の設計を引き継いで、南方での運用も視野に入れた「択捉型」が建造されました。国境での紛争解決等を想定したため、主砲は平射砲を装備し、南方の通商路警備をもその用途に含めたため若干の対潜装備を保有していました。870トンの船体にディーゼルエンジン2基を主機として搭載し、19.7,ノットの速度を出すことができました。
乙型海防艦:甲型改海防艦(「御蔵型:同型8隻」「日振型:同型9隻」「鵜来型:同型20隻」)**実は設計時には「乙型」と言う分類でしたが、完成時には「甲型」に分類されました。従って、乙型海防艦は記録上は存在していないかもしれません。しかし明らかに設計の主目的等が変更されているので、なぜ、同分類としたものか疑問です。どなたか、理由をご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。とりあえず、便宜的に「甲型改」とでも呼んでおきましょうか。「甲型改」は正式名称ではないので、ご注意を。
(直上の写真は、甲型改(乙型)海防艦:「御蔵型」(手前)と「日振型」(奥):「日振型」には建造工程を簡素化した準同型艦の「鵜来型」がありました)
(直上の写真は、甲型改(乙型)海防艦「御蔵型」の概観。63mm in 1:1250 by Neptune: 主砲が高角砲となり、艦尾部の対戦兵器が充実しています。この艦級のあたりから、船団護衛の専任担当艦の色合いが濃くなってゆきます)
(直上の写真は、甲型改(乙型)海防艦「日振型」の概観。63mm in 1:1250 by Neptune.:基本的な外観は「御蔵型」と変わりませんが、建造工数の簡素化が図られ、工数が57000から30000へと大幅に減少、工期が9ヶ月から4ヶ月に短縮したと言われています)
戦争が深まるにつれ、南方の通商路での船舶の戦没が相次ぎ、航路護衛には潜水艦、航空機に対する戦闘力を求められるようになり、主砲を高角砲に変更、あわせて対潜装備が充実してゆきます(乙型海防艦=甲型改海防艦「御蔵型:同型8」「日振型:同型9」「鵜来型:同型20」)。あわせて、数を急速に揃える要求から、艦型は次第に小型化し、建造工程の簡素化が模索されます。写真を掲げた「日振型海防艦」は、940トンの船体に、12cm高角砲を艦首に単装砲架で、艦尾に連装砲架で装備し、加えて25mm3連装機銃を2基、艦尾に爆雷投下用の軌条を二本、爆雷投射機を2基搭載し、爆雷120個を搭載していました。ディーゼルエンジン2基を主機として、19.5ノットの速度を出すことができました。ヒ86船団の護衛隊には「大東」が参加しており、「鵜来型」のネームシップである「鵜来」は準同型艦でした)
(直上の写真は、「丙型海防艦」の概要。54mm in 1:1250 by Neptune:簡素化はさらに進み、艦型が直線的になっています。船体は小型になり、武装は高角砲が1門減りましたが、対潜装備は投射機など充実しています)
戦争後半、米潜水艦の跳梁は激化し、海防艦の量産性はより重視されるようになります。「丙型海防艦」では艦型の小型化、簡素化がさらに進み、艦型もより直線を多用したものになってゆきます。エンジンも量産性を重視して選択され、「日振型」同様ディーゼルエンジン2基の仕様ながら、速力は16.5ノットに甘んじました。甲型・乙型よりも一回り小さな745トンの船体を持ち、武装は12cm高角砲を単装砲架で艦首、艦尾に各1基、25mm3連装機銃を2基を対空兵装として搭載し、爆雷投射機を12基、投下軌条を一本装備して、爆雷120個を搭載していました。同型艦は56隻が建造されています。艦名はそれまでの様に日本の島嶼名ではなく、番号に改められました。「丙型海防艦」は全て奇数の艦番号が割り当てられました。ヒ86船団の護衛隊には「23号艦」「27号艦」「51号艦」がが参加していました。
(直上の写真は、「丁型海防艦」の概要。56mm in 1:1250 by Neptune:「丙型」と武装等は変わりませんが、主機が変更になり、煙突の位置、形状が変わっています。排水量は変わりませんが、やや全長が長くなっています)
再三記述していますが、海防艦には量産性が求められましたが、一方でディーセルエンジンの生産能力にも限界があることから、上掲の「丙型海防艦」と並行して蒸気タービンを機関として搭載した「丁型海防艦」も建造され、こちらは偶数番号が割り当てられました。同型艦は67隻。船体の大きさ、武装には「丙型」「丁型」で大差はありませんが、主機の違いから、速力は「丙型」よりも早い17.5ノットでしたが、ディーゼルに比べると燃費が悪く、「丙型」のほぼ倍の燃料を搭載しながら、航続距離が2/3程度に下がってしまいました。
(直上の写真は、「海防艦」の艦級瀬揃い。手前から「占守型」「択捉型」「御蔵型」「日振型」「丙型」「丁型」:実際には「日振型」の準同型「鵜来型」がありました)
海防艦は171隻が建造され、71隻が失われました。
再び、「香取級」練習巡洋艦と若干模型の話
「香取級」は、時局柄、本来の建造目的であった練習艦としての平時業務はほとんど従事できなかった不幸な艦級と言えるでしょう。
しかし、戦時にはその低速から、確かに水上戦闘艦としての華々しい任務には不向きでしたが、その余裕のある船型を生かした後方司令部としての任務や、低速な輸送船団に寄り添う護衛任務などに活躍しました。
(もう一つ余談。どうかお付き合いを。 直上の写真は、「香取級」の就役時(左列:by Neptune) と対潜掃討艦への改造時(右列:by Delphin)。ここでお伝えしたいのは、同スケールと言えどもメーカーが異なると、かなり差異が生じる、という見本ととなれば、と。外観の仕上げは、おそらく明らかにNeptune社の方が優っています。その分、価格も高価です(ほぼ倍?)。しかし、では手放しでNeptuneが優っているかというと、そうでもないかと思います。下段の写真ではその裏面を示しています。右列の裏面写真(Delphinのモデルの裏面)に左列では認められないパーツの接合穴が見ていただけると思います。つまりDelphin社のモデルは、パーツへの分割が行いやすく、パーツ取り、改造等には向いていると考えています。筆者も何かを制作したい、改造したい、などの際には、必ずDelphin社製の近しいモデルが入手できそうかを検討します。上記のように価格も手頃なので、大変ありがたい。つまり、純粋に1:1250スケールの艦船コレクションを楽しみたい方には、可能な限りNeptune(系列のNavis社も含めて)で統一されることをお勧めします。しかし、仕上がりももちろん大事だけど、ちょっと色々と手を加えたりして遊びたい方(筆者がそうなのですが)には、そのベースとしてDelphin社のモデルはとてもありがたい相棒になりうる、と考えています、ご参考になれば。*今回、本当に書きたかったのは、これかも)
一応、今回で日本海軍の「既成の」巡洋艦についてのミニ・シリーズは終了です。
「既成の」という微妙は表現した理由は、数回前にご紹介した防空巡洋艦のような架空艦や、マル六計画での計画艦のストックや建造途上モデルがいくつかあるので、「それらをまとめて」の番外編を設けてもいいかな、と考えているからです。そちらは、また準備が整い次第、随時ということで。
今回は日本海軍の巡洋艦小史の番外編、ということで、未成艦・架空艦のご紹介です。
日本海軍は、これまでご紹介したように、太平洋戦争には「天龍級」(2隻)、「5500トン級」(14隻)の軽巡洋艦、「古鷹級」(2隻)、「青葉級」(2隻)、「妙高級」(4隻)、「愛宕級」(4隻)、「最上級」(4隻)、「利根級」(2隻)の重巡洋艦、「香取級」(3隻)の練習巡洋艦の陣容で臨みました。大戦中に「阿賀野級」(4隻)、「大淀」の計5隻の軽巡洋艦を就役させました。
これに加えて、重巡洋艦2隻を建造中でしたが、これらはミッドウェー海戦の敗北、主力空母機動部隊の壊滅により、急遽、転用され軽空母として建造されることとなりました。これ艦級は「伊吹級」軽空母として知られています。結局、この軽空母は重巡洋艦からの転用工数がかかりすぎるところから、軽空母としても未成に終わりました。
今回、最初のご紹介は、この「伊吹級」が当初の計画のまま重巡洋艦として建造された場合、を再現した物です。
未成艦:「伊吹級」重巡洋艦(改鈴谷級重巡洋艦) ー同型艦2隻 (伊吹、鞍馬)
Ibuki-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真:「改鈴谷級」重巡洋艦の概観:163mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)
史実上、日本海軍が建造に着手した最後の重巡洋艦です。「伊吹級」重巡洋艦と言う呼称の方が通りが良いかもしれません。また、「改鈴谷級」の名称の通り、「鈴谷級」巡洋艦の改良型で、後部マストの位置の違い程度しか外観上の区別はありません。装備上では「鈴谷級」の3連装魚雷発射管4基から4連装魚雷発射管4基に、雷装が強化されています。着工後、航空艤装を排して5連装発射管5基装備にさらに雷装を強化したと言われています。
(直上の写真:「最上級」(上段)と「改鈴谷級=伊吹級」(下段)の比較。建造期間を短縮するために、「最上級」の設計を踏襲しています。相違点は後部マストの位置と後橋でしょうか?下の写真:「最上級(上)と「改鈴谷級=伊吹級」(下)の艦型比較)
1番艦は「伊吹」と命名され、1942年4月に起工され、1943年5月に進水、その後、ミッドウェー海戦での機動部隊主力空母の喪失を受けて急遽航空母艦への改造が決定されましたが、既に重巡洋艦として進水を迎えていた本艦の転用改造の工事は工数が多く、工事途中で終戦を迎えています。
今回入手した3D printingモデルは、「改鈴谷級」の原案をモデル化したもので、航空艤装は装備したままの姿を再現したものです。
制作社は、本稿で紹介した艦船では日本海軍の「5500トン級」軽巡洋艦や「レキシントン級」巡洋戦艦などでお世話になっているTiny Thingamajigsで、その細部の再現等には信頼を置いています。
(直上の写真:「改鈴谷級」重巡洋艦の概観:下地処理をした状態です。この後、塗装をし、マストのトップ部分をプラロッドなどで仕上げれば完成、かな?)
(直上の写真:今回はSmooth Fine Detail PlasticとWhite Natural Versatile Plasticの2素材で出力を依頼しました。2隻共、重巡洋艦仕様で仕上げていこうか(その場合には「伊吹」と「鞍馬」かな?)、あるいは1隻は条約型巡洋艦の名残りという設定で、主砲を3年式60口径15.5cm砲として、軽巡洋艦仕様で仕上げてみましょうか?(その場合には、「川」の名前を考えねば))
架空艦:「九頭竜級」軽巡洋艦ー「改鈴谷級:伊吹級」の軽巡洋艦仕様仕上げ
(直上の写真:「改鈴谷級=伊吹級」の派生形「九頭竜級」軽巡洋艦の概観:163mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)
前述のように、今回、3D printingモデルを2点入手したため、一つは条約型巡洋艦の延長として「改鈴谷級」を軽巡洋艦仕様で完成させた場合を想定した仕上げにしてみました。
日米間に不穏な空気が漂い始めた頃、艦隊決戦において漸減戦術の一つの要と想定されていた水雷戦隊による魚雷攻撃を率いるべき軽巡洋艦群の多くが既に旧式化しており、旗艦巡洋艦の整備もまた急務だった、というような想定から、「改鈴谷級:伊吹級」重巡洋艦の後続艦を軽巡洋艦仕様で完成させた、というようなカバー・ストーリでしょうか?
主砲は、もちろん「最上級」条約型巡洋艦に搭載されていた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔とし、これを「最上級」に準じて5基、15門搭載します。さらに雷装は「改鈴谷級」に準じ4連装魚雷発射管4基とします。
(直上の写真および直下の写真:「改鈴谷級=伊吹級」重巡洋艦(上段)と「九頭竜級」軽巡洋艦(下段)の比較。同一設計の船体に搭載主砲が異なります。下の写真:「改鈴谷級=伊吹級」重巡洋艦(上段)と「九頭竜級」軽巡洋艦(下段))
主砲の話:3年式60口径15.5cm砲か3年式50口径20cm砲か
3年式60口径15.5cm砲の諸元は、弾重量:55.9kg、最大射程27,400m、射撃速度毎分5発、これを3連装砲塔5基に搭載していましたので、1分あたりの発射弾重量は約4.2トン。
一方、3年式50口径20cm砲の諸元は、弾重量:125.9kg、最大射程29,400m、射撃速度毎分3発、これを連装砲塔5基に搭載していましたので、1分あたりの発射弾重量は約3.8トン。
両者を比較すると、単位時間あたりの射撃回数、投射弾量、発射弾数共に15.5cm砲の方が上回り、1発当たりの弾重量、つまり命中弾が出た場合の打撃力を除くと15.5cm砲の方が有利とも考えられるわけで、どちらを主砲として採用するかは、用兵者の判断ということになります。
筆者としては「手数」の多いほうを採用するのも面白いと考えるのですが、日本海軍は条約失効時に「最上級」でわざわざ15.5cm砲を20cm砲に換装していますので 、命中弾当たりの打撃効果を取ったということでしょうね。
この艦級が旗艦となって水雷戦隊を率い、ソロモン海あたりで夜戦に投入されていたら、どんな活躍をしたのでしょうね?ちょっと見てみたい。
ミニ・コラム(その1):艦名の話
日本海軍では巡洋艦の場合、一等巡洋艦(大型巡洋艦・重巡洋艦)には「山」の名前を、それ以下の巡洋艦には「川」の名前を命名する、という大原則が用いられてきました。
その顰みに倣うと、「改鈴谷級:伊吹級」の3, 4番艦を水雷戦隊旗艦として軽巡洋艦仕様で仕上げた、という想定なら、重巡洋艦らしく「山」系の艦名でも良かったのですが、設計を分けた、というところで、軽巡洋艦らしく「川」系の艦名にしてみました。「九頭竜」「四万十」という感じなんですが、どうでしょうか?あまりにも「架空艦」ぽいかな、と筆者も思っているのですが、「鶴見」「黒部」というのも考えてはみたのですが、いかにもな感じもしまして・・・。
ミニ・コラム(その2):排水量の話
艦船の大きさは排水量で語られることが多いのですが、基準排水量、常備排水量、満載排水量など、いくつかの排水量定義があり、ちょっと混乱してしまいます。少しここで整理を。
艦船は、その船体や装備の重量以外に、乗組員の数(定数かそれ以外の状況か)、弾薬の積載量、燃料、食糧、水など、活動に必要な消耗品を積載しています。
まず、「満載排水量」。これはその表現の通り、乗組員定数、弾薬、食糧、水、燃料などをいっぱいに積載した場合の重量を表現しています。近年、多くの海軍が艦船の諸元としてこの数字を公表しているようです。
「常備積載量」。これは満載積載量から、食糧、燃料、水などの消耗品を2/3の状態にした状況での重量で、主として戦場に到着した状態(戦闘直前)を表す数値として使われていました。国によって若干消耗品にかける係数が異なることがあったようです。
そして「基準排水量」。これは主として軍縮条約(ワシントン・ロンドン体制)の制限の定義に用いられた排水量の定義です。上記の満載排水量から燃料・水を差し引いた重量とされています。これは、軍縮条約の制限に「平等性」を付与するために、想定戦場や艦船の活動範囲を広域に想定する(つまり、燃料や予備缶水の量が多い)国の不利を排除するために用いられた定義、と言えます(具体的には英・米の不利防止ですね)。軍縮条約の発効しない状況では、あまり有効な定義とは言えず、現在ではこの定義で使用している国はないようです。日本の海上自衛隊では艦船の諸元の数値として「基準排水量」という名称を使用していますが、この場合の「基準排水量」には乗組員、食糧、弾薬、水、燃料などが全て含まれておらず、いわゆる建造時の艦船の重量、を表現する数値となっています。
日本海軍の防空巡洋艦の計画ーマル5計画(あるいは改マル5計画)
日本海軍には「815号型軽巡洋艦」という防空巡洋艦の設計案が昭和17年度艦船補充第1期計画(通称マル5計画)において計画されていました。
815号型軽巡洋艦は、主力艦直衛の防空巡洋艦という設計で、5800トンの船体に65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)を連装砲塔で4基搭載するという設計だったようです。
「マル5計画」自体がミッドウェー海戦の敗北で見直され、この計画は立ち消えになったのですが、その主要な仕様は、「秋月級」駆逐艦へと継承されたと考えられます。
さて、今回ご紹介する「防空巡洋艦」は「阿賀野級」軽巡洋艦よりはひと回り小ぶりな外観をしており、上記の「815号型軽巡洋艦」では計画に盛り込まれていた水上偵察機2機搭載の航空艤装や魚雷装備が廃止された代わり65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)を連装砲塔で12基も搭載するという、より艦隊直衛に特化した設計になっています。日本海軍が常に拘った雷装が放棄された辺りの割り切りも含め、やはり「架空艦」と言っていいように思います。www.shapeways.com
ということで、まずは艦級名の話を。
同級は艦隊防空の専任艦として設計され、**年度艦船補充計画(正史でいけば17年度ですが、本稿のやや後ろ倒しで始まった太平洋戦史に則れば19年度でもいいのかも)で、10隻の建造が決定されました。慣例として二等巡洋艦(軽巡洋艦)には、「川」の名前が与えられたとこところから、1番艦には「高瀬」の名が与えられました。以後、同型艦には「鳴瀬」「綾瀬」「早瀬」「平瀬」「嘉瀬」「初瀬」「白瀬」「渡良瀬」「水無瀬」などが予定されていました。
ということで、艦級名は「高瀬級」
ここからは「架空艦」ならではの「if」ストーリー。
「高瀬級」軽巡洋艦では、対空砲兵装の充実のために、前述のように航空艤装や雷装が廃止され、他の構造物はできるだけ軽量化が図られ、例えば艦橋構造は、駆逐艦の様な簡素な塔構造とされています。
(直上の写真は、防空巡洋艦「高瀬級」の概観を示したもの。138mm in 1:1250 C.O.B Constructs and Militarys製 素材はSmooth Fine Detail Plastic)
(直上の写真は、「高瀬級」と「阿賀野級」の概観比較。「阿賀野級」が一回り大きい。「阿賀野級」141mm in 1:1250 by Neptune :「高瀬級」では、上部構造物が簡素化され、軽量化への工夫が見て取れます)
(直上の写真は、「高瀬級」と同様の設計思想で建造された「秋月級」防空駆逐艦の概観比較。
やはり軽巡洋艦だけあって「高瀬級」の大きさが目立ちます。艦橋構造は類似しているのが見ていただけると思います。「秋月級」防空駆逐艦: 117mm in 1:1250 by Neptune)
65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)
同級の最大の特徴は、その主砲を、高角砲機能を中心に据えた両用砲としたところにありますが、搭載する65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)は、日本海軍の最優秀対空砲と言われた高角砲で、18700mの最大射程、13300mの最大射高を持ち、毎分19発の射撃速度を持っていました。これは、戦艦、巡洋艦、空母などの主要な対空兵装であった12.7cm高角砲(八九式十二糎七粍高角砲に比べて射程でも射撃速度でも1.3倍(射撃速度では2倍という数値もあるようです)という高性能で、特に重量が大きく高速機への対応で機動性の不足が顕著になりつつあった12.7cm高角砲の後継として、大きな期待が寄せられていました。
同様の艦隊防空と言うコンセプトで米海軍が建造した「アトランタ級」軽巡洋艦の主砲であったMk 12 5インチ両用砲と比較してみると、射程でも射高でもこれを上回り、射撃速度はほぼ同等、しかし口径の差から弾丸状量が長10cm高角砲の13kgに対し、5インチ砲は25kgとほぼ倍で、両用砲搭載艦同士の砲戦となった場合には、射程を利用した最大射程での命中弾を期待するしかなく、不利は否めなかったと言わざるを得ないでしょう。
同級の建造と、設計変更
ここからは「架空艦」ならではの「if」ストーリー。
上掲の写真のように、12基の連装対空砲塔を、艦首部に3基、艦中央に6基、艦尾部に3基と、多数配置し対空兵装の充実を目指した「高瀬級」でしたが、しかしどう贔屓目に見ても兵装過多、トップヘビーで、高速で転舵などすると、傾斜が想定以上に大きく、射撃等にも影響が出るなどの事象が発生し、次期改装期には艦首部の1番、および艦尾部の12番砲塔を撤去するなどの対策が検討されていました。未成に終わった5番艦・6番艦では最初から主砲塔を2基減じた設計に変更されていた、とも言われています。
更に、戦況が進むにつれ、水雷戦隊旗艦を務めていた「5500トン級」軽巡洋艦の中から戦没艦が生じ始めます。それ以前に「5500トン級」軽巡洋艦は開戦当時すでに旧式化しており、特にその搭載主砲は旧式な単装砲郭式であり、かつ対空戦闘能力も低く、昼間の出撃では「5500トン級」は 戦闘に耐えないとして、旗艦を駆逐艦に変更する戦隊指揮官も現れるほどでした。これを補うのが「阿賀野級」軽巡洋艦だったのですが数が揃わず、すでに2隻が完成し、6隻が着工、あるいは起工寸前だった「高瀬級」も、この候補として検討され始めます。
しかし、既述のように、同級の主砲、長10cm高角砲は対水上艦戦闘では非力と言わざるを得ず、また水雷戦隊旗艦としては雷装を保有しないのは適性が低いなど、用兵側から、同級の搭載砲等の兵装に対する見直しが要求されます。こうして、「改高瀬級」汎用軽巡洋艦が設計されることになります。
同級は船体や機関など「高瀬級」の基本設計はそのままに、高角砲(両用砲)の搭載数を半分にして、水上戦闘にも耐えるように主砲として3年式60口径15.5cm砲を連装砲塔3基に搭載することが計画されました。
この砲は元々はワシントン・ロンドン体制で重巡洋艦の保有数を制限された日本海軍が、列強の重巡洋艦の8インチ砲にも対抗できるように「最上級」軽巡洋艦の主砲として開発された砲で、「最上級」が条約切れに伴い8インチ砲に主砲を換装した後は、「大和級」戦艦の副砲に転用されました。27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。「最上級」「大和級」では、これを3連装砲塔で搭載していましたが、「高瀬級」の船体に合わせて、新たな連装砲塔が開発されました。
75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありましたが、毎分5発程度の射撃速度では、対空砲としての実用性には限界がありました。
加えて「5500トン級」軽巡洋艦に代わる水雷戦隊旗艦としての運用に期待を寄せる用兵側の強い要求で、魚雷装備が復活され、61cm4連装魚雷発射管を2基、自発装填装置付で搭載することとなりました。
優れた基本設計で、なんとかこれらの要求には応えたものの、この辺りが限界で、流石に航空艤装の搭載は諦めざるを得ませんでした。
(直上の写真は、「改高瀬級=渡良瀬級」軽巡洋艦の概観を示したもの。基本設計は「高瀬級」の設計に準じたものの、射撃管制等により艦橋がやや大型化しているのが分かります。138mm in 1:1250 C.O.B Constructs and Militarys製 素材はWhite Natural Versatile Plastic)
設計決定後、同級の建造は最優先となり、「高瀬級」の建造は4隻でいったん休止されます。こうして建造された1番艦には「高瀬級」の艦名予定リストから「渡良瀬」の名が与えられました。
「渡良瀬級」と命名
艦名は「渡良瀬」「水無瀬」とされました。
本来の計画では、「高瀬級」は10隻が建造される予定で、うち8隻が着工、4隻が「高瀬」「成瀬」「綾瀬」「早瀬」として就役、最も着工の遅かったの2隻が大掛かりな設計変更の末「改高瀬級=渡良瀬級」として建造を優先的に継続され、「渡良瀬」「水無瀬」として完成されました。
着工済みだった残りの2隻は、「渡良瀬級」に準じて設計を変更するには工事が進みすぎており、中間的な位置付けの設計変更での対応を模索する中、戦況の激化で完成されませんでした。
(直下の写真は、「高瀬級」防空巡洋艦(左列)と「渡良瀬級」軽巡洋艦(右列)の主要箇所比較。上段:艦首部の主砲配置の比較。中段:艦橋構造と中央部の対空砲配置の比較(「渡良瀬級」の艦橋が射撃管制等の必要性から大型化しているのが分かります。下段:艦尾部の比較(「渡良瀬級」では魚雷装備が復活されました。艦中央部の上部構造物内に次発装填機構が組み入れれれています)
こうして完成された「渡良瀬級」軽巡洋艦は、兵装面だけをみると「阿賀野級」よりもはるかに強力で、これを「阿賀野級」よりもひと回り小さな船体に搭載し、原型である「高瀬級」同様に船体重心を下げるために極限まで簡素化された上部構造を持ったため、その居住性は劣悪だったろうなあ、と想定されます。それでもやはりトップヘビーは避けられず、そのため次期の改装では6基の高角砲のうち2基を機銃座に換装し軽量化を図るなどの対策が検討されていた、とか。
また、現場の運用場面では、夜戦想定の出撃の場合には、高角砲の砲弾を定数の6割程度に抑えて軽量化を図り出撃した、とも。
(直上の写真では、「渡良瀬級」軽巡洋艦(手前)と「阿賀野級」軽巡洋艦の概観を比較。「渡良瀬級」がひとまわり小さいことがよく分かります。
直下の写真では、両級の主要な部分を比較しています。上段:前部主砲塔と艦橋の配置(「渡良瀬級」の搭載主砲の方が新しく強力です。一方、艦橋は「渡良瀬級」では簡素化され、一見、駆逐艦の艦橋構造のようです)中段:艦中央の構造比較(「渡良瀬級」では航空艤装に代えて対空兵装を充実しています)下段:艦尾部の比較(「阿賀野級」では魚雷兵装は搭載水上偵察機の整備甲板の下に設置されています))
「渡良瀬級」汎用軽巡洋艦の製作
当初から、防空巡洋艦のバリエーション制作の予定で、加工適性の高いWhite Natural Versatile Plastic製のモデルを発注しておきました。
(上掲の写真の奥がm加工適性の高いWhite Natural Versatile Plastic製のモデル。下のリンクは)
併せて、主砲の換装用に、15.5cm連装砲塔も入手しておきました。
(今回使用した3年式60口径15.5cm砲連装砲塔は左)
これらの加工工程が以下です。
まず、上段の写真がオリジナルのモデル。中段では、艦首部と艦尾部の主砲塔群を切除。そして下段では、前後の砲塔群の跡に15.5センチ連装砲塔を搭載、そして小さなパーツをちょこちょこ追加。まあ数時間でこの程度の作業ができちゃうところが、筆者のように時間がない者にとっては(場所もないのですが)、とっても嬉しいところ。(下段写真の少し黄色っぽく見える部分は、砲塔群切除の際にやや削りすぎた上甲板部をパテで補修した跡です)
この後、サーフェサーを塗布し下地処理をした後、塗装しています。まさに「戦時急造艦」ですね。
マル6計画での重巡洋艦
通称マル6計画、正式名称第6次海軍軍備充実計画は、昭和19年(1944年)から25年にかけての7ヶ年間の海軍軍備の整備計画で、その中には重巡洋艦8隻の建造が含まれていました。この計画艦については、マル6計画自体が開戦等があり潰れたため、詳細な資料を見つけることができていませんが、World of Warshipsというゲームに登場する日本海軍の重巡洋艦のほぼ最終形態、集大成「蔵王級」重巡洋艦として登場しています。
(直上の写真:「蔵王級」重巡洋艦の概観:178mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)
World of Warshipsに登場する「蔵王級」重巡洋艦は基準排水量14000トンの大型巡洋艦で、8インチ主砲を3連装砲塔4基、12門搭載し、対空兵装としては長10センチ高角砲の連装砲塔を6基、都合12門搭載、更に雷装としては5連装魚雷発射管を各舷2基、計4基搭載し左右両舷に対し、それぞれ10射線を確保している、という設定です。それまでの日本海軍の重巡洋艦に比べ重装甲を有している設定ですが、速力は34.5ノットを発揮する、という、まさに日本重巡洋艦の集大成として登場しているようです。
(直上の写真:「高雄級」(上段)と「蔵王級」(下段)重巡洋艦の比較:大型化した船体と、コンパクトな艦橋、艦中央部に配置された強力な対空砲がよくわかります。下の写真:「高雄級」(左)と「蔵王級」(右))
最後にせっかくなので、日本海軍の重巡洋艦の艦型の比較をしておきましょう。
(直上の写真:日本海軍の重巡洋艦一覧。下から「古鷹級」「青葉級」「妙高級」「高雄級」「最上級」「利根級」「改鈴谷級=伊吹級」「蔵王級」の順)
(直上の写真は、「超甲巡」の概観。198mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs: マストをプラロッドで追加した他は、(珍しく?)ストレートに組み立てました。元々が素晴らしいディテイルで、手をいれるとしたら「65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲):いわゆる長10センチ高角砲」のディテイルアップくらいですが、少し大ごとになりそうなので、そちらはいずれまた)
65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)の話
65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)は、日本海軍の最優秀対空砲と言われた高角砲で、18700mの最大射程、13300mの最大射高を持ち、毎分19発の射撃速度を持っていました。これは、戦艦、巡洋艦、空母などの主要な対空兵装であった12.7cm高角砲(八九式十二糎七粍高角砲に比べて射程でも射撃速度でも1.3倍(射撃速度では2倍という数値もあるようです)という高性能で、特に重量が大きく高速機への対応で機動性の不足が顕著になりつつあった12.7cm高角砲の後継として、大きな期待が寄せられていました。
上記、射撃速度を毎分19発と記述していますが、実は何故か揚弾筒には15発しか搭載できず、従って、15発の連続射撃しかできなかった、ということです。米海軍が、既に1930年台に建造した駆逐艦から、射撃装置まで含めた対空・対艦両用砲を採用していることに比べると、日本海軍の「一点豪華主義」というか「単独スペック主義」というか、運用面が置き去りにされる傾向の一例かと考えています。
モデルのディテイルアップの話に戻すと、正直にいうと、現時点で筆者にとって満足のいくディテイルが再現された「長10センチ高角砲」は、Neptune社製の「秋月級」駆逐艦に搭載されているものくらいしか、思い当たりません。
実はこれまでにも、本稿では「架空防空巡洋艦」の回などで、同砲は「架空防空巡洋艦」の主砲として登場しています。
同艦は長10センチ高角砲の連装砲塔を12基搭載しており、併せて準同型艦として同回に紹介した「汎用軽巡洋艦」も同連装砲を6基搭載しています。これらも含めディテイルアップのために換装しようとすると、Neptune製の「秋月」を7隻つぶさねばならず、ちょっと現実的な対処法ではない。
既に皆さんもある程度予想がつくと思いますが、筆者の場合、こういう時は「困った時のShapeways 」ということになるのですが、なんと、実は Shapewaysにはちゃんと連装砲塔のセットがあるのです。
16砲塔で1セットですのでこれが2セットあれば、良い、という計算です。
ということで、早速入手してみたのですが、今度はNeptune製「秋月」の砲塔よりかなり小さい。かつ、砲身を自作しなくてはなりません(まあ、砲身の自作の方はプラロッドか真鍮線でチマチマと作れば良いので、時間はかかりますが、なんとかなりそう(楽しいしね)なのですが)。何れにせよ、全砲塔の換装を視野に入れると、少し結論を先延ばし、ということで。
「超甲巡」の話
行きがかり上とはいえ、話が同艦級の搭載した「長10センチ高角砲」に終始しましたが、そもそも「超甲巡」についても少しご紹介しておきましょう。
「超甲巡」とは「超甲型巡洋艦」の略称で、いわゆる「甲型巡洋艦=重巡洋艦」を超える性能の「巡洋艦」を意味します。
マル五計画、マル六計画で建造が計画されたいわゆる「If艦」です。一応、設計スケッチは残っているようなので「未成艦」と言っても良いのかもしれません。3万トン級の船体に30センチクラスの主砲を3連装砲塔で3基搭載し、対空砲は長10センチ高角砲を連装砲塔で8基という強力な火力を誇っています。33ノットの速力を発揮する予定だった、ということだから、空母機動部隊の直営としても活躍できたでしょうね。
そもそもの同艦級の設計構想は、日本海軍の「艦隊決戦」構想の一環として、本稿でも何度も取り上げている「漸減邀撃作戦」での水雷戦隊による夜戦の中核艦とするものでした。
同作戦構想では、敵主力艦隊に対し日本海軍自慢の酸素魚雷を搭載した重巡洋艦部隊、水雷戦隊、総数約80隻を展開し夜戦が展開されます。この際にこれらを総指揮し、あるいは敵主力艦隊の前衛の警戒戦を突破する有力な砲力を有した艦として、当初「金剛級」高速戦艦が当られる予定でした。しかし同艦級は、ご承知のように日本海軍の主力艦の中では最も艦齢が古く、優れた基本設計のために数次の改装を経て、なお一線の高速戦艦として有力な存在ではあったものの、25年の艦齢を考慮すると、これに代わる有力艦級の整備は急務でした。
こうして生まれたのが「超甲巡=超甲型巡洋艦」の設計構想で、水雷戦隊に帯同できる高速性と「艦隊決戦」の仮想敵である米艦隊が急速に整備しつつあった大型の重巡洋艦・軽巡洋艦を凌駕する砲戦力とこの砲戦に耐えられる防御能力を有した艦となる予定でした。
同時期に各国海軍が建造した「シャルンホルスト級」「ダンケルク級」、とりわけ米海軍が建造した「アラスカ級」大型巡洋艦絵を強く意識したもので、6隻が建造される予定でした。
(直上の写真:「超甲型巡洋艦=超甲巡」の新型31センチ主砲(上段)と65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)
その後、海軍戦力の重点が航空優位に移行し、従来の「艦隊決戦」のあり方に変化が現れると、同艦級は「金剛級」高速戦艦同様、その高速性から空母機動部隊の直衛戦力としての期待をも担うことになります。
こうして有力な新設計の31センチ主砲(設計上は「金剛級」の36センチ主砲を凌駕する性能だったと。製造されていないので、実力の程はわかりませせんが)と並び、帝国海軍の最優秀対空砲である「長10センチ高角砲」が搭載されました。
(直上の写真:巡洋艦の艦型比較。下から「改鈴谷級=伊吹級」重巡洋艦、「蔵王級」重巡洋艦、「超甲型巡洋艦=超甲巡」:「超甲巡」の主砲の大きさが目立ちます)
JMSDF: 海上自衛隊 護衛艦発達史
草創期(1952〜1960ごろ)
海上自衛隊の発足と艦艇整備
朝鮮戦争の勃発とともに自衛隊の前身である警察予備隊が発足し(1950年)、日本は再び戦力を保持することとなった。
1952年には海上警備隊が組織され、1954年自衛隊法施行とともに海上自衛隊と名称変更された。
発足当時の目的は、もちろん日本周辺海域の警備活動であり、具体的には、強い南進意向を示すソ連海軍(太平洋艦隊)の特に潜水艦の行動に対し警備行動をとることであったため、対潜能力の充実が求められた。
貸与艦の時代
海上警備隊発足当時、1952年に締結された日米船舶貸借協定に基づき、多数の駆逐艦、護衛駆逐艦、上陸支援艦艇が、米海軍から貸与され、黎明期の海上自衛隊の戦力の中核を構成した。
18隻の米海軍のタコマ級パトロール・フリゲートが貸与された。
18ノットの低速ながら、3インチ単装砲3基、40ミリ連装機関砲2基を装備し、ヘッジホッグ、爆雷投射機8基、爆雷軌条等の対潜装備を搭載。質量ともに草創期の戦力の主力を構成した。(1450トン)
(74mm in 1:1250 Delphin社製のモデルを転用。主砲のみ3D printing makerのSNAFU store製のWeapopn setに換装)
Tacoma-class frigate - Wikipedia
米海軍から貸与された2隻のリヴァモア級駆逐艦(エリコン・メイソン)である。
既に米海軍在籍当時に旧式艦として扱われ、魚雷発射管を撤去して掃海駆逐艦の艦種変更していたが、37ノットの速力を誇り、5インチ単装砲4基、40ミリ四連装機関砲2基、爆雷投射機4基等を装備していた。1600トン。
(85mm in 1:1250 Neptune社製モデルをベースに、模型的には船体中央の魚雷発射管を撤去。主砲塔を3D printing makerのSNAFU store製のWeapopn setの5インチ砲塔に換装、2番主砲塔直後にヘッジホッグ、3番主砲塔前に連装機銃座をそれぞれ追加)
Gleaves-class destroyer - Wikipedia
米海軍から貸与された2隻のキャノン級護衛駆逐艦(アミック・アサートン)で、いずれも長船体タイプである。大戦中に量産された代表的な護衛駆逐艦であり、対空・対潜装備に充実していた。1240トン、速力20ノット、3インチ単装砲3基、40ミリ連装機関砲3基、ヘッジホッグ、爆雷投射機8基等。
(75mm in 1:1250 Neptune製キャノン級をほぼそのまま転用)
Cannon-class destroyer escort - Wikipedia
前述のくす級18隻の貸与と同時に、50隻のLSSL(上陸支援艇)が貸与された。揚陸支援を目的に開発された艦種であるために、喫水が浅く、航洋性に乏しいが、小さな船体の割には大きな兵装を保持していた。300t, 12ノット、40ミリ連装機関砲3基等。
(39mm in 1:1250 Hai製LSSLをほぼそのまま転用)
国産護衛艦 の新造(プレ一次防・一次防)
昭和28年度予算で、16隻の艦艇建造が認められ、いよいよ国産護衛艦の時代を迎えた。所謂、プレ一次防、一次防での護衛艦整備が始まった。
DE 護衛艦あけぼの
前述の28年度予算で建造が認められた3隻の乙型(小型)警備艦の1隻である。本艦のみ推進機関は蒸気タービンである。3インチ単装砲2基、40ミリ連装機関砲2基、ヘッジホッグ1基、爆雷投射機8基を装備している。1060トン、28ノット。
(71mm in 1:1250 Hai製をほぼそのまま)
JDS Akebono (DE-201) - Wikipedia
前出の「あけぼの」と同じく28年度予算で建造された3隻の警備官のうちの2隻である。 「あけぼの」が蒸気タービンを主機に採用したのに対し、本級はディーゼルを主機としている。主要な兵装は「あけぼの」と同じく、3インチ単装砲2基、40ミリ連装機関砲2基、ヘッジホッグ1基、爆雷投射機8基である。1070トン、25ノット。
(70mm in 1:1250 Hai製をほぼそのまま)
Ikazuchi-class destroyer escort - Wikipedia
(直上は昭和28年度予算で建造されたDE:乙型(小型)護衛艦3隻。左から、あけぼの、いかづち、いなづま)
28年度予算では前出の3隻の乙型警備艦に加え、「はるかぜ」級2隻の甲型警備艦の建造が認められた。本級は旧日本海軍の白露級駆逐艦、米海軍のギアリング級駆逐艦を基本設計の参考としたとされている。主機には蒸気タービンを採用し、30ノットの速力を得た。兵装は5インチ単装砲3基、40ミリ四連装機関砲2基、ヘッジホッグ2基、爆雷投射機8基等を主要兵装として搭載している。1700トン。
(85mm in 1:1250 Hai製をほぼそのまま。主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装)
Harukaze-class destroyer - Wikipedia
本艦は新造艦ではなく、旧海軍の丁改型駆逐艦「梨」の後身である。本艦の前身である「梨」は、太平洋戦争末期に米海軍の空爆で瀬戸内海で沈没。のちに引き揚げられ、自衛艦として再就役した。兵装は一旦すべて撤去され、実用実験隊に所属し、新型兵装の実験装備等に従事していた。1250トン、26ノット、で、兵装は都度異なるが、1957年ごろの兵装は、3インチ連装速射砲1基、ヘッジホッグ1基、爆雷投射機4基等であった。
(80mm in 1:1250 写真はNeptune製程型駆逐艦:松級の竣工時の姿。自衛艦時には兵装は全ていったん撤去のうえ、実験的な装備を追加した。※後日、自衛艦時への改造を予定しています。自衛艦時のモデルを製作次第、アップします)
本艦も新造艦ではなく、米海軍フレッチャー級駆逐艦2隻の貸与を受けたものである(ヘイウッドL. エドワーズ・リチャードP. リアリー)。当初から両艦ともに練習艦任務に充当されることが多かった。
2050トン、35ノット、5インチ単装砲4基、40ミリ連装機関砲5基、爆雷投射機6基
(93mm in 1:1250 Neptune製フレッチャー級をベースに、船体中央の魚雷発射管を撤去、主砲塔をSNAFU store製のWeapopn setに換装)
Fletcher-class destroyer - Wikipedia
対潜能力の充実に重点を置いた護衛艦として、1955年から1958年にかけて、7隻が建造された。
前出のはるかぜ級護衛艦退けんずの経験を踏まえ、これを拡大強化する形で設計された。設計方針は前級とは大きく異なり、砲熕兵器を抑える代わりに対潜装備を拡充した。
1700トンの船体に蒸気タービンを主機として搭載し、32ノットの速力を発揮することができた。砲熕兵器は前級の5インチ単装砲3基から口径を抑えた3インチ連装速射砲3基として、単発での威力よりも速射性能を充実させた装備となった。一方、初めて対潜誘導魚雷および短魚雷を搭載、さらに旋回能力のあるヘッジホッグ、爆雷投射機などを搭載し、対潜戦闘能力を充実させた。
本級、およびこれに続く「むらさめ級」、「あきづき級」は、その船体の特徴として、長船首楼型の船型を採用したが、強度の弱点を補う方法として、接合部に緩やかな傾斜をつけた連続した甲板の形態をとった。この傾斜からこの3クラスは「オランダ坂」型護衛艦と呼ばれ親しまれた。
(89mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装)
(直下の写真は、本級および「むらさめ」級、「あきづき」級等の昭和30年度予算護衛艦の特徴の一つである、所謂「オランダ坂」のアップ)
Ayanami-class destroyer - Wikipedia
前出の「あやなみ級」が対潜戦闘能力を充実させた護衛艦であるのに対し、本級は砲熕兵器の充実による対空戦闘能力の充実を図った護衛艦として、1956年、1957年にかけて3隻が建造された。
「あやなみ級」とほぼ同様の船体を持ち、1800トンの船体に蒸気タービンの主機を搭載し、30ノットの速力を発揮した。
新型の54口径5インチ単装砲3基を新設計の砲塔に搭載(Mk 39 5インチ砲)し、併せて、「あやなみ級」と同じ3インチ連装速射砲を2基搭載、対空砲熕戦闘能力を格段に強化した設計とした。
一方、「あやなみ級」の装備を基本としながらも、魚雷装備は短魚雷の搭載のみにとどめ、旋回式のヘッジホッグ、爆雷投射機等を装備した。
(87mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに5インチ単装砲、3インチ連装速射砲をSNAFU store製のWeapopn setに換装)
Murasame-class destroyer (1958) - Wikipedia
旗艦装備を備えた汎用護衛艦として、1960年から2隻が建造された。
「あやなみ級」、「むらさめ級」に比べ船体は同一設計思想ながらやや大型化し、2000トンに達した。蒸気タービンを主機として32ノットの速力を発揮した。
砲熕兵器は「むらさめ級」を踏襲し、新型の54口径5インチ単装砲3基を新設計の砲塔に搭載(Mk 39 5インチ砲)し、加えて3インチ連装速射砲を2基搭載した。対潜兵器としては、米海軍より新たに供与されたMk.108「ウェポン・アルファ」 324mm対潜ロケット砲を搭載し、加えて、従来のヘッジホッグ、4連装魚雷発射管、短魚雷落射機、爆雷投射機等を搭載し、対空。対潜、いずれも非常に充実した装備となった。
(97mm in 1:1250 Hansa製モデルをベースに、喫水がやや高いため船体下部を金属用ヤスリでガリガリ削り調整。5インチ単装砲、3インチ連装速射砲をSNAFU store製のWeapopn setに換装。前部3インチ連装速射砲直後の対潜ロケット砲が特徴。丸い砲塔が、なんとも良い)
Akizuki-class destroyer (1959) - Wikipedia
(直下の写真は、昭和30年度以降の予算で建造されたいわゆる「オランダ坂」甲板を持つ護衛艦3クラス。奥から汎用護衛艦(DD)あきづき級、対空護衛艦(DDK)むらさめ級、対潜護衛艦(DDE)あやなみ級)
(直下の写真は、昭和30年度以降の予算で建造されたいわゆる「オランダ坂」甲板を持つ護衛艦3クラスを上から見たもの。上から汎用護衛艦(DD)あきづき級、対空護衛艦(DDK)むらさめ級、対潜護衛艦(DDE)あやなみ級。主砲配置等の際がよくわかる)
最後の「オランダ坂」護衛艦群で、護衛艦の機能分化の方向性が示された。以降、護衛艦の開発はそのような方向性をより強く意識したものになってゆく。
本格的国産護衛艦の時代
第2次防衛力整備計画以降、国産護衛艦の建造が本格化した。
この時期に、海上自衛隊の護衛艦種の整備方針、並びに基礎となる建艦技術、兵装方針等が確立してゆく。
DDE いすず級護衛艦 (1961- 同型艦・準同型艦 4隻)
Isuzu-class destroyer escort - Wikipedia
第1次防錆力整備計画(1次防)に準じ、沿岸部での対潜哨戒、船団護衛を主目的として建造された乙型(小型・沿岸部用)護衛艦である。(1490トン)
大きな特徴としては、初めて遮浪甲板型という船型が取り入れられた点である。この船型は、通常の平形甲板型の船体にさらに一層の全通甲板重ねた船型であり、これにより格段の船内スペースを確保することができ、発達著しい電子装備類、空調機器に対するスペースが確保され、併せて居住性が格段に改善された。以降の護衛艦の船型の基礎となった。
主機はディーゼル機関を採用し、25ノットの速力を発揮した。
主砲には、前回紹介した「あやなみ級」で採用された50口径3インチ連装速射砲(アメリカ製のMk.33をライセンス生産した57式)を艦首・艦尾に1基づつ搭載した。
本砲は半自動式砲で、ラピッドファイアと呼称され、毎分45発(砲身あたり)の射撃速度を持つ優れた砲である。
対潜装備としては、初めてヘッジホッグを廃止し、「あきづき級」と同じくMk,108対潜ロケット砲と対潜誘導魚雷を搭載し、更に爆雷投射機と投射軌条を装備している。
Mk.108対潜ロケット砲は、ロケット弾を目標近辺に投射し、搭載する磁気信管で目標を感知させ炸裂させるもので、250−800メートルの射程を持ち、毎分12発投射することができた。
(筆者はこの対潜ロケットが大好きです。というのも小学生の頃の愛読書、小沢さとる先生の名作「サブマリン707」に登場していまして、なんと未来的な(SFなんて言葉知らなかったからね)すごい兵器なんだろう、というのが原体験なのです。興味のある方は是非ご一読を)
本砲は、期待の新兵器として導入されたものの、 不発率が高いなどの欠陥を抱えており、運用部隊には不評で、後にM/50のライセンス生産版である71式ボフォース・ロケット・ランチャーに換装された。
ja.wikipedia.org
(74mm in 1:1250 実はいすず級のモデルは、1:1250スケールではどこを探しても見当たらない。そこでほぼ寸法等が近いDelphin社のちくご級をベースにセミスクラッチしたものが、直下の写真。武装は最近よくお世話になっているSNAFU store製のWeapopn setを用いた)
(筆者の大好きな対潜ロケットは、前回紹介したHansa社製の「あきづき級」のモデルから移植した)
DDG ミサイル護衛艦 あまつかぜ(1965- 同型艦なし)
海上自衛隊初の艦対空ミサイル搭載艦、いわゆるミサイル護衛艦で、1次防で1隻のみ建造された。 次級のたちかぜ級護衛艦「たちかぜ」の就役までの11年間、当時は海上自衛隊唯一の艦対空誘導ミサイルの搭載艦であり、その後も数次に渡り段階的にミサイル護衛艦が導入されたため、自衛艦としては異例の30年の長期間、現役にあった。
船型は、上述の「いすず級」護衛艦で導入された遮浪甲板型を採用し、機関には蒸気タービンを搭載し、33ノットの速力を得た。(3050トン)
海自初の艦対空ミサイルシステムとして、当時米海軍で採用されつつあったターターシステムを導入した。
本システムは、後にイージスシステムが採用されるまで、デジタル化等の改善を重ねながら長らく海上自衛隊の基幹艦対空システムとして、本艦を皮切りに「たちかぜ級」、「はたかぜ級」護衛艦に搭載された。
他の主要兵装としては、主砲には前出の50口径3インチ連装速射砲2基を搭載し、その他対潜兵器としてはヘッジホッグと対潜誘導魚雷を搭載していた。
後にアスロック(後述)8連装発射機を追加装備し、対潜能力を向上させ、次世代護衛艦と火力を同等にするなどの改装を受けた。
(104mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装。アスロック搭載後を再現してみた)
DDK やまぐも級護衛艦(1966- 同型艦:前期型・後期型 6隻)
Yamagumo-class destroyer - Wikipedia
第2次防衛力整備計画で前期型3隻、3次防・4次防で後期型3隻が建造された。
建造に当たっては、次級である「たかつき級」護衛艦との役割分割が構想され、いわゆるハイ・ロー・ミックス構成として、本級はDDK(対潜業務)として設計された。(前期型2050トン・後期型2150トン)
船体遮浪甲板型を採用し、機関にはディーゼルを採用した。採用された機関は、小型の艦型による少ない燃料搭載にも関わらず長い航続距離をもたらしたが、一方で27ノットの速力に甘んじざるを得なかった。
(90mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装)
兵装としては、海自で初めてアスロックを搭載した。
アスロックは対潜誘導魚雷をミサイルの先端に弾頭として搭載したもので、発射後は、事前に入力された飛翔距離で弾頭(魚雷)が切り離され、パラシュートにより軟着水した魚雷が捜索パターンで目標を探知し撃破する、というものであり、着水後の魚雷による目標補足能力の活用から、従来の対潜ロケットとは次元の異なる長射程での攻撃が可能となった。(射程:800-9100m)
当初は専用の8連装ランチャーからの発射が主流であったが、ターター・システム(Mk.26 GMSL)、あるいはVLSなどからの発射も可能となった。
他の兵装としては、主砲には既述50口径3インチ連装速射砲2基を搭載、対潜兵器としてこれも既述71式ボフォース・ロケット・ランチャー、対潜誘導魚雷を搭載した。
Takatsuki-class destroyer - Wikipedia
第2次防衛力整備計画で、前出の「やまぐも級」護衛艦で既述の通り、「やまぐも級」とのハイ・ロー・ミックス構成の構想の下、有力な対空・対潜戦闘能力を持つ多目的護衛艦(DDA)として4隻が建造された。
(106mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装)
船型は海自標準となってきた感のある遮浪甲板型を採用し、主機には蒸気タービンを搭載し、32ノットの速力を得た。
主砲には新型の54口径5インチ単装速射砲(Mk.42)を採用し、これを艦首・艦尾に1基づつ計2基を搭載した。
本砲は毎分40発という高い射撃速度を誇り、23000メートルに達する射程距離と、同時に導入された全自動FCS(射撃指揮装置)と併せて、強力な防空圏を構成することができた。
他の兵装としては、既述71式ボフォース・ロケット・ランチャー、対潜誘導魚雷、アスロックに加え、さらに長距離の射程を目指しDASH無人対潜攻撃ヘリコプターを装備した。
アスロックを超える長い射程の確保に期待されたDASHであったが、本家の米海軍では事故が多発するなど不評であり、1969年に運用が中止され、これに連動して部品の供給等は停止した。これに伴い、海自でも運用が中止された。
FRAM改装
これまでに記述したように、本級は非常に有力な戦力であったが、ミサイル化の流れの中で装備には陳腐化が目立つようになった。一方で、急速な新戦力整備にも限界があるため、FRAM(艦隊再建近代化計画)の名の下に、同級の「たかつき」「きくづき」に対して大規模な改装が行われ、当時新鋭のはつゆき級と同等の戦力化が目論まれた。具体的な内容としては、艦尾部の5インチ砲、これも艦尾部にスペースを取っていたDASH関連装備を撤去し、短SAM(シースパロー)、ハープーン艦対艦ミサイル、20mmCIWS、および種々の電子装備の換装、追加などが行われ、8年程度の艦齢延長を目指した。
(直下はFRAM改装後のたかつき級。Amature Wargame Figuresの3Dモデルをベースに、武装をSNAFU store製のWeapopn setから転用)
(FRAM改装前後のたかつき級を比較。奥がFRAM改装後。改装前のたかつき級は艦尾部に大きなDASH運用スペースが取られている事がよくわかる)
Minegumo-class destroyer - Wikipedia
前出の「やまぐも級」護衛艦をタイプシップとして、DASHを主兵装とした対潜護衛艦として建造された。(2100トン)
船型・機関は「やまぐも級」護衛艦に準じたが、後甲板をDASH 運用スペースとしたため、上部構造の配置が変更され、煙突が一本になった。(28ノット)
(90mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに、アスロック搭載後を再現するために艦尾にアスロック8連装発射機を追加。主砲塔等をSNAFU store製のWeapopn setに換装)
兵装も「やまぐも級」に準じ、50口径3インチ連装速射砲、71式ボフォース・ロケット・ランチャー、対潜誘導魚雷そしてDASHを搭載した。既述のようにDASHは本家の米海軍での運用中止に伴い、海自でも運用が止められ、アスロックに換装された。
(直下の写真はやまぐも級とみなぐも級を比較したもの。ほぼ同様の装備ながら、武装の配置に大きな差が見られる。手前がやまぐも級)
Chikugo-class destroyer escort - Wikipedia
第3次防、4次防で、周辺防備を主目的としたDEとして、11隻が建造された。
同目的の前DEクラスである「いすず級」DEに準じ、遮浪甲板型船型を持ち、主機にディーゼル機関を採用した。(1470トン 25ノット)
(75mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装)
1400トン足らずの小ぶりな船体ながら、兵装は「やまぐも級」DDKに準じた強力なものであった。主砲には50口径3インチ連装速射砲を搭載し、補助に40mm連装機関砲を艦尾に装備した。対潜兵器としてアスロックと対潜誘導魚雷を搭載している。
(直下の写真は、乙型(小型・沿岸用)護衛艦2級の比較。奥がちくご級。対潜ロケットからアスロックへの対潜兵装の変遷がよくわかる)
護衛隊群の整備・ DDHの登場
護衛隊群
貿易立国をその成長基盤とした急速な経済成長は、シーレーン防衛の重要さへの意識を高めた。
3次防・4次防の整備計画で、海上自衛隊の編成の基幹単位として、シーレーン防衛を担う護衛隊群の編成方針が徐々に確立した。
海上自衛隊は、その黎明期から洋上航空兵力の運用を検討し続けていた。
設立当初には、既に米海軍よりヘリ空母の貸与の申し出があったが、海自は時期尚早としてこの申し出を受けなかった。
1960年代に入り、当時の仮想敵であったソ連海軍の原潜配備の進展等により潜水艦脅威が増大した背景を受け、 改めてヘリコプター搭載護衛艦の建造が具体的に検討された。
先行する知見から、有効な対潜戦闘には4機のヘリコプターが必要であり、4機の常時運用体制を確立するためには、一個護衛隊群に最低6機のヘリコプター搭載能力が求められた。
各護衛隊群は、対潜水艦戦闘に有効な複数の対潜ヘリコプターの運用能力を有し、あわせて艦対空誘導ミサイルをその中核に据えた高い対空火網を構成する能力を有することを目指し、新造護衛艦群が建造された。
DDH はるな級ヘリコプター搭載護衛艦(1973- 同型艦 2隻)
Haruna-class destroyer - Wikipedia
(124mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapon setに換装。就役時の姿を示している。艦後部を広いヘリコプター発着甲板と、ハンガーが占めている)
「はるな級」護衛艦(DDH)は、 上記の護衛隊群の中核を担う艦として、海上自衛隊が初めて建造したヘリコプター搭載護衛艦である。(4700トン)
3機の対潜ヘリコプターを搭載し、艦後部に対潜ヘリコプター運用のための整備・格納庫と発着甲板を備えている。このタイプの護衛艦2隻を中核に護衛隊群を構成し、本稿の冒頭に述べた対潜ヘリ6機の運用体制を確保する、というのが本艦導入の基本構想であった。
船体の形態としては、自衛艦に定着した感のある遮浪甲板型をもとにその後端をカットした長船首楼型を採用し、ほぼその後部半分がデッキハンガー(整備・格納庫と発着甲板)で占められている。機関は蒸気タービンを搭載し、31ノットの速力を発揮した。
艦前部には、54口径5インチ単装速射砲(ライセンス生産の73式)を2基搭載し、あわせて対潜装備としてアスロックランチャーを搭載した。他に対潜誘導魚雷の短魚雷発射管を搭載していた。
FRAM改修
1980年代に、後継の「しらね級」ヘリコプター搭載護衛艦に同等の能力を得るべくFRAM改修(艦隊再建近代化計画)が行われ、戦術情報処理システムの搭載、電波兵器の更新等に加え、個艦防御尿力の向上を目指しCIWS(20mmバルカン機関砲)と短SAM(シースパロー)が追加搭載された。
(直下の写真はFRAM改修後のはるな級の姿。艦橋部がやや大型化し、武装の追加が行われた)
シースパローは、近距離での個艦防空を担う対空ミサイルである。ターターシステム等の艦隊防空システムが、おおよそ16kmから40kmのレンジをカバーして艦隊(護衛隊群)全体に防空火網を形成するのに対し、シースパローは8km-18km程度の範囲で個艦と僚艦程度の範囲をカバーする。その名の示す通り元々は航空機搭載用の対空ミサイルを艦載型に改良したものである。
20mmバルカン機関砲と小型追尾レーダーの組み合わせで、小型の高速飛来目標を全自動で迎撃できるようにしたシステムである。有効射程は1.5km程度とされ、艦隊防空システム、僚艦防空ミサイルが撃ち漏らした飛来目標に対する最終火網を担当する。
発射速度は毎分4500発とされているが、弾倉の装填数は1500発程度で、20秒程度で撃ち尽くしてしまう計算になる。再装填には30分程度を要するため、波状的な襲撃に対しては弱点があるとする声もある。
(直上の写真は、FRAM改修で追加された武装。上段:大型化した艦橋部とCIWS。下段:ハンガー上部に追加されたSAM(シースパロー)発射機)
DDG たちかぜ級ミサイル護衛艦 (1976- 同型艦 3隻)
Tachikaze-class destroyer - Wikipedia
(115mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装。アスロック等最後を再現してみた)
本級は、ミサイル護衛艦「あまつかぜ」に次ぐ、第二世代のミサイル護衛艦(DDG)として3隻が建造された。
「あまつかぜ」に続き、ターターシステムを搭載し、これと主砲に採用した54口径5インチ単装速射砲(ライセンス生産の73式)2基をあわせて、護衛隊群の防空の要の役割を担った。
船体は護衛艦標準の遮浪式甲板型を採用し、蒸気ボイラーを主機としている。(3850トン、32ノット)本級の最終艦「さわかぜ」は、護衛艦として蒸気タービンを採用した最後の護衛艦となった。
上記の主要な対空兵装以外に、対潜兵器として、「しらね級」と同様に、アスロック8連装発射機と短対潜誘導魚雷を装備している。さらに後日、CIWS2基が追加装備され、近接防空能力も向上された。
同級3隻のうち、最後に建造された「さわかぜ」では、対空ミサイルの発射装置(Mk13)が更新され、ハープーン対艦ミサイルも発射できるようになった。
Mk 13はランチャーの直下に40発のミサイル弾庫を保有し、1分間に約7発のミサイルを発射することができる。
DDH しらね級ヘリミサイルコプター搭載護衛艦(1980- 同型艦 2隻)
Shirane-class destroyer - Wikipedia
(127mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをストレートに組んでみた)
本級は、海上自衛隊が建造した第二世代のヘリコプター搭載護衛艦(DDH)である。
基本的に前級「はるな級」の拡大改良版であり、イージス艦の登場まで、海上自衛隊の護衛艦では最大の艦でもあった。(5200トン、32ノット)
船型は、「はるな級」に準じ遮浪甲板型をもとにした長船首楼型であり、前半部に主砲等武装を搭載し、後半分には、「はるな級」と同様、対潜ヘリ3機の整備・運用のためのハンガーデッキとなっていた。機関もはるな級同様、蒸気タービンを搭載している。
基本武装も、「はるな級」と同じく54口径5インチ単装速射砲(ライセンス生産の73式)を2基、主砲として搭載し、あわせて対潜装備としてアスロックランチャーと短対潜誘導魚雷を装備した。個艦防空武装としてはCIWS2基と短SAM(シースパロー)を最初から装備していた。
(DDH2代:はるな級(左) しらね級(右))
(護衛艦「いしかり」の概観:67mm in 1:1250 by Hai: マスト先端部を少し触ったのですが、少し大きすぎたかも)
護衛艦「いしかり」およびその拡大改良型である「ゆうばり級」護衛艦は、ともに、主として北方配備を想定して建造された沿岸警備用護衛艦(DDE)である。
当時、特に北方海域で仮想敵と想定されたソ連海軍は、艦対艦ミサイルを装備した大型対潜巡洋艦に加え、同じく艦対艦ミサイルを主兵装としたミサイルコルベットなど小型艦の配備傾向が見られ、これに対抗するために艦対艦ミサイルを装備した護衛艦の導入が求められた。
(「いしかり」の主要兵装の拡大:76mmコンパクト砲と艦橋前に据えられたボフォース対潜ロケットランチャー(上段)、対艦ミサイル「ハープーン」の発射キャニスター(下段))
「いしかり」および「ゆうばり級」には、艦対艦ミサイルハープーンが特徴的な4連装キャニスター形式で、自衛艦として初めて搭載された。
艦対艦タイプのハープーンは約140kmの射程を持ち、発射時に与えられた目標の位置データに向けて完成誘導されたのち、最終段階で自らの搭載レーダーによるアクティヴ・ホーミングにより目標に突入する。
また「いしかり」は自衛艦として初めて機関をガスタービンにした記念すべき艦でもある。小型の艦型へのガスタービンの採用により、その船型は中央船楼型となり、この船型は「ゆうばり級」でも踏襲された。
ハープーン以外の兵装としては、対潜装備としてボフォースロケットランチャーと短対潜誘導魚雷を装備している。
主砲には62口径3インチ単装速射砲(76mmコンパクト砲)を、これも自衛艦としては初めて採用した。
高い速射性能を持つ速射砲を小型軽量で優れた動作性を有する砲塔に搭載した個艦防御用の無人速射砲システムで、1分間に85発の発射速度を誇っている。(スーパーラピッドタイプでは1分間に120発)砲塔直下に回転式の弾倉を2層、もしくは3層備え、弾丸を供給する。
コンパクトで軽量な特性から、ミサイル艇などの小型艦艇にも搭載可能である。
Yūbari-class destroyer escort - Wikipedia
(「ゆうばり級」護衛艦の概観:71mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装)
前述のような構想で建造された護衛艦「いしかり」であったが、元来が沿岸警備を担当していた「駆潜艇」の代替から発送された計画であったためもあって、関係が小型で、装備の目覚ましい進歩に対して余裕がなく、かつ北方海域の荒天下での運用にもやや課題があったため、本来同型艦として構想されていた2番艦以降の設計が見直され、一回り大きな「ゆうばり級」護衛艦が誕生した。
機関、兵装等は「いしかり」を踏襲したものとなった。中央船楼が延長されそこにCIWSを追加する計画もあったらしいが、実現されなかった。
「いしかり」を拡大改良した本級であったが、艦型が小型に過ぎるという評価は拭えず、後に「あぶくま級」護衛艦の登場を待たねばならなかった。
(「いしかり」(手前)と「ゆうばり級」の概観比較:「ゆうばり級」が「いしかり」の拡張改良版であることがよくわかります。 「いしかり」:1290トン 25ノット 「ゆうばり級」:1470トン 25ノット)
(手前から「いしかり」「ゆうばり級」そして海上自衛隊のDDEの現時点での最終形「あぶくま級」の艦型比較)
Hatsuyuki-class destroyer - Wikipedia
(104mm in 1:1250 Hai製モデルをベースに主砲塔のみSNAFU store製のWeapopn setに換装。アスロック等最後を再現してみた)
先述の、各3機の対潜ヘリを搭載するDDH「はるな級」、「しらね級」各2隻の就役により、 海自の理想とする対潜ヘリ6機運用可能な2個護衛隊群を保有することができた。
しかし、シーレーン防衛のためには、海自には4個護衛隊群の運用が必要とする構想があり、引き続き対潜ヘリ搭載能力の充実を構想に入れた新造護衛艦の建造が構想された。
この時期、長らく護衛隊群の主力を務めてきた第一世代の護衛艦が引退の時期を迎えつつあり、その代替である次級護衛艦の「はつゆき級」には、対潜ヘリ搭載能力が求められた。
「はつゆき級」は12隻建造され、その就役後には、4個護衛隊群全てが、ヘリ搭載護衛艦:DDH1隻(対潜ヘリ3機搭載)、対空担当艦としてミサイル護衛艦:DDG2隻(もしくは多目的自衛艦DDAを加える)、汎用護衛艦「はつゆき級」3隻(対潜ヘリ各1機搭載、計3機)、対潜護衛艦:DDK2隻の編成が可能となり、対潜ヘリ6機の運用能力を保有することになる。いわゆる8艦6機体制の護衛隊群を4個揃えることができるのである。
「はつゆき級」護衛艦は、遮浪甲板型を基にした長船首楼型の船型を持ち、海上自衛隊で初となるオール・ガスタービン推進方式を導入した。(2950トン 30ノット)
その兵装は、非常に充実している。
対潜兵装としては、1機の対潜ヘリに加え、アスロック発射ランチャーと、短対潜誘導魚雷を搭載した。さらに対艦兵装として、艦対艦ミサイルハープーンの4連装キャニスターを両舷に1基づつ搭載した。
対空兵装としては、主砲として62口径3インチ単装速射砲(76mmコンパクト砲)を搭載し、加えてSAM(シースパロー)発射機を艦尾に1基、個艦防御兵器としてCIWSを両舷に1基づつ搭載した。
これらの強力な兵装を、戦闘情報処理装置と連携し戦闘システムを構築した、海上自衛隊初のいわゆるシステム艦であるとされている。
DDG はたかぜ級ミサイル護衛艦 (1986- 同型艦 2隻)
Hatakaze-class destroyer - Wikipedia
(120mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをストレートに組んでみた)
本級は、護衛隊群の対空防御の要となるべく、第三世代のミサイル護衛艦(DDG)として2隻が建造された。
船型は遮浪甲板型を基にした長船首楼型であり、主機には「たちかぜ級」で検討されながら搭載に至らなかったガスタービンエンジンを採用した。(4900トン、30ノット)
本級は、前級「たちかぜ級」ミサイル護衛艦の3番艦「さわかぜ」が搭載したターターD・システムを、その主要兵装として搭載している。「あまつかぜ」、「たちかぜ級」DDGが全て艦後部にミサイルシステムを搭載しているのに対し、本級では艦首部に発射機を搭載している。これは護衛隊群を防御するために、全部搭載艦と後部搭載艦でペアを組ませる構想であったと言われている。
この対空誘導ミサイルシステムと、主砲に採用した54口径5インチ単装速射砲(ライセンス生産の73式)2基をあわせて、護衛隊群の防空の要の役割を担った。
これら対空兵装以外に、対潜兵装としてアスロック発射機と短対潜誘導魚雷を搭載、さらに艦対艦ミサイルハープーンの4連装キャニスターを2基、個艦防御用としてCiWS2基を搭載している。艦後部にはヘリコプターの発着甲板が設けられたが、ハンガー等の設備はなく、従って対潜ヘリの搭載能力はない。
(DDG3代:手前から、あまつかぜ、たちかぜ級、はたかぜ級)
(DDG3代:左から、あまつかぜ、たちかぜ級、はたかぜ級)
Asagiri-class destroyer - Wikipedia
(109mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをストレートに組んでみた)
初めてのヘリコプター搭載能力を持たせた汎用護衛艦であった「はつゆき級」は、前述のように万能な戦闘力を持った優れた艦であったが、比較的小さな艦型に多くを盛り込み、船体に搭載システムの更新等に対する余裕があまりない結果となった。
このため「あさぎり級」では、「はつゆき級」と装備に対する要求は同じながら、艦型を大型化し、余裕を持たせる設計とした。(3500トン、30ノット)
兵装は「はつゆき級」をほぼ踏襲し、62口径3インチ単装速射砲(76mmコンパクト砲)、AM(シースパロー)発射機1基、個艦防御兵器としてCIWSを両舷に1基づつ、アスロック発射ランチャー、短対潜誘導魚雷、艦対艦ミサイルハープーンの4連装キャニスター2基等を搭載している。
ハンガーが大型化され、艦載ヘリの定数は1機のままであるが、必要に応じ、2機までは運用できるようになった。
本級8隻の就役で、海上自衛隊は、「はつゆき級」と合わせて20隻の対潜ヘリ搭載汎用護衛艦を保有することになり、各護衛隊群あたり5隻の配置が可能となった。これにより、各護衛隊群はDDH1隻、DDGまたはDDA2隻、汎用護衛艦(DD)5隻の編成となり、ここに8艦8機体制が可能となった。(新八八艦隊と呼称されることもある)
(汎用護衛艦DD:2代 あさぎり級(左)、はつゆき級(右)。あさぎり級は船体ははつゆき級よりも大型化したが、艦橋部は一層低い構造であることがよくわかる)
Abukuma-class destroyer escort - Wikipedia
(88mm in 1:1250 Hai製モデル、ほぼストレート)
新八八艦隊世代に対応した、沿岸警備用小型護衛艦として、1990年代に相次い配備された。
ヘリコプターの搭載能力を除けば、「はつゆき級」汎用護衛艦とほぼ同等の装備を搭載した。 (2000トン、27ノット)
主砲に62口径3インチ単装速射砲(76mmコンパクト砲)、個艦防御兵器としてCIWSを艦尾に1基、対潜兵装としてアスロック発射ランチャー、短対潜誘導魚雷、さらに艦対艦ミサイルハープーンの4連装キャニスター2基等を搭載している。
(DE4代 手前からいすず級、ちくご級、ゆうばり級、あぶくま級)
イージス艦の登場
ターターシステムからイージスシステムへ
既述のように、海上自衛隊はシーレーン防衛を担う基幹単位として護衛隊群を構想、整備し、理想とする護衛艦8隻と搭載ヘリコプター8機からなる8艦8機編成、4個護衛隊群の保有を、1980年代後半に実現した。
8艦8機編成における各護衛隊群は、一般的には、DDH(ヘリコプター搭載護衛艦:ヘリ3機搭載)1隻、DDG/DDA(ミサイル護衛艦・対空戦闘担任艦)2隻、汎用護衛艦(ヘリコプター1機搭載)5隻 からなる。
この各護衛隊群の艦隊防空を担うのが、DDG2隻(もしくはDDG+DDA)であり、艦対空システムとして、永らくターターシステムがその主力防空システムであった。1960年代に建造されたミサイル護衛艦「あまつかぜ」で初めて導入され、続く「たちかぜ級」ではシステムのデジタル化、戦術情報処理装置が導入され、さらに「はたかぜ級」ではCIC化、機関のガスタービン化などにより、一応の完成形と評価されるに至った。
しかし一方で、仮想敵の機載対艦ミサイルの著しい発展、さらには発射プラットフォームである攻撃機自体の性能向上、電子戦機の導入などから、同時に1-2目標への対応を想定した従来のシステムでは性能上対処困難な事態が想定されるようになった。
こうした要請から、イージスシステムを搭載した護衛艦の導入が検討され始める。(システムの詳細は、下記のリンクに委ねたい)
イージスシステム(Aegis Weapon System: AWS)は、ターターシステムなど従来のいわゆる防空システムの枠にとどまらず、レーダー等のセンサーシステム、情報処理システム、武器システムを全て連結した統合的戦闘システムである。
同時に128目標を補足・追跡し、脅威度の大きい10目標程度を特定し迎撃することが、自動でできる。
このシステムへの接続は、イージスシステム搭載艦にとどまらず、他の機器搭載艦艇とも接続可能で、従って、個艦の武器システムのみでなく、例えば導入護衛隊群全体の武器システムによる艦隊防空が可能となる。
Kongō-class destroyer - Wikipedia
米海軍の同じくイージスシステム搭載艦であるアーレイ・バーク級駆逐艦をタイプシップとし、艦型・機関ともこれに準じている。
併せて、本級から、従来DDHが担っていた護衛隊群旗艦が同級に移管されることとなったため、上部構造および艦型も大型化した。(7250トン、30ノット)
(129mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをほぼストレートに組んだもの)
本級の中核的な装備となるのはもちろんイージスシステム(AWS)であるが 、そのセンサーシステムの中心的な役割を負う多機能レーダーは、艦橋の4面に固定された巨大なパッシブ・フューズドアレイアンテナに象徴され、これに上記の旗艦施設などを加え、非常に重厚な上部構造物を構成している。
これに連動するミサイル発射機はMk. 41 VLS(垂直発射機)を艦首甲板に29セル、艦尾甲板に61セルを装備している。
(Mk.41 VLS こんごう級艦首甲板の29セルと艦尾甲板の61セル。VLS前方には主砲として装備されたオート・メララ製54口径5インチ単装速射砲(127mmコンパット砲)が写っている)
他に対空兵装としては、主砲にオート・メララ製の54口径5インチ単装速射砲(127mmコンパット砲)を装備し、近接個艦防空用に2基のCIWSを艦上部構造の前後に保有している。
対潜兵装としては、前述の艦首部のMk.41 VLSに垂直発射型のアスロック(VLA)を装備し、併せて対潜短魚雷発射管を両舷に装備している。
対艦兵装としては、艦対艦ミサイルハープーンを4連装ランチャーで2基装備している。
DDGとして前級に当たる「はたかぜ級」DDGと同様に、艦後部にはヘリコプターの発着甲板が設けられたが、ハンガー等の設備はなく、従って固有の対潜ヘリコプターは保有しない。
Murasame-class destroyer (1994) - Wikipedia
汎用護衛艦の第二世代として、「むらさめ級」は9隻が建造された。現在の護衛隊群の基準構成艦となっている。
兵装等の装備は前級と同様を想定しながら、搭載電子機器類の増加への対応や、ヘリ運用能力の強化、居住性改善等の要請から、船体は大型化した。(4550トン、30ノット)
(120mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをほぼストレートに組んだもの)
前述のように、兵装は前級である「あさぎり級」とほぼ同様である。
砲熕兵器としては、主砲に62口径3インチ単装速射砲(76mmコンパクト砲)、個艦防御兵器としてCIWSを両舷に1基づつ搭載している。
主要対潜装備としては短対潜誘導魚雷発射管とアスロックを装備し、対空兵装としてはSAM(シースパロー)を、いずれも垂直発射式で搭載している。
アスロックは艦首部のMk. 41 VLS 16セルに搭載されている。
SAM(シースパロー)は、艦中央部にMk. 48 VLS 16連装のキャニスターに収容された。
いずれも、搭載弾数は前級と同様ながら、いずれもVLS搭載とすることで、即応発射弾数は倍になった。
(前部甲板に装備されたMk.41 VLS 16セル:アスロック用と、艦中央部に装備されたMk.48 VLS 16キャニスター:シースパロー用)
艦対艦兵装としては、従来のハープーンに替えて国産の90式対艦誘導弾を4連装キャニスター2基に搭載している。
加えて1機の対潜ヘリコプターを固有の搭載兵装として保有したが、ハンガーは「あさぎり級」よりも大型化され、「あさぎり級」ではあくまで応急的な運用とされていたのに対し、2機運用を想定したものとな離、実際にソマリア派遣等の際には2機運用が実施されている。
(艦尾部のヘリコプター発着甲板と大型化したヘリハンガー)
Takanami-class destroyer - Wikipedia
第二世代の汎用護衛艦として前級「むらさめ級」は建造されたが、本級はその最小限の改正型として建造された。前級の「むらさめ級」、次級の「あきづき級」と共に、現在の護衛隊群の基準構成艦となっている。(4650トン、30ノット)
その主たる改正点は、Mk.41 (アスロック用)とMk.48(シースパロー用)の2種のVLSの併載の解消による運用の合理化と、主砲射撃能力の向上の要請への対応、更に前級で可能となったヘリコプター2機運用体制への本格的対応等であった。
(120mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをほぼストレートに組んだもの)
兵装は基本的に前級「むらさめ級」に準じるが、VLSは艦首部のMk. 41 32セルに統合され、 主砲は「こんごう級」と同様のオート・メララ製の54口径5インチ単装速射砲(127mmコンパット砲)を搭載した。
(艦首甲板のMk.41 VLS 32セル :たかなみ級ではVLSを艦首部の一か所にまとめて装備した。セル数の増加で装備方法が変更され、甲板よりも一段上がった装着方法となった。VLS前方には主砲として装備されたオート・メララ製54口径5インチ単装速射砲(127mmコンパット砲)が写っている)
ヘリの2機運用体制については、前級「むらさめ級」では1条であったRAST発着艦支援装置の機体移送軌条を2条とし、さらに上記の「むらさめ級」では艦中央部、ハンガー前部に隣接していたシースパロー用のMk. 48発射機を、艦首部に統合移設したことから生まれたスペースでハンガーを拡大、ヘリ運用スペースやヘリ用の弾庫の拡大により本格的な2機運用体制を充実させた。
(艦尾部のヘリコプター発着甲板と大型化したヘリハンガー)
(艦尾部のヘリコプター発着甲板:むらさめ級(上)では1条だったRAST発着艦支援装置の機体移送軌条が、たかなみ級(下)では2条に追加されたことがわかる)
当初計画では、本級を11隻建造し、8艦8機編成を充足する予定であったが、実際には5隻で打ち切られ、新装備を搭載した次級の建造に移行することとなった。
(第二世代汎用護衛艦比較:むらさめ級(右)とたかなみ級(左)。主砲、VLS配置を除き、全体の配置は非常によく似ている。最小限の改正、ということか)
Atago-class destroyer - Wikipedia
海上自衛隊の2代目のイージスシステム護衛艦である。護衛隊群の8艦8機編成の維持にあたり、退役する「たちかぜ級」DDGの代替艦として建造された。
基本的には前級「こんごう級」の性能向上型であり、船体後部にハンガーを設けヘリコプター搭載能力を付加したことにより艦型がさらに大型となった。(7750トン、30ノット)
(131mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをほぼストレートに組んだもの)
イージスシステムは下位ユニットも含めバージョンアップされたものになっており、性能は向上している。
ミサイル発射機はMk. 41 VLSを前部甲板に64セル、艦尾部のヘリハンガー上部に32セルを搭載している。また近接防御兵器としてはCIWS2基を「こんごう級」同様、艦上部構造の前後に配置している。
(Mk.41 VLS あたご級艦首甲板の64セルと艦尾ヘリコプターハンガー上の32セル。本級から前部、後部のそれぞれの装填用クレーンが廃止された。上の写真にはあたご級から採用された主砲62口径5インチ単装砲(Mk. 45)が写っている)
対潜兵装は「こんごう級」と同じく垂直発射式のアスロックをMk. 41 VLSに収め、さらに対潜短魚雷3連装発射管を両舷に装備している。
対艦兵装としては、前出の汎用護衛艦と同様、ハープーンに替え国産の90式対艦誘導弾を装備、さらに主砲として62口径5インチ単装砲(Mk. 45)が装備されている。
「あたご級」の兵装変更の最大の目玉は既述の通りヘリコプター搭載能力の付加であり、艦後部にはヘリコプターハンガーが設けられた。
(あたご級の追加装備の目玉、艦尾部のヘリコプター発着甲板と大型ヘリコプターハンガー)
全通甲板型護衛艦(空母型DDH)の登場
潜水艦の静粛化、高性能化を想定する場合、多数のヘリコプターを搭載する空母型護衛艦の保有は、海上自衛隊にとって、多年の念願であった。本稿で既述ではあるが、遡れば、古くは海上自衛隊発足時に既に米海軍からはヘリ空母として運用可能な小型空母の貸与の申し出があった。
併せて、冷戦終結後の複雑化する周辺の国際状況、非正規軍事勢力への対応等を想定した場合、あるいは要請が高まりつつある国際平和活動、災害救援活動等にも、機動性に富む多数の航空機運用が可能な艦艇の保有は、次第に必要性の度合いを高めた。
こうして、いよいよ海上自衛隊は空母型DDHを中心とした編成の時代を迎えるのである。
DDH ひゅうが級ヘリコプター搭載護衛艦(2009- 同型間2隻)
Hyūga-class helicopter destroyer - Wikipedia
海上自衛隊が初めて導入した空母型(全通甲板型)ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)である。最大の特徴は、なんと言っても多数のヘリコプターの運用能力がある事で、固有の搭載機こそ、「はるな級」DDHや「しらね級」DDHと同様に3機であるが、格納甲板には8機分の収納スペースが確保されており、最大10機のヘリコプター運用能力があるとされている。
併せて、護衛隊群司令部の収容に対応する司令部施設も設計当初から組み込まれており、高い通信機能等も保有し、災害時の対策本部機能、海外派遣時の統合任務部隊の司令部機能などへの活用が期待されている。
これらを具現化するために、船体は非常に大型化し、護衛艦としては初めて基準排水量が10000トンを大きく超える大型艦となった(13950トン、30ノット)。
(158mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをほぼストレートに組んだもの)
同級DDH、いわゆる通常の航空機の運用に特化した「空母」と異なる点は、Mk.41 VLS 16セルから、対空・対潜ミサイルを発射する護衛艦としての戦闘能力を有し、併せて対潜短魚雷発射管も保有しているところである。
(直上の写真は、飛行甲板最後尾に配置されたMk.41 VLS)
Akizuki-class destroyer (2010) - Wikipedia
「むらさめ級」(9隻)、「たかなみ級」(5隻)と続いた汎用護衛艦第二世代の発展形として4隻が建造された。現在の護衛隊群の基準構成艦となっている。(5100トン、30ノット)
イージス艦への要請が、周辺有事の変化により艦隊防空から弾道ミサイル防衛(BMD:Ballistic Missile Defense)に拡大する事によって、BMD対応時には両立の難しいAWSを汎用護衛艦で対応しようとの目的で、僚艦防空の能力を備えるFCS-3A射撃システムを中核とする防空システムを搭載している。
(121mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをほぼストレートに組んだもの)
大小1組から構成されるFCSー3A多目的レーダーを艦上部構造の、艦橋とヘリコプターハンガー上の4面に貼り付けて装備しており、ステルス性を意識した形状となった。
(直上の写真は、艦上部構造の4箇所に貼られたFCSー3A多目的レーダーアンテナ)
兵装は、基本的に「あたご級」DDGに準じ、艦首部のMk. 41 VLS 32セルに、発展型シースパロー(ESSM)と垂直発射型アスロック(VLA)を搭載、 主砲には62口径5インチ単装砲(Mk. 45)、対艦兵装として90式対艦誘導弾の4連装キャニスター2基、さらに対潜兵装として対潜短魚雷3連装発射管を両舷に装備、個艦防空用にCIWS2基を搭載している。
(艦首部の主要兵装。Mk. 41 VLS 32セル:発展型シースパロー(ESSM)と垂直発射型アスロック。 主砲:62口径5インチ単装砲(Mk. 45)。CWIS)
(艦後部のヘリハンガー)
ヘリコプターの搭載定数は1機、しかし2機までの運用が可能である点は、「たかなみ級」と変わらないが、着艦拘束装置(RAST)が省力化に対応したものに更新され、着艦誘導支援装置が搭載されている。ハンガーは「たかなみ級」よりも大型化された。
DDH いずも級ヘリコプター搭載護衛艦(2015- 同型艦2隻)
Izumo-class multi-purpose operation destroyer - Wikipedia
(200mm in 1:1250 F-Toys 現用艦船キットコレクションをほぼストレートに組んだもの)
前級「ひゅうが」級をさらに大型化し、航空機運用能力や多用途性を強化したものとなっている。「ひゅうが」級の船体を排水量で6000トン、長さにして51m拡大し、搭載機数も固有の艦載機を7機、最大搭載機数を14機とした。(19500トン、30ノット)
一方で個艦戦闘能力は抑えられ、近接戦闘用のCIWS2基とSea RAM近SAMシステム2基を搭載するのみとなった。
(「いずも級」の固有武装のアップ:艦尾に配備されたSea Ram(上段手前)とCIWS。艦首のCIWS(下左)と艦橋前のSea Ram)
上述のように固有武装を最小限にした背景には、同級はもはや単独での運用を想定されておらず、すなわち常に他の護衛艦を伴い、その旗艦機能を果たすことを想定されていることに準じている。この構想のもと、前級「ひゅうが」級で設定された司令部施設は充実されており、100名規模の統合任務部隊司令部が収容できる多目的スペースを有している。
(「ひゅうが級」(手前)と「いずも級」の大きさ比較。「いずも級」がいかに本格的かを示している?)
「いずも級」は以降の整備時に艦首部を角形に変形しするなど、固定翼機の配備にも対応できるような改修を施される予定。最大の改修ポイントは、飛行甲板や上部構造物の熱耐性を上げることになると思われる。
ja.wikipedia.org Asahi-class destroyer - Wikipedia
「あきづき級」に続き、第二世代汎用護衛艦の最終形として2隻が建造された。本級の建造により「むらさめ級」9隻、「たかなみ級」5隻、「あきづき級」4隻と併せ、第二世代汎用護衛艦の建造数は20隻となり、海上自衛隊の基幹単位である8艦8機(新八八艦隊)編成の4個護衛隊群に必要な汎用護衛艦を全て第二世代で賄うことも、理論上は可能となった。
本級は「あきづき級」をベースとして新型ソナーシステムを搭載し対潜戦闘能力を強化する一方で、僚艦防空の能力を省いたシステムを搭載したタイプとなっている。
主機には、護衛艦として初めて電気式推進を主推進としたハイブリッド推進機関(COGLAG)を搭載している。これは低速時、巡航時にはガスタービン発電を用いた電気式推進を用い、高速時にはガスタービンエンジンによる直接機械駆動も併用する形式で、燃費に優れるとされている。(5100トン、30ノット)
兵装は「あきづき級」と同じで、艦首部のMk. 41 VLS 32セルに、発展型シースパロー(ESSM)と垂直発射型アスロック(VLA)を搭載、 主砲には62口径5インチ単装砲(Mk. 45)、対艦兵装として90式対艦誘導弾の4連装キャニスター2基、さらに対潜兵装として対潜短魚雷3連装発射管を両舷に装備、個艦防空用にCIWS2基を搭載している。
ヘリコプターの運用については、搭載機定数1、搭載能力2機は「あきづき級」に準じるが、RASTの機体移送軌条は、2条から1条に改められており、洋上での2機の同時運用は現実的ではない。
(121mm in 1:1250 3D Printing メーカー、Amature Wargame Figures(Nomadire)のキット。マストと兵装の一部はF-toysのキットから転用)
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「まや級」DDGは、「はたかぜ級」DDG の代艦として建造されたイージスシステム搭載ミサイル護衛艦(DDG)である。本級の建造で、海上自衛隊の4個護衛隊群は、その艦隊防空をそれぞれ2隻のイージス艦で賄う事が可能となる。
本級は「あたご級」DDGの設計を基本として、推進機関を電気推進(COGLAG)に改めたものである。これに伴い、関係がやや大型化した。(8200トン、30ノット)
搭載するイージスシステムは、弾道ミサイル防衛(BMD:Ballistic Missile Defense)により対応力を向上させたバージョンを搭載している。
兵装は「あたご級」に準じたものを搭載している。
主砲として62口径5インチ単装砲(Mk. 45)、対艦兵装としては、国産の90式対艦誘導弾を4連装キャニスター2基に装備、さらに主砲として62口径5インチ単装砲(Mk. 45)が装備されている。
前甲板にMk . 41 VLSを64セル、艦尾部のヘリハンガー上部に32セルを搭載、ここからSMー2, SMー3併せて垂直発射型のアスロックを発射する。対潜兵装として対先端魚雷発射管を2基、艦の両舷に配置し、また近接防御兵器としてはCIWS2基を、艦上部構造の前後に配置している。
固有の搭載ヘリコプターは保有しないが、艦後方のハンガーでは2機の運用が可能である。
(137mm in 1:1250 3D Printing メーカー、Amature Wargame Figures(Nomadire)のキット。マストと兵装の一部はF-toysのキットから転用)
DDHからDDV(固定翼機搭載型護衛艦)へ
既に前出の「いずも級」DDH 竣工前から本級での固定翼機搭載の可能性が議論されていた。防衛省の公式見解としては、検討の事実すら否定しているが、本級が最も近い距離にある事は間違いない。
「いずも級」で実現するかどうかはさておき、本稿では既にDDV「いぶき」が登場しており、これを再度紹介しておくこととしたい。
正確には、本稿での「いぶき」は、オリジナルの設定通り「いずも型護衛艦」にスキージャンプ台形式の飛行甲板をつけたもので、例によって「いずも型護衛艦」のモデルを既に上市されていた3D Printing メーカーさんにジャンプ台の追加をリクエストし、制作していただいた。
製作者のAmature Wargame Figures(Nomadire)は、主として第二次大戦以降のいわゆる現用艦(もしくは計画艦)に多くの作品があり、スケールも実に多岐にわたるラインナップを揃えていらっしゃる。今回のリクエストのような既成モデルの改変、あるいはスケール間のコンバージョンにも比較的気楽に対応してくださるので、大変ありがたく利用させていただいている。
モデルの素材は、White Natural Versatile Plasticというやや柔らかめで粘度のある樹脂で、下地処理をした後、普通に塗装ができる。(私の場合にはサーフェサーで下地処理をしたのち、エナメル塗料で塗装をしています。基本、全て筆塗りです)上掲の写真の通り、マスト、CIWS、SeaRAMなどの対空火器も全て一体整形された完成形で手元に届いた。下記の写真ではマストのみ、F-toys製のストックモデルと交換し、仕上げた。
搭載機も同様、3D Printing メーカーさん(SNAFU Store: SNAFU Store by Echoco - Shapeways Shops)によるもので、F-35JBの他に、X-47Bという無人機(下の写真では、ブリッジ後方の黒っぽく塗装されている数機)を搭載している、という設定になっている。(多分、オリジナルの設定はそんなことにはなっていないと思います。ヘリはF-toysのモデルから流用)
(Ibuki: 26,000t, CWIS *2, SeaRAM *2, F-35JB *15 etc, 202mm in 1:1250)
(直上の写真は「いずも級」DDH(手前)と「いぶき」の大きさ比較。「いぶき」は「いずも級」の設計をベースにした為、外観や上部構造物の配置は「いずも級」に準じたものになっているのがよくわかる。固定翼機の運用を想定した艦首形状や スキージャンプ台の配置が、架空艦とはいえ興味深い)
第五護衛隊群
DDV「いぶき」は、コミックでの設定では、海上自衛隊第5護衛隊群の所属となっている。
現在、海上自衛隊には4つの海上護衛隊群があり、それぞれがDDH(ヘリ搭載型護衛艦)1隻、DDG(誘導ミサイル搭載型護衛艦)2隻、DD(汎用護衛艦)5隻、計8隻の護衛艦で編成されている。(かつては、この8隻に8機の対潜ヘリが搭載されるような護衛隊群構成となった時期があり、「新88艦隊」などと呼ばれた)
コミックでは、DDV(航空機搭載型護衛艦)「いぶき」を中心に、第五護衛隊群は新編成され、DDG:イージス護衛艦「あたご」「ちょうかい」、DD:汎用護衛艦「ゆうぎり」「せとぎり」、AIP潜水艦「けんりゅう」、さらに補給艦「おうみ」がこれに所属する、という設定となっている。
(直上の写真は、第5護衛隊群の一部:奥からDD「せとぎり」、DDV「いぶき」、DDG「あたご」と同型の「あしがら」、潜水艦「けんりゅう」)
映画版ではDDG「あたご」は「あしたか」、DDG「ちょうかい」は「いそかぜ 」、汎用護衛艦「ゆうぎり」「せとぎ理」はそれぞれ「はつゆき」「しらゆき」、潜水艦「けんりゅう」は「はやしお」として登場する。
それぞれの詳細については、既に本稿の以下の回でご紹介していますので、そちらをご覧ください。
直上の写真は、DDV「いぶき」とDDG「やまと 」。
前述のように、DDV「いぶき」を中心に、第五護衛隊群が編成される。第五護衛隊群はその機動性から紛争地域周辺に展開されることが多く、イージス艦「やまと」も、持ち前のその戦闘力から、この護衛隊群に組み入れられることが多かった。
今回は、海上自衛隊護衛艦開発史のスピンアウト第二弾(誰が勝手にシリーズにしたんだ?)として、護衛艦「いそかぜ」について、いろいろと。
まず最初に、本稿を読んでいらっしゃるような方ならば(艦船好きな、というほどの意味です)、おそらくご承知のこととは思いますが、海上自衛隊に「いそかぜ」と言う名前の護衛艦は、その創設以来、かつて存在していません。
にも関わらず、護衛艦「いそかぜ」の名前は、そこそこ「有名」なのです。(そもそも、護衛艦の名前の認知率などは、たかが知れていますので、「有名」の基準とは何か、などと言う話は、まあ、それは、ちょっと横に置いておきましょう)
そして、実在しない護衛艦ながら、実は「いそかぜ」には、三つの形態があるのです。
今回は、そういうお話です。
まず最初に「いそかぜ」第二形態
海上自衛隊 護衛艦「いそかぜ」の名は、筆者の知る限り福井晴敏さんの小説「亡国のイージス」で初めて登場します。そしてこの小説が映画化され、その名は一層広く世に出ることになりました。(2005年)
「福井晴敏」という原作者にして優れたプロデューサーを持つ「亡国のイージス」は、小説に始まり、映画に続き漫画にもなる、と言ういわゆるメディアミックス展開されます。
https://www.youtube.com/watch?v=moqAqiyJ4eo&t=66s
「艦船好き」の皆さんなら、おそらく既にこの作品はご覧になったでしょうが、ざっとこの作品のあらすじをご紹介しておくと、イージス護衛艦「いそかぜ」を舞台として、「いそかぜ」を乗っ取り、東京湾でグソー(GUSOH)という化学兵器(毒ガス)によるテロを実行し、世界に反北朝鮮の世論を沸騰させ、祖国の政治形態を転覆させようとする北朝鮮の元工作員ホ・ヨンファ(中井貴一)と、それを防ごうとして、乗組員として潜入した防衛省情報局(DAIS)の工作員如月(勝地領)の死闘を描いたものでした。
映画では、「こんごう」級イージス護衛艦の3番艦「みょうこう」(DDG-175)が、「いそかぜ」の撮影舞台として使用されています。ですので映画に登場する艦番号は「175」なのです。
(直下の写真は、F-toysの「みょうこう」をストレートに組み立てたもの)
映画の中で、「いそかぜ」に乗組員として潜入した防衛省情報局の工作員に協力する「いそかぜ」の先任伍長仙石(真田広之)が、「グソー(化学兵器)を発射するなら、前部のVLSか、後部のVLSか・・・」と迷うシーンがありますが、下の写真は艦首と後甲板の艦番号。それぞれの少し後ろ(前?)に前後部のVLSが写っています。
仙石と如月は凄惨な死闘ののち、ホ・ヨンファの計画を阻止するのですが、最後に「いそかぜ」は自爆して沈没してしまいます。
余談ですが、亡国のイージスに登場する化学兵器「グソー(GUSOH)」は、アメリカ軍が沖縄で開発したVXガスの50倍の毒性を持つとされる神経ガスですが、福井晴敏さんの小説には数度にわたり登場します。(もちろんフィクションの世界です。・・・と筆者は希望します)
最初は「Twelve Y.O.」という小説で登場し、そのあまりに強力な毒性のために、漏出事件の末、ほぼ唯一効果を無効にできるテルミット・プラスという兵器(架空の強力な特殊焼夷弾)で、漏出を起こした辺野古基地ごと焼き払われてしまいます。(「辺野古ディストラクション」:福井作品では、しばしば登場します)
この残り(試料)が移送中に元北朝鮮工作員のホ・ヨンファに奪われて、「亡国のイージス」事件に話が繋がって行くのですが、さらに、これが驚くべきことに、数千年後にやはり福井晴敏さんの「ターンA・ガンダム」(小説名「月に繭 地には果実』)にも登場するのです。
ちなみに「グソー(GUSOH)」とは「後生」の沖縄方言読みで、冥界(死後の世界)を意味するそうです。
次に「いそかぜ」第三形態
そして「いそかぜ」は2019年に、もう一度映画に登場します。
それは本稿でも紹介した「空母いぶき」。「いそかぜ」は「いぶき」が所属する第五護衛隊群の一隻で、やはりここでも「こんごう」級イージス護衛艦の一隻、という設定です。
映画では「いそかぜ」ですが、原作であるコミックでは実在するイージス護衛艦「ちょうかい」として登場し、「いそかぜ」は登場しません。
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ちなみに、第五護衛隊群は原作コミックでは、「空母いぶき」(DDV-192)を中心に、これを護衛するイージス護衛艦「あたご」(DDG-177)、同じくイージス護衛艦「ちょうかい」(DDG-176)、汎用護衛艦「ゆうぎり」(DD-153)、「せとぎり」(DD-156)、AIP推進潜水艦「けんりゅう」(SS-504)、補給艦「おうみ」(AOE-426)で編成されていることになっています。
一方、映画では、諸々の設定の違い(周辺への配慮?)から、第五護衛隊群は全て架空艦で編成されています。「空母いぶき」(DDV-192)はそのままですが(これは元々架空艦です)、これを護衛するイージス護衛艦「あしたか」(DDG-190):原作では「あたご」、同じくイージス護衛艦「いそかぜ」(DDG-161):原作では「ちょうかい」、汎用護衛艦「はつゆき」(DD-122):原作では「ゆうぎり」、「しらゆき」(DD-124):原作では「せとぎり」、AIP推進潜水艦「はやしお」(SS-515):原作では「けんりゅう」、というような変更が加えられています。
(直下の写真は、「空母いぶき」版イージス護衛艦「いそかぜ」。F-toysの「ちょうかい」をベースにして、艦番号をデカールを貼り替えて変更しました。ちなみに艦番号「161」は、現用艦では使用されておらず、初代「あきづき」級護衛艦の一番艦「あきづき」の番号です)
(直下の写真は、艦首部、艦後甲板の艦番号の拡大)
そして、「いそかぜ」をこの映画で一際目立たせた要因は、なんと言っても山内圭哉さんが扮する浮舟艦長の「いてまえ〜!」ではなかったでしょうか?
原作コミックでも「ちょうかい」艦長の浮舟一佐は、ここぞと言う時には関西弁で指揮をとります。
そして「いそかぜ」第一形態
さて、なぜ、本稿が「いそかぜ」第二形態から始まったか、と言うお話になるのですが、これまで二形態の「いそかぜ」をご紹介してきましたが、この2隻はいずれも「こんごう」級イージス護衛艦の外観を示してきました(あまり明言はされていないような記憶があります)。
が、実は「亡国のイージス」の原作小説に登場するいわゆる初代「いそかぜ」は、「はたかぜ」級ミサイル護衛艦の3番艦として登場します。
皆さんはご承知だと思いますが、「はたかぜ」級ミサイル護衛艦は、海上自衛隊の対空ミサイル護衛艦としては第三世代にあたり、搭載するシステムはイージス・システムではなく、ターター・システムでした。ターター・システム搭載艦としては、「はたかぜ」級は最終世代に属し、システムもデジタル化し高度化し、イージス以前のミサイル駆逐艦としては頂点に立つ、という評価を得ていましたが、やはり弱点として、2-3目標までしか捕捉追尾出来ないと言う限界を抱えていました。
海上自衛隊でも次世代DDGとしてイージス・システム搭載艦が就役しており、第一線で活躍できる期間はそれほど長くないと思われていました。
一方、次々と就役が予定されているイージス艦は、従来のDDHを中心とした護衛隊群の艦隊防空の他に、周辺有事の状況変化(相次ぐ北朝鮮の弾道ミサイルの発射実験など)に伴い、弾道ミサイル防衛(BMD)の役割も担うこととなります。実はこの二つの役割は迎撃高度、タイミングの差異から、同時対応、つまり両立が難しく、新たに艦隊防空の任務の分担を検討することが必要になってきます。
現在、実際にはこの役割は、イージス艦とコンビを組む汎用護衛艦に一部負担させるべく、汎用護衛艦の高性能化で対応することになっていますが、「亡国のイージス」では、「はたかぜ」級3番艦の「いそかぜ」に試験的に白羽の矢が立ち、この対策の一つとして、試験艦「あすか」で試験されてきた「ミニ・イージス・システム」を搭載し、それに関連する改装を行った、と言う設定になっています。
これに関連した記事(もちろん架空)が下のURLにあります。
http://www.masdf.com/news/isokaze.html
この、ミニ・イージス・システムの搭載に伴い、艦橋前に搭載されていたアスロック・ランチャーを16セルのVLSに換装し、従来から搭載されていた艦首のMK.13ミサイル発射基に加え発射即応性を高め、主砲も従来の54口径5インチ単装速射砲(Mk.42)から、オート・メララ製の54口径5インチ単装速射砲(127mmコンパット砲)に変更し、対空能力の向上が図られました。
(直下の写真は、F-toys製「はたかぜ」をベースに改装された「いそかぜ」。「はたかぜ」の艦橋上部にDesktop Fleet 製のAsukaの艦橋上部のイージスシステムドームを追加。主砲を換装し、アスロックランチャーに換えて16セルのVLSを搭載しました。さらに艦番号を183に変更)
(艦橋上部に追加搭載されたイージスシステムドームと、換装した主砲、VLSのアップ。艦番号を変更)
「いそかぜ」という名前
ところで、本稿を読んでいただいているような方ならば、映画で「いそかぜ」が「こんごう」級 イージス護衛艦の姿で登場したことに若干の違和感を持たれた方もいらっしゃるのではないでしょうか?
イージス護衛艦「こんごう」級は「こんごう」「きりしま」「みょうこう」「ちょうかい」と全て「山」の名前がつけられており、その後の「あたご」級でも、「あたご」「あしがら」と山の名前を命名することが踏襲されています。これは旧海軍の重巡洋艦、巡洋戦艦(後に高速戦艦)が「山」の名前を艦名としてことを踏襲しています。
元来、護衛艦はDDの分類符号からも、多くは駆逐艦に分類され、旧海軍の慣例に倣って(慣例かどうかはよく知りませんが、多分そうですよね)「つき」「なみ」「きり」「ゆき」「あめ」そして「かぜ」など気象関連の名前が付けられる事が、創設以来一般的でした。
その慣例は海上自衛隊初のヘリコプター搭載護衛艦「はるな」級の就役から変わって行きます。「はるな」級は「はるな」「ひえい」、続く「しらね」級では「しらね」「くらま」と、以降、大型艦には「山」の名前がつけられるようになります。前出のイージス護衛艦もこの系列にありますね。(さらに最近はさらに大型の全通甲板型のDDHには日本の律令制以来の旧国名が艦名として使われ始めています。「ひゅうが」級の「ひゅうが:日向」「いせ:伊勢」、「いずも」級の「いずも:出雲」「かが:加賀」という感じですね)
そうした意味では、「こんごう」級イージス護衛艦の形態を示す艦に「いそかぜ」と気象関連の名前を付けることには違和感を覚えずにはいられません。
では、護衛隊群の防空を担うイージス艦以前のミサイル護衛艦(DDG)にはどのような名前がつけられていたか、というと、その初代は「あまつかぜ」、第二世代「たちかぜ」級は「たちかぜ」「あさかぜ」「さわかぜ」、そして第三世代「はたかぜ」級は前出のように「はたかぜ」「しまかぜ」と、全て「かぜ」で統一されています。
従って、「はたかぜ」級の3番艦であれば、「いそかぜ」の名はふさわしい、と言うべきでしょう。
もう一つ、ついでに艦番号について。
艦隊防空を担うDDGは、「あまつかぜ」DDG-163、「たちかぜ」級3隻がDDG-168~170、「はたかぜ」級2隻がDDG-171, 172、続くイージス艦「こんこう」級の4隻がDDG-173~176、「あたご」級2隻はDDG-177,178、そして最新の「まや」級2隻がDDG-179,180と続きます。
艦隊防空、という視点で言えば、初代「あきづき」級の2隻も、そういう役割を負っていましたが、艦番号はDD-161,162でしたし、「あまつかぜ」と「たちかぜ」級の間の「たかつき」級4隻(DDA-164,165,166,167)も、新型の54口径5インチ単装速射砲(Mk.42)を2基搭載する対空能力に優れた艦でした。「こんごう」級の就役以前には、ターター・システム搭載のDDGとDDA「たかつき」級が護衛隊群の防空を担当するという時期がありました。
こうした観点で見れば、「空母いぶき」に登場した浮舟艦長の「いそかぜ」第二形態がDDG-161の艦番号を継承したことも、なんとなく納得ですね。
一方で「はたかぜ」級3番艦である「いそかぜ」第三形態が背負っているDDG-183は、現在、DDH「いずも」の番号になっていますが、当時はおそらく「いずも」級の計画前であり、この番号を付与された、と考えることもできるでしょう。
と、名前、艦番号にも選択や付与に一定の法則がありそうです。これもまた興味深い。
幻の「亡国のイージス」前日譚:Call the Role
余談ですが、長編小説「亡国のイージス」には、その姉妹編として、この改装にまつわる前日譚を描いた短編小説集があるのです。
その改装は非常に大規模で、約9ヶ月を要しました。更にその後の公試などで再就役までに、「いそかぜ」はほぼ1年を要しているのです。
その改装工事中には、前出の「いそかぜ」の仙石先任伍長 は、造船所とのやり取りに疲れ果て、完工後には艦橋上に現れた「芽の生えたタマネギ」のようなミニイージスシステムのドームを見て「おれの艦を、こんなに不細工に造り変えやがって」と憤慨し、更に彼自身の部署であったターター・システムがミニ・イージス・システムによって無用の長物化したことに、自分も時代遅れになったかのように寂しい思いをするのです。
さらに、艦長と副長以外ほとんどの幹部クルーが入れ替わり(実は、この異動は、その後のテロ実行に向け仕組まれたものだったのですが)、乗組員たちも入れ替わり、これから先の混乱を予想して、先任伍長はため息をつくのです。
・・・と言うような「亡国のイージス」前日談が、実は「Call The Role」という別冊小説になっています。この本は仙石先任伍長だけでなく、その他の主要な本編登場人物の前日譚の短編集というような趣の本になっています。(「Call The Role」というのは「点呼」というような意味合いだそうです)
この本、実はピットロード社製の「いそかぜ」のフィギュアとセットで販売されていたのですが、今や入手が非常に困難な「幻の本」となっています。
https://www.amazon.co.jp/原作版《いそかぜ》-精密フィギュアセット-福井-晴敏/dp/4062751518
フィギュアはさておき、本だけでも再版されればいいと思うのですが。できれば文庫本でね。
この本にはもう一つ、大変貴重な点があります。実はその後書き(?)がフィギュアを手掛けた模型メーカー「ピットロード」の企画開発部のお二人(そのうちの一人は原型製作者)によって書かれているのです。前述の「後書き」という言葉に?をつけたのは理由があって、後書きと言うよりも、「いそかぜ」のFRAMによる性能向上と意義を記述された内容になっています。大変コンパクトで面白い!
欲しくなってきたでしょう。再版してくれればいいのに。
おまけ?
さて、最後に直下の写真は、「はたかぜ」級ミサイル護衛艦のそろい踏み(?)。手前からDDG-172「しまかぜ」、DDG-171「はたかぜ」、DDG-183「いそかぜ」の順。
前出の「DDG-183」の記事www.masdf.comには、僚艦「うらかぜ」と共に第65護衛隊を編成、という記載があります(もちろん架空ですよ)。どうしようかな、「うらかぜ」も作ってみようかな。
しかし、同記事の中には「しかしこの近代改修工事は、いそかぜの場合で450億円と高額であるため財務省の片山さつき担当主計官は「近年の緊縮財政期においてこのような費用対効果が悪い計画に意味があるのか?ミニ・イージス戦艦なんて時代遅れよ!」と、今後の予算化には消極的。またアメリカ政府も日本の「ミニ・イージスシステム」開発に対して日本の軍事的独立を警戒し不快感を募らせており、今後順調に計画が進行するかどうかはまったく不透明である」という記載があり、その後さらにミニ・イージス化が進められたのかどうか。
つまり「うらかぜ」をミニ・イージス搭載艦形態で作るべきかどうか、はっきりしませんね。ちょっと困った。
・・・ああ、そうか、いいこと思いついた。両方作っちゃえ!
まあ、これも新たな楽しみ発見、ということで。
しかし、その後、原作等を読み返すと、「隊司令の衣笠一佐が、あえて旧型の第二世代ミサイル護衛艦「うらかぜ」を座乗艦に選んだのも・・」と言う記述があるではないですか。
ありゃリャ、これは「たちかぜ」級だぞ。と言うわけで、残った一隻は「うらかぜ」として制作することに・・・。
「うらかぜ」(DDG-162):架空護衛艦
(直下の写真:DDG-162: うらかぜ Amature Wargame Figures製 WNV素材モデル。写真を下記のようにアップにすると、やはりWNV素材の仕上がりの荒さが気になりますね。肉眼で見ている分には、それほど気にならないのですが)
細部は、武装の換装など、ほぼ「さわかぜ」と同じ仕様で仕上げてあります。最後に艦番号「162」を貼付して、出来上がり。
この艦番号、決定までに少し紆余曲折がありました。
と言うのも、「いそかぜ」については原作中に「183」と言う艦番号が明記されているのですが、「うらかぜ」については、艦番号に関する記述はありません(少なくとも、私が読みこんが限りでは。もしどこかに記載があったら、是非お知らせ下さい)
そこで、「たちかぜ」級の4番艦であれば、本来は艦番号「171」が付与されるべきなのですが、この番号は実際には、すでに次級「はたかぜ」級DDGのネームシップ「はたかぜ」に付与されています。その後はミサイル護衛艦の番号は最新型の「まや」級の「はぐろ」の「180」まで、すべていっぱいで、さらにその後は181から184までDDHの「ひゅうが」級、「いずも」級に付与されていて、空きがありません。(そう言う意味では小説版「亡国のイージス」の「いそかぜ」の183番も、実際にはDDH「いずも」の艦番号になってはいるのですが)
止むを得ず、「うらかぜ」の就役時点ではすでに退役していたであろう防空担当護衛艦の番号を、と言うことで、初代「あきづき」級の2番艦「てるづき」(1981年、特務艦籍に変更 この時点で、DD-162からASU-7012に艦番号を変更)の番号をいただいた、と言うわけです。「うらかぜ」の前の「たちかぜ」級3番艦の「さわかぜ」の就役が1983年ですので、少なくとも「うらかぜ」の就役はそれ以降と想定できますので、なんとか辻褄は合うかと。(余談ですが、前述の「いそかぜ」の項でも触れましたが、映画版「空母いぶき」の「いそかぜ」は初代「あきづき」の艦番号「161」をもらっています)
と言うことで、少し苦労しましたが、艦番号は「162」に決定。
第65護衛隊(「いそかぜ」(DDG-183), 「うらかぜ」(DDG-162))
(直下の写真は、第65護衛隊の2隻。手前:「うらかぜ」(DDG-162) と奥:ミニ・イージスシステム搭載艦に改装後の「いそかぜ」(DDG-183))
(直下の写真:参考までにターターシステムからイージスシステムへの換装後の「いそかぜ」(DDG-183)。「はたかぜ」級DDGをベースに、艦橋上部にミニ・イージスシステム用のドームを追加。主砲をオート・メララ製の54口径コンパット砲に換装、併せて、アスロック・ランチャー設置箇所に、16セルのVLSを設置して即応性を高めるなどの工夫があります)
おまけ第二弾
PC うみたか級駆潜艇(1959-1989同型艦 4隻)/PC みずとり級駆潜艇(1960-1989同型艦 8隻)
(「みずとり級」駆潜艇の概観:48mm in 1:1250 by Hai)
海上自衛隊は沿岸哨戒、港湾哨戒用の艦艇として「駆潜艇」の艦級を保有していました。「駆潜艇」の艦級としては、上記の2級以前に「かり級」「かもめ級」「はやぶさ」などが存在しました。いずれも400トン程度の大きさの船体を持ち、20ノット程度の速力を有していました。(「はやぶさ」のみやや小型で速力は26ノット)
兵装は40mm機関砲を主砲として、対ヘッジホッグや爆雷投射機、投射軌条を装備しています。
(「みずとり級」駆潜艇の主要兵装:40mm機関砲と艦橋前のヘッジホッグ(上段)と、艦尾部の爆雷投射兵装類。他ん魚雷発射管は未装備か?)
「うみたか級」「みずとり級」は第二世代とも言え、兵装として短魚雷発射管を装備しているところが特徴と言えます。
周辺諸国の潜水艦配備が原子力潜水艦装備に移行すると、「駆潜艇」的な装備では対応に不足が生じ、本来の対潜哨戒は「護衛艦」へ、水上沿岸哨戒は「ミサイル艇」等の高速艇に移管されて行くことになります。
余談ですが前出の「はやぶさ」の艦名は、現在では「ミサイル艇」に引き継がれています
(「うみどり級」駆潜艇(手前)と「はやぶさ級」ミサイル艇(奥)の艦型比較の概観)
(「はやぶさ級」ミサイル艇の概観:43mm in 1:1250 by F-toys:本級のモデルはF-toysの「現用艦船キットコレクションの一部のおまけとして同梱されています)
沿岸警備用の現役高速艇です。
200トンの線型を持ち、76mm単装速射砲と90式SSM(艦対艦ミサイル)連装発射機を2基搭載しています。主機をガスタービンとしてウォータジェットポンプを推進機として44ノットの高速を発揮できます。
(「はやぶさ級」ミサイル艇の主要兵装:ステルス性に配慮した設計の76mm速射砲(上段)と日本版「ハープーン」というべき90式SMSを搭載しています(下段))
2002年から6隻が配備されています。2021年から順次退役し、新型の護衛艦と建造中の「哨戒艦」(どんな船だろう?)に現在の任務を引き継ぐ予定です。
(「はやぶさ級」ミサイル艇の勢揃い、というタイトルをつけるには、ああ、一隻足りない。残念!)
一方で「はやぶさ級」はフィリピンとの防衛協力でのフィリピン側からの貸与希望装備のリストにあげらているとの情報もあります。南シナ海に火種を抱えるフィリピン海軍としては、高速・高性能の本級は欲しい装備でしょうね。
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Imperial Japanese Navy (IJN)/大日本帝国海軍
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装甲艦:1クラス
前弩級戦艦:4クラス
準弩級戦艦:2クラス
装甲巡洋艦:6クラス
戦利艦:前弩級戦艦:5クラス
弩級戦艦:1クラス
超弩級戦艦:6クラス(未成2クラス、架空1クラスを含む)
超弩級巡洋戦艦:4クラス(未成2クラス、架空1クラスを含む)
新戦艦:3クラス(未成1クラス、架空1クラスを含む)
新高速戦艦:1クラス(架空)
番外
宇宙戦艦:2クラス
日本における近代国家は、アヘン戦争以降の、清国での列強蚕食の惨状への危機感から成立した。その「惰弱」な清国を依然、宗主国として「無邪気」にその影響下にあり続ける朝鮮国に、隣の半島を委ねることに身をよじる程の危うさを覚えた。
日清戦争は、そのように、日本の影響下での朝鮮の独立確保が主命題であったから、遼東半島の領有は、大躍進であると言えた。
にも関わらず、直後の独・仏・露による三国干渉(1895)で、この割譲は反故にされ、あろうことかその遼東半島はロシアの租借地となった。
言うまでもなくロシアは欧州列強の中で唯一、国境を極東に接している。つまり列強の中で即座に極東に陸兵を展開できる、唯一の国、ということである。日本の危機感からすれば、最もその進出を警戒すべき相手であるロシアが、そうした事態の出現を防ぐことが目的だったはずの日清戦争の結果、念願の不凍港と、南下の拠点を、朝鮮のすぐ隣に得ることになった。
遼東半島を租借地としたロシア帝国は、たちまち満洲を貫く鉄道を引き、鉄道警備の名目で大量の陸兵を駐屯させ、満洲全土をその影響下においた。同時にその先端の旅順港にヨーロッパ式の本格的な要塞を築きはじめ、ここをロシア太平洋艦隊の拠点とした。
この旅順を根拠地として、ロシアは近代戦艦8隻(予定)を基幹とする強大な艦隊を建造した。これに対抗すべく、日本は近代戦艦6隻、これに準じる装甲巡洋艦6隻を基幹とする、いわゆる六六艦隊計画に着手し、これを実行した。
Pre-Dreadnought /Semi-Dreadnought Era
Japanese ironclad Fusō - Wikipedia
(1879-, 3717t, 13knot, 9.4in *4 55mm in 1:1250 by Hai)
明治初年、海軍は、旧幕府、諸藩の寄せ集めによって設立されたと言っていい。軍艦も同様である。
そこで、戊辰戦争、佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争を経て、近代的な軍艦の整備が急務とされた。
明治政府は1875年、イギリスに3隻の軍艦を発注した。その一隻が「扶桑艦」である。
「扶桑艦」は竣工当初は三本のバーク型マストを持つ汽帆走併用艦であった。明治海軍として初の装甲艦で、中央の砲郭にクルップ式20口径24センチ後装式主砲四門を収納し、4000トン足らずの小艦であることを除けは、当時の列強主力艦の形式を踏襲していた。後述の「鎮遠(定遠級)」の登場までは、アジア唯一の装甲艦であった。
近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship
Fuji-class battleship - Wikipedia
(1897-, 12230t, 18knot, 12in *2*2, 2 ships 97mm in 1:1250 by Navis))
日清開戦が濃厚に予感される時期、当面の仮想敵である清国北洋艦隊は、ドイツ製の定遠級戦艦(甲鉄砲塔艦)2隻をその主力として就役させた。日本海軍は三景艦(松島・厳島・橋立)を建造し、これに対抗しようとしたが、いずれも装甲を持たない防護巡洋艦であり、劣勢は明らかであった。
この為、当時、イギリスで登場した本格的な航洋性を備えた近代戦艦の導入が計画された。しかしこの計画は、その急務であることは理解されながらも、数年の間、予算の問題から実現に至らなかった。ようやく1894年、勅命による宮廷費の削減、公務員の給与一部返納などの非常手段により、建造にこぎつけた。富士級の二隻は、そのようにして建造された。その無理にも関わらず、就役は、日清戦争後の1897年であった。その連装砲塔には、装填時に首尾線正位置に戻す必要がある、という装填機構上の課題があった
Shikishima-class battleship - Wikipedia
(1900-, 14850t, 18knot, 12in *2*2, 2ships 99mm in 1:1250 by Navis)
イギリス、アームストロング社エルジック造船所で建造された。前級の富士級に比べ、艦型は一回り大きくなり、就役当時は「世界最大の戦艦」と言われた。。敷島級4隻の中でも、本艦と「敷島」のみ、3本煙突である。富士級では、主砲装填には前後それぞれ中心線に砲塔を戻す必要があったが、本級からは、どの位置でも装填が可能な機構が採用され、射撃速度、照準に著しい改善を得た。
Japanese battleship Asahi - Wikipedia
(1900-, 15200t, 18knot, 12in *2*2 99mm in 1:1250)
イギリス ジョン・ブラウン社製。敷島級戦艦の二番艦。
Japanese battleship Mikasa - Wikipedia
(1902-, 15140t, 18knot, 12in *2*2 99mm in 1:1250 by Navis)
イギリス ビッカース社製。敷島級戦艦の四番艦であり、いわゆる六六艦隊計画の最終艦である。日本海軍は六六艦隊計画の実行に当たり、世界に先駆けて搭載砲口径の統一を行った。そのため六六艦隊の戦艦は全て40口径30.5センチ砲、副砲は40口径15.2センチ速射砲で統一されている。「三笠」は、日露戦争を通じ、連合艦隊の旗艦を務めた。
装甲巡洋艦 Armored Cruiser
日本海軍の装甲巡洋艦は、全て同一の兵装とほぼ同じ速度を持ち、一単位として行動することを前提として設計されていた。いわば、主力戦艦部隊を支援する「ミニ戦艦」として艦隊決戦に参加する事を前提に建造された「戦闘艦艇」であったと言っていい。
出雲型装甲巡洋艦 - Wikipedia armored cruiser Izumo class
Izumo-class cruiser - Wikipedia
(1900-, 9,750t 20.3knot, 2ships)(100mm in 1:1250 by Navis)
いずれもイギリス アームストロング社製。六六艦隊計画に沿って建造された艦で、この6隻は、全て45口径20.3センチ連装砲を2基を主砲とし、40口径15.2センチ速射砲を副砲としていた。
Asama-class cruiser - Wikipedia
イギリス アームストロング社製。他の設計段階からの発注形式の艦と異なり、既製艦を購入したため、購入時は六六艦隊計画最終期でありながら、就役は最も早い艦となった。
武装は六六艦隊計画の基本通り、統一口径を採用しており、45口径20.3センチ連装砲を前後に、副砲として15.2センチ速射砲を装備している。 (1899-, 9,700t 21.5knot, 2 shipa )(98mm in 1:1250 by Navis)
吾妻 (装甲巡洋艦) - Wikipedia armored cruiser Azuma
Japanese cruiser Azuma - Wikipedia
(9,326t 20knot)(106mm in 1:1250 by Navis)
六六艦隊の中で唯一フランスで生まれた艦である。兵装等は他の装甲巡洋艦と統一されていた。
八雲 (装甲巡洋艦) - Wikipedia armored cruiser Jakumo
Japanese cruiser Yakumo - Wikipedia
六六艦隊計画の中で、唯一、ドイツに発注された。砲装備などは、六六艦隊計画に添い、45口径20.3センチ主砲、15.2センチ副砲で統一されているが、同じ3本煙突ながら、イギリス製の出雲級と比べ、やや重厚な艦容であるように思える。
(1900, 9,695t 20.5knot )(99mm in 1:1250 by Navis)
春日 (装甲巡洋艦) - Wikipedia armored cruiser Kasuga
Japanese cruiser Kasuga - Wikipedia
春日級装甲巡洋艦は、六六艦隊計画完成後に、既述のように、開戦直前にアルゼンチンから購入したイタリア製のジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦のうちの2隻である。六六艦隊計画では、搭載砲の口径統一が行われたが、六六艦隊計画間に属さない「春日」のみは、前部主砲に40口径25.4センチ砲を採用している。この砲は、連合艦隊の艦載砲の中で最も射程が長く、旅順要塞の要塞砲の射程外から港内に砲撃が可能であった。日本海軍は旅順沖で機雷により喪失した戦艦「初瀬」「八島」の代わりに、この春日級装甲巡洋艦を第一艦隊、第一戦隊に編入した。(1904-, 7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250 by Navis)
日進 (装甲巡洋艦) - Wikipediaarmored cruiser Nisshin
Japanese cruiser Nisshin - Wikipedia
「春日」同様、開戦直前にアルゼンチンから購入されたイタリア製装甲巡洋艦である。「春日」と異なり、「日進」の主砲は、前・後部共に、45口径20.3センチ連装砲である。「春日」の項に記載した通り、本艦も「春日」と共に、第一戦隊(戦艦戦隊)に編入された。このため、主要な海戦においては敵艦隊の主軸艦からの砲撃を引き受けることになり、第一戦隊の他艦以上の苦労があった。(1904-, 7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250 by Navis)
近代型巡洋戦艦 Pre-Dreadnought battlecruiser
Tsukuba-class battlecruiser - Wikipedia
(1907-, 13750t, 20.5knot, 12in *2*2, 2 ships 119mm in 1:1250 by Navis semi-scrached from Ibuki )
1904年5月15日は日本海軍にとって災厄の日であった。
この日、旅順沖を哨戒航行中の戦艦「初瀬」ならびに戦艦「八島」の2隻がほぼ同時に触雷、沈没してしまった。当時、日本には戦艦は6隻しかなく、一瞬で、海軍はその主戦力の3分の1を失った。
この喪失を補充するために1904年度臨時軍事費で、急造の下命が降ったのが、筑波級装甲巡洋艦であった。
その特徴は、何と言っても、装甲巡洋艦でありながら、当時の戦艦と同じ45口径30.5センチ砲4門を主砲として装備していたことである。後に巡洋戦艦に区分されるが、主砲は前述のように戦艦と同等、速力は当時の装甲巡洋艦と同じ20.5ノットを発揮し、装甲は戦艦と同等、という、いわゆる高速戦艦の奔り、とでもいうべき優れた艦であった。
急造の命の下、起工から就役まで2年という短期間で建造が不休で行なわれたが、就役は日露戦争後の1907年であった。
戦利艦の修復と再就役
これまでの稿でも都度触れてきたが、日露戦争の経緯で、日本海軍は以下のロシア戦艦を捕獲し、再就役させた。
戦艦丹後:旧名ポルタワ(ペトロパブロフスク級)(1905-1916:日本海軍在籍期間)
戦艦相模:旧名ペレスヴェート(ペレスヴェート級)(1905-1916:日本海軍在籍期間)修復完了1908
戦艦周防:旧名ポペーダ(ペレスヴェート級)(1905-1922:日本海軍在籍期間)修復完了1908
戦艦肥前:旧名レトヴィザン(1905-1923:日本海軍在籍期間)修復完了1908
戦艦石見:旧名オリョール(ボロジノ級)(1905-1922:日本海軍在籍期間) 修復完了1908
建造時から課題とされた復元性の改善のため、副砲塔の撤去、さらに上甲板を一層削減するなど、大規模な修復、改造が行われ、艦容が一変した。
二等戦艦壱岐:旧名ニコライ1世(1905-1915:日本海軍在籍期間)
(丹後:上段左、相模:中段左、周防:下段左、肥前:上段右、石見:中段右、壱岐:下段右)
強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship
Katori-class battleship - Wikipedia
(1906-, 15950t, 18knot, 12in *2*2 & 10in *4, 2 ships 110mm in 1:1250 /3D printing by Master of Military)
1904年、日本は迫り来る日露間の戦争に備え、香取、鹿島の両戦艦をイギリスのビッカース社とアームストロング社に発注し、起工した。2艦はイギリス戦艦キング・エドワード7世級をタイプシップとし、それまでの日本の近代型戦艦の標準主砲であった45口径30.5センチ級主砲4門に加え、45口径25.4センチ中間砲4門を装備する強力な艦で、のちに準弩級戦艦に分類される艦であった。竣工までの時期を短縮する目的で、造船所を2社に分けたにも関わらず、就役は日露戦争終結後であった。
両艦には、煙突位置に小異がある。
Satsuma-class battleship - Wikipedia
(1910-, 19372t, 18-20knot, 12in *2*2 &10in *2*6, 2 ships 122mm in 1:1250 by WTJ)
初の国産戦艦である。
前級の香取級に対し、砲力を格段に強化し、従来の主砲 45口径30.5センチ砲4門に加え、香取級で初めて導入した中間砲(45口径25.4センチ砲)を連装砲塔6基12門とした。
あわせて安芸には、前述の装甲巡洋艦「伊吹」でテストされたタービンを搭載しており、20ノットの優速を発揮した。機関の差、ボイラー配置の差から、外観に差異が生じ、薩摩が2本煙突であるのに対し、安芸は3本煙突である。
強化型近代巡洋戦艦 Semi-Dreadnought battlecruiser
Ibuki-class armored cruiser - Wikipedia
(1908-, 14636t, 21.25knot, 12in *2*2 & 8in *2*4, 2 ships 119mm in 1:1250 by Navis)
本級は、前述の筑波級装甲巡洋艦の改良型として、またこれも前述の香取級戦艦に匹敵する強力な砲力を有する高速主力艦として設計された。主砲は、筑波級と同じ日本海軍の戦艦の標準砲である45口径30.5センチ砲4門を装備し、副砲に45口径20.3センチ砲を起用し、これを連装砲塔4基に収めた。
鞍馬は従来型のレシプロ機関を搭載したが、伊吹は、後述の戦艦安芸に搭載予定のタービン搭載試験艦となり、このため建造が急がれ、就役がネームシップの鞍馬より先行した。
一方、就役に余裕があったため、鞍馬は当時最先端の三脚前後マストを採用している。
Dreadnought /Super-Dreadnought Era (around WW1)
日露戦争後の艦隊整備に注力したため、弩級戦艦、超弩級戦艦の整備に出遅れた。実戦経験では一級海軍でありながら、旧式装備での開戦に甘んじなければならなかった。
弩級戦艦2隻、ドイツより購入した弩級巡洋戦艦2隻、超弩級巡洋戦艦2隻(2隻は建造中、大戦中に就役)で第一次大戦に臨んだが、これらの主力艦は、第一次大戦お主戦場がヨーロッパであったため、ほとんど出番がなかった。
弩級戦艦 Dreadnought battleship
Kawachi-class battleship - Wikipedia
(1912-, 20,800t, 20knot, 12in L50 *2*2 + 12in L45 *2*4, 2 ships)(125mm in 1:1250 by Navis)
前級の薩摩級よりも少し大きな船体に、薩摩級では12門装備していた中間砲を廃止し、全て30.5センチとし、連装砲塔6基を6角形に配置している。この配置により、首尾線方向に6門、両舷方向に8門の主砲を指向できた。機関は前級2番艦「安芸」が搭載し好成績を示したタービン式を採用し、20ノットの速力を発揮することができた。
日本海軍念願の弩級戦艦ではあったが、その主砲には課題があった。艦首尾砲塔の30.5センチ砲が50口径であったのに対し、舷側砲塔は45口径であり、二種類の砲身長、初速の異なる主砲を装備していた。厳密には弩級戦艦の「同一口径の主砲による統一した射撃管制指揮に適している」という要件を満たしていなかった。
実際に、その主砲の斉射にあたっては艦首尾砲塔は弱装火薬を用いることによってこれらの不都合を解消しなくてはならなかった。これでは、50口径の長砲身を持つ意味がなかった。
さらに、河内級が採用した50口径砲自体にも問題があった。この砲は英アームストロング社製で、イギリス海軍の戦艦でも採用されていた。しかし、同社の技術を持ってしても、砲身に大きなしなりが発生し命中精度が下がること、併せて砲身寿命が短いなど、高初速に起因する欠点があり、このことが、英海軍がオライオン級戦艦から34.3センチ砲を採用する動きの一因となった。
弩級巡洋戦艦 Dreadnought battlecruiser
河内級戦艦の建造と並んで、「旧式艦ばかりの二流海軍」からの急遽脱却を図るべく、海軍は欧米列強の既成弩級戦艦の購入を模索し始めた。
あわせて、より深刻な要素として、当時、各国の海軍で導入されていた装甲巡洋艦の高速化への対応が、検討されねばならなかった。すなわち、当時の日本海軍が保有する主力艦の中で最も高速を有するのは装甲巡洋艦(巡洋戦艦)「伊吹」であったが、その速力は22ノットで、例えば膠州湾青島を本拠とするドイツ東洋艦隊のシャルンホルスト級装甲巡洋艦(23.5ノット)が、日本近海で通商破壊戦を展開した場合、これを捕捉することはできなかった。
これらのことから、特に高速を発揮する弩級巡洋戦艦の導入が急務として検討され、その結果、弩級巡洋戦艦「蓼科」「劔」の購入が決定された。
「劔」「蓼科」は、2 艦で巡洋戦艦戦隊を構成し、この戦隊の発足がシュペー提督のドイツ東洋艦隊の本国回航を決意させた遠因となったとも言われている。
弩級巡洋戦艦「蓼科」(独装甲巡洋艦ブリュッヒャー2番艦改造)
Battlecruiser Tateshina(Fictional: Based on armoerd cuiser SMS Blücher. IJN purchaed 2nd ship of her class under cinsruction and remodled to battle cruiser)
(1912-, 16,500t, 25.4knot, 12in *2*3)(127mm in 1:1250 by Navis)
ドイツ海軍の装甲巡洋艦「ブリュッヒャー」の2番艦を巡洋戦艦に改造、導入したものである。
ブリュッヒャーは、従来の装甲巡洋艦の概念を一掃するほどの強力艦として建造されたドイツ帝国海軍の装甲巡洋艦である。装甲巡洋艦におけるドレッドノートと言ってもいいかもしれない。主砲は44口径21センチ砲を採用し、戦艦並みの射程距離を有し、搭載数を連装砲塔6基として12門を有し、また速力は25ノットと、当時の近代戦艦(前弩級戦艦)、装甲巡洋艦に対し、圧倒的に優位に立ちうる艦となる予定であった。
しかしながら、同時期にイギリスが建造したインヴィンシブルは、戦艦と同じ、30.5センチ砲を主砲として連装砲塔4基に装備し、速力も25.5ノットと、いずれもブリュッヒャーを凌駕してしまったため、ドイツ海軍は急遽同等の弩級巡洋戦艦建造に着手しなければならず、ブリュッヒャーは中途半端な位置づけとなり、後続艦の建造が宙に浮いてしまうこととなった。
日本海軍はこれに目をつけ、この2番艦の建造途中の船体を購入し、「蓼科」と命名、これを巡洋戦艦仕様で仕上げることにした。主な仕様変更としては、主砲をオリジナルの44口径21センチ砲12門から、日本海軍仕様の45口径30.5センチ連装砲塔3基および同単装砲塔2基、として計8門を搭載した。この配置により、首尾線方向には主砲4門、舷側方向には主砲7門の射線を確保した。機関等はブリュッヒャー級のものをそのまま搭載したところから、ドイツで建造した船体をイギリスで仕上げる、といった複雑な工程となった。が、狙い通り就役は「河内級」とほぼ同時期であった。
速力は25ノットの、当時の日本海軍主力艦としては、最も高速を発揮したが、装甲は装甲巡洋艦ブリュッヒャーと同等の仕様であったため、やや課題が残る仕上がりとなった。
弩級巡洋戦艦「劔」(独弩級巡洋戦艦 フォン・デア・タン2番艦改造)
Battlecruiser Tsurugi (Fictional: Based on battlecruiser SMS Von Derr Tann. IJN purchaed 2nd ship of her class under cinsruction and remodled to battle cruiser with 12in L50 )
(1912-, 19,800t, 25.5knot, 12in L50 *2*4)(136mm in 1:1250 by Navis)
弩級巡洋戦艦「蓼科」の保有に成功した日本海軍であったが、上記のように、本来は装甲巡洋艦であったために、その防御力にはやや課題が残った。併せて、河内級のイギリス製の50口径主砲がやはり前述のような課題があったため、日本海軍は当時50口径砲の導入に成功していたドイツを対象に、もう一隻、弩級巡洋戦艦の購入を模索することにした。
白羽の矢が立ったのは、ドイツ海軍初の弩級巡洋戦艦「フォン・デア・タン」の2番艦で、すでにドイツ海軍の上層部の関心が、より強力な次級、あるいはさらにその次のクラスに向いてしまったため、やはり宙に浮いていたものを計画段階で購入することにした。
ブリュッヒャー級2番艦の場合と異なり、今回はその基本設計はそのままとし、主砲のみ、既に戦艦ヘルゴラント級で搭載実績のある1911年型50口径30.5センチ砲に変更し、船体強度などに若干の見直しを行った。同砲では河内級でイギリス製の50口径砲に見られたような問題は発生せず、ドイツの技術力の高さを改めて知ることになる。
主砲の口径の拡大と、それに伴う構造の変更があったにも関わらず、速力はオリジナル艦と同等の25.5ノットを確保することが出来た。
超弩級戦艦 Super-Dreadnought battleship
第一次大戦開戦当初、日本海軍は、特に弩級戦艦、超弩級戦艦の整備で諸列強に大きく出遅れた。
本稿でも触れたが、例えば開戦時の主力艦の保有数をみれば、イギリスは弩級・超弩級戦艦を22隻、巡洋戦艦を9隻、前弩級戦艦を40隻保有していたのに対し、ドイツ帝国はこれに次いでそれぞれ14隻、4隻、22隻で、名実ともに当時の雌雄であった。これに次ぐのはアメリカ海軍で、それぞれ12隻、0隻(アメリカは何故か、巡洋戦艦に興味を示さなかった)、23隻、さらに、かつての大海軍国フランスは、それぞれ3隻、0隻、17隻であった。一方、イタリア海軍は3隻、0隻、8隻、オーストリア=ハンガリー海軍は4隻、0隻、9隻で、地中海で対峙していた。
日本海軍を見ると、弩級戦艦2隻(河内、摂津)、超弩級戦艦なし、巡洋戦艦2隻(金剛、比叡:大戦中に榛名、霧島2隻が就役)、前弩級戦艦17隻で、そのうち第一線級の戦力とみなされるものは、金剛級の巡洋戦艦だけであった。超弩級戦艦の整備が切望された。
金剛級超弩級巡洋戦艦と対をなす超弩級戦艦として、扶桑級戦艦は建造された。
主砲は金剛級と同じ14インチ砲で、これを連装砲塔6基12門搭載。艦首部と艦尾部は背負い式配置として、残り2基をを罐室を挟んで前後に振り分けた。軍艦史上初めて30,000トンを超える大鑑で、日本海軍の念願の超弩級戦艦は、一番艦の扶桑完成の時点では、世界最大、最強装備の艦と言われた。
艦型全体で見ると、6基の砲塔はバランス良く配置されているように見えるが、実はこれが斉射時に爆風の影響を艦上部構造が全体に及ぼすなどの弊害を生じることが完成後にわかった。また罐室を挟んで砲塔が配置されたため、出力向上のための余地を生み出しにくくなっていることもわかった。さらに欧州大戦でのユトランド海戦での長距離砲戦への対策としては、水平防御が不足していることが判明するなど、世界最大最強を歌われながら、一方では生まれながらの欠陥戦艦とみなされた。
(1915年、30,600トン: 35.6cm連装砲6基、22.5ノット) 同型艦2隻 (165mm in 1:1250 by Navis)
扶桑級戦艦は完成後、前述のような欠点を持っていることが判明したため、扶桑級の3番艦、4番艦の建造に待ったがかかった。設計が根本から見直され、主砲配置、甲板防御、水雷防御などが一新し、全く異なる艦型の戦艦となった。これが伊勢級戦艦である。設計の見直しに併せて、主砲装填方式の刷新、方位盤の射撃装置の採用なども行われ、より強力な戦艦となって誕生した。
一方で、砲塔の配置転換などにより居住区域が大幅に削減され、乗組員は劣悪な居住性に甘んじなければならなかった。
(1917年、29,900トン: 35.6cm連装砲6基、23ノット)同型艦2隻 (166mm in 1:1250 by Navis)
扶桑級・伊勢級、ともにその計画は第一次世界大戦前に遡り、一部大戦の戦訓を盛り込んだとはいえ、十分なものではなかった。併せて前述のように競合列強は次々にこれらを凌駕する強力な戦艦を建造しており、日本海軍としては、さらにこれを上回る艦の建造を求めた。
列強の諸艦に対しては、世界初の16インチ砲を採用しこれを圧倒することとし、この巨砲群の射撃管制のための巨大な望楼構造の前檣を採用し、その最頂部に大型の測距儀を設置した。併せてユトランド沖海戦からの戦訓として、防御力の拡充はもちろん、高速力の獲得も目指された。計画当初は24.5ノットの速力が予定されていただが、ユトランド沖海戦から、機動性に劣る艦は戦場で敵艦をとらえられず、結果、戦力足り得ない、との知見を得て、26.5ノットの高速戦艦に設計変更された。
(竣工時の長門級。当初、前部 煙突は直立型であったが、前檣への排煙の流入に悩まされた。煙突頂部にフードをつけるなど工夫がされが、1924年から1925年にかけて、下の写真のように前部煙突を湾曲型のものに換装した)
(1920-, 33,800t, 41cm *2*4, 26.5knot, 2 ships: 176mm in 1:1250 by Hai)
(直上の二点の写真は、1925年ごろのもの。1924年から1925年にかけて、前部煙突を湾曲型のものに換装した)
(三海軍超弩級戦艦、艦型比較:上から、日本海軍:長門級、米海軍:ニューメキシコ級、英海軍:クイーン・エリザベス級)
最終改装時(1941年次)の長門級戦艦
その改装はバルジの装備、装甲の強化、対空兵装の強化などの重量増加に対し、速度低下を招かないような機関換装が行われた。
(1941 43,500 t, 26.5 knot, 16in *2*4, 2 ships, 182mm in 1:1250 by Neptun)
日本海軍の整備計画
第一次大戦への関与の度合いは欧米諸国よりは低かった日本ではあったが、大戦終了後の景気後退等不況の影響は大きく、さらに大戦終了時から行われたシベリア出兵などの出費からくる厭戦気分から、せっかく英米の譲歩を勝ち得た条約下での主力艦建造の継続に対する世論は、必ずしも支持的と言える状況ではなかった。
しかし、これを一変する状況が、日清・日露両戦争、更には第一次世界大戦中、その後のシベリア出兵を通じて、一貫して実質支配権確立に努めてきた満州で発生する。(ちょっと仮想小説的になってきてしまいますが)
満州北部の北満州油田(史実では大慶油田として1959年に発見)、満州南部の遼河油田(史実では同呼称の遼河油田として1973年発見)の発見である。もちろんこれらの油田発見は、即、本格操業というわけには行かないのではあるが、これに既存の鞍山の鉄鉱山を加え、日本は有力な財政的な基盤を得た。
一方で、北満州油田は新生ソ連との国境が近く、その防衛も含め、日本は満州の日本傀儡下での独立を画策していくことになる。
ともあれ、これにより、日本海軍は、条約締結時にすでに進水していた加賀級戦艦2隻の建造をそのまま継続し、1925年に艦齢10年を迎える扶桑級に代えて紀伊級戦艦の紀伊と尾張を、1927年には伊勢級2隻の代替艦として、改紀伊級の相模、近江を就役させる計画を立て、これを推進した。
前級長門級戦艦を強化した高速戦艦である。16インチ砲を連装砲塔5基10門とし、搭載主砲数に対応して大型化した艦型を持ちながら、速力は新型機関の採用で長門級と同等の26.5ノットとした。長門級で取り入れられた集中防御方式を一層強化し、さらに傾斜装甲を採用するなど、防御側面の強化でも新機軸が盛り込まれた。
長門級では前檣への煙の流入に悩まされたが、加賀級でも同様の課題が発生し、二番艦土佐では新造時から長門型で一定の成果のあった湾曲煙突が採用された。しかし、長門と異なり新機関採用により前檣と後檣の間隔を短くしたため、今度は後檣への煙の流入が課題となってしまった。結局、大改装時の新型煙突への切り替えまで、加賀・土佐共に煙の流入に悩まされることになった。
(39.979t, 26.5knot, 16in *2*5, 2 ships, 185mm in 1:1250 semi-scratched based on C.O.B. Constructs and Miniatures /3D printing model)
(就役時の加賀級戦艦2隻:加賀(手前)と土佐:土佐は就役時から前檣編煙流入対策として長門級で採用されていた湾曲型煙突を採用していた)
最終改装時(1941年次)の加賀級戦艦
バルジの追加、装甲の強化、艦橋構造の変更に加え、従来から課題とされてきた梅園の流入対策のために煙突の換装が行われた。これらの重量増加への対応として、機関の換装も行われたが、基本設計に機関の増強等に対する余裕が十分でなく、結果として速度は低下してしまった。
そのため大戦中は、主力艦隊の序列を離れ、主としてシンガポールにあって西方警備の任務に当たった。
(1941: 47,500t, 25 knot, 2 ships, 187mm in 1:1250 semi-scratched based on C.O.B. Constructs and Miniatures /3D printing model)
(直上:改装後の土佐(手前)と加賀(奥))
1925年に艦齢10年を迎える扶桑級戦艦に対する代替艦として建造が進められた。紀伊級の2隻の完成により、扶桑級戦艦2隻は、練習戦艦籍に移され、舷側装甲の撤去、砲塔数の削減等が行われた。
紀伊級戦艦は、防御方式等は前級の加賀級戦艦の経験に沿いながらも、加賀級を上回る高速性を求めたため、その基本設計は条約締結時に計画破棄となった天城型巡洋戦艦に負うところが多い。巨大な機関を搭載し、艦型はそれまでの長門級、加賀級とは異なり長大なものとなった。
主砲としては加賀級と同様、16インチ連装砲塔5基10門を搭載し、29.5ノットという高速を発揮した。当初、同型艦を4隻建造する計画であったが、建造途上で、米海軍の新戦艦サウスダコタ級が、16インチ砲を三連装砲塔4基12門搭載、という強力艦であることが判明し、この設計では紀伊・尾張の2隻にとどめ、建造途中から次級改紀伊級の設計と連動して建造が進められた。
長門級、加賀級で悩まされた煙の前檣、あるいは後檣への流入対策として、本級から集合煙突が採用され、煙対策もさることながら、艦型が整備され、優美さを加えることとなった。
(1926-, 42,600t, 29.5knot, 16in *2*5, 2 ships, 202mm in 1:1250 semi-scratched based on Team Blue Games with funnel by Digital Sprue /3D printing model )
1933年次 第一次改装時の紀伊級戦艦
紀伊級戦艦は、以降に建造された戦艦群が、その高い機密性保持のために表舞台に登場できなかった事情から、連合艦隊の象徴的存在として長門級とともに長く国民に親しまれ、また海外にも紹介された。
このため比較的若い建艦年次から数度にわたる改装を受けた。
第一次改装においては、防御装甲の強化に加え、前檣、後檣の上部構造を近代化し、あわせて対空装備の強化、航空艤装の追加などが行われた。機関の改善も行われたが、速度はやや低下した。
(1933, 46,600t, 27.5knot, 16in *2*5, 2 ships, 202mm in 1:1250 semi-scratched based on Team Blue Games with funnel by Digital Sprue /3D printing model )
最終改装時(1941年次)の紀伊級戦艦
1941年次の改装においては、バルジの追加、対空兵装の強化、装甲の強化はもちろん、機関の大換装も行われ、あわせて艦首部の延長、艦尾の延長など、艦型の見直しも行われ、速度を新造時にまで回復することができた。
長く連合艦隊旗艦の任にあって、通信設備、旗艦設備が充実したため、大戦中も旗艦の任を継続した。
(1933, 50,600t, 29.5knot, 16in *2*5, 2 ships, 208mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs /3D printing model )
改紀伊型・相模型戦艦(参考:十三号型巡洋戦艦) - Wikipedia
1927年に艦齢10年を迎える伊勢級戦艦に対する代替艦として建造が進められた。相模級の2隻の完成により、伊勢級戦艦2隻は、扶桑級と同様の措置の後、練習戦艦籍に移された。
相模級戦艦は、前述のように本来は紀伊級の同型3番艦、4番艦として建造されるはずであったが、米海軍が建造中のケンタッキー級(サウスダコタ級1920)戦艦が16インチ砲12門搭載の強力艦である事が判明したため、改紀伊級として設計が見直された。
まずは備砲が見直され、三連装砲塔開発案、連装砲塔6基搭載案、連装砲塔複合による4連装砲塔の新開発など、種々の案が検討されたが、いずれもケンタッキー級を凌駕する案とはなり得ず、最終的には新開発の2年式55口径41センチ(16インチ)砲と称する新型砲を連装砲塔で4基搭載する、という案が採択された。(それまでの16インチ砲は45口径であった)
この新砲搭載と、これまでの高速性を維持するため、艦型は紀伊型を上回り大型化し、実質は条約制限を上回る44,000トンとなったが、これを公称42,000トンとして建造した。
本級は最高軍事機密として厳重に秘匿され、さらに長く建造中と称して完成(1929年)が伏せられ、その完成が公表されたのは条約切れの後(1932年)であった。
ここには日本海軍の詐術が潜んでいた。2年式55口径41センチ砲は、実は18インチ砲であった。他の条約加盟国は、このクラスの建造(特に主砲口径)に強い疑惑を抱いており、これも条約更新が行われなかった要因の一つとなったと言われている。
(1932-, 44,000t(公称 42,000t), 28.5knot, 18in *2*4, 2 ships, 219mm in 1:1250 semi-scratched based onTeam Blue Games with funnel by Digital Sprue /3D printing model)
(就役時の改紀伊級・相模級戦艦2隻:相模(手前)と近江)
最終改装時(1941年次)の相模級戦艦
初の18インチ主砲装備艦として、最終改装時には、その艦橋構造を行動を共にするであろう同じ18インチ手法を装備した大和級に準じたものに換装し、バルジの追加、垂直装甲の強化、 対空火器の強化、機関の換装が行われた。
(1932-, 53,200t), 28.5knot, 18in *2*4, 2 ships, 219mm in 1:1250 semi-scratched based onTeam Blue Games with funnel by Digital Sprue /3D printing model)
(最終大改装時の相模級戦艦2隻:相模(手前)と近江)
奇しくも、ようやく八八艦隊のうちの戦艦8隻の装備が完了し、日本海軍はこれに第一線戦力として、旧式ながら高速の金剛型巡洋戦艦4隻を加えた、高速艦による八四艦隊を完成させた。
(1928年頃の日本海軍の主力艦8隻:左上段 長門級(長門・陸奥)、右上段 加賀級(加賀・土佐)、左下段 紀伊級(紀伊・尾張)、右下段 相模級(相模・近江))
八四艦隊の戦艦4クラスの艦型比較(上から、長門級、加賀級、紀伊級、相模級)
超弩級巡洋戦艦 Super-Dreadnought battlecruiser
Kongō-class battlecruiser - Wikipedia
(1913-, 26,330t, 27.5knot, 14in *2*4, 4 ships)(173mm in 1:1250 by Navis)
日清、日露の戦訓から、欧米列強に対し基本的な国力が劣る状況が改善されることは想定しにくく、物量で凌駕できない条件の元でも、機動力において常に仮想敵を上回ることができれば、勝利を見いだせることが、日本海軍の確信となった。
これらの背景から、超弩級巡洋戦艦「金剛」級は生まれたと言っていい。
上記の劔の項で示した様な海外技術の導入の必要性から、1番艦「金剛」は英ビッカース社で建造された。
2番艦以降は、「比叡」横須賀海軍工廠、「榛名」神戸川崎造船所、「霧島」三菱長崎造船所、と、国内で生産され、特に民間への技術扶植がおこなわれ、ひいては造船技術の底上げが図られた。4隻は1913年「金剛」、14年「比叡、」15年「榛名」「霧島」と相次いで就役する。
英海軍のライオン級巡洋戦艦をタイプシップとして、27.5ノットを発揮し、主砲口径は当初は50口径30.5センチ砲連装砲塔5基を予定していたが、前述のようにこの砲には命中精度、砲身寿命に課題があったため、当時としては他に例を見ない45口径35.6センチの巨砲連装砲塔4基に装備することにした。
強力な砲兵装と機関により、排水量27,000トンを超える巨艦になった。
第一次大戦当時、金剛級4隻は世界最強の戦隊、と歌われ、諸列強、垂涎の的であった
八四艦隊の前衛を務める金剛級4隻(手前から、金剛、比叡、榛名、霧島)
写真は1927年ごろの霧島。前檣の構造がやや複雑化しつつある。
金剛級は高い機動性と優れた基本設計により、数字の改装を経て、なお、1941年次にあっても高速戦艦として 現役にとどまることができた。
その改装要目は多岐にわたり、バルジ等の装着による防御力向上、対空兵装の強化、艦橋構造の変更、航空艤装の装備等による重量の増加を、機関の換装、完備の延長等により、速度をより優速の30ノットに向上させた。
(1941-, 32,000t, 30knot, 14in *2*4, 4 ships)(178mm in 1:1250 by Neptun)
(直上:Kongo:1941)
(直上:Hiei:1941)
(直上:Kirishima:1941)
(直上:Haruna 1941)
(榛名と霧島は、丸みを帯びた主砲等を装備していた)
(金剛、比叡、霧島は後檣に傾斜がある)
(比叡では、大和級の前檣の試作として艦橋の特徴がある)
(榛名は傾斜のない後檣を装備していた)
金剛代艦計画
ワシントン軍縮条約下で、日本海軍は英米海軍に対し数的な優位には立てないことが確定した。このため高い機動力による戦場での優位性を獲得するために、条約制約下で速力に劣る扶桑級、伊勢級の4戦艦を破棄し、最も古い金剛級巡洋戦艦を残すという選択をしなくてはならなかった。
金剛級巡洋戦艦は、その優速性ゆえ貴重で、その後数次の改装により、防御力の向上等、近代高速戦艦として生まれ変わっていくが、如何せんその艦齢が古く、いずれは代替される必要があった。
こうして金剛代艦計画が進められることになる。
この計画には、文字通り海軍艦政の中枢を担う艦政本部案と、当時、海軍技術研究所造船研究部長の閑職にあった平賀中将の案が提出された。
平賀案:畝傍級巡洋戦艦
海軍技術研究所造船研究部長平賀中将の設計案で、40,000トンの船体に16インチ砲を10門搭載、30ノットを発揮する高速戦艦として設計された。(ちょっと史実とは異なります)副砲を砲塔形式とケースメイト形式で混載。集中防御方式を徹底した設計となった。
畝傍級巡洋戦艦(高速戦艦)として採用され、当初4隻が建造される予定であったが、設計変更が発生し、「畝傍」「筑波」の2隻のみ建造された。
(1936-, 40,000t, 30knot, 16in *3*2+16in *2*2, 2 ships, 185mm in 1:1250 semi-scratched based on C.O.B.Constructs and Miniatures /3D printing model)
徹底した集中防御方式を意識したため、上部構造を中央に集中した艦型となった。初めて艦橋を塔構造とし、その塔構造艦橋の中層に高角砲を集中配置するなど新機軸が取り込まれ、その結果、やや重心が高くなってしまった。
結果、操艦と射撃精度にやや課題が発生する結果となった。
そのため当初4隻の建造予定が見直され、2番館までで建造を打ち切りとし、3番艦・4番艦に対しては設計変更が行われた。これらは高千穂級巡洋戦艦として建造された。
艦政本部案 巡洋戦艦 信貴
海軍艦政本部藤本少将が中心となって設計した。このため藤本案と呼ばれることもある。40,000トン、30ノット等、設計の基本要目はもちろん平賀案と同様である。
平賀案と異なり、比較的広い範囲をカバーする防御構造を持ち、主砲は3連装砲塔3基9門、副砲はすべて砲塔形式とした。
「信貴」1隻が試作発注され、同型艦はない。兵装・機関配置等、後に大和級戦艦の設計に影響があったとされている。
(1936-, 40,000t, 30knot, 16in *3*3, 190mm in 1:1250 semi-scratched based on C.O.B.Constructs and Miniatures /3D printing model)
畝傍級には、上述のような課題が発見され、 特に上部構造の改修に力点が置かれた設計の見直しが行われた。
こうして、畝傍級3•4番艦は高千穂級として建造された。両艦は「高千穂」「白根」と命名された。
主要な設計要目は畝傍級と同じで、40,000トンの船体に16インチ砲を10門搭載し、船体配置の若干の見直しにより、より大型の機関を搭載することができ、速力は32ノットを発揮することができた。副砲は畝傍級同様、砲塔形式とケースメイト形式の混載としたが、後に対空兵装の必要性が高まるにつれ、対空兵装への置き換えが行われた。
(1939-, 40,000t, 32knot, 16in *3*2+16in *2*2, 2 ships,, 193mm in 1:1250 semi-scratched based on Superior)
(直上:新造時の高千穂級)
(直上:改装後の高千穂級:副砲塔を撤去し、対空兵装を集中装備した)
(高千穂級高速戦艦2隻:白根(手前:対空兵装強化後の姿、高千穂(奥:新造時))
こうして金剛級代艦は都合5隻が建造された。
いずれも条約切れ後の就役となったため、最終的に金剛級の4隻との代替とはならず、金剛級もその持ち前の高速性能から第一線にとどまるべく数次に渡る改装を経て現役にあり、結果、日本海軍は都合9隻の巡洋戦艦(高速戦艦)を保有することになった。
奇しくも、この時点で八八艦隊計画は、当初の形とは異なる形ではあったが、八九艦隊として一応の完成を見た。
日本海軍の新型戦艦
満州における資源確保で、ある程度の経済基盤を保有したかに見える日本であったが、やはりその国力を考えると、米国には遠く及ばず、従ってその主力艦状況でも物量的に米海軍を凌ぐことは不可能であることは明白であった。
そのため、新型戦艦には、これまで通り個艦の性能で米艦を上回ることが求められ、その設計の帰結が大和級戦艦となって具現化した。
相模級戦艦で実績のある18インチ砲ではあったが、同級は新設計の砲を新設計の三連装砲塔に搭載した。さらに27ノットの高速で機動性にも優れる戦艦として設計された。高い機動性と強力な砲力で常に相手に対し優位な位置からのアウトレンジを実施し、相手を圧倒することを実現できることが目指された。
(1941-: 64,000t, 27 knot, 18in *3*3, 3 ships, 215mm in 1:1250 by Konishi/Neptun)
(大和級の2隻:武蔵(手前)、大和。就役時には、副砲塔を上部構造の前戯左右に4基配置した。同級には同型艦として信濃が建造されたが、同艦は、当初から対空兵装強化型として装備を見直されたため、就役当初から外観が異なる艦となった。大和、武蔵の2隻も、この後、同様の対空装備強化が行われる)
大和級戦艦の改装
大和級戦艦はその新造時の設計では、6インチ三連装副砲塔を4基、上部構造の前後左右に配置した設計であったが、既述のように一連の既存戦艦の近代化改装の方針である対空戦闘能力の向上に則り、両舷の副砲塔を撤去し、対空兵装に換装した。
同級3番艦の「信濃」は新造時から対空兵装増強型で建造され、かつその対空砲として新型の長10センチ連装対空砲を採用した。
(直下の写真は大和級戦艦3隻:手前から信濃、武蔵、大和 の順。信濃は上記のように当初から対空兵装強化型として建造され、対空砲として新型の長10センチ連装砲を採用していた)
大和については、その後のストーリーがある。これは本稿の最後に。
超大和級戦艦:播磨級(播磨・伊予)の建造
大和級の建造によって、日本海軍は個艦の性能で米戦艦に凌駕する戦力を保有することに成功したが、いずれは米海軍が18インチ砲搭載艦を建造することは明白であった。事実、既述のようにアイオア級の5番艦以降、改アイオア級(イリノイ級)で米海軍の18インチ砲搭載艦は実現する。
この予見される脅威への対抗策が、A-150計画であった。
A-150計画では、米海軍が建造するであろう18インチ砲搭載艦を打ち破るために更なる大口径砲の20インチ(51センチ)砲を搭載することが計画された。(日本海軍は、2インチ毎の口径拡大を目指すのが常であった。12インチ(前/凖弩級戦艦、弩級戦艦)、14インチ(超弩級戦艦)、16インチ(八八艦隊)、18インチ(相模級、大和級)、20インチ(播磨級))
艦型は時勢の展開を考慮して短縮を目指し、前級である大和級の基本設計を踏襲した強化型、発展型として計画が進められた。
当初、新設計の21インチ砲を大和級同様、三連装砲塔形式で3基9門を搭載する予定であったが、その場合、90,000トンを超える巨艦となることが判明し、当時の日本にはこれを建造する施設がなかった。さらに言えば、18インチ砲三連装砲塔以上の重量の砲塔を回転させる技術もなく、短期間での完成を目指す日本海軍はこれを諦めた。
さらにいくつかのデザイン案の模索の後、21インチ砲を採用して連装砲塔3基搭載であれば、既存の大和級の艦型をほぼそのまま使用し建造期間を短縮できるということが判明し、同案が採用された。
(1943-: 66,000t, 27 knot, 20in *2*3, 2 ships, 217mm in 1:1250 by semi-scratched based on Neptune)
(直上の写真は播磨級戦艦2隻:手前から伊予、播磨の順。両艦ともに、当初から対空兵装強化型として建造され、対空砲として新型の長10センチ連装砲を採用していた)
前級播磨級において、日本海軍は念願の21インチ砲搭載戦艦を建造したが、その設計過程には無理が多く、結局、時勢の流動への対応から、大和級の船体を流用し、建造を急いだことから、主砲射撃時の散布界が大きく、さらには搭載数が6門では 単艦での運用では十分な射撃精度が得られないことが判明した。
このため米海軍が建造する18インチ砲搭載艦への対応に、大和級の設計をベースとして、18インチ主砲の搭載数を増加させる案が検討された。
駿河級は計画では2隻が建造される予定であったが、日米開戦により1隻、駿河のみ建造された。
18インチ主砲を大和級と同様、三連装砲塔に装備し、大和級よりも1基増やし、4基12門搭載とした。砲塔の増設によって船体は大型化し排水量も大幅に増加したが、機関を強化し、大和級と同速の27ノットを確保した。射撃管制システムも新型が搭載され、改良された装填機構の採用などにより、発射速度を大和級よりも早めることができた。射撃試験の結果、良好な散布界を得ることなどが検証され、日本海軍の最強艦となった。
(1945-: 71,000t, 27 knot, 18in *3*4, 220mm in 1:1250 by 3D printing: Tiny Thingajigs)
富士級高速戦艦:富士・劔の建造
大和級の建造と併せて、この18インチ砲搭載戦艦の時代にふさわしい前衛支援艦が必要と考えられた。高速で展開するこの前衛艦は、後続する主力艦隊に敵艦隊の速度、運動等の詳細なデータを送信し、射撃管制を高める役割が期待された。
当初、大和級と同じく18インチ砲を搭載する相模級の2隻をこれにあてる予定であったが、やはり前衛には敵艦隊に肉薄、あるいは捕捉から逃れる高速力が必要とされることが明らかとなり、この目的のためには相模級を上回る速度を保有するこれに専任する艦が新たに設計された。
建造期間を短縮するために、ここでも装備類は大和級から流用されることが求められた。機関には大和級と同じものが使用されることが決められ、33ノットの速力が期待されるところから、船体の大きさが逆算された。また、同級は大和級と行動を共にすることが想定されるところから、主砲には同じく18インチ三連装砲塔の搭載が決定された。
これらの要件を満たすために、これまでの主力艦とは一線を画する特異な設計となった。艦隊前部に主砲塔を集中装備し、その後方に機関を配置、後部には副砲塔等と航空装備、という奇しくも仏海軍のリシュリュー級に似た配置となった。射撃管制機器、上部構造等を大和級と共通化したために、遠距離からの視認では、大和級に実に似通った外観を示している。
(1945-: 38,000t, 33 knot, 18in *3*2, 2 ships, 197mm in 1:1250 by semi-scratched based on Hansa)
(直上の写真では、船体後部に航空兵装、副砲塔等が集中しているのがよくわかる)
(直上の写真は富士級高速戦艦2隻:手前から「劔」、「富士」の順。両艦は対空兵装で異なる装備を有していた。2番艦の「劔」は、建造時期がジェット航空機の発展期に当たったため、当初から対空兵装強化型として実験的に自動砲を採用していた)
(直上の写真は大和級 18インチ砲搭載艦の系譜:左から富士級高速戦艦、大和級、播磨級、駿河の順。大和級の系譜は、18インチ砲の強烈な反動を受け止めるため艦幅を広く取っている。一方で水線長を抑え、装甲を効果的に配置するなど、全体的にコンパクト化に成功していると言っていいだろう)
(直上の写真は日本海軍の高速戦艦(巡洋戦艦)の系譜。:左から、金剛級(比叡)、畝傍級、高千穂級、富士級の順。高速化への模索の取り組みとして、艦幅と水線長の工夫が興味深い)
海上自衛隊 護衛艦「やまと」 Battleship "YAMATO" in JMSDF
太平洋戦争降伏に引き続き、日本は戦争放棄と戦力不保持、交戦権の否認を憲法に掲げる国家となった。
しかし欧州における米英とソ連の対立に関連すす不安定な周辺情勢、殊に日本の共産化を防ぎ、アジア全体の共産化阻止の拠点としたい米英(特に米国)の思惑から、様々は注釈に彩られた憲法解釈が行われ、やがて朝鮮戦争の勃発とともに自衛隊の前身である警察予備隊が発足し(1950年)、日本は再び戦力を保持することとなった。
同時期に旧海軍残存部隊は海上警備隊として組織され、1954年自衛隊法施行とともに海上自衛隊と名称変更された。
上述のようにその発足時には国共内戦、朝鮮戦争等で、米英とソ連のある種代理戦争が極東地域では展開されていた。これら共産勢力、あるいはソ連自身の日本への侵攻に対する抑止力として、当時、武装解除の上で海外に展開していた旧日本軍の復員輸送の従事していた残存する行動可能な主力艦を、再武装の上で戦力に組み入れてはどうかという議論が主として英米間で行われた。
当時、主力艦で行動可能だったものは、「大和」「紀伊」「加賀」「土佐」「長門」であったが、これらすべてを戦力化することについては強大すぎ旧軍の復活につながるとの懸念があり、抑止力としてのプレゼンス、という視点から「大和」一隻のみを自衛艦「やまと」として再武装し、自衛艦隊に編入することが決定された。
海上自衛隊に編入された「やまと」は、艦隊防空艦としての役割を負うべく、再武装と改装を受けた。
再武装にあたっては、主砲は従来のままとし、自衛艦隊の艦隊防空艦としての役割期待が大きいところから、対空火器とレーダー装備が一新された。主要な対空火器としては、旧海軍の最も成功した対空砲と言われた長10センチ高角砲を自動化した単装砲を多数搭載している。この砲は最大射程18キロ、最大射高13キロ、毎分19発の発射速度を持つとされ、旧日本海軍では、この対空砲にVT信管を組み合わて運用したが、日本製のVT信管そのものの信頼性が低く、その能力を十分に発揮できたとは言い難かった。
それでも旧海軍では「格段の命中率」「抜群の効果」と賞賛され、その実績以上に士気向上に効果があった。
今回の装備にあたっては米海軍のVT信管技術の導入し、さらに砲塔に自動化機構を組み入れてその信頼性と発射速度を高めた。
一方、個艦防衛用兵装として、多数の機関砲を搭載しているが、これらの小口径砲についてはVT信管には対応しておらず、実戦で効果が期待できないことは、大戦で実証済みであった。
(直上の写真は自衛艦「やまと」:外観は大戦時のそれとほとんど変わらない。艦隊防空用の兵装として自動長10センチ高角砲を16基、個艦防衛用の兵装として、多数の機関砲を搭載している)
模型視点でのコメントを少し:上記の模型は、Delphin社製の「大和」をベースとし前部艦橋と通信アンテナ、主砲砲塔を換装している。更にその主対空砲とした自動長10センチ高角砲として、イタリア戦艦「ヴィットリオ・ベネト」の対空砲を流用した。
(直上の写真は自衛艦「やまと」とその僚艦:奥から護衛艦「あきづき(初代)」「むらさめ(初代)」、「やまと」「あやなみ」の順。いずれも国産の護衛艦第一世代に属する。この時期の自衛隊は、こうした国産の護衛艦に加え、米海軍からの貸与艦で構成されていた)
***予告)登場する護衛艦いついては、近々、別途「開発史」的なシリーズを展開する予定です。お付き合いください。
上記は、本稿前回で紹介した自衛艦「やまと」であったが、もう一案「B案」を作成してみた。
自衛艦「やまと」B案
「やまと」は、艦隊防空艦としての役割を負うべく、再武装と改装を受けた。
再武装にあたっては、主砲は従来のままとし、自衛艦隊の艦隊防空艦としての役割期待が大きいところから、対空火器とレーダー装備が一新された。主要な対空火器として米海軍の38口径Mk 12, 5インチ両用砲を連装砲塔に装備し、14基28門を搭載した。
この砲は、米海軍の戦艦、巡洋艦に広く採用されている砲で、最大射程21キロ、最大射高11キロ、発射速度15-22発/分とされていた。これに加えて毎分45発の発射速度をもつラピッド・ファイア型のMk 33, 3インチ砲を連装で8基、さらに個艦防衛用に40mm機関砲を装備し、もちろんこれらは全てVT信管を標準仕様としていたため、その対空能力は、旧海軍時代から格段に強化された。
(直下の写真は、自衛艦「やまと」:外観的には、多数の対空機銃が徹去されたことを除けば、旧海軍時代とそれほど大きな違いはない。この時期、水上偵察機、観測機等の航空兵装の搭載は廃止されているが、後部の航空機用の運用装備はそのまま残されている)
模型視点でのコメントを少し:こちらのモデルも、前出のDelphin社製の「大和」をベースとし、前部艦橋と通信アンテナ、主砲砲塔を換装している。さらに3D printing makerのSNAFU store製のWeapopn setから、いくつか武装を選択し搭載している。
(直上の写真は自衛艦「やまと」の対空兵装:艦の上部構造物周辺にMk 12, 5インチ連装砲塔を配置している。下段お写真はいずれもMk 33, 3インチ連装砲塔(ラピッド・ファイア)の配置状況。すこし分かりにくいが上部構造周辺にも、同砲が防楯なしの露出砲架で配置されている)
(直上の写真は自衛艦「やまと」とその僚艦:奥から護衛艦「あきづき(初代)」「やまと」「はるかぜ」「あやなみ」の順。いずれも国産の護衛艦第一世代に属する。この時期の自衛隊は、こうした国産の護衛艦に加え、米海軍からの貸与艦で構成されていた)
(質問)どちらの方が、自衛艦「やまと」にフィットするとお考えになりますか?感想など伺えれば、幸いかと。
もちろん他のアイディアもあるかと思います。
幸い、まだ数隻の「やまと」のストックがありますので、私が実現可能なアイディアは模型に落とせるかもしれません。ぜひお知らせください。
これも、If艦ならではの楽しみ方かと。
お待ちしています。私のスキルの問題で「実現不可能」も十分ありえますので、その際には平にご容赦を。
DDHとDDG時代の護衛艦「やまと」
海上自衛隊は、領海警備とシーレーン保護がその主要任務であり、従って、対潜戦闘能力を中心に、その活動保護のための艦隊防空を、両軸で発展させてきた。
1970年代に入ると、対潜ヘリを搭載したヘリ搭載型護衛艦(DDH)を中心に、汎用護衛艦を複数配置し、この艦隊の艦隊防空を担う防空ミサイル護衛艦(DDG)から構成される護衛隊群、という構成をその艦隊編成の基幹として設置するようになった。
海上自衛隊の発足時から艦隊防空をその主任務としてになってきた「やまと」もこの構想に従い、防空ミサイルシステムを搭載する。
主要艦隊防空兵装としてはスタンダードSM-1を2基搭載し、艦隊の周囲30-40キロをその防空圏とした。他の防空兵装としてはMk 42 54口径5インチ砲を6基搭載している。この砲は23キロの最大射程を持ち、毎分40発の発射できた。個艦防空兵装としては、上記の他にCIWS3基を搭載している。
水上機の運用設備を全廃し、ヘリコプターの発着設備を新設した。ヘリの搭載能力はない。
改修時には、米海軍から巡航ミサイルの搭載能力も検討するよう要請があったが、専守防衛を掲げ、その要求を受け入れなかった、と言われている。
(直下の写真は、1970年代の護衛艦「やまと」(DDG):外観的には、旧海軍の「大和」の上部構造を大幅に改修した。多くのシステムを米海軍と共用し、アイオア級の戦艦等と似た上部構造物となったため旧海軍時代の外観をほとんど残していない)
模型視点でのコメントを少し:こちらのモデルも、前出のDelphin社製の「大和」をベースとし、その船体を利用し主砲塔を換装している。上部構造は同じくDelphin社製のSouth Dakotaの上構を転用している。さらに3D printing makerのSNAFU store製のWeapopn setから、いくつか武装を選択し搭載した。
(直上の写真は70年代DDG「やまと」の対空兵装:艦の上部構造物前後にSM-1の単装ランチャーを2基搭載し、上部構造周辺にMk 42, 54口径5インチ砲を配置している。近接防空兵器として、上部構造の前部と左右に CIWSを搭載している。専守防衛を掲げ搭載を拒んだ巡航ミサイルは、下段写真の前部CIWSとMk 42 5インチ砲の間あたりに搭載される構想であったとされている)
(直上の写真はDDG「やまと」とその僚艦:奥からヘリ搭載型護衛艦(DDH)「しらね」対潜護衛艦「やまぐも」「やまと」ミサイル護衛艦(DDG)「さわかぜ」の順)
イージス時代の護衛艦「やまと」
2000年代に入り、海上自衛隊の艦隊防空システムがイージスシステムとなった。
同時に長らく海上自衛隊の艦隊防空を担当してきたDDG「やまと」も、イージス艦として生まれ変わった。
艦の上部構造はイージスシステム搭載に対応する巨大なものに改装され、艦の前後左右に全体で240セルのMk 41 VLS(スタンダードSAM、アスロックSUM、シー・スパロー短SAM用)を搭載した。
その他、近接防空用兵装として23キロの最大射程、毎分45発の発射速度を持つオート・メララ54口径5インチ速射砲4基、CIWS4基を搭載している。
模型視点でのコメントを少し:こちらのモデルも、前出のDelphin社製の「大和」をベースとし、その船体を利用し、あわせて主砲塔を換装している。上部構造はF-toy社製の現用艦船シリーズからストックしていた何隻かの上構をあわせて転用している。さらに同じく現用艦船シリーズのストックから、武装を選択して搭載している。
(直上の写真はイージス護衛艦「やまと」の上部構造:左右にMk 41 VLS、5インチ速射砲、CIWSなどを搭載している)
(直上の写真はイージス護衛艦「やまと」とその僚艦:奥から汎用護衛艦(DD)「あきづき」、「やまと」、イージス護衛艦(DDG)「あたご」の順)
海上自衛隊は初の航空機搭載型護衛艦(DDV)を導入し「いぶき」と名付けた。専守防衛の建前から、あくまで護衛艦と称しているが、空母「いぶき」の通称で通っている。F-35B15機を基幹航空部隊として搭載し、その為、無人機、救難ヘリ等を搭載している。
このDDV「いぶき」を中心に、第五護衛隊群が編成される。第五護衛隊群はその機動性から紛争地域周辺に展開されることが多く、イージス艦「やまと」も、持ち前のその戦闘力から、この護衛隊群に組み入れられることが多かった。
宇宙戦艦「ヤマト」 Space Battleship "YAMATO"
その後の「ヤマト」と言えば・・・(おまけ!)
最終的には「やまと」は「ヤマト」となり、もちろんご存知の通り、宇宙へ飛び出すのである。
タイトルには「2199」や「2202」の文字が散見するので、さらに150年以上後の話である。艦首に波動砲という途轍もない兵器を搭載している。「大和」は常に「何か」を他に凌駕することを宿命づけられている、と言うことだろうか。
写真は1:1000の「ヤマト」。最終的には、オリジナルのデザインに比較的近いところへ回帰することが興味深い。まあ、「ヤマト」は坊ノ岬沖で沈んでいたものに作り込まれた訳なので、当たり前か。
直上の写真は、「ヤマト」僚艦と共に:奥から金剛型宇宙戦艦「キリシマ」、「ヤマト」、磯風型突撃宇宙駆逐艦「ユキカゼ」。
こちらは1:2000スケールの「ヤマト」を中心に。他はノンスケール?(こちらも本格的に展開するなら、星空バックが必須!まあ、その予定は、今のところはないが)
「キリシマ」は、後に「ヤマト」の艦長となる沖田が、「ヤマト」誕生以前に乗艦し艦隊指揮をとった旗艦である。もう一つ「ユキカゼ」は、「ヤマト」に乗組み大活躍をした古代の兄が艦長を務めた艦である。この両艦はガミランの侵攻艦隊との戦闘で、「キリシマ」は大破し、「ユキカゼ」は「キリシマ」の撤退を援護して沈められた。「ヤマト」が姿を現すのはこの戦闘の後であり、従って、この写真の組み合わせは、ありえない、と言うことになる。
それにしても、「突撃宇宙駆逐艦」とは、なんという名称だろうか。勇ましいことこの上ないが、なんとなく悲惨な響きが気にはなる。
「ヤマト」は任務を果たし、還ってくる。何度でも。
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Imperial Russian Navy, Soviet Navy /ロシア帝国海軍。ソビエト海軍
ご紹介しているモデル
海防戦艦:2クラス
前弩級戦艦:6クラス
準弩級戦艦:2クラス
弩級戦艦:2クラス
ロシア帝国は、その国土の成り立ち上、バルト海、黒海、極東の三方面に艦隊を展開していた。
バルト海と黒海に展開する艦隊は、基本、内海を制する海防艦隊的な性格が強く、加えて黒海艦隊は、トルコとの取り決めから、黒海を出ることはできなかった。
極東には東アジアにおける覇権確立のために太平洋艦隊が建設され、主として日本海軍を仮想敵とした。太平洋艦隊の建設により、ロシア帝国海軍に高い航洋性を備えた近代戦艦への需要が高まり、旅順港に優先的に配備された。。
Russian battleship Navarin - Wikipedia
(1894-, 10206t, 15knot, 12in *2*2 )
バルト海用の戦艦。極めて低乾舷で4本煙突が特徴的。航洋性を疑問視されながらも、バルティック艦隊に加わり、極東へ回航された。
シソイ・ヴェリキィー (海防戦艦) - Wikipedia*
Russian battleship Sissoi Veliky - Wikipedia
(1896-, 10400t, 15.7knot, 12in *2*2)
バルト海用に建造された戦艦。高い乾舷を持ち、航洋性を確保するなど、低速を除くと、海防戦艦ながら近代戦艦の要件をほぼ満たしている。
近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship
Petropavlovsk-class battleship - Wikipedia
(1899-, 11354t, 16knot, 12in *2*2, 3 ships)
ロシア海軍初の近代戦艦。日本がイギリスに発注した富士級戦艦への対抗上から、最初から太平洋艦隊での就役を想定し設計された。ロシアの持つ、列強と遜色のない設計能力、建艦技術を証明した。唯一、航続距離が短いことが難点であり、のちにこれが大きく災いした。
Russian battleship Rostislav - Wikipedia
(1896-, 8880t, 15knot, 10in *2*2)
(no photo)
黒海艦隊用に建造された。シソイ・ヴェリキィーの準同型艦である。トルコとの取り決めで、ロシアの黒海艦隊は黒海を出ることができず、行動範囲が限定された。
Peresvet-class battleship - Wikipedia
(1901-, 13320t, 18knot, 10in *2*2, 3 ships)
ロシア級装甲巡洋艦の強化型の意味合いの強い艦である。その為、主砲口径が小さく、軽装甲であるが、高速を発揮する。
ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦) - Wikipedia
Russian battleship Potemkin - Wikipedia
(1903-, 12480t, 16knot, 12in *2*2)
黒海艦隊の主力艦として建造された。ロシア革命の先駆的な反乱を起こした感として非常に有名である。
Russian battleship Retvizan - Wikipedia
(1901-, 12708t, 18knot, 12in *2*2)
太平洋艦隊向けの戦艦として、アメリカに発注された。アメリカ戦艦メイン級をタイプシップとして設計され、その性能は良好であった。旅順要塞陥落時には旅順港に着底していたが、その後日本海軍に捕獲回収され、日本海軍の戦艦肥前となって就役した。
Russian battleship Tsesarevich - Wikipedia
(1903-, 13105t 18knot, 12in *2*2)
前出のレトヴィザン同様、太平洋艦隊向けの戦艦として、フランスに発注された。流麗なタンブルホームの外観を持つ。おそらく帝政ロシア海軍の戦艦としては最高の性能を持っていた。後のボロジノ級のタイプシップとなった。
Borodino-class battleship - Wikipedia
(1904-, 14091t, 18knot, 12in *2*2, 5 ships)
前出のツェザレヴィッチ をタイプシップとし種々の改良を追加された。ロシアでライセンス生産されたが、その過程で設計のバランスを失い、特に復元性に課題を抱える艦となってしまった。同型艦5隻のうち3隻は日本海海戦で喪失し、1隻は日本海軍に捕獲され、大改修ののち戦艦石見として日本海軍に所属した。大改修は課題の復元性の改善に主眼が置かれ、副砲塔の撤去、上甲板の廃止等が行われ、艦容は大きく変化した。
強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship
Evstafi-class battleship - Wikipedia
(1910-, 12738t, 16knot, 12in *2*2 & 8in*4, 2 ships)
黒海艦隊用戦艦。中間砲として20.3センチ単装砲を4門、装備した帝政ロシア海軍初の強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。
インペラートル・パーヴェル1世級戦艦 - Wikipedia
Andrei Pervozvanny-class battleship - Wikipedia
(1911-, 17320t, 18.5knot, 12in *2*2 & 8in *2*4, 8in *6, 2 ships)
いわゆる強化型近代戦艦(準弩級戦艦)で、中間砲として20.3センチ砲を連装砲塔4基、単装砲6基として計14門、装備していた。
Dreadnought /Super-Dreadnought Era (around WW1)
日露戦争以前は世界三大海軍国の一角を占めていたロシア海軍であったが、日露戦争でほぼ壊滅に近い損害を受けた。開戦時には3隻の弩級戦艦を保有し、2隻が建造中であった。
弩級戦艦 Dreadnought battleship
Gangut-class battleship - Wikipedia
(1914-, 24,800t, 24.1knot, 12in *3*4, 4 ships)
(1914年、23,360トン: 30.5cm3連装4基、23ノット)同型艦4隻
ロシア海軍初の弩級戦艦で、バルト海での運用を念頭に設計された。後述のイタリア海軍の弩級戦艦、ダンテ・アリギエリの設計をほぼ踏襲している。23ノットの優速を得るためにやや装甲が抑えられている。
Imperatritsa Mariya-class battleship - Wikipedia
(1915-, 22,600t, 21knot, 12in *3*4, 3 ships)
(1915年、22,600トン: 30.5cm3連装4基、21ノット)同型艦3隻
ロシア海軍が黒海向けに建造した弩級戦艦。前述のガングート級の改良型である。改良点としては、速力をやや抑え、防御力を高めている。
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Royal Navy (HMS) /イギリス海軍
ご紹介しているモデル
前弩級戦艦:6クラス
準弩級戦艦:2クラス
装甲巡洋艦:7クラス
弩級戦艦:6クラス
超弩級戦艦:8クラス+計画1クラス
新戦艦:3クラス(未成1クラスを含む)
Pre-Dreadnought /Semi-Dreadnought Era
イギリス海軍では、この近代戦艦の時代から、特に戦艦においてはその砲戦距離の伸長に伴う射撃理論の構築等の観点から、戦隊での行動、艦隊運動などに注目が高まる。かつ二国標準といって、同時に二カ国の艦隊を相手取る能力を意識しはじめ、これらが相まって、同型艦をある程度の数そろえる傾向が見られるようになる。
近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship
Royal Sovereign-class battleship - Wikipedia
(1892- 14,380t, 16knot, 13.5in *2*2, 7 ships )
近代戦艦の嚆矢とされる記念すべき艦である。 まだ、主砲は露砲塔形式で搭載されている。速力も16.5ノットと、まだ低速に甘んじている。
実は八番艦のフッドでは、全周密閉型の砲塔が導入された。しかしその結果、重量増対策として砲塔甲板を下げざるを得ず、乾舷の低い、外観の異なる艦になってしまった。
Majestic-class battleship - Wikipedia
(1895-, 16,060t, 17knot, 12in*2*2, 9 ships)
主砲口径をロイヤルソブリン級の34センチから30センチに改め(ただし35口径の長砲身)、初めて砲塔形式で主砲を搭載した。後期の2隻では、どの向きを向いていても装填可能な形式を導入した。また、重油・石炭の混焼型機関が導入され、速力は17ノットに向上している。
二国標準の海軍力整備の思想から、9隻という多くの同型艦が建造された。
Canopus-class battleship - Wikipedia
(1899-, 14300t, 18knot, 12in*2*2, 6 ships)
マジェスティック級の高速軽量化型として建造され、初めて18ノットの速力を得た。新型機関の採用により煙突位置がそれまでの並立から前後設置に変わった。
Formidable-class battleship - Wikipedia
(1901-, 14480t, 18knot, 12in*2*2, 8 ships)
日本がイギリスに発注した敷島型の高性能に刺激され、マジェスティック級の強化型として建造された。主砲に40口径が採用され、新型鋼板の採用で防御力も向上している。高出力機関の採用により18ノットの速力を出す。前期3隻をフォーミダブル級、さらに防御力を向上させた後期5隻をロンドン級と呼称することもある。
近代戦艦のスタンダード、と呼べる艦級である。
Duncan-class battleship - Wikipedia
(1903-, 13270t, 19knot, 12in *2*2, 6 ships)
高速軽防御をうたい、19ノットの速力を発揮する。 フォーミダブル級の縮小・高速版である。
Swiftsure-class battleship - Wikipedia
(1904-, 12175t, 19knot, 10in*2*2, 2ships)
チリ海軍がアルゼンチン海軍の新型装甲巡洋艦対策として、イギリスに発注した。折から日露開戦の気配が濃厚で、日本海軍が戦争準備のために購入を交渉したが不調に終わり、ロシアの入手を防ぐために、当時日本と同盟関係にあったイギリスが購入した。
ロシア海軍のペレスヴェート級と同様、設計思想には装甲巡洋艦の拡大版の色合いが濃厚で、主砲は10インチとやや小さめの口径が採用され、軽防御、その代わり19.5ノットの高速を有している。
装甲巡洋艦 Armored Cruiser
以下の7クラス、36隻が建造された。
各級の変遷を追うと、大変興味深いことに、前述のように、巡洋艦本来の任務への適性に重点を置いた航洋巡洋艦の強化の系譜を辿りながら、次第にその新たな仮想敵となった独海軍の装甲巡洋艦群への対抗上の必要性から、次第に強大な砲力を指向していく傾向が見て取れる。
Cressy-class cruiser - Wikipedia
(1901年竣工、12,000トン、23.4cm(40口径)単装砲2基、21ノット)6隻
いかにも伝統あるイギリス海軍の巡洋艦、というシルエットである。その後のイギリス装甲巡洋艦の基本形と言える。
(114mm in 1:1250)
Drake-class cruiser - Wikipedia
(1902年竣工、14,150トン、23.4cm(45口径)単装砲2基、23ノット)4隻
前級より艦型を大型化し、機関を強力にした。結果、23ノットの高速を得た。大型化により、副砲の搭載数を増やしている。
(128mm in 1:1250)
Monmouth-class cruiser - Wikipedia
(1903年竣工、9,800トン、15.2cm(45口径)連装速射砲2基+同単装速射砲10基、23ノット)10隻
大型化しすぎた感のあった前級から一転し、軽量化を目指した。備砲は主砲を廃止し前級では副砲であった15センチ砲で備砲を統一した。連装砲塔を前後の上甲板に装備し、舷側砲とあわせて14門を装備した。機関を簡素化しながら23ノットの速力は維持したものの、装甲も軽くしたために、やや不評であった。
(110mm in 1:1250)
Devonshire-class cruiser (1903) - Wikipedia
(1905年竣工、10,850トン、19.1cm(45口径)単装速射砲4基、22.25ノット)6隻
前級の反省から、主砲口径を19センチ級にあげ、これを4門単装砲で装備し、火力を向上させた。防御力も改善され、速力も22ノットを発揮した。
(115mm in 1:1250)
デューク・オブ・エジンバラ級装甲巡洋艦 - Wikipedia
Duke of Edinburgh-class cruiser - Wikipedia
(1906年竣工、13,550トン、23.4cm(45口径)単装砲6基、23.25ノット)2隻
主砲を23センチ級単装砲6基とし、一層向上させた。速力は23ノットを回復している。
(124mm in 1:1250)
Warrior-class cruiser - Wikipedia
(1906年竣工、13,550トン、23.4cm(45口径)単装砲6基、19.1cm(45口径)単装砲4基、23ノット)4隻
(no photo)
副砲口径を19センチ級に上げている。
Minotaur-class cruiser (1906) - Wikipedia
(1908年竣工、14,600トン、23.4cm(50口径)連装砲2基、19.1cm(50口径)単装砲10基、23ノット)2隻
イギリス海軍最後の装甲巡洋艦。19センチ級副砲の搭載数を10門に強化している。
強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship
King Edward VII-class battleship - Wikipedia
(1905-, 16350t, 18.5knot, 12in*2*2 & 9.2in*1*4, 8 ships)
砲力強化の為、従来の主砲(30.5 センチ砲 4門)に加え、強力な中間砲(23.4センチ砲 4門)を搭載する最初の中間砲搭載艦として設計された。単一巨砲搭載艦(ドレッドノート)への発展途上の設計である。
Lord Nelson-class battleship - Wikipedia
(1908-, 15358t, 18knot, 12in*2*2 & 9.2in*2*4+9.2in*1*2, 2 ships)
前級で試みられた中間砲を強化し、副砲を廃止した。中間砲には前級と同様、23.4センチ砲を採用し、連装砲塔4基と単装砲2基の形式で計10門、搭載した。
砲力は強大であったが、実際には異なる口径の砲の管制・運用は非常に困難で、加えて就役前には、既に単一巨砲搭載艦のドレッドノートが完成しており、完成時から旧式艦として扱われた。
Dreadnought /Super-Dreadnought Era (around WW1)
この時期、イギリス海軍は世界最大の海軍であり、その装備の他国に対する優位性は、長いイギリス海軍の歴史を通じ、おそらく頂点にあった。
ドレッドノートの母国だけに、列強中、群を抜いて、22隻の弩級戦艦、超弩級戦艦を、さらに9隻の弩級・超弩級巡洋戦艦を揃えて、第一次世界大戦に臨んだ。更に超弩級戦艦2隻、超弩級巡洋戦艦1隻が建造中であった。
弩級戦艦 Dreadnought battleship
HMS Dreadnought (1906) - Wikipedia
(1906-, 18,110t, 21knot, 12in *2*5)(126mm in 1:1250)
言わずと知れた、弩級戦艦の始祖。この艦の登場が、それまでの全ての戦艦を旧式にしてしまった。
Bellerophon-class battleship - Wikipedia
(1909-, 18,800t, 21knot, 12in *2*5, 3 ships)(128mm in 1:1250)
実用量産型ドレッドノート。副砲の口径を強化した。
St Vincent-class battleship - Wikipedia
(1910-, 19,560t, 21knot, 12in L50 *2*5, 3 ships)(130mm in 1:1250)
主砲を50口径に強化し、副砲の数を増やした。既述のように、採用した50口径主砲に不調があり、やがて長砲身砲を諦め、口径を大きく強化する超弩級艦の検討がはじまる。
HMS Neptune (1909) - Wikipedia
(1911-, 19,680t, 22.7knot, 12in L50 *2*5)(132mm in 1:1250)
主砲塔の配置を変更し、全門両舷を指向できるように改善された。
Colossus-class battleship (1910) - Wikipedia
(1911-, 20,225t, 21knot, 12in L50*2*5, 2 ships)(133mm in 1:1250)
ネプチューンと同一戦隊を構成することを予定して建造された、ネプチューンの準同型艦。始めて2万トンを超えた。
HMS Agincourt (1913) - Wikipedia
(1914-, 27,500t, 22knot, 12in *2*7)(163mm in 1:1250)
ブラジル海軍の発注し、途中トルコ海軍が買い取った艦を、イギリスが押収した。主砲塔7基14門、副砲20門は、戦艦の搭載数としては最大である。
超弩級戦艦 Super-Dreadnought battleship
Orion-class battleship - Wikipedia
(1912-, 22,200t, 21knot, 13.5in *2*5, 4 ships)(141mm in 1:1250)
強力な主砲として期待された50口径30.5センチ砲であったが、命数、精度に課題があった。そのため本艦から34.3センチ砲を主砲として採用し、全ての砲塔を首尾線上に配置し両舷への射界を確保した。初の超弩級戦艦 である。
キング・ジョージ5世級戦艦 (初代) - Wikipedia
King George V-class battleship (1911) - Wikipedia
(1912-, 23,000t, 21knot, 13.5in *2*5, 4 ships)(145mm in 1:1250)
基本的にはオライオン級の準同型艦である。 主砲が改善され弾量が上げられた。
Iron Duke-class battleship - Wikipedia
(1914-, 25,000t, 21.25knot, 13.5in *2*5, 4 ships)(150mm in 1:1250)
キング・ジョージ5世級の改良型。副砲の口径を15.2センチ砲と強化した。
HMS Canada: ex Chilean battleship Almirante Latorre - Wikipedia
(1915-, 28,600t, 22.5knot, 14in *2*5)(158mm in 1:1250) She was bought by the United Kingdom's Royal Navy for use in the WW1.
チリ海軍の発注艦を、第一次大戦の勃発とともにイギリスが買い取った。35.6センチ砲を主砲として搭載している。
(1914-, 22,780t, 21knot, 13.5in *2*5)(126mm in 1:1250)
トルコ海軍が発注した艦を、イギリスが押収し、艦隊に編入した。 キング・ジョージ5世級を基本設計としている。
Queen Elizabeth-class battleship - Wikipedia
(1915-, 29,150t, 25knot, 15in *2*4, 5 ships)(154mm in 1:1250)
38.1センチ砲を主砲として採用し、砲力の格段の強化を図った。あわせて速力を25ノットとして、高速化を図った。高速戦艦の登場である。
近代化改装
最終改装では、艦橋構造の変更、副砲の撤去と対空兵装の充実などが行われ、艦容が一変するほどのものとなった。装甲重量、重厚な艦橋など、重量の増加に伴い、速力の低下を甘んじて受け入れざるを得なかった。
(1942近代化改装後: 32,930t, 23knot, 15in *2*4, 5 ships,154mm in 1:1250)
(直上の写真:上段、改装前、下段、改装後)
Revenge-class battleship - Wikipedia
(1916-, 28,000t, 23knot, 15in *2*4, 5 ships)(150mm in 1:1250)
アイアン・デューク級の船体に38.1センチ砲を搭載する方針で設計された。重油専焼ボイラーを搭載し、速力を23ノットとした。
近代化改装
最終改装はクイーン・エリザベス級ほど徹底したものではなかったが、防御装甲の強化、舷側へのバルジの追加、対空兵装の強化などが行われ、速力が低下した。
(1942近代化改装後 33,500t, 21.5knot, 15in *2*4, 5 ships, 150mm in 1:1250)
(直上の写真:上段、改装前、下段、改装後)
(1927-, 33,950t, 23knot, 16in *3*3, 2 ships, 176mm in 1:1250 by Mountford)
ワシントン軍縮条約の結果、英海軍は本級の新造を認められた。本級はワシントン条約で定められた制限排水量内での最大攻撃力と最大防御力を目指した、いわゆる新標準で最初に設計された戦艦となった。このため16インチ主砲を三連装砲とに収め、すべて前甲板に配置し、集中防御を徹底するなど大変意欲的な設計となった。一方で速力は23ノットに甘んじた。
英海軍の整備計画
特に第一次大戦の惨禍に疲弊著しい英国は新造艦の計画を持たなかったが、保有枠一杯に既存艦を維持することとした。あわせて、すでに相当数該当する代替艦手当の可能なクラスから、一部建造計画を見直したG3級(インビンシブル級)巡洋戦艦、N3級(ブリタニア級)戦艦を置き換えていく検討を始めた。
しかし、当初の設計案を条約の制約内でそれぞれの設計を実現することは困難で、あわせて疲弊した国力下での財政て縦の目処は立たず、条約期間内に建造されることはなかった。
わずかに、代替艦として、ロドニー級を新たに2隻建造し、艦隊に編入した。
以下に、検討にあがったG3級巡洋戦艦、N3戦艦の要目を示しておく。
G3級の特徴は、まずそれまでの概念を覆すほどの外観である。その得意な武装配置、機関配置が具現化しようとしたものは、集中防御と砲撃精度、さらには機関の集中による高速力の確保であった。巡洋戦艦に分類されているが、これは同時期に計画されたN3級戦艦との対比によるもので、同時期の戦艦よりも早く、重武装、重防御であった。
しかし条約の定めた42,000トンの制約ではどうしても実現できず、条約期間中に建造される事はなかった。
(48,400t, 32knot, 16in *3*3, 2 ships, 215mm in 1:1250 semi-scratched based on Superior)
前出のG3級巡洋戦艦と同一の設計構想に基づく得意な外観を有している。G3級が速度に重点を置いた一方で、N3級戦艦は重武装にその重点が置かれていた。計画では、速度をネルソン級戦艦と同等の23.5ノットに抑える一方、主砲を18インチとした。
こちらも条約制約により16インチ主砲装備とした場合、ネルソン級で十分で、条約期間中に建造される事はなかった。
(48,000t, 23.5knot, 20in *3*3, 2 ships, 200mm in 1:1250 semi-sucratched based on Superior)
日米両海軍が、条約下でその戦力を充実させることに一定の成功を収めたのに対し、英海軍は既存戦力の維持にとどまり、明暗が分かれる結果となった。
弩級巡洋戦艦 Dreadnought battlecruiser
Invincible-class battlecruiser - Wikipedia
(1908-, 17,373t, 25.5knot, 12in *2*4, 3 ships)(136mm in 1:1250)
戦艦と同等の砲力と、巡洋艦の速力を兼ね備えた新しい大型装甲巡洋艦として設計され、巡洋戦艦の始祖となった。
Indefatigable-class battlecruiser - Wikipedia
(1911-, 18,500t, 25knot, 12in *2*4, 3 ships)(144mm in 1:1250)
インヴィンシブル級の改良型で、主砲の反対舷への射界を改善した。副砲の搭載数を増やしている。
超弩級巡洋戦艦 Super-Dreadnought battlecruiser
Lion-class battlecruiser - Wikipedia
(1912-, 26,270t, 27knot, 13.5in *2*4, 3 ships)(167mm in 1:1250)
主砲を34.3センチ砲とし、全て首尾線上の配置とした超弩級巡洋戦艦である。
(1914-, 28,430t, 28.7knot, 13.5in *2*4)(170mm in 1:1250)
日本の金剛級の改良型として建造された。機関の配置等に工夫が見られ、射界が改善された。
(1916-, 27,200t, 32knot, 15in *2*3, 2 ships, 194mm in 1:1250 by Neptune)
本級は、究極の巡洋戦艦(速力は最良の防御)を具現化すべく、30ノット以上の速力を発揮し、かつクイーン・エリザベス級と同等の15インチ主砲を搭載する、という設計思想で建造された。後にユトランド沖海戦の戦訓などから、防御力の改善が行われたが、それでも純分なレベルには達し得なかった。しかし、その高速性は、有用で、レナウンは数次の階層を経て、第二次世界大戦を通じ第一線で活躍した。
近代化改装
艦橋をキング・ジョージ5世級と同様の塔型のものに改め、装甲等を強化し重厚な艦容となった。対空兵装を強化するなどに伴う重量の増加で、速力が27ノットに低下した。
(1939近代化改装後 32,000t, 27 knot, 15in *2*3, 2 ships, 194mm in 1:1250 by Neptune)
(直上の写真:上段、改装前、下段、改装後)
(1920-, 46,680t, 32knot, 15in *2*4, 216mm in 1:1250 by Neptune)
英海軍が建造した最後の巡洋戦艦である。非常に優美な外観を持ち、英国民からは「マイティ・フッド」の愛称で呼ばれ、英海軍を象徴する艦として親しまれた。
建造中に発生したユトランド沖海戦で、英海軍は巡洋戦艦を失い、その防御力の全弱性が指摘された。このため本艦では、その高速性を毀損しない限界まで防御力に対する見直しが行われた。
近代化改装
史実では本艦は1941年5月21日、デンマーク海峡海戦で独戦艦ビスマルクにより撃沈されてしまうが、ここではさらにその後の近代化改装を受けた形を示している。改装により艦橋構造が塔型となり、キング・ジョージ5世級戦艦に採用された両用砲を装備した。装甲がさらに強化され有力艦となったが、優美さはやや損なわれ、さらに速力が低下した。
(1939近代化改装後: 48,500t, 27 knot, 15in *2*4, 216mm in 1:1250 by Superior)
(直上の写真:上段、改装前、下段、改装後)
新戦艦の時代
本級の建造に当たっては、当初、主砲口径の選択肢が16インチ、15インチ、14インチの三案あったとされている。英国は海軍軍縮条約の継続を強く望んだため、新造戦艦の設計で他国を刺激することを恐れ、その政治的配慮から最も控えめな設計を選択したとされている。
結果、本級は14インチ砲を選択し、さらに当初4連装砲塔3基12門の予定であった搭載数を、防御装甲への割り当てを増やすために4連装砲塔2基と連装砲塔1基、計10門の変則配置とすることになった。
結果、本級は防御力を重視した戦艦として建造された。
一方で、その攻撃力は、新設計の主砲、新設計の4連装砲塔など、大変意欲的な取り組みが見られたが、軽量化のために砲塔の高さを減じた窮屈な設計となり、故障の多発など信頼性に疑問が持たれるものとなった。
副砲として対艦・対空の両用砲を初めて採用し、連装砲塔8基16門を搭載した。両用砲として採用されたこの砲であったが、対艦射撃時の威力を重視したために、重い弾体が採用され、対空射撃時の速射性に課題が残った。
速力は28ノットと、前出のフランス、イタリアの新造戦艦に比較するとやや抑えた設計であった。
(1940-, 42,245t, 28.3 knot, 14in *4*2 +2*1, 5 ships, 181mm in 1:1250 by Neptune)
軍縮条約の継続を望んで、新造戦艦の第一弾であるキング・ジョージ5世級をやや控えめな設計とした英海軍であったが、やはりその諸元は列強の新造戦艦に対し、やや物足りず、ライオン級はこれを大きくしのぐ意欲的な設計となった。
前級のキング・ジョージ5世級戦艦は攻撃力にはやや見劣りがしたものの、その防御設計には見るべきものが多く、結局ライオン級は前級をタイプシップとしてその拡大強化型として設計された。
その為、艦容はほぼ前級を踏襲したものとなった。
主砲には新設計のMarkII 16インチ砲を採用し、同じ16インチ砲を搭載したネルソン級の手法よりも15%重い弾体を撃ち出すことができた。この結果、垂直貫徹力で2割、水平貫徹力で1割、その打撃力が向上したとされている。
この新型砲を三連装砲塔にまとめ、前甲板に2基、後甲板に1基を配置した。副砲には、前級と同じく対艦・対空両用砲を採用した。
防御形式は、定評のあった前級のものをさらに強化したものとした。
速力は、基本、前級と変わらないものとされたが、短時間であれば30ノットの高速を発揮することができた。前級同様、5隻が建造された(史実では建造されていませんので、ご注意を)。
(1942-, 44,000t, 28.5 knot, 16in *3*3, 5 ships, 207mm in 1:1250 by Superior)
新標準艦隊(The New Standard Fleet)計画の、いずれは計画的に代替される旧式戦艦 (リヴェンジ級)の主砲転用から着想した、比較的安価な急造高速戦艦建造プランの発展形が、本艦の設計の根幹にあった。
従って、主砲は15インチ砲であることは確定しており、船体の設計はキング・ジョージ5世級、あるいはライオン級に負うところが大きい。副砲も前2級同様の対空・対艦両用砲を採用している。
(1944, 48,500t, 30 knot, 15in *2*4, 200mm in 1:1250 by ???)
(英海軍新戦艦の艦型比較:左から、キング・ジョージ5世級、ライオン級、ヴァンガード)
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Imperial German Navy (SMS)/ ドイツ帝国海軍
ご紹介しているモデル
前弩級戦艦:5クラス
装甲巡洋艦:6クラス
弩級戦艦:4クラス
超弩級戦艦:2クラス(未成1クラスを含む)
新戦艦:5クラス(未成1クラス、架空2クラスを含む)
新巡洋戦艦:1クラス(未成)
Pre-Dreadnought /Semi-Dreadnought Era
ドイツ海軍の戦艦は、元々がバルト海向けの沿岸用海防戦艦から始まっていることと、キール運河の通行、港湾施設での運用等から、ライバル国のイギリス、フランスに比べひと回り小型であった。近代戦艦の時代に入り、以下の5クラス24隻を建造した。
近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship
Brandenburg-class battleship - Wikipedia
(1894-, 10013t, 17knot, 11in/L40*2*2 & 11in/L35*2, 4 ships)
28センチ主砲を、前中後部の3基の連装砲塔に搭載している。しかしこの艦の設計時期には未だ斉射法は導入されておらず、のちの弩級艦的発想からの配置ではなく、さらにその前時代の砲塔艦(ターレット艦)の名残であると言えるであろう。速力は16ノットと、やや遅い。
Kaiser Friedrich III-class battleship - Wikipedia
(1898-, 11097t, 17.5knot, 9.4in*2*2, 5 ships)
前級から、主砲口径を24センチに下げ、連装砲塔2基、4門に数を減少させ、その代わり主砲・副砲ともに速射砲とした。中距離で収束した弾道での射撃弾量を増やすことを念頭に開いた設計である。
Wittelsbach-class battleship - Wikipedia
(1902-, 12798t, 18knot, 9.4in*2*2, 5 ships)
前級と一個戦隊を構成し、行動を共にすることを念頭に設計されている。基本的には前級の設計を踏襲し、使用鋼材の改良等を行なった。
Braunschweig-class battleship - Wikipedia
(1904-, 14394t, 18knots, 11in *2*2, 5 ships)
本級から、これまでフランス艦隊としてきたその想定戦闘相手をイギリス艦隊とした。28センチ速射砲の完成により、本級から、主砲を前級の24センチから28センチ連装砲塔2基とし、あわせて副砲を17センチ速射砲とし、砲力を格段に強化した。
Deutschland-class battleship - Wikipedia
(1906-, 13200t, 18.5knots, 11in*2*2, 5 ships)
前級と同一戦隊を組んで行動することを想定して建造された。基本的に前級の改良版である。大きな改良点としては、前級では副砲の一部を砲塔形式としていたがこれを全て砲郭形式とし、この軽量化によって浮いた重量を防御に回した。あわせて機関の強化に努め、速力を保持した。
装甲巡洋艦 Armored Cruiser
以下の6クラス、9隻が建造された。
当初から、準主力艦の位置付けに置かれていた。次第に,その機動性に戦艦との差異を求め、その側面で特性を伸ばしていく。
フュルスト・ビスマルク (装甲巡洋艦) - Wikipedia
SMS Fürst Bismarck - Wikipedia
(1900年、10,700トン、24cm(40口径)連装砲2基、18.7ノット)
ドイツの装甲巡洋艦は、既にその最初の級である本艦から、当時のドイツ海軍の主力戦艦「カイザー・フリードリヒ3世級」「ヴィッテルスバッハ級」と同等の主砲を装備している。外洋巡行性に優れた艦型を有し、速力は戦艦に対し若干の優速であった。
(100mm in 1:1250)
プリンツ・ハインリヒ (装甲巡洋艦) - Wikipedia
SMS Prinz Heinrich - Wikipedia
(1902年、8,890トン、24cm(40口径)単装速射砲2基、19.9ノット)
前級と同様、当時の戦艦と同等の口径の主砲を装備しているが、連装を単装に改め、副砲数を減らし、一方で戦艦に対する優速性を高めている。(100mm in 1:1250)
プリンツ・アーダルベルト級装甲巡洋艦 - Wikipedia
Prinz Adalbert-class cruiser - Wikipedia
(1903年、9,090トン、21cm(40口径)連装速射砲2基、20.4ノット)2隻
主砲口径を縮小し、一方で戦艦に対する優速性をさらに高めている。(100mm in 1:1250)
Roon-class cruiser - Wikipedia
(1905年、9,550トン、21cm(40口径)連装速射砲2基、21.1ノット)2隻
前級の特徴を継承し、戦艦への優速性を一層充実した、大変バランスの取れた艦となった。(101mm in 1:1250)
Scharnhorst-class cruiser - Wikipedia
(1907年、11,610トン、21cm(40口径)連装速射砲2基+同単装速射砲4基、23.5ノット)2隻
艦型を大型化し、強力な機関を搭載し優速性を一層高めた。あわせて主砲を舷側にも配置し砲力を大幅に強化した。首尾方向に4門、側方へ主砲6門を指向できた。(114mm in 1:1250)
(1909年、15,840トン、21cm(44口径)連装速射砲6基、25.4ノット)
主砲は前級と同口径(21センチ)であるがさらに長砲身(44口径)を採用し、戦艦並みの射程を得た。連装砲塔6基12門の主砲数は、従来の装甲巡洋艦の概念を一新するものであったが、既に英海軍にはインヴィンシブルを始めとする巡洋戦艦が建造されていた。
その長射程、高速を有するがゆえに、第一次大戦においては巡洋戦艦部隊に組み入れられ、苦戦することになる。 (128mm in 1:1250)
Dreadnought /Super-Dreadnought Era (around WWI)
イギリスに対抗すべく、急速にその海軍を充実させ、開戦時には弩級戦艦14隻、弩級巡洋戦艦4隻を保有し、弩級戦艦3隻、弩級巡洋戦艦2隻が建造中であった。主砲口径は英艦に比べひと回り小さいが、長砲身砲の安定性では英国を上回り、その伝統的に強靭な防御力とあわせ、英国の超弩級戦艦・巡洋戦艦に匹敵する実力を備えていた
大戦中に、38センチ級の主砲を持つ超弩級戦艦を建造し、同様の超弩級巡洋戦艦の建造計画に着手していた。
弩級戦艦 Draednought battleship
Nassau-class battleship - Wikipedia
(1910-, 18,000t, 19knot, 11in *2*6, 4 ships)(117mm in 1:1250)
ドイツ海軍初の単一口径主砲搭載の戦艦(弩級戦艦)である。速度は低めながら、ドイツ伝統の重厚な防御力を備えていた。
Helgoland-class battleship - Wikipedia
(1911-, 22,000t, 20.5knot, 12in *2*6, 4 ships)(133mm in 1:1250)
強力な50口径30.5センチ砲を主砲として採用した。 艦型は大型化したが、基本的な配置等は前級の拡大版である。
Kaiser-class battleship - Wikipedia
(1912-, 25,000, 21knot, 12in *2*5, 5 ships)(137mm in 1:1250)
初のタービン搭載戦艦で、主砲等の配置が大幅に変更された。これによって主砲搭載数を減らしながらも 、片舷への斉射能力は改善し強化された。
König-class battleship - Wikipedia
(1915-, 25,000t, 21knot, 12in *2*5, 4 ships)(139mm in 1:1250)
基本設計は前級に準じたものだったが、主砲塔の配置を全て首尾線上においたため、外観上は大きく変化した。
超弩級戦艦 Super-Dreadnought battleship
Bayern-class battleship - Wikipedia
(1916-, 28,000t, 22knot, 15in *2*4, 4 ships planned/ 2 ships completed)(143mm in 1:1250)
(1916年、28,000トン: 38.1cm連装砲4基、22ノット)同型艦2隻 2隻未 (143mm in 1:1250)
主砲に38センチ砲を採用した初の超弩級戦艦である。
L20e 級戦艦(計画のみ)
L 20e α-class battleship - Wikipedia
(planned, 43,000t, 26knot, 16.5in *2*4)(192mm in 1:1250)
主砲に42センチ砲の採用を計画していた。速力も格段に改善され、高速戦艦を目指す設計であった。
弩級巡洋戦艦 Dreadnought battlecruiser
(1910-, 19,370t, 24.8knot, 11in *2*4)(136mm in 1:1250)
英巡洋戦艦インヴィンシブルに対抗して設計された。高速を得るためにタービン機関を採用しているが、当時、大型艦用タービンはドイツ国内ではブローム・ウント・フォス社だけしか生できず、同社を巡洋戦艦専用メーカーと定め、戦艦への供給をしばらく見送った。
Moltke-class battlecruiser - Wikipedia
(1910-, 22,979t, 25.5knot, 11in *2*5, 2 ships)(151mm in 1:1250)
実験的な性格の強かった前級フォン・デア・タンの改良型で、主砲を50口径に強化し、主砲塔も1基追加して砲力を強化した。 前部乾舷が低く、波をかぶりやすかった。
(1913-, 24,988t, 26.5knot, 11in *2*5)(160mm in 1:1250)
モルトケ級の改良型。 前部乾舷を一段上げ凌波性を向上させた。艦型を縦長にし、速力を向上させた。
Derfflinger-class battlecruiser - Wikipedia
(1914-, 26,600t, 26.5knot, 12in *2*4, 3 ships)(167mm in 1:1250)
主砲を50口径30.5センチ砲とし、4基の砲塔を首尾線上に配置し両舷への射線を確保した。
超弩級巡洋戦艦(未成艦のみ)Super-Dreadnought battlecruiser
Mackensen-class battlecruiser - Wikipedia
(imcompleted, 31,000t, 28knot,13.8in *2*4, 4 ships planned)(178mm in 1:1250)
主砲を50口径35.6センチ砲と強化する予定であった。
Ersatz Yorck-class battlecruiser - Wikipedia
(imcompleted, 33,500t, 27.3knot, 15in *2*4, 3 ships planned)(182mm in 1:1250)
基本的にマッケンゼン級の設計を引き継ぎ、加えて主砲を 38.1センチとする予定であった。
新戦艦の時代:ドイツ再軍備宣言と英独海軍協定
ヴェルサイユ体制による重度の賠償責任等により、ドイツ経済は疲弊の極みにあり、その混乱の中で1934年、ヒトラーが首相と大統領の両機能を統合し国家元首に就任し政権を握る。
1935年、ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し再軍備を宣言する。
同年、再軍備は受け入れざるを得ないとしながらも、その拡張に歯止めをかけるべく英独海軍協定が結ばれ、総トン数で英海軍の35%、潜水艦保有も英海軍の45 %まで保有が認められた。
これにより戦闘艦の建造制約が名実ともになくなり、ドイッチュラント級装甲艦の強化型として建造される予定で、フランスのダンケルク級戦艦への対抗上から設計を大幅に見直されていたシャルンホルスト級は、30,000トンを超える本格的な戦艦として起工された。
(1939-, 31.500t, 31.5 knot, 11in *3*3, 3 ships, 191mm in 1:1250 by Hansa)
シャルンホルスト級戦艦は当初、前述のように、フランス海軍によって建造されたダンケルク級戦艦に対抗するべく誕生した。この為、主砲は、当初15インチ砲の搭載を想定したが、建造時間を考慮しドイッチュラント級と同様の11インチ砲3連装砲塔を1基増やし9門に増強するにとどめた。一方でその装甲はダンケルク級の33センチ砲弾にも耐えられるものとし、ドイツ海軍伝統の防御力に重点を置いた艦となった。
速力は重油燃焼高圧缶と蒸気タービンの組合せにより、31.5ノットの高速を発揮した。
(シャルンホルスト級3隻:手前からグナイゼナウ、マッケンゼン、シャルンホルスト)手前味噌的な記述になることを恐れずに言うと、本級はバランスのとれた美しい外観をしている、と感じている。
のちに、11インチ主砲はビスマルク級戦艦と同様の15インチ連装砲に置き換えられ、攻守にバランスのとれた、加えて31.5ノットの高速力を持つ優秀艦となった。
特に31.5ノットの高速性能は、当時、ヨーロッパにはこれを捕捉できる戦艦がなく、ヨーロッパ諸国の危機感を強く刺激した。
(主砲を15インチ連装砲塔に換装後のシャルンホルスト級3隻:手前からシャルンホルスト、グナイゼナウ、マッケンゼン)
1935年、ドイツは再軍備を宣言し、同年、英独海軍協定の締結により、事実上、ヴェルサイユ条約による新造艦の建造制約から解き放たれた。
手始めにフランスのダンケルク級戦艦に対抗すべくシャルンホルスト級戦艦が建造されたが、その後、前出の諸列強の新造戦艦の設計に対しては見劣りがし、より強力な戦艦の建造が望まれた。
ビスマルク級戦艦はそのような背景から設計され、最終的には15インチ連装砲塔4基8門を主兵装とする強力な攻撃力、速力30ノットの高い機動性、防御装甲の全体重量へ占有率39%の堅牢な艦体を有する有力な戦艦となった。
英独海軍協定では、一応35,000トンという新造戦艦に対する制限が謳われていたが、公称は制限内としたものの、実際には制限を無視した41,700トンの、就役当時としては世界最大の戦艦であった。
一方で、主砲等兵装配置、防御設計などは非常にオーソドックスで、当時の列強の新造戦艦が、様々な新機軸をその設計に盛り込んだのに対し、目新しさ、という点では特筆すべきところのない艦であった。
これは、ドイツがヴェルサイユ条約下で厳しい海軍戦力に対する制限を課せられ、設計人材、技術等のブランクが生じたため、とする説も見られる。
上記に示すように、本級は確かに強力な戦艦ではあったが、史実では、最初で最後の出撃となった「ライン演習」での目覚ましい戦果(戦艦フッド、プリンス・オブ・ウェールズとの対決と、フッドの轟沈)とその後の悲劇的な最後が伝説化し、実情以上にその戦闘力が過大に評価された傾向がないわけではないと考えられる。
(1940-, 41,700t, 30 knot, 15in *2*4, 3 ships, 202mm in 1:1250 by Hansa)
(ビスマルク級の3隻:手前から、ティルピッツ、ヒンデンブルク、ビスマルク)
(前級シャルンホルスト級との比較。ビスマルク(上)、シャルンホルスト(下)。艦幅が一回り大きいことがよくわかる。シャルンホルスト級は主砲をビスマルク級と同じ15インチに換装後の姿)
英独海軍協定で、戦艦の建造に対する呪縛から逃れたドイツ海軍は、このビスマルク級を起点として、Z計画なる海軍再建を目論んでおり、この後に続くすべての戦艦が、このビスマルク級の設計を基本計としていた。
ドイツ海軍のZ計画
第一次世界大戦の敗戦で、ドイツはその海軍力に大きな制限を課されることになった。1万トン以上の排水量の艦を建造することが禁じられ、その建造も代替艦に限定された。戦勝国側の概ねの主旨は、ドイツ海軍を沿岸警備の軍備以上を持たせず、外洋進出を企図させない、というところであったろうか。
しかし、戦後賠償等の混乱の中で、ドイツにはナチス政権が成立し、1935年に再軍備を宣言、海軍力についても、同年に締結された英独海軍協定で、事実上の制限撤廃が行われた。
主力艦についても、それまでの建艦制限を超えたシャルンホルスト級が建造され、その後、就役時には世界最大最強と謳われるビスマルク級戦艦を建造するに至った。
Z計画は、1939年以降の海軍増強計画を記したもので、このプランには二つの大きな柱があった。一つは英国を仮想敵とした場合、通商破壊戦を展開することが有効であることは、第一次世界大戦の戦訓で明らかであった。これを潜水艦(Uボート)と装甲艦(ポケット戦艦)のような中型軍艦 、あるいは偽装商船のような艦船で行うにあたり、英海軍による北海封鎖を打破することは必須であり、そのためには強力な決戦用の水上戦力が必要であった。
史実では1939年のドイツのポーランド侵攻と共に、英仏がドイツに対し宣戦布告し、第二次世界大戦が始まったため、Z計画は中止となったが、本稿ではドイツのポーランド侵攻後も英仏はこれを非難しつつも宣戦布告せず、Z計画は1942年まで継続する。
戦艦フリードリヒ・デア・グロッセ(Freidrich der Grosse):改ビスマルク級戦艦
フランス海軍のリシュリュー級の優秀な主砲に対抗するために、ビスマルク級の強化改良型として、一隻のみ建造された。設計、配置などその殆どがビスマルクに準じ、唯一、主砲のみ55口径の長砲身15インチ砲を採用した。
この艦をZ経過の派生と見るか、ビスマルク級の改良と見るかは意見が分かれるところである。
(1941, 44,000t, 30 knot, 15in *2*4, 218mm in 1:1250 by Superior)
(ビスマルク級とフリードリヒ・デア・グロッセの艦型比較:上、ビスマルク、下、フリードリヒ・デア・グロッセ 砲塔配置などほとんど同じレイアウトで若干大きさが違うことがわかる)
Z計画に基づき、1939年に起工された。基本はビスマルク級の拡大改良版である。装備の配置、上部醸造のレイアウトなど、酷似している。主砲口径を拡大し、ドイツ海軍初となる16インチ砲を連装砲塔で4基8門搭載した。速力はビスマルク級と同じく30ノットとして、主機はオール・ディーゼルであり、本級の艦体規模においての採用は非常に特異なものであった。
巨大なディーゼル主機の搭載により、長大な航続距離と高速航行が可能となり、一方で艦型は巨大なものになり、煙突が二本となった。
(1942-, 53,000t, 30 knot, 16n *2*4, 3 ships, 225mm in 1:1250 by Hansa)
(直上写真はバイエルン級の3隻:手前からバイエルン、プロイセン、バーデン)
戦艦グロースドイッチュラント(Grossdeutschland)
Z計画に基づき、1941年に起工された。前級バイエルン級をさらに拡大したもので、乙書主砲に17インチ砲を採用する計画があった。しかし、風雲急を告げるヨーロッパの情勢に鑑み、建造が急がれたため、主砲にはバイエルン級と同じ実績のある16インチ砲が採用され、ただし三連装砲塔4基12門と搭載数を大幅に増やしたものとなった.
主機は全級に引き続きオールディーゼルとし、長大な航続距離と、この巨大な艦型にも関わらず、28.8ノットの高速を発揮した。
計画では3隻が建造される予定であったが、第二次世界大戦開戦とともに2隻がキャンセルされ、グロースドイッチュラント1隻が完成した。
本艦の就役がZ計画艦の最後となり、ドイツ海軍はシャルンホルスト級3隻、ビスマルク級3隻、フリードリヒ・デア・グロッセ、バイエルン級3隻、グロスドイッチュラントの計11隻の戦艦で、第二次世界大戦に臨むこととなった。
(1942, 63,000t, 28.8 knot, 16in *3*4, 233mm in 1:1250 by Superior)
(直上写真は、ドイツ海軍の誇る戦艦群の艦型比較:左から、ビスマルク級、フリードリヒ・デア・グロッセ、バイエルン級、グロスドイッチュラント:レイアウトの相似性、艦型の拡大傾向が興味深い)
新たな通商破壊艦
冒頭に記述したように、Z計画。有力なには二つの柱があった。一つは強力な決戦艦隊の整備による英海軍主力艦の撃滅であり、それらはこれまでに記した諸戦艦の建造の目的とするところであった。
もう一つは、上記の艦隊決戦により英艦隊による海上の封鎖線を解き、そこから広範囲に向けて浸透した潜水艦・通商破壊艦を用いた通商破壊戦の展開であり、英国を屈服させるには、こちらの有効な展開にこそ、戦争そのものへの勝機を見出すことができるはずであった。
デアフリンガー級巡洋戦艦は、この目的のために建造された、いわば通商破壊専任戦闘艦であった。
デアフリンガー級巡洋戦艦(O級巡洋戦艦) - Wikipedia
本級は、通報破壊を専任とする為に、通商路の防備に当たる巡洋艦以上の艦種との戦闘を想定せず、従ってこの規模の戦闘艦としては、非常に軽い防御装甲しか保有していなかった。基本、単艦での行動を想定するが故に、複数の巡洋艦との交戦を避けることができるだけの速力を持ち、あるいは運用面では、その強力な火砲で敵艦隊の射程外から、アウトレンジによる撃退を試みるとした。
一方で機関にはディーゼルを採用し、長大な航続距離を用いて神出鬼没に敵の通商路を襲撃することを企図して設計された。
主砲にはビスマルク級と同じ15インチ砲を採用し、これを連装砲塔3基に収めた。
デアフリンガー、モルトケ、フォン・デア・タンの3隻が建造された。(史実では建造されていませんので、ご注意を)
本級は、開戦初期こそ、設計通りに戦線背面への浸透を果たし、その戦果を挙げたが、航空機の目覚ましい発達により、次第にその活動に神出鬼没性が失われ、あわせて軽めに設定された防御力が裏目に出て、主として航空機による攻撃により、すべて撃沈されるという結果となった。
(1941, 38,000t, 33 knot, 15in *2*3, 3 ships, 207mm in 1:1250 by Hansa)
(直上写真は、デアフリンガー級の3隻:手前から、デアフリンガー、モルトケ、フォン・デア・タン)
( 直上写真はデアフリンガー級とシャルンホルスト級の艦型比較。下:デアフリンガー級、上:シャルンホルスト級。デアフリンガー級の大きな二つの煙突位置から、その搭載する巨大な機関が推測できる)
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French Navy /フランス海軍
ご紹介しているモデル
前弩級戦艦:10クラス
準弩級戦艦:2クラス
装甲巡洋艦:11クラス
弩級戦艦:1クラス
超弩級戦艦:3クラス(未成2クラスを含む)
新戦艦:4クラス(未成2クラスを含む)
Pre-Dreadnought /Semi-Dreadnought Era
フランス海軍は、実に多くの近代戦艦を建造している。その形式は12級を数えるが建造された戦艦数は23隻にすぎない。多くが同型艦を持たぬ、いわ試行錯誤であったと言ってもいいかもしれない。
加えて「新生学派」(ジューヌ・エコール)と呼ばれる、ある意味では、いかにも議論の国フランスらしい、「大艦巨砲主義」の対局をゆく海軍戦略の一派の台頭による戦艦建造への予算制約、建造条件の設定など、いわば戦艦にとって「暗黒時代」を経て、迷走の続く時期であった。
確かにこの時期は、蒸気装甲艦の出現後、初めて日清、日露での実戦が行われ、多くの戦略的、戦術的データがあらわれた時期でもあり、その中で多くの仮説の具現化によってこのような現象が発生する必然があったと言えるかもしれない。
が、経緯はどうあれ、日本海軍が日清・日露で実証し、その後、ドイツやイギリス、日本などが目指した同一口径の戦隊による艦隊決戦の思想を進めるには、フランス海軍で生起したこの現象は不適合の度合いが強いと言わざるを得ず、次第に世界の海軍力の、特に主力艦における装備と戦術の組織的整備の趨勢から、フランスは脱落する。
一方で、その設計は常にユニークで、例えば他国に先駆けた副砲の砲塔化、あるいは四連装砲塔の実現など、その技術的な発展には見るべきものが、この後も多い。
一転して、艦船模型的な視点で見ると、宝箱のような海軍である。実にコレクター魂を揺さぶられる。
例えば、1891年から就役したシャルル・マルテル準級(準級:緩やかなグループ、ということだろうか)には5隻の戦艦が属しているとされるが、排水量・備砲・速力などは似ているものの、デザイナーが異なる、一種の競争試作のような様相を呈している。
永年の仮想敵であったイギリス海軍は、既にほぼ同時期に、常に同型艦を多数揃え、戦隊での統一指揮下における戦闘運用を構想するという設計思想を確立しており、そうした統一構想を持たないフランス艦隊を、「サンプル艦隊」と揶揄したが、まさにこの「サンプル」感覚から、この優美な(筆者にとっては!?)艦船群が生み出されたと、感謝したいと思うのである。
近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship
(1891-, 11,190t, 18knot, 13.4in *2*1+11,97mm in 1:1250 by WTJ )
「新生学派」時代(ジュール・エコール)における、最初の戦艦 である。
13.4インチ(34センチ)砲を主砲とし、前部に連装砲塔、後部に単装砲塔の形で搭載した。全周装甲の連装砲塔や、16センチ速射砲を単装砲塔形式で登載、あるいは新型のボイラー採用等、新機軸を多数盛り込んだ意欲的な設計であった。当時としては18ノットの高速を発揮した。
シャルル・マルテル準級
大鑑巨砲に懐疑的な「新生学派」支配下のフランス海軍は、次世代の主力艦に明確な構想を見出せないままに、主として英海軍への対抗上、建艦計画をスタートさせた。上記のブレニュスとほぼ平行して、シャルル・マルテル準級が建造される。これは、設計の基本スペックを規定し、すなわち排水量(11,500t ±)、搭載砲(30.5cm * 2+27cm *2)、速力(17.5 knot ±)などのスペックを与え、設計者・造船所による一種の競争試作のような様相で建造されたグループである。
シャルル・マルテル、カルノー、ジョーレギベリ、マッセナ、ブーヴェの5隻が属している。いずれも主兵装を菱形配置とし、12インチ(30.5センチ)砲2門を艦の前後に、10.8インチ(27センチ)砲2門を艦の左右に単装砲等で登載している。
(シャルル・マルテル:左上段、カーノウ:左下段、マッセナ:右上段、ブーヴェ:右中段、ジョーレギベリ:右下段)
注:それぞれの塗装は筆者のオリジナル塗装です。この様な迷彩(?)塗装の記録はありません。「ふざけるな!」<<<お叱りごもっともです。ご容赦ください)
(1897, 11,639t, 18knot, 12in *2 + 10.8 *2 94mm in 1:1250, WTJ)
ブレスト海軍造船所が建造した。美しいタンブルホーム型船体を持つ艦である。 副砲を単装砲塔形式で装備している。
(1897, 11,954t, 17.8knot, 12in *2 + 10.8in *2, 98mm in 1:1250, WTJ)
トゥーロン海軍造船所が建造した。
(1897, 11,818t, 17knot, 12in *2 + 10.8 *2 89mm in 1:1250, WTJ)
設計者はアントワーヌ・ジャン・アマブル・ラガヌ、ラ・セーヌ造船所で建造された。本艦のみ副砲を連装砲塔で装備している。連装の副砲は前部艦橋と後部艦橋のそれぞれ脇の上甲板状に配置され、広い射界を与えられた。
設計者のラガヌは、本艦の設計以前にフランス戦艦「マルソー」(菱形主砲配置の先駆的存在)、やスペイン戦艦「ペラーヨ」を手がけたベテランで、この後、我々にも馴染みのあるロシア太平洋艦隊旗艦の「ツェザレヴィッチ」の設計を手がけることになる。
(1896, 11,735t, 17knot, 12in *2 + 10.8in *2 94mm in 1:1250, WTJ)
設計者はルイス・マリー・アンヌ・ド・ビュシィで、世界初の装甲巡洋艦である「デュピュイ・ド・ローム」の設計者でもある。ロアール造船所で建造された。世界初の3軸推進の戦艦となった。
完成後は、設計に対し重量超過となり、肝心の装甲帯が水中に没し、かつ極端なタンブルホーム形状から、安定性に問題があったとされている。
(1898, 12,007t, 18knot, 12in *2 + 10.8in *2 96mm in 1:1250 , WTJ)
シャルル・マルテル準級の最終艦である。ロリアン造船所で建造された。
寸法、排水量とも同準級の他艦を少し上回るサイズとなったが、最新式のハーヴェイ・ニッケル鋼を装甲に用いるなど、同準級の中では最もバランスの取れた艦となったとされている。
シャルル・マルテル準級でフランス海軍が主力艦のあるべき姿を瞑想(迷走?)している間に、英海軍は近代戦艦の標準を見出し、これの量産に入ろうとしていた。この量産には、同一口径の巨砲を数多く揃え、これらを統一指揮する戦術的な要件も含んでいた。
これに対応するために、フランス海軍が建造したのが、シャルルマーニュ級からシュフランに至る戦艦群である。
(1899-, 11275t, 18knot, 12in *2*2, 3 ships 94mm in 1:1250, WTJ)
本級の建造直前まで、上記のシャルル・マルテル準級の迷走の中に、フランス海軍はあったが、そのような経緯を断ち切って本級は生まれた。背景には英独の建艦競争による装備充実があったと思われる。
いたって標準的な外観に、標準的な近代戦艦の要件をまとめ上げた、
(1902-, 11688t, 18knot, 12in *2*2 100mm in 1:1250, Hai)
前級シャルルマーニュの改良型として1隻建造された。改良点は副砲と装甲の強化であった。
(1904-, 12432t, 17knot, 12in *2*2 99mm in 1:1250, WTJ)
シャルルマーニュ級の更なる改良型として、1隻のみ建造された。 副砲を単装砲塔に収め、両舷に3基づつ配置している。のちのロシア戦艦ツェザレヴィッチの設計にも影響があったのではないかと思われる。
(1906-, 14605t, 19knot, 12in *2*2, 2 ships 103mm in 1:1250, Navis)
これまでフランス戦艦には、排水量に制限がかけられていたが、本級ではそれが撤廃される。設計は日本でも「三景艦」で馴染みのある、エミール・ベルタンで、これまでの戦艦とは異なる外観をしている。連装砲塔に収められた主砲、一部の副砲も連装砲塔に収めるなど、フランス艦のいくつかの特徴が見られる。
が、就役時には、すでにドレッドノートが就役しており、いわゆる旧式新造艦のラベルを貼られることになった。
強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship
(1908-, 14860t, 19knot, 12in *2*2 & 7.6*10, 4 ships 103mm in 1:1250, Navis)
副砲として19.4センチ単装砲を10基保有している、いわゆる強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。外観は、前級とほぼ変わらず副砲の口径、数、配置が変わった。
本級も前級同様、就役時には、すでにドレッドノートが就役しており、いわゆる旧式新造艦であった。
(1911-, 18754t 19knot, 12in *2*2 & 9.4in *2*6, 6 ships 116mm in 1:1250), Navis
前級からさらに艦体を大型化し、副砲口径を前級の19.4センチから、24センチの強化した。この副砲を連装砲塔6基に収めている、いわゆる強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。
本級も就役時には、イギリスはもちろん、ドイツ、アメリカも弩級戦艦を次々に就役させており、旧式新造艦 として就役せざるを得なかった。
装甲巡洋艦 Armored Cruiser
中口径砲の発達に伴い、通商破壊(あるいは通商破壊艦からの商船護衛)を主任務とする巡洋艦の防御力強化の必要性から生まれた艦種で、日本海軍などに代表される、戦艦戦力の補助、いわばミニ戦艦的役割の艦隊決戦戦力としての「装甲巡洋艦」とは、一線を画し、速力と航続力を重視した設計になっている。
巡洋戦艦登場までの約20年間に、11クラス、25隻を建造した。
フランスは世界初の装甲巡洋艦を世に送り出した、いわばこの分野の家元である。
その系譜は大雑把に三つに区分できると考える。
創設:防護巡洋艦を凌駕する戦闘艦の開発
すなわち、世界初の装甲巡洋艦の栄誉を担うデピュイ・ド・ローム(同型艦なし)、その縮小量産型のアミラル・シャルネ級、その強化版のポテュオ (同型艦なし)が第一期のグループで、速射砲の発達により全盛を極めた防護巡洋艦を凌駕し、通商破壊戦を実施する、あるいは通商破壊戦を防止する目的で建造された。
4,000トンから6,000トン程度の中型艦艇で、いずれも流麗なタンブルホーム形式の船体を持っている。
デュピュイ・ド・ローム (装甲巡洋艦) - Wikipedia
(1895: 6,676t 19.7knot, 7.6in *2 + 6.4in *6 92mm in 1:1250, WTJ)
世界初の装甲巡洋艦の栄誉を担う艦である。
フランス海軍は、速射砲の性能向上に伴う戦闘艦の攻撃力の格段の強化に伴い、これに対抗し船団護衛、もしくは通商破壊をその主任務とする巡洋艦に、近接戦闘での戦闘能力を喪失し難い能力を与えるべく、舷側装甲を追加した。これが装甲巡洋艦である。
19.4センチ速射砲2基と16.3センチ速射砲8基を装備し、19.7ノットの速力を出すことができた。
性能もさることながら、そのデザインの何と優美な事か。
(1895, 4,748t, 18knot, 7.6in *2 + 5.5in *6, 4 ships, 89mm 9n 1:1250 WTJ)
前級を小型化し、量産したもので、 やや航続距離が短い。
(1897, 5,374t, 19knot, 7.6in*2 + 5.5in *10, 93mm in 1:1250, Hai)
フランス海軍の3クラス目の装甲巡洋艦である。フランス艦の象徴ともいうべきタンブルホーム船体を採用した最後の装甲巡洋艦である。
舷側装甲をやや薄くし、航洋性を高めている。
発展期:汎用戦闘艦への発展
第二期のグループは外洋での通商破壊活動(あるいはその防御)を行えるように大型の船体を持ったグループで、ジャンヌ・ダルク(同型艦なし)、その縮小量産型であるゲイドン級、植民地警備に主題をおいて開発されたデュプレクス級、ゲイドン級の改良版として計画されたアミラル・オーブ級がこの群に属している。
通商破壊活動から艦隊直衛まで幅広い任務への適性を模索した時期の艦と言って良いであろう。
魅力的なタンブルホーム形式の船体を廃止し、高い乾舷を持ち、外洋での凌波性の良好さを狙った艦型となった。
(1899, 11,445t, 21knot, 7.6in *2 + 5.5in *14, 116mm in 1:1250, WTJ)
艦型を一気に大型化し、高速と大航続距離を兼ね備えた艦となった。以降のフランス海軍の装甲巡洋艦の標準的な設計となった。
(1902-, 9,516t, 21.4knot, 7.6in *2 + 6.5in *8, 3 ships、101mm in 1:1250/ Hai社製改造)
前級をやや縮小し、汎用装甲巡洋艦として量産したものである。副砲口径を再び6.5インチとした。
(迷彩は、筆者のオリジナルです。ごめんなさい)
(1904-, 7,600t, 20knot, 6.5in *2*4, 3 ships 103mm in 1:1250, WTJ)
植民地警備等、遣外任務用に設計されたクラスで、前級よりもやや小型である。6.5インチ(16センチ)砲を主砲とし、連装砲塔4基として搭載している。
(1904-, 9,534t, 21knot, 7.6in *2+6.5in *8, 5 ships 113mm in 1:1250, WTJ)
ゲイドン級の改良型、主として防御能力を向上した。6.5インチ(16センチ)副砲の半数を砲塔形式で装備している。
展開期:補助主力艦へ
第三期の装甲巡洋艦のグループは、砲力と防御力を前汎用巡洋艦のグループから格段に強化し、艦隊主力艦を補助する、いわゆるミニ戦艦的な運用を意識したものになった。
このグループには、レオン・ガンベッタ級、ジュール・ミシュレ、エルネスト・ルナン、そしてエドガー・キーネ級が入っている。いずれも12,000トンを超える大型艦である。
(1903, 12,400t, 22.5knot, 7.6in *2*2 + 6.5in *2*6 +1*4, 3 ships 115mm in 1:1250, Navis)
主砲を連装砲塔で艦の前後の搭載し、あわせて副砲も 連装砲塔の形式で左右両舷に各3基ずつ、さらにケースメイト形式で両舷各2基づつを搭載し、砲力を前級の2倍に強化した。
(1906, 13,105t, 22.5knot, 7.6in *2*2 +6.5in *12, 115mm in 1:1250, Hai)
前級の準同型艦である。主砲を新型の強力なものに改め、副砲の搭載数をやや減らし、あわせて速力強化を狙った。
(1909, 13,644t, 23knot, 7.6in *2*2 +6.5in *12)
前級同様、速力向上を狙い、やや船体長を延長した。
(1911-, 13,847t, 23knot, 7.6in *2*2 +7.6in *10, 2 ships. 124mm in 1:1250 3D printing model by Master of Miy)
フランス海軍が建造した最後の装甲巡洋艦である。当初、前級と同型として起工されたが、建造中に副砲を廃し、搭載砲を7.6インチ(19センチ)主砲14門とした。
Dreadnought /Super-Dreadnought Era
かつてはイギリスと並ぶ世界の2大海軍国の名をほしいままにしていたフランスだったが、列強の近代戦艦の開発時期に「新生学派」と言われる大艦巨砲主義の対局をいく派閥が力を持ち、以降、建艦政策において長きにわたり迷走の時代を迎え、主力艦の建造競争からは脱落した。
第一次世界大戦開戦時は弩級戦艦3隻を保有し、 1隻が建造中であった。
弩級戦艦 Dreadnought battleship
(1913-, 23,475t, 21knot, 12in *2*6, 4 ships)(128mm in 1:1250, Navis)
フランス初の弩級戦艦。前後に背負い式の砲塔配置を行い、前後方向に8射線、片舷に対し10門の射線を確保している。
超弩級戦艦 Super-Dreadnought battleship
(1915-, 24,000t, 20knot, 13.4in *2*5, 3 ships)(134mm in 1:1250, Neptun)
34センチ主砲を連装砲塔5基に装備し、首尾線上の配置とした超弩級戦艦。上の写真は新造時の写真。
直下の写真は大改装後の外観を示している。
直下の写真:3番艦ロレーヌのみ、3番主砲塔を水上機用のカタパルトと格納庫に換装した。***「通りすがり」さんからご指摘をいただきました。ありがとうございました。
(Planned, 25,230t, 21knot, 13.4in *4*3, 5 ships planned)(141mm in 1:1250, Navis)
主砲塔を4連装 とした先進的な設計である。以降、新造されたフランス戦艦はこの4連装砲塔を継承していくことになる。
(Planned, 29,600t, 23knot, 13.4in *4*4, 4 ships planned)(155mm in 1:1250)
ノルマンディー級の拡大強化版として設計された。4連装砲塔を1基増やし、34センチ主砲を16門搭載した強力な艦になる予定であった。
新戦艦の時代
本級の建造に当たっては、確かに前述のドイッチュラント級装甲艦への即効性のある対抗策としての側面も強かったが、第一次世界大戦前のプロヴァンス級以来、久々の新造戦艦の建造にあたり、攻撃力、防御力、機動力をどのようにバランスをとりながら具現化するかと言う命題に対する、次期本格主力艦建造への実験艦的な性格が強い。
武装としては、新設計の13インチ(33センチ)砲を、未完に終わったノルマンディー級戦艦以来のフランス海軍悲願の4連装砲塔2基に、艦首部に集中的に搭載し、あわせて発展著しい航空機の脅威に備えて、世界初となる水上戦闘にも対空戦闘にも使用できる13センチ両用砲16門を、連装砲塔2基、4連装砲塔3基の形で搭載した。
艦種名に正式に「高速戦艦」の分類が割り当てられ、公称30ノット、実際には31.5ノットの高速を発揮することができた。機関の搭載にも新基軸が見られ、シフト配置を採用することにより、被弾時の生存性を高めるなど、種々の新機軸への取り組みが見られた。
(1937-, 26,500t, 31.5knot, 13in *4*2, 2ships, 170mm in 1:1250 by Hansa)
本艦は過渡期的なやや小ぶりの船体を除けば(それでもフランス海軍がそれまでに建造した最大の戦艦である)、高い機動性、集中防御の思想、対空戦闘への対応力、ダメージコントロールへの新たな工夫など、それまでの戦艦の概念を一新するものであり、「新戦艦」の幕開けとなった戦艦であると言っていいであろう。
本級の登場は諸国海軍の戦艦整備政策に大きな影響を与え、前回述べたようにドイツ海軍はドイッチュラント級4番艦、5番艦を、30,000トンを超える本格的なシャルンホルスト級戦艦として設計変更の上建造した。
ダンケルク級の建造によりイタリア海軍が15インチ砲装備の高速新型戦艦を建造を開始し、また英独海軍協定によりヴェルサイユ条約の制約から解放されたドイツ海軍も、シャルンホルスト級戦艦に続き、やはり15インチ砲搭載の新型戦艦を建造するという情報を得るに至り、フランス海軍も新型戦艦の建造に着手した。
基本形は前級ダンケルク級の拡大版であり、主砲口径を15インチに拡大し、これを4連装砲塔2基に、ダンケルク級と同様前甲板に搭載した。この15インチ砲は非常に優秀な砲で、20,000メートル台の砲戦距離ならば、日本海軍が後日建造する大和級を除くすべての戦艦の装甲を打ち抜くことができた。
前級では対艦・対空の両用砲を搭載したが、本級では対空射撃の可能な6インチ砲を採用し、これを3連装砲等3基に搭載した。高角砲としては10センチ砲を連装砲塔で6基搭載した。
また本級では煙突と後檣を合体させたMACK構造が採用されており、その特徴的な主砲配置と合わせて非常に近代的な関係となった。
速力は30ノットを発揮し、4連装砲塔の採用で浮いた重量を防御装甲に回すなど、機動性と攻守を兼ね備えた強力艦となった。
(1940-, 48,180t, 30 knot, 15in *4*2, 2 ships, 197mm in 1:1250 by Hansa)
https://en.wikipedia.org/wiki/Richelieu-class_battleship#Gascogne
本級はリシュリュー級の改良型である。そのため基本的なスペックはほぼリシュリュー級に準じている。大きな変更点としては、主砲塔の配置をリシュリュー級の前甲板への集中装備から、上部構造の前後への振り分け配置として事である。
この配置の変更については、リシュリュー級の就役後に、同級の真艦尾方向への火力不足への懸念が、運用現場から強力に挙げられたことによるとされている。ガスコーニュ、クレマンソーの2艦が建造された(史実では建造されていません。ご注意を)
(1941-, 48,180t, 30 knot, 15in *4*2, 2 ships, 197mm in 1:1250 by Hansa)
(直上の写真:ガスコーニュ級の2隻:手前:ガスコーニュ、奥:クレマンソー)
本級はリシュリュー級をタイプシップとして、これを改良・拡大したものである。
特にリシュリュー級以来採用されている1935年型正38センチ砲は非常に優秀な砲で、20,000メートル台の砲戦距離ならば、日本海軍が後日建造する大和級を除くすべての戦艦の装甲を打ち抜くことができると言われていた。
このリシュリュー級以降、フランス海軍自慢の4連装砲塔を、後部甲板に一基追加し、主砲12門を搭載する強力な戦艦となった。
その他の構造的な特徴は、ほぼリシュリュー級を踏襲し、近代的で美しいフォルムを持つ艦であった。
アルザスとノルマンディーの2隻が建造された(史実では建造されていません。ご注意を)。
(1942-, 51,000t, 30 knot, 15in *3*4, 2 ships, 214mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs 3Dprinting model)
(直上の写真:アルザス級の2隻:手前:アルザス、奥:ノルマンディー)
(フランス海軍新戦艦の艦型比較:下から、ダンケルク級、リシュリュー級、ガスコーニュ級、アルザス級 艦型の大型化の推移と、主砲等の配置の水位が興味深い)
下のリンク、フランス海軍の艦船開発史について、大変興味深くまとめていらっしゃいます。
上記の整理についても、大変参考にさせて頂きました。紹介させて頂きます。
フランス艦艇に興味のある方、必読です。
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