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日本海軍巡洋艦開発小史

(その1) 防護巡洋艦の系

さて、今回は艦船模型サイトらしく(胸を張って、いうんじゃない!・・・おっしゃる通りです)、日本海軍の巡洋艦開発(装甲巡洋艦巡洋戦艦は主力艦として既に紹介済みなので、それ以外)を辿るシリーズの第一回です。少し細切れに、6回程度のシリーズにする予定ですが、今回は、これまでにすでに紹介した内容の再録もあるので、日本海軍成立からの防護巡洋艦を一気にご紹介。

 

日本帝国海軍の防護巡洋艦

本稿ではこれまで何度も触れてきたので、「またか」の感はあるかとは思いますが、防護巡洋艦は基本、舷側装甲を持たず、機関部を覆う防護甲板により艦の重要部分を防御し、舷側の防御は石炭庫の配置に委ねるという設計構想を持った艦種で、艦の重量を軽減し高速と長い航続距離を両立させることができました。

一般に巡洋艦の主たる使命を、仮想敵の通商路破壊と自国通報路の防御においた欧州各国にとっては非常に有用な艦種と言え、一世を風靡しました。

その時期は明治初年の日本海軍の黎明期と重なり、早急な海軍整備のためには欧州先進国からの軍艦購入に頼らざるを得ない日本にとっては、乏しい国家財政も勘案して比較的調達の容易な(程度の問題ではありましたが)艦種として、多くが購入されたことは、本稿でも紹介してきたところです。

まさに日清戦争時における、日本海軍の主力艦群であったと言えるでしょう。

 

日本海軍初期の防護巡洋艦

日清戦争期までの防護巡洋艦(浪速級から吉野級)については、本稿の第3回、第4回で、ご紹介しています。以下、再録(抄録)しておきます。

fw688i.hatenablog.com

fw688i.hatenablog.com

 

トーゴー」さんと一緒に有名になっちゃった。日本海軍、最初の巡洋艦

浪速級防護巡洋艦 -Naniwa class :protected cruiser-(浪速:1886-1912 /高千穂:1886-1914)

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Naniwa-class cruiser - Wikipedia

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日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦の建造を決定。

そのうち、イギリスに発注された2隻が、浪速級防護巡洋艦であり、「浪速」「高千穂」と命名されました。

設計にあたっては、当時、世界の注目を浴びた優秀艦「エスメラルダ」(後述)をタイプシップとして、防御甲板の増強による防御力の向上、主砲口径の拡大など、若干の改良が盛り込まれました。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する、日本海軍最初の防護巡洋艦です。

船体はタイプシップである「エスメラルダ」より少し大型化し3,700トンとなり、26センチ主砲2門、15センチ砲6門を主要兵装として備え、速力は18ノットを発揮することが出来ました。(77mm in 1:1250 Hai)

日清開戦時の「浪速」の艦長が東郷平八郎であり、彼と「浪速」は、開戦劈頭の「高陞号事件」で名を挙げました。

日清戦争後、兵装を15.2センチ速射砲に換装し、日露戦争に望みました。日露戦争では第二艦隊に所属、主力の装甲巡洋艦を補佐しました。

「高千穂」は、第一次世界大戦で、ドイツ太平洋艦隊の根拠地青島要塞の攻略戦に封鎖艦隊の一員として参加しました。その際、ドイツの水雷艇S-90の雷撃を受け、補給用に搭載していた魚雷が誘爆、轟沈しました。日本海軍における、敵艦との交戦で失われた最初の艦となってしまいました。

 

待てど暮らせど・・・。どこに行っちゃったんだろう?

幻の防護巡洋艦「畝傍」-Unebi :protected cruiser-

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Japanese cruiser Unebi - Wikipedia

f:id:fw688i:20181013214613j:plain明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦を英仏2両国に発注しましたが、このうちフランスに発注された1隻が「畝傍」でした。

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮しました。(::mm in 1:1250 Hai)

同時期に発注された当時の最新式の防護巡洋艦であるにも関わらず、「浪速」級とは異なり、直上の写真のように、流麗でやや古めかしい三檣バーク形式の船でした。フランスから日本への回航途上で行方不明となったことはつとに有名です。

浪速級と比較すると、やや低めの乾舷と、舷側の4箇所の砲座に搭載された24センチの主砲が、ややバランスの悪さを感じさせます。フランス艦には時に復元性能に問題がある場合があり、回航途上に暴風雨などに遭遇しその弱点が瞬時の転覆をもたらしたのかもしれません。

しかしその流麗な艦容で高速を発揮し敵に肉薄する姿など、見てみたかったと思いませんか?

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(直上の写真は、「浪速級」と「畝傍」の関係の比較。同年代なのに、基本設計が異なるのでしょうね。後述の「松島級」のそうですが、フランスの設計は、好きだなあ)

 

舷側装甲帯を持った防護巡洋艦?そんなのあり?

千代田 -Chiyoda :protected cruiser-  (1891-1927) 

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Japanese cruiser Chiyoda - Wikipediaf:id:fw688i:20180915210056p:plain

「千代田」は、前出のフランスから日本への回航途上で消息を絶った巡洋艦「畝傍」の保険金により調達されたといういわく付きの巡洋艦です。イギリスで建造され、舷側水線部に貼られた装甲帯を持つところから「日本海軍初の装甲巡洋艦」ともいわれることもありますが、2,500トン、主砲は持たず12センチ速射砲を舷側に10門装備した、正確には装甲帯巡洋艦、一般的には防護巡洋艦に分類されるでしょう。(75mm in 1:1250 WTJ)

19ノットの速力を持ち、当時としては快速でありながら、重厚な連合艦隊主隊に組み込まれたため(おそらく、その装甲帯のため?)、その快速を発揮する機会は、黄海海戦においてはありませんでした。

 

倒せ定遠鎮遠!すごいの作っちゃったよ。

三景艦:松島級防護巡洋艦 -Matsushima class :protected cruiser- 

(厳島:1891-1925/ 松島:1892-1908/ 橋立:1894-1925  

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Matsushima-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「松島」。「松島」は主砲を後ろ向きに搭載している。フェアリー企画製レジンキット

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(「厳島」と「橋立」は同型艦。主砲を前向きに搭載している。Hai製。ベルタンの設計では、主砲を後ろ向きに搭載した「松島型」2隻と、前向きに主砲を搭載した「厳島」「橋立」の4隻で、一セットの戦隊として戦場に投入される予定だったと言われています)

この3隻が、フランスの天才造船家エミール・ベルタンの設計であることはつとに知られています。清国の当時アジア最強を謳われた定遠級戦艦(砲塔装甲艦)「定遠」、「鎮遠」に対抗する艦として設計されました。

これらの艦の最大の特徴は、4,000トン強の小さな船体に巨大な38口径32センチ砲を主砲として一門搭載していることで、主砲自体の性能は、射程、口径、弾丸重量ともに、「定遠級」の主砲(20口径30センチ砲)を凌駕していました。「厳島」と「橋立」はこの主砲を前向きの露砲塔に搭載し、「松島」は後ろ向きに搭載しています。「アジア最強の戦艦を上回る強力艦を手に入れた」と国民の少年のような高ぶりが伝わってくるような気がします。

早速、連合艦隊も「松島」をその旗艦に据えました。(75mm in 1:1250 Hai)

 

 **本稿でのラーニング:筆者は以前から、この「松島級」の特に「松島」に装備された後むきの主砲はどの様に使用される目的があったのだろうかと、疑問を持っていました。この疑問に対し、ご投稿(「通りすがり」さん)をお寄せいただき、「設計者ベルタンのオリジナルの設計はもう少し大きな艦型になるはずだった。日本海軍は予算の関係で船体を小さなものにせざるを得なかった」(これは筆者も聞いたことがありました)、そして「その設計では、もう少しまともに舷側方向に射撃ができたはず」(なるほど!)、さらに「何れにせよ使いにくい巨砲ではあったので、中口径砲の乱射で敵艦の行動の自由をある程度奪ったのちに、必中のタイミングでトドメを刺すような使い方を想定したのではないか。標的と想定された「定遠」級装甲砲塔艦の装甲を撃ち抜くには、この巨砲しかなかったのだから」という趣旨の解釈を伺うことができました。眼から鱗、とはこのことです。ありがとうございました。

 

初の国産巡洋艦。結構良いんじゃない?

秋津洲 Akitsushima :protected cruiser- (1894-1927)

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Japanese cruiser Akitsushima - Wikipediaf:id:fw688i:20180917142146j:image

 「秋津洲」は、巡洋艦のような大型艦としては、設計から建造まで初めて日本国内で行われた、記念すべき軍艦です。

3,150トン、19ノットの快速を発揮し、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備した、国産のいわゆるエルジック・クルーザーです。設計当初から巨砲を主砲とせず、当初から速射砲を装備しています。他の防護巡洋艦の多くが、就役時に装備した主砲を、その後速射砲に換装していること考えると、まさに慧眼と言えるでしょう。あるいは、巨砲を調達できなかった、案外、実情はそういうことかも知れませんが。経緯はさておき、本艦以降、日本海軍の防護巡洋艦は、速射砲中心でその兵装を整えて行くことになります。(80mm in 1:1250 WTJ)

 

元祖エルジック・クルーザーを手に入れた!

防護巡洋艦「和泉」、元は「エスメラルダ」-Esmeralda :protected cruiser: Izumi - (1884-1912: 1894、日本海軍に売却、以降、巡洋艦「和泉」)

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Japanese cruiser Izumi - Wikipediaf:id:fw688i:20180917122434j:image

 「エスメラルダ」は、当初、チリ海軍によってイギリス・アームストロング社に発注された、防護巡洋艦です。(68mm in 1;:1250 Navis)

建造時には、3000トン弱の船体に、主要兵装として25.4センチ単装砲2門を主砲、他に15センチ砲6門を装備し、18ノットの速力を出すことが出来ました。

日清戦争中の1895年に日本に売却され、艦名を「和泉」としました。日本海軍に移籍後、主砲を15センチ速射砲に、その他を12センチ速射砲に換装するなどして、日露戦争では、第三艦隊の序列に加わり戦いました。

本艦がアームストロング社エルジック造船所で建造されたところから、以降、同様の設計で建造された防護巡洋艦は、造船所の場所に関わらずエルジック・クルーザーと呼ばれるようになりました。いわゆる元祖エルジック・クルーザーという「記念的」な巡洋艦と言えるでしょう。日本海軍の防護巡洋艦は、フランスで生まれた「松島級」、舷側装甲を持った「千代田」を除いて、すべてこの形式です。

 

世界最速の・・・

吉野級防護巡洋艦 -Yoshino class :protected cruiser - (吉野:1893-1905/高砂:1898-1904)

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Japanese cruiser Yoshino - Wikipedia

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明治24年度計画で、イギリス・アームストロング社に発注されました。建造は同社エルジック造船所で行われ、まさに本家のエルジック・クルーザーです。

その特徴は何をおいても23ノットという高速にあり、就役当時は世界最速巡洋艦、と言われました。4,200トンの船体に、「秋津洲」同様に兵装は全て速射砲で揃えていました(15.2センチ速射砲4門・12センチ速射砲8門)。 (95mm in 1:1250 WTJ)

黄海海戦にあたっては、第一遊撃隊の旗艦として、坪井少将が座乗しました。

同型艦高砂日清戦争後に発注され、主砲口径を20.3センチにするなど、いくつかの改良点が見られます。

その後、「吉野」は日露戦争には、第3戦隊の一隻として参加しましたが、いわゆる日本海軍「魔の1904年5月15日」、封鎖中の旅順沖を哨戒中に濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没しました。同日、機雷で戦艦「初瀬」「八島」を喪失し、日本海軍にとって5月15日は、まさに災厄の1日となりました。

同型艦高砂」も、同年12月13日にやはり旅順閉鎖作戦中に触雷して失われました。

 

日清戦争以降の防護巡洋艦

 

これで国産定着?

須磨級防護巡洋艦 -Suma class :protected cruiser-(須磨:1896-1923 /明石:1899-1928) 

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Category:Suma-class cruisers - Wikipedia

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「須磨」級防護巡洋艦は、前出の初の国産巡洋艦秋津洲」を小型化し改良したものです。

2,657トンの「秋津洲」よりも二回りほど小さな船体に、「秋津洲」と同様の兵装、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備し、同級より若干優速の20ノットを発揮します。(78mm in 1:1250 WTJ)

日清戦争には間に合いませんでしたが、日露戦争では建造年次の新しい防護巡洋艦として高速をいかした前哨索敵等の任務でほぼ全ての主要な海戦に参加し活躍しました。

さらに第一次世界大戦では、青島要塞攻略戦やインド洋でのANZAC護衛任務等に参加した後、「明石」は第二特務艦隊旗艦として地中海での対Uボート作戦に派遣されています。

 

(直下の写真は、前回ご紹介したWTJ製の3D printing model。防護巡洋艦「笠置」級(奥)と「須磨」級(手前)。今回ご紹介する「須磨級」「笠置級」両防護巡洋艦は、これを仕上げたものです)

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「吉野」をもう2隻!

笠置級防護巡洋艦 -Kasagi class :protected cruiser-(笠置:1898-1916 /千歳:1899-1928)

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Kasagi-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「吉野級」と「笠置級」。「笠置級」は「吉野級」をタイプシップとしたため、類似点が多い)

「笠置級」防護巡洋艦は、「吉野級」の2番艦「高砂」をタイプシップとして、アメリカで建造されました。日本海軍としては、海外に発注された最後の防護巡洋艦となりました。

武装タイプシップである「高砂」に準じて、20.3センチ速射砲2門、12センチ速射砲10門を主兵装としています。速力は22.5ノットを発揮しました。(95mm in 1:1250 WTJ)

日露戦争では、海軍主力艦隊の第一艦隊に所属し、戦艦戦隊を補佐しほぼ全ての主要海戦に参加しました。

 

偵察専任!無理のない設計で、しかも国産。

新高級防護巡洋艦 -Niitaka class :protected cruiser-(新高:1904-1922 /対馬:1904-1939)

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Niitaka-class cruiser - Wikipedia

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 「新高級」防護巡洋艦は、日本海軍としては初めて設計当初から偵察任務を想定して建造された国産巡洋艦です。そのため前級にくらべやや小型の艦型となりました(3,366トン)。雷装を廃止し、兵装も15.2セント速射砲6門、速力も20ノットととやや抑えたものとなっています。(81mm in 1:1250 Navis)

この様に一見したスペックでは華々しさには欠ける同級ですが、一点、堅牢性、実用性は大変高く評価された様です。(日本海軍は、ともすると「一点豪華」へのこだわりが強く見られ、ともすればその「豪華」装備へのこだわりで、設計に齟齬をきたす様なことが時折みうけられたりするのですが、本級における成功は、米軍におけるシャーマン戦車やドイツ軍の4号戦車などの様な成功例と何処かに通ずるところがある様な気がします)

第一次世界大戦では、インド洋でのシーレーン防御任務に活躍し、南アフリカケープタウンあたりまで遠征しています。

 

予算がちょっと足りないから、少し小ぶりに作ってみました

音羽 Otowa :protected cruiser- (1904-1917)

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Japanese cruiser Otowa - Wikipedia

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前出の「新高級」同様に 偵察任務を想定し1隻のみ建造されました。予算の関係で、「新高級」をさらに小型化した設計となり、3,000トンの船体で21ノットを発揮しました。

兵装は前級同様、雷装は持たず、15.2センチ速射砲2門、12センチ速射砲6門と、艦型の小型化に準じさらに抑えたものになっています。

偵察巡洋艦の本領を発揮して、日露戦争に続き、第一世界大戦でも主として警備活動に活躍しました。

(本艦の1:1250スケールの艦船模型は、未入手です。Hai社から製品化されてはいる様なのですが。写真はLaWaRuというモデルショップのものを拝借。いずれはセミクラッチにトライしてみようかな。何処かに資料があったかな?)

 

やっぱり「吉野」は良かったよね。国産でも作ってみよう。

利根 Tone :protected cruiser- (1910-1931)

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Japanese cruiser Tone (1907) - Wikipedia

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前出の「吉野級」防護巡洋艦タイプシップとして、日露戦争直後の臨時軍事費で1隻のみ建造されました。タイプシップを 「吉野級」にしたところからも、艦隊型巡洋艦として設計され、前級「新高級」「音羽」では廃止されていた雷装を装備し、兵装も「吉野」に準じて15.2センチ速射砲2門、12センチ速射砲10門としています。(99mm in 1:1250 Navis)

本艦の最大の特徴は、これまで戦果実績が見られず、一方では両艦同士の衝突などによる喪失事故が見られた艦首の衝角を廃止し、クリッパー型の艦首を持ったところにあります。

4,113トンの船体にレシプロ蒸気機関を搭載し23ノットの速力を発揮しました。本艦は日本海軍の巡洋艦として、レシプロ機関を主機とした最後の巡洋艦となりました。

 

次の次元に行ってみよう。防護巡洋艦から軽巡洋艦への過渡期。

筑摩級防護巡洋艦 -Chikuma class :protected cruiser-(筑摩:1912-1931 /矢作:1912-1940 /平戸:1912-1940)

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Chikuma-class cruiser - Wikipedia

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本級は明治40年度計画で3隻の建造が 承認されました。一番艦「筑摩」は佐世保海軍工廠で建造されましたが、「矢作」は三菱長崎造船所、「平戸」は川崎造船所、といずれも初めて民間造船所で建造された巡洋艦となりました。

前級「利根」同様に艦首衝角を廃止しクリッパー型艦首を持ち、艦型は一気に5,000トンと大型化しています。主機には初めて蒸気タービンが採用され、26ノットの高速を発揮します。

3基の魚雷発射管と、15.2センチ速射砲8門を主要な兵装として装備しています。(177mm in 1:1250 Navis)

本級は防護巡洋艦から後の軽巡洋艦(軽装甲巡洋艦)への過渡的な存在と言え、防護巡洋艦本来の舷側防御である石炭庫の配置に加え、舷側の一部に87mmの舷側装甲を有していました。

第一次世界大戦では、ニューギニアドイツ領の攻略戦や、ドイツ太平洋艦隊(シュペー提督指揮)の通商破壊戦への警備活動、のちにはインド通商路の警備活動などに活躍しました。

 

(その2) 軽巡洋艦の誕生

防護巡洋艦から軽巡洋艦

タイトルの流れを少し乱暴に整理すると、巡洋艦に対する機動性・高速化への要求から、その主機にタービンが採用され、その燃料も効率の良い重油へのシフトが加速化されました。

本稿ではこれまで何度も触れてきたので、「またか」の感はあるかとは思いますが、防護巡洋艦とは、基本、舷側装甲を持たず、機関部を覆う艦内に貼られた防護甲板と舷側の石炭庫により艦の重要部分を防御する構想を持った設計で、艦の重量を軽減し、限られた出力の機関から高速と長い航続距離を得ることを両立させることを狙った艦種で、一般に巡洋艦の主たる使命を、仮想敵の通商路破壊と自国通報路の防御においた欧州各国にとっては非常に有用な艦種と言え、一世を風靡しました。

しかしこの燃料の重油化への流れの中では、これまでの防護巡洋艦の防御設計の根幹を成してきた石炭庫による舷側防御に代わるものとして、一定の舷側装甲が必要となるわけです。その上で、速力への要求との兼ね合いもあり「軽い舷側装甲を持った巡洋艦」という艦種が発想されます。これが、軽装甲巡洋艦軽巡洋艦です。

 

日本海軍について、この流れにもう少し付け加えると、機動性に対する要求の背後には、魚雷の性能の飛躍的な向上と、駆逐艦の発達も合わせて考える必要がありそうです。

 

魚雷性能の向上

下表は日露戦争期から太平洋戦争の終結までの日本海軍の水上艦艇用の魚雷形式の一覧です。これらの他にも潜水艦用、あるいは航空機用の航空魚雷があるわけです。 

西暦 和暦 形式名称 直径(cm) 炸薬量(kg) 雷速(低)kt 射程(m) 雷速(高)kt 射程(m) 装気形式
1899 明治32 32式 36 50 15 2,500 24 800 空気
1904 37 日露戦争              
1905 38 38式2号 45 95 23 4,000 40 1,000 空気
1910 43 43式 45 95     26 5,000 空気
1911 44 44式 45 110     36 4,000 空気
    44式 53 160 27 10,000 35 7,000 空気
1914 大正3 第一次世界大戦            
1917 6 6年式 53 203 27 15,500 36 8,500 空気
1921 10 8年式2号 61 346 28 20,000 38 10,000 空気
1931 昭和6 89式 53 300 35 11,000 45 5,000 空気
1933 8 90式 61 373 35 15,000 46 7,000 空気
1935 10 93式1型 61 492 40 32,000 48 22,000 酸素
1939 14 第二次世界大戦            
1941 16 太平洋戦争              
1944 19 93式3型 61 780 36 20,000 48 15,000 酸素

表の見方を説明しておくと(必要ないかも知れませんが)、例えば6年式(大正6年制式採用)の場合、魚雷の直径は53cm、弾頭の炸薬量が203kg、低速設定の27ノットで射程が15,500m、高速設定の36ノットで射程が射程が8,500mということになります。

これが、93式1型(皇紀2593年制式採用)のいわゆる酸素魚雷の場合、魚雷の直径は61cm、弾頭の炸薬量が492kg、低速設定の40ノットで射程が32,000m、高速設定の48ノットで射程が射程が22,000mとなり、性能の高さが際立っていることがわかります。

それ以前にも6年式あたりから、つまり53センチ口径の魚雷の登場から、炸薬量、魚雷の速度(雷速)、射程が顕著に向上し、魚雷の兵器としての実用性が格段に高まったことが想像できます。(上表以前の日清戦争期の日本海軍の魚雷は、炸薬量が約20kg程度、射程が最大で 1000m程。有効射程は300mと言われていました。それが日露戦争期にようやく1000mでも何とか使えるかも、という状況だったわけです)

 

艦隊駆逐艦の発達 

一方、下表は日露戦争期から昭和初期にかけての日本海軍が建造した艦隊型駆逐艦(一等駆逐艦)の艦級の一覧です。

Class 竣工年次 同型艦 基準排水量(t) 速度(kt) 主砲口径(cm) 装備数 魚雷口径(cm) 装備数2 備考
雷級 1899 6 345 31 8 1 45 Tx2 英国製
東雲級 1899 6 322 30 8 1 45 Tx2 英国製
暁級 1901 2 363 31 8 1 45 Tx2 英国製
白雲級 1902 2 322 31 8 1 45 Tx2 英国製
春風級 1903 7 375 29 8 2 45 Tx2  
  1904 日露戦争            
神風級(I) 1905 25 381 29 8 2 45 Tx2  
海風級 1911 2 1,030 33 12 2 45 Tx3/TTx2  
浦風 1913 1 810 30 12 1 53 TTx2 英国製
  1915 第一次世界大戦            
磯風級 1915 4 1,105 34 12 4 45 TTx3  
江風級 1918 2 1,180 34 12 3 53 TTx3  
峯風級 1920 12 1,215 39 12 4 53 TTx3  
野風級 1922 3 1,215 39 12 4 53 TTx3  
神風級(II) 1922 9 1,270 37.3 12 4 53 TTx3  
睦月級 1926 12 1,315 37.3 12 4 61 TTTx2  

大雑把に分類すると、日本海軍初の駆逐艦である「雷級」から初代の「神風級」までの6クラスが日露戦争を想定し急速に整備された「日露戦争型」の駆逐艦、続く「海風級」から「江風級」が日本海軍独自の艦隊駆逐艦の模索期、その後の「峯風級」以降が第一次の決定版艦隊駆逐艦、と言えるのではないでしょうか?(この他にも、駆逐艦としては、模索期以降、中型(1000t以下)の二等駆逐艦の艦級も存在します。第一次世界大戦で、地中海に派遣された「樺級」「桃級」などがこれに該当します。艦隊型駆逐艦としては、実はこの表の後、つまり「睦月級」の後には、いわゆる「特型駆逐艦」以降の艦級が控えています。「太平洋戦争型」の駆逐艦日本海軍の駆逐艦の黄金期であり、その頂点かつ終焉のシリーズ、ということになり、上表の「酸素魚雷」との組み合わせで、スペック的にはとんでもないことになるのですが、それらはもしかすると別の機会に)

 

えっ!模型出せよって!

しょうがないなあ。出します、出します。

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(直上の写真は、日本海軍の駆逐艦の各級を一覧したもの。手前から、日露戦争期の代表格で「東雲級」と「白雲級」、模索期から「海風級(竣工時の単装魚雷発射管、その後の連装魚雷発射管への換装後の2タイプ)」、「磯風級」、そして第一次決定版艦隊駆逐艦として「峯風級」、「睦月級」。(「神風級(II)」は現在、日本に向け回航中です。いずれは・・・)

日露戦争期の駆逐艦

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(直上の写真:東雲級駆逐艦:50mm in 1:1250 by Navis 2本煙突が特徴)

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(直上の写真:白雲駆逐艦:51mm in 1:1250 by Navis 日露戦役時の駆逐艦の標準的な形状をしています)

 

模索期の艦隊駆逐艦

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(直上の写真:海風級駆逐艦、竣工直後の姿。単装魚雷発射管を装備:78mm in 1:1250 by WTJ)

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(直上の写真:海風級駆逐艦、連装魚雷発射管への換装後の姿)

 

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(直上の写真:磯風級駆逐艦:78mm in 1:1250 by WTJ。軽巡洋艦天龍級」はこの磯風級駆逐艦の形状を拡大した、と言われています。連装魚雷発射管を3基装備し、雷撃兵装を重視した設計です)

 

「峯風級」駆逐艦「野風級:後期峯風級」駆逐艦

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峯風級」は、それまで主として英海軍の駆逐艦をモデルに設計の模索を続けてきた日本海軍が試行錯誤の末に到達した日本オリジナルのデザインを持った駆逐艦と言っていいでしょう。12cm主砲を単装砲架で4基搭載し、連装魚雷発射管を3基6射線搭載する、という兵装の基本形を作り上げました。1215トン。39ノット。同型艦15隻:下記の「野風級:後期峯風級3隻を含む)

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(直上の写真:「峯風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces) 

 

「野風級:後期峯風級」は「峯風級」の諸元をそのままに、魚雷発射管と主砲の配置を改め、主砲や魚雷発射管の統一指揮・給弾の効率を改善したもので、3隻が建造されました。

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(直上の写真:「野風級:後期峯風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces)

 

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(直上の写真は、「峯風級」(上段)と「野風級:後期峯風級」(下段)の主砲配置の比較。主砲の給弾、主砲・魚雷発射の統一指揮の視点から、「野風級」の配置が以後の日本海駆逐艦の基本配置となりました)  

 

「神風級」駆逐艦 

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「神風級」は、上記の「野風級:後期峯風級」の武装レイアウトを継承し、これに若干の復原性・安定性の改善をめざし、艦幅を若干拡大(7インチ)した「峯風級」の改良版です。9隻が建造されました。1270トン。37.25ノット。

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(直上の写真:「神風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces)

 

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(直上の写真:「峯風級」(上段)と「神風級」の艦橋形状の(ちょっと無理やり)比較。「神風級」では、それまで必要に応じて周囲にキャンバスをはる開放形式だった露天艦橋を、周囲に鋼板を固定したブルワーク形式に改めました。天蓋は「睦月級」まで、必要に応じてキャンバスを展張する形式を踏襲しました)

 

***今回ご紹介したモデルは、あまりこれまでご紹介してこなかったThe Last Square製のホワイトメタルモデルです。同社は、1:1250 Costal Forcesというタイトルのシリーズで、タイトル通り第二次世界大戦当時の主要国海軍(日・米・英・独・伊)の沿岸輸送、或いは通商路護衛の艦船、駆逐艦護衛駆逐艦駆潜艇魚雷艇などの小艦艇のモデルや護衛される側の商船などを主要なラインナップとして揃えています。

http://www.lastsquare.com/zen-cart/index.php?main_page=index&cPath=103_146

:直下の写真は同社の米海軍護衛空母「ボーグ」の未塗装モデル:これから色を塗ろうっと。このモデルは、エレベーターが別パーツになっていたり、結構面白いのですが、少し小ぶりに仕上がり過ぎているかもしれません。

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そして「睦月級」駆逐艦

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 「睦月級」駆逐艦は「峯風級」から始まった日本海軍独自のデザインによる一連の艦隊駆逐艦の集大成と言えるでしょう。

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(直上の写真:「睦月級」駆逐艦の概観 83mm in 1:1250 by Neptune) 

艦首形状を凌波性に優れるダブル・カーブドバウに改め、砲兵装の配置は「後期峯風級」「神風級」を踏襲し、魚雷発射管を初めて61cmとして、これを3連装2基搭載しています。太平洋戦争では、本級は既に旧式化していましたが、強力な雷装と優れた航洋性から、広く太平洋の前線に投入され、全ての艦が、1944年までに失われました。1315トン。37..25ノット。同型艦12隻。

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(直上の写真:「睦月級」(下段)と「神風級」(上段)の艦首形状の比較。「睦月級」では、凌波性の高いダブル・カーブドバウに艦首形状が改められました)

 

艦隊決戦構想と軽巡洋艦

軽巡洋艦の紹介の前に、魚雷だの駆逐艦だの、何を長々書いているんだ、という声が聞こえてきそうですが、もう少しお付き合いを。

これも、これまでに何度も本稿では繰り返し記述してきたことなので、「しつこい」と言われそうですが、日本海軍は、その成立の過程の特異性として、常に「艦隊決戦」というものを目的に設計されてきています。

日露戦争での「勝利」(まあ、戦争全体を見れば、「?」がつくかもしれませんが、海軍の戦歴、戦果から戦術的に見ればそう言ってもいいでしょう)によって、それはさらに確信的なものになったと思われます。

巡洋艦の設計においてもこの傾向は色濃く見られ、他国の海軍においては、巡洋艦は偵察や通商路の破壊、防御を主任務と想定されるため、長期間の作戦行動や航洋性などに重点が置かれるのに対し、日本海軍では常にその戦闘力に設計の重点があり、他を圧倒する火力や速度などを追い求める傾向が顕著で、「一点豪華」な設計ではありながら、ともすれば運用にやや無理が生じることがありました。偵察任務等を目的に建造された艦級は本稿前々回、「防護巡洋艦」の回にご紹介した「新高級」「音羽」くらいで、逆にこれらの艦は設計に無理がなく運用面では大変高評価だったということです。

 

さて、「艦隊決戦」を目的に設計された日本海軍なのですが、日露戦争の次の仮想敵は、太平洋を挟んで向き合うアメリカ、ということになります。国力、工業力の差は如何ともし難く、日本海軍の決戦構想は、受け身になります(対ロシアの時もそうだった、それでうまくいった、という前例主義的な思いも幾分かあったでしょうね)

つまり渡洋してくるアメリカ艦隊を迎え撃つ、ということになる訳ですが、主力艦の物量の差を米艦隊の渡洋の途上で少しでも縮めておこうという、いわゆる「漸減戦術」がその作戦構想の根幹に常に持たれることになります。

補助戦力で、渡洋してくる米艦隊の戦力をできるだけ削り、主力決戦に持ち込もう、という訳です。

この構想の具体化の第一弾が、実用化された魚雷と、それを搭載し有力な戦力となった駆逐艦を組み合せた「水雷戦隊」で、軽巡洋艦はその司令塔としての役割(旗艦)を担うことになってゆきます。(ああ、やっと繋がった)

 

日本海軍 最初の軽巡洋艦! 駆逐艦の頼れる兄貴

天龍級軽巡洋艦 -Tenryu class light cruiser-(天龍:1919-1942 /龍田:1919-1944 ) 

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Tenryū-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦:116mm in 1:1250 by Navis)

 

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(直上の写真: 第18戦隊の天龍級軽巡洋艦2隻:天龍と龍田)

 

初めてギヤードタービンを搭載し、前級の筑波級防護巡洋艦の倍以上の出力から、33ノットの高速を発揮することができました。艦型は前年に就役した「江風級」駆逐艦を拡大したもので、当初から駆逐艦戦隊(水雷戦隊)を指揮することを目的とした嚮導駆逐艦的な性格の強い設計でした。

主砲には14センチ単装砲を中央線上に4門装備し、両舷に4射線を確保しました。日本海軍の巡洋艦としては初めて53センチ3連装魚雷発射管を搭載しました。この発射管は当初は発射時に射出方向へ若干移動して射出する方式採っていましたが、運用面で機構状の不都合が生じ、装備位置を高め固定して両舷に射出する方式に改められました。

舷側装甲は、アメリ駆逐艦の標準兵装である4インチ砲に対する防御を想定したものでした。

 

本級は、当初計画では、水雷戦隊旗艦とさらに主力部隊の直衛としても使用する予定で、8隻の建造が計画されていましたが、同時期のアメリカ海軍の「オマハ級」軽巡洋艦が、本級よりもはるかに強力なスペックを持っていること、および本級の就役直後に就役を開始したため「江風級」の次の「峯風級」駆逐艦が39ノットの高速力を有しており、その戦隊の旗艦としては、物足りないこと等から、2隻で毛像を打ち切り、次級「球磨級軽巡洋艦の建造に計画を移行させました。

太平洋戦争では、既に旧式艦となりながらも、開戦当初2隻で第18戦隊を構成し、南方作戦で活躍しました。

 

両艦は南方の攻略戦を転戦後、ラバウルに新設された第8艦隊に編入され、ソロモン方面で活躍しました。

「天龍」はその最中、1942年12月18日、ニューギニア方面への輸送作戦中に米潜水艦の雷撃で撃沈され、「龍田」はその後、水雷戦隊旗艦等の任務を経て、輸送船団護衛任務中、1944年3月13日に八丈島沖で、こちらも米潜水艦の雷撃により失われました。

 

本格的水雷戦隊旗艦から重雷装型まで。魚雷を使いこなせ! 

球磨級軽巡洋艦 -Kuma class light cruiser-(球磨:1920-1944 /多摩:1921-1944/北上:1921-1945/大井:1921-1944/木曽:1921-1944 ) 

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Kuma-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:球磨級駆逐艦:119mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:3D printing modell :写真の姿は太平洋戦争当時の「球磨」。航空機による索敵能力を得るために、後の改装で5番砲塔と6番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)

 

本級は「天龍級」の艦型を5500トンに拡大し、併せて主砲を「天龍級」の14センチ単装砲4門から7門に増強しています。雷装としては、53センチ連装魚雷発射管を各舷に2基、都合4基搭載し、両舷に対し4射線を確保する設計となっています。

速力は、同時期の「峯風級」駆逐艦(39ノット)を率いる高速水雷戦隊の旗艦として、機関を強化し36ノットを有する設計となっています。

主力艦隊の前衛で水雷戦隊を直卒する任務をこなすため、高い索敵能力が必要とされ、その具体的な手段として航空艤装にも設計段階から配慮が払われた最初の艦級となり、水上偵察機を分解して搭載していました。しかしこの方式は運用上有効性が低く、「球磨」と「多摩d」では、後日、改装時に後橋の前に射出機(カタパルト)を装備し水上機による索敵能力を向上させることになります。

一方、同級の最終艦「木曽」では、水上偵察機ではなく陸用機を搭載し艦橋下に格納、艦橋前の滑走台から発艦させる、という構想を実現しました。このため「木曽」は同型艦でありながら、異なる外観の艦橋を有しています。(「木曽」は最後まで射出機を装備しませんでした)

(直下の写真は、異なる形状の艦橋を持つ「木曽」 by Tiny Thingamajigs) 

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(直上の写真:「球磨」と「木曽」の艦橋形状の比較。「木曽」は艦橋下に搭載機の格納庫を設け、偵察機の発進時にはその前部にある1・2番主砲等の上に滑走台を展開した)

 

重雷装艦への改装

1941年に、旧式化した(「球磨級」は53センチ魚雷搭載艦であり、当時の61センチ酸素魚雷を標準装備とする水雷戦隊の旗艦任務は難しくなっていました)同級の3番艦以降(「北上」「大井」「木曽」)を61センチ4連装魚雷発射管10基(片舷5基)を搭載する重雷装艦への改装が決定され、「北上」「大井」については同年中に改装を完了しました。

(直下の写真は、重雷装艦に改装された「北上」「大井」:by Trident) 

 

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(直下の写真:「北上」と「大井」:艦の中央部に61センチ4連装魚雷発射管を片舷5基装備した。その後、魚雷発射管の搭載スペースを活用して、高速郵送巻に改装された) 

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しかし、想定された艦隊決戦は発生せず、両艦が実戦に重雷装艦として投入されることはありませんでした。その後、戦局が厳しくなると、両艦はそのペイロード(多数の魚雷発射管の装備甲板)に注目され、高速輸送艦への改装が計画されました。その改装は魚雷発射管を8基撤去、主砲を全廃し、高角砲を装備、その他積荷の積載装備の追加などに及び、結局、工程がかかりすぎるとして本格的な改装には至りませんでしたが、魚雷発射管の撤去などの小改装による輸送艦任務への適応は随時実施されました。

その後「北上」は損傷修理の際に回天搭載艦への改装が実施されました。これは、主砲、魚雷発射管を全て撤去、高角砲に換装し、艦尾に回天発進用のスロープと投下用のレールを設置し、航行しながら回転を発進させられるようにする、というようなものでした。改装は完成しましたが、実戦に投入されることはありませんでした。

 

トピック:艦船模型メーカーによるグレードアップ

これまで1:1250スケールの艦船模型メーカーについて、あれこれ紹介してきましたが、実はコレクターにとって、かなり嬉しくて、しかし少し悩ましい問題が、艦船模型メーカー自身による、モデルのグレードアップなのです。

くどくど説明するより、見ていただいた方が早いと思うので、まずは実例をご紹介。

 

重雷装艦「北上」のケース

EbayでTrident社製の日本海軽巡洋艦「北上」の重雷装艦形態の最近の模型を入手しました。

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(直上の写真は、重雷装艦「北上」の最近のモデル(上段)と従来のモデル(下段)の比較。メーカーはいずれもTrident社)


ご覧のように、特に魚雷発射管のディテイルが、格段に再現度が向上されています。f:id:fw688i:20200719202728j:image

(直上の写真は、重雷装艦「北上」の最近のモデル(左列)と従来のモデル(右列)の細部の比較。上段では魚雷発射管のディテイルの再現度が格段に進歩していることがわかります。さらに下段では艦尾部の再現も随分変更されていることがよくわかります)

 

その戦歴

「球磨」は、南方攻略戦に従事したのち、南方拠点での警備、訓練支援、輸送等の任務に活躍したのち、1944年1月11日に、ペナン島沖で英潜水艦の雷撃で失われました。

「多摩」は、開戦時以来、主として北方警備を担当する第5艦隊に所属し、アリューシャン攻略等に参加、さらにキスカ島の撤退作戦などにも参加しました。その後、南方での輸送作戦等に従事したのち、1944年にレイテ沖海戦に第3艦隊(小沢囮艦隊:空母機動部隊)に編入され、米機動部隊による空襲で損傷し、1944年10月25日、沖縄への退避中に米潜水艦の雷撃により失われました。

「北上」は、重雷装艦として第1艦隊に編入後、上記の次第で高速輸送艦に改装されました。高速輸送艦として南方での多くの任務に従事した後、日本に帰還しそこで今度はこれも上記のように回天搭載艦への改装を受けることになりました。改装は完了しましたが、出撃機会の無いままに呉軍港で米機動部隊の空襲で大破し航行不能となり、その状態で終戦を迎えました。

終戦後は復員支援の工作艦輸送艦として運用された後、1946年に解体されました。いわゆる5500トン型軽巡洋艦14隻の中で唯一、終戦を迎えた艦です。

「大井」は、「北上」とともに重雷装艦として第1艦隊に編入され、「北上」同様高速輸送艦に改装され、ソロモン諸島方面、インド洋方面での輸送任務に従事した後、1944年7月19日、米潜水艦の雷撃を受け香港沖で撃沈されました。

「木曽」は、開戦時、北方部隊の第5艦隊に編入され、北方警備活動、アリューシャン列島攻略戦に従事しました。キスカ島撤退作戦に参加した後、南方での輸送任務等に従事しました。レイテ沖海戦後に、同海戦に参加した第5艦隊に編入され、1944年11月13日レイテ作戦敗退後の同艦隊司令部輸送のためにフィリピン、マニラ湾に待機中に米機動部隊の空襲を受け大破着底し、失われました。

 

こうして戦歴を見てみると、同級は、高速水雷戦隊旗艦として設計されながら、太平洋戦争時には既に旧式化しており、本来の活躍ができなかった不運な艦級と言えるでしょう。

 

(その3) 5,500トンシリーズ

 前回に引き続き、日本海軍の軽巡洋艦の主軸となった5500トン型のお話です。

今回登場する二つの艦級の軽巡洋艦は、いずれも、太平洋戦争前半は水雷戦隊旗艦などとして大暴れした船ばかりです。

 

日本海軍のワークホース! 

長良級軽巡洋艦 -Nagar class light cruiser-(長良:1922-1944 /五十鈴:1923-1945/名取:1923-1944/由良:1923-1942/鬼怒:1922-1944/阿武隈:1925-1944 )  

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Nagara-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「長良級」軽巡洋艦の概観。119mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:3D printing modell :写真の姿は太平洋戦争開戦時の姿。航空機による索敵能力を得るために、後の改装で5番砲塔と6番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)

 

本級は5500トン級軽巡洋艦の第2グループとして、1917年計画 1918年計画で各3隻、合計6隻が建造されました。球磨級軽巡洋艦の改良型であり、基本設計は大きく変わりません。前級である球磨級からの変更点は、 魚雷性能と駆逐艦の発展に応じ搭載魚雷の口径を53センチから61センチに拡大したところと、主力艦隊の前衛としての索敵能力の充実のために、設計時から航空機を羅針艦橋下部の格納庫に収納する構造を、前級最終艦「木曽」にならい艦橋構造に組み込んでいたところにあります。格納庫を組み入れたため、艦橋の形状は箱型となりました。

 

航空艤装の話

搭載機には水上偵察機ではなく10年式艦上戦闘機(陸用機)をあて、格納庫前の1番・2番砲の上部に展開された滑走台を用いて発艦させる、という運用方法でした。

前級の「球磨級」では、竣工時には水上偵察機を艦後部の格納庫に収容し、必要都度、水面に降ろして海面から発進させる方式をとったため、その発進の度に艦の航行を停止、あるいは微速まで速力を落とす必要がありました。この運用方法は、平時はさておき、特に戦闘時には軽巡洋艦に求められる高い機動性を阻害するものでした。

そこで、前級「球磨級」最終艦の「木曽」では、羅針艦橋下部に収納庫を設け、そこに搭載した陸用機を滑走台から発艦させる運用を試み、「長良級」はこの形式を踏襲した訳ですが、発進等の即応性には、ある程度目処が立ったものの、運用された陸用機には当然の事ながら母艦への着艦の術がなく、帰投後に母艦周辺に着水して操縦者のみを回収するか、あるいは陸上の基地まで自力で帰還するか、いずれかの方法しか、操縦者が生還する方法がありませんでした。そのため訓練等においても、10式艦上戦闘機の航続距離を考慮した沿岸距離での演習に限られるなど、実用性に乏しく、就役後には航空機は稀にしか搭載されず、ほとんど使用されませんでした。

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(直上の写真は、竣工当時の「長良級」の航空艤装。多分、こんな感じだっただろう、と、WTJのストックモデルの艦橋前を少し整形した後、プラ板とプラロッドでちょっと悪戯してみました。固定式の滑走台を艦橋前に設置。羅針艦橋下の格納庫に収納した陸用機:10年式艦上戦闘機を組み立てて(翼を展張して)発進させる形式でした。実際には発進時には艦橋下の収納庫の扉は開け放たれていたはず。今回は、そこまでは再現できず・・・。ごめんなさい。併せてもう一つ「ごめんなさい」。写真の滑走台上の航空機は10年式艦上戦闘機ではなく、90式艦上戦闘機です。翼に日の丸つけたかったけど、そこまでの技術ないし・・・。1:1250スケールの問題点の一つはその小ささ。魅力でもあるのですが・・・。この90式艦上戦闘機の翼長は約7ミリ。ピンセットで摘むのですが、一度落とすと、探すのが大変です。ちなみにこの90式はSNAFU store製:3D printingモデルです。・・・それにしても、実戦時での即応性を高めるためにこの形式にしたはずなのですが、高速航行時にこんな狭い所で、搭載機の整備(組み立ても?)ができたんでしょうか?まあ、ほとんど実用例がないようですが)

 

後に射出機(カタパルト)が装備され水上偵察機の実際的な運用が可能になるまで、ライバルの米海軍のオマハ軽巡洋艦が設計当初からカタパルトを搭載していた事も鑑みて、同級の課題として残されたままでした。

カタパルト装備後は、航空艤装が艦後部に移ったことから、羅針艦橋下の航空機格納庫は戦隊旗艦業務に転用されました。

 

ちょっとブレイク:5500トン級のライバル「オマハ級」軽巡洋艦

(直下の写真は、米海軍が建造した「オマハ級」軽巡洋艦。136mm in 1:1250 by Neptune)

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Omaha-class cruiser - Wikipedia

オマハ級」軽巡洋艦(1923- 同型艦10)は、「チェスター級」に次いで米海軍が建造した軽巡洋艦で、7000トンのゆとりのある船体に、6インチ砲(15,2センチ)12門と3インチ高角砲8門と言う強力な火力を有していました。4本煙突の、やや古風な外観ながら、主砲の搭載形態には連装砲塔2基とケースメイト形式の単装砲を各舷4門という混成配置で、両舷に対し8射線(後期型は7射線)を確保すことができる等、新機軸を盛り込んだ意欲的な設計でした。最高速力は35ノットと標準的な速度でしたが、20ノットという高い巡航速度を有していました。また最初からカタパルト2基による高い航空索敵能力をもっていました。

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(直上の写真は、「オマハ級」軽巡洋艦のカタパルト2基を装備し充実した航空艤装(上段)と連装砲塔とケースメートの混成による主砲配置、写真の艦は後期型で、後部のケースメートが2基減じられています)

 

再び「長良級」の話。

「長良級」の主砲は前級と同じ14センチ砲7門を、前級と同じ配置とし、各舷に対して6射線を確保しました。雷装としては、61センチに強化された魚雷を、連装魚雷発射管4基、前級と同様の配置として、両舷に対し4射線を確保していました。

前級と同仕様の機関を搭載し、36ノットの速力を発揮する事が出来ました。 

 

本級を含む5500トン級巡洋艦は、その後、改装、武装の強化などが数次にわたり行われ、戦力維持が図られましたが、太平洋戦争開戦時には、既に就役後20年を経ようとする老朽艦ながら、戦争を通じて第一線で活躍しました。

 

筆者にとって「意外」だった搭載魚雷の話

上記の通り、前級「球磨級」では53センチだった搭載魚雷の口径を61センチに拡大し、61センチ連装魚雷発射管を搭載、ということで、当然酸素魚雷(93式1型)を搭載して太平洋戦争に臨んだのだろうと思い込んでいたのですが、実は、下記の「戦歴」に記述しますが開戦以前に酸素魚雷を運用できたのは、酸素魚雷が射出可能な魚雷発射管を装備していた「阿武隈」のみでした。「川内級」でも、太平洋戦争開戦直前の魚雷発射管の位置移転、換装で「神通」「那珂」は酸素魚雷の運用が可能となりましたが、実は水雷戦隊旗艦を輩出した「長良級」「川内級」のうちで併せてこの3隻のみが、酸素魚雷の運用が可能だった、というのは少々驚きでした。

その後、防空巡洋艦への大改装を受けた「五十鈴」は、「阿武隈」同様の仕様で、酸素魚雷の搭載能力を得ます。「長良」については、魚雷発射管自体の改造により、発射管配置はそのままで、酸素魚雷発射能力を持った、という未確認の情報もあるようです。

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(直上の写真は、魚雷発射管装備の変遷を示したもの。上段の二枚は「長良級」の一般的な魚雷発射管の配置を示し英ます。61センチ連装発射管を艦橋直後と艦後部に片舷2基装備しています。下段の二枚は「長良級」最終艦「阿武隈」の魚雷発射管の装備状況。「阿武隈」では艦橋直後には発射管は装備せず、艦後部に93式魚雷(61センチ酸素魚雷)が射出可能な4連装発射管を片舷1基づつ、装備しています。射線数は変わりませんが、より強力な酸素魚雷の運用が可能となりました。この形式は、防空巡洋艦への大改装を終えた「五十鈴」と、次級「川内級」の、「神通」「那珂」にも採用されています)

 

その戦歴

「長良」:開戦劈頭から南方攻略戦に転戦した後、ミッドウェー海戦には空母機動部隊の直衛戦隊(第10戦隊)旗艦の任を務めました。機動部隊旗艦「赤城」の被弾後は、一時的に機動部隊残存部隊の旗艦となりました。その後、新空母機動部隊である第3艦隊に所属して、ソロモン海を転戦した後、主として輸送任務・輸送護衛任務につきました。この間、損傷修理等の間に、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備、対空機銃の増設等の改装を受けています。

その後、中部太平洋、沖縄方面での輸送任務に従事中、1944年8月、熊本県天草沖で米潜水艦の雷撃により失われました。

 

「五十鈴」:開戦時、香港や南方の攻略戦に参加した後、第2水雷戦隊旗艦として南太平洋海戦、第3次ソロモン海戦等に参加しました。その後、米機動部隊の空襲による損傷復旧の際に、全主砲を高角砲に換装するなど、対空兵装を格段に充実・強化した防空巡洋艦に生まれ変わりました。この対空兵装の強化は、既に旧式化した全ての「長良」級巡洋艦に実施される予定でしたが、実現したのは「五十鈴」1艦のみでした。この改装の際に、魚雷発射管の搭載・射出方式を改め、前部連装発射管を撤去、後部発射管を4連装発射管に改め、酸素魚雷の運用能力を持ちました。

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(直上の写真は、「長良級」2番艦「五十鈴」の防空巡洋艦への改装後の概観。本来はこれと同等の改装を、「長良級」の他艦にも実施する予定でした)

(直下の写真は、「五十鈴」の対空兵装の配置を少し詳細に示したもの。すべての主砲を撤去し、艦後部に搭載したカタパルトを撤去し、3基の連装高角砲と多数の対空機銃座を増設しています。この改装の際に、「五十鈴」は前述の魚雷発射管の配置、換装を併せて行いました)

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その後、レイテ沖海戦では、第3艦隊(小沢「囮」機動部隊)に編入され、海戦に参加しました。海戦では米艦載機の攻撃により損傷。第3艦隊の解散後は輸送任務につき、1945年4月、スンダ列島の陸軍部隊の撤退作戦に従事中、小スンダ列島スンバワ島沖で米潜水艦の雷撃により撃沈されました。

 

「名取」:開戦時、第5水雷戦隊の旗艦として、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦などを歴戦しました。その後、第16戦隊の旗艦任務、東インド(現インドネシア)方面の警戒任務に従事。空襲による損傷修理時に、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、「長良」同様の対空兵装の強化が行われました。

マリアナ沖海戦参加後の輸送任務従事中に、1944年8月、フィリピン諸島サマール島沖で、米潜水艦の雷撃により失われました。

 

「由良」:開戦時には、第5潜水戦隊の旗艦として、マレー攻略戦、ボルネオ攻略戦等に参加しました。第5潜水戦隊旗艦任務を解かれた後も、南方作戦部隊に留まり、その後のジャワ攻略戦にも従事しました。その後、損傷した軽巡洋艦「那珂」と交代して第4水雷戦隊旗艦となり、第2艦隊に所属してミッドウェー海戦、第8艦隊に所属してガダルカナル攻防戦、その後の同島への輸送作戦に従事しました。

1942年10月ガダルカナル島での陸軍部隊の総攻撃に呼応した同島周辺での作戦行動中に、米軍機の空襲により航行不能となり、味方駆逐艦の雷撃で処分されました。軽巡洋艦の戦没第一号となってしまいました。

 

「鬼怒」:開戦時には、第4潜水戦隊旗艦としてマレー攻略戦に従事。その後、旗艦任務を解かれてジャワ方面の攻略戦、ニューギニア西部での作戦に参加しました。

作戦による損傷修復時に、上述の「長良」「名取」などと同様、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、対空兵装の強化が行なわれました。

その後、レイテ作戦(捷一号作戦)では、レイテ島への兵員輸送を担当する第16戦隊に参加し、1944年10月、同作戦に従事中に米艦載機(第7艦隊)の空襲により失われました。

 

阿武隈」:「阿武隈」は「長良級」の他艦とはやや異なる外観を有していました。1930年に衝突事故を起こし、艦首の損傷を修復する際に、それまでのスプーン・バウ型から、凌波性に優れたダブル・カーべチュア型に改めました。

1938年には、「長良級」では唯一、太平洋開戦以前に魚雷兵装強化の改装を受け、前部の連装魚雷発射管を撤去して、後部の連装魚雷発射管を4連装魚雷発射管に換装し、強力な酸素魚雷の運用が可能となりました。

この背景には、同艦の建造中に関東大震災があり、工期が長引き就役年次が遅れたため、「長良級」の他艦に比べると艦齢が若く、改装が優先されたという事情があったと、言われています。

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(直上の写真は、「長良級」6番艦「阿武隈」の概観。カタパルトを搭載した太平洋戦争開戦時の姿を示しています)

(直下の写真は、「長良級」の他艦と「阿武隈」の艦首形状の違いを示したもの。「阿武隈」では、衝突事故による艦首の損傷時に凌波性に優れたダブル・カーブドバウに艦首形状を改めていました

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開戦時には、第1水雷戦隊の旗艦として真珠湾作戦に参加、空母機動部隊の護衛を務めました。その後、同機動部隊に帯同してジャワ攻略戦、インド洋作戦に参加した後、北方部隊である第5艦隊に編入されました。アリューシャン攻略戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤退作戦に参加した後、同級の「長良」「名取」「鬼怒」と同様、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、対空兵装の強化が行なわれました。

その後、レイテ沖海戦には第5艦隊の一員として志摩中将の指揮下で参加し、スリガオ海峡海戦で米魚雷艇群と交戦し被雷。速力が低下したため戦場を離脱後の翌朝、米艦載機、米陸軍機の数次にわたる空襲を受け損傷を重ね、1944年10月、フィリピン諸島ネグロス島沖で沈没しました。

 

八八艦隊計画」の落とし子。重油消費の急増をどうやって抑えようか・・・

川内級軽巡洋艦 -Sendai class light cruiser-(川内:1924-1944 /神通:1925-1943/那珂:1925-1944 ) 

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Sendai-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「川内級」軽巡洋艦の概観。119mm in 1:1250 by Neptune:写真の姿は「川内」の太平洋戦争開戦時の姿。復元性向上のために、一番煙突の高さを他の煙突と同じ高さに揃えています。同様の目的のため「艦橋も一段低くした」との記述もありますが、この模型では反映されていないようですね。航空機による索敵能力を得るために、6番砲塔と7番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)

 

「川内」級は5500トン級軽巡洋艦の第3グループにあたります。当初計画では8隻の建造が予定されていました。

球磨級」「長良級」の前2級との相違点は、当時海軍が推進していた大建艦計画「八八艦隊計画」の推進により予測される重油消費量の飛躍的な増加への対策として、重油専焼缶(ボイラー)の数を減らし、重油石炭混焼缶を増やしたことから、煙突の数が増え4本になった事が挙げられます。

他の装備、性能は、ほぼ前2級を踏襲したものになっています。

ワシントン軍縮条約の締結で、同級の建造計画は8隻から3隻に縮小し、「川内」「神通」「那珂」の3隻が建造されました。同級は太平洋開戦時には既に艦齢15年を迎えていましたが、それでも日本海軍の最新の軽巡洋艦であったため、 3隻とも水雷戦隊旗艦として活躍しました。

 

外観の差異の話

3隻には外観に差異があり、「川内」は復元性改善工事により四本の煙突の高さが同じになり、艦橋の高さも一段低くなっています。一方、「那珂」は建造中に関東大震災で大きく損傷を受け、艦首を凌波性に優れたダブル・カーブドバウ形式に変更して竣工しています。「神通」は1927年の美保関事件(第8回基本演習:夜間無灯火演習中に発生した艦艇衝突事故)で艦首を損傷し、その修復の際に従来のスプーン・バウ形式から「那珂」と同様のダブル・カーブドバウ形式に艦首形状を変更しています。

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(直上の写真は、「川内級」軽巡洋艦の外観を比較したもの。上段が「川内級」のネームシップ「川内」の外観。下段は「神通」「那珂」の外観を示しています。艦首形状が「川内」はスプーン・バウ、「神通」「那珂」はダブル・カーブドバウ(写真左列)。煙突形状が異なり、上段の「川内」は煙突の高さを揃えたのに対し、「神通」「那珂」では一番煙突が他の煙突よりも高い竣工時の姿を残しています。本当は艦橋の高さに差があるはずなのですが、このモデルでは再現されていないようです)

 

航空艤装と搭載魚雷の話

航空索敵については、ほぼ前級「長良級」と同様の形式を踏襲しています。つまり、竣工時には、陸用機を滑走台から発艦させる形式をとっていましたが、前述のようにこの形式は実用性に課題があったため、カタパルト搭載へ、順次改装されました。

(直下の写真は、「長良級」と「川内級」のカタパルト配置位置の相違を示したもの。「長良級」(上段)ではカタパルトは、5番砲と6番砲の間に装備されていますが、「川内級」(下段)では装備位置が6番砲と7番砲の間になっています)

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搭載魚雷については、太平洋開戦直前の改装で「神通」「那珂」については、前述の「阿武隈」同様、前部連装発射管を撤去、後部発射管を4連総発射管に改め、酸素魚雷の運用能力を持ちました。(写真掲載のNeptuneのモデルでは、「神通」「那珂」も「川内」と魚雷発射管の装備位置には差異が見られず、上記の「改装」より以前の姿を再現していると考えられます)

 

その戦歴

「川内」:開戦時には第3水雷戦隊の旗艦を務め、南遣艦隊に所属し、南方作戦でマレー方面、スマトラ方面を転戦しました。

ミッドウェー海戦では第3水雷戦隊は主力艦隊(戦艦部隊)に帯同しました。同作戦の失敗後、同水雷戦隊は南西方面艦隊に転籍し、インド洋作戦に参加する予定でしたが、ガダルカナル戦の展開により同作戦が中止され、ソロモン方面に進出しました。

1942年8月から1943年8月のほぼ1年間、ガダルカナル攻防戦、その後の中部ソロモン諸島を巡る諸海戦のほぼ全てに第3水雷戦隊は活躍しますが、「川内」は常に第一線で活躍してきたため対空兵装の強化改装を受けられず、やがて水雷戦隊の昼間の行動時には戦隊司令官が旗艦を駆逐艦に変更するなど、不都合が派生していたとわれています。

 

1943年11月、「川内」は米軍のブーゲンビル島侵攻を阻止すべく発生したブーゲンビル島沖海戦に参加します。日米ほぼ同数の巡洋艦駆逐艦の混成艦隊同士(日:重巡2、軽巡2、駆逐艦6・米:軽巡4、駆逐艦8)の夜戦となりましたが、レーダーで日本艦隊の接近を察知した米艦隊に対し、最も近い位置にいた川内は海戦の開始とほぼ同時に集中砲火を浴び主機が停止し舵が故障、航行不能となってしまいました。

日本艦隊主体が撤退したため、取り残された「川内」に米駆逐艦が攻撃を集中し、「川内」は魚雷2本を被雷し沈没しました。

 

「神通」 :第2水雷戦隊旗艦として太平洋戦争の開戦を迎えました。開戦劈頭、フィリピン攻略戦に参加。その後参加したジャワ攻略戦では、スラバヤ沖海戦に参加しています。

ミッドウェー海戦では、第2水雷戦隊はミッドウェー島上陸部隊の護衛隊として参加しましたが、機動部隊の敗北により上陸戦には至らずに帰投しています。

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(直上の写真は、「神通」「那珂」の概観を示したもの。ダブル・カーブドバウの艦首形状、一番煙突が他煙突よりも高くなっている、など、特徴がよくわかります)

 

1942年にガダルカナル攻防戦が始まると、「神通」は第2水雷戦隊を率いてガダルカナルへの輸送任務、輸送船団護衛任務に活躍しました。第2次ソロモン海戦では米軍機の爆撃で損傷を負います。

損傷修復後、ガダルカナル撤退作戦には支援部隊として参加、その後、中部ソロモン諸島での攻防戦に転戦してゆくことになります。

 

1943年7月、中部ソロモン諸島コロンバンガラ島への陸軍増援部隊の増援輸送を巡り、「神通」を旗艦とする増援部隊の護衛部隊(第2水雷戦隊:軽巡1、駆逐艦5)と、増援阻止を狙う米艦隊(軽巡3、駆逐艦10)の間に夜戦が発生します。

「神通」は米艦隊発見後、探照灯でこれを照射し、魚雷戦、砲戦を麾下の部隊に下命します。一方、米艦隊の軽巡3隻はレーダー射撃を「神通」に集中し、艦橋への被弾で「神通」に座乗していた伊崎少将以下第2水雷隊司令部が全滅、「神通」も航行不能となりました。

米艦隊の砲撃が「神通」に集中する中、麾下の駆逐艦は砲雷戦を展開し、米軽巡洋艦3隻に損傷を負わせました。

航行不能となった「神通」は米艦隊からさらに2発の魚雷を受け、爆沈しました。

 

「那珂」:開戦時には、第4水雷戦隊の旗艦として、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦、スラバヤ沖開戦、クリスマス島攻略作戦等に活躍しました。クリスマス島作戦中に、米潜水艦の魚雷攻撃を受け被雷損傷し、内地に回航され修理を受けました。この修復の際に、5番主砲を撤去し連装高角砲に換装、積載小艇の変更など、その後の輸送、輸送護衛任務への適応力を硬化する改装が併せて行われました。

損傷の修復後は、内南洋警備担当の第4艦隊第14戦隊に編入され、主として担当海域である中部太平洋方面での輸送任務、輸送護衛任務に従事しました。

1944年2月、米潜水艦の雷撃で航行不能となった軽巡洋艦阿賀野」救援のためにトラック島周辺で活動中に、米機動部隊のトラック島空襲に遭遇。機動部隊艦載機の反復攻撃を受け、爆弾、魚雷を被弾、沈没しました。

 

こうして両級の戦歴を見ていきますと、長い艦暦の中での数次の改装に耐えられる程度の余裕のある艦級だったのだろうなと改めて実感するわけです。その一方で、それがある意味災いして特に太平洋戦争の開戦時には、既に旧式艦の部類ながら更に続けて第一線での奮闘を求められる過酷な実情が浮かんでも来ます。

そして、次第に任務の重点が、設計本来の水雷戦の要(太平洋戦争緒戦では、まだいくつか、艦隊同士の海戦が行われます)、から輸送・輸送護衛などの任務への役割のシフト、いわゆる「艦隊決戦」的な視点から兵站重視の「総力戦」的視点への海軍設計そのものの重点のシフトへの対応を求められた、ある意味、象徴的な艦級であるとも言えるかと思います。

そして、両級の全ての艦が、失われてしまいました。

5500トン型全体を見ても、終戦時に残存していたのは「北上」1艦のみで、残りの13隻は戦没してしまいました。

 

(その4) 平賀デザインの巡洋艦

平賀デザイン

平賀譲は大正期から昭和初期にかけて日本海軍の艦政本部で鑑定設計に従事しました。

その設計の根幹は、少し乱暴に整理してしまうと、日本海軍が誕生から負わされた大命題、乏しい資源と予算を条件として如何に最大級の戦闘力を生み出すか、と言う一点に集約され、 コンパクトな船体と重武装の両立を追い求めたところにある、と言えるのではないかと考えます。

その秀逸な発想から「造船の神様」と賛辞する声がある一方、人の意見に耳を貸さないところから「平賀不譲(=譲らない)」と異名をつけられるなど、毀誉褒貶の多い人物でもあったようです。

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本稿でもかつて紹介した映画「アルキメデスの大戦」では、おそらくこの平賀譲をモデルにした平山造船中将(田中泯さんが演じていました。さすがに抜群の存在感!)を紹介しましたが、映画では(コミックでも)大艦巨砲主義を推進する、あるいは自身の技術を示すために大艦巨砲主義者を利用するかなり政治的な存在としてとして描かれていると感じました。しかし、今回本稿の準備で資料を当たった感触では、実物はもっと一本気で周りのことは目にも入らない芸術家肌ではなかったのかな、と感じます。

天才の常として、理想の実現に向けては現有する技術の限界(造艦当事者)や、運用者(用兵当事者 )の思惑など気にしない、純粋な職人気質ではなかったかと。その為、往々にして、彼の設計はより工数がかかる、あるいはより難度の高い工作技術を要する、など、本来は限られた予算の中での有効解の発見であったはずのミッションが、時としてより高価で、量産には向かない、などの結果を生じることになりました。この辺り、零式艦上戦闘機を開発した堀越技師とも何かしら共通点があるように感じます。

或いは、「目指すべき量産」とは言いながら、来るべき「総力戦」の規模の「量産」には到底到ることが出来ない国力の限界の中で、「総力戦」に適応する造形を求められた技術者の苦悩の軌跡、と言えるのかもしれません。

 

ともあれ、平賀譲がこの大正期から昭和初期のかけて次々に生み出した画期的な設計の一連のコンパクト重武装艦は、第一次世界大戦後の列強に強い警戒感を生み出し、やがてワシントン海軍軍職条約、その制限範囲を補助艦艇にまで広げたロンドン海軍軍縮条約などの流れを強める一因ともなった、と言われています。

 

平賀マジック、始まり、始まり!

軽巡洋艦 夕張 -Yubari light cruiser-(1923-1944 )  

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

 

「夕張」は、 元々、5500トン級軽巡洋艦の9番艦(「球磨級」5隻に続く「長良級」第1期の4番艦)として建造予定だったものを、折からの不況の影響を受け予算の逼迫等の要因から、設計変更したと言う経緯で建造されました。

設計は、当時造船大佐だった平賀譲が主導し、その建造経緯は上記のようなどちらかと言うと後ろ向きなものがきっかけではありましたが、元々は本稿の初期でも触れてきたつもりですが、日本海軍設立の根本に、資源に乏しく、資金にも限界のある国が、その限界の中で国を守るための最大武装を持つには、と言う大命題と同軸線上にあるものでした。それがこの機に具現化され、画期的な軍艦が誕生し、世界を驚かせた、と言っていいでしょう。

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」(手前)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりもひとまわり小さな船体に、航空兵装をのぞきほぼ同等の兵装を搭載し、周囲を驚かせました)

 

設計の基本骨子は、5500トン級と同等の兵装と速度を3000トン弱の船体で実現すると言うものでした。すべての主砲を船体の中心線上に配置、前後それぞれ単装砲と連装砲の背負式として、5500トン級に比べると主砲の搭載数は1門減りましたが、両舷に対し5500トン級と同様の6射線を確保しました。同様に連装魚雷発射管を中心線上に配置することにより、発射管搭載数は半減したものの、両舷に対して確保した射線4は、5500トン級と同数でした。

 

「背負式砲塔」の配置の話

「夕張」の主砲は前述のように、単装砲と連装砲塔を背負式に、艦前部と後部に振り分け配置して搭載しているのですが、単装砲を低甲板に、一段高い甲板に連装砲等を配置する形式をとていました。この門数の多い砲塔を高い位置に搭載する配置は、平賀デザインでは、後の有名は「金剛代艦級」の設計案でも登場します。素人目には逆の方が重心的に安定感が出るような感じがして、最初、なん予備知識もなく「金剛代艦」の設計を見た際には「ああ、このスケッチ、間違ってるなあ」となんの違和感もなく、思ったものでした。

より強力な砲塔に広い射界を持たせるため?発射弾数の多い砲塔により大きな弾庫を確保するスペースを確保するため?より重い砲塔に大きな動力を与えるため?どういう狙いがあったんでしょうか?

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の主砲搭載形態を示したもの)

 

機関は、当時高速化が進んでいた駆逐艦型式を導入して、小型化・軽量化が図られ、36ノット(就役当初)を発揮することができました。

防御装甲として、軽巡洋艦としては初めて防御甲板を設け、船体外板の内側のインターナル・アーマー形式で、軽巡「川内級」と同等以上の防御力を得ていた、と言う評価もあるようです。

そのほかに特筆すべきこととして、誘導煙突の導入が挙げられます。

 

「誘導煙突」の話

これは、コンパクトな船体と、強力な武装、そして高機動力を並立させる上では、大変重要な工夫です。つまり、大きな武装の搭載にはスペースが必要で、かつ高出力の機関も同様に大きなスペースを必要とします。さらに、高度化する射撃管制等のシステムには、指揮スペースにも大きなものが必要です。これらのそれぞれの要求をコンパクトな船体で兼備しようとすると、直立の煙突では無理は生じ、例えば艦橋下にまで伸長して設置された機関からの煙路を「誘導」する必要が生じるわけです。

このように、ある意味、日本海軍の置かれた環境から生じた必然として、以後、この誘導煙突(集合煙突)は、日本の軍艦(特に巡洋艦)の特徴となってゆきます。

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(直上の写真2点は、軽巡洋艦「夕張」の誘導煙突。いずれの写真も上段は竣工直後の誘導煙突。当初、高さが十分でなく、排煙が艦橋に逆流するなどの不都合があったため、後に下段のように高さが改められました。誘導煙突は艦橋下から延長されており、機関と兵装、その指揮系統のパズルのような配置への工夫が想像されます)

 

こうしてコンパクトな船体と強力な兵装の両立という課題を実現した高い評価を得た「夕張」ではありましたが、そのコンパクトさ故に、偵察機搭載のための航空艤装スペースを持てず索敵能力が十分でないこと、また、今後の兵装の拡張性に対する適応余地がほとんどないこと、などから、艦隊の先兵を務める水雷戦隊旗艦、偵察巡洋艦としての実戦での用兵価値が低く、実際の建造は一隻に止まりました。

しかし、上述の「誘導煙突」のみならず、「夕張」で試された種々の新機軸、設計上の試みは、以降の日本の軍艦設計に大きな影響を残してゆきます。

 

その戦歴

太平洋戦争開戦時には、内南洋(中部太平洋委任統治領)の警備を担当する第4艦隊、第3水雷戦隊の旗艦を務めました。太平洋緒戦でほぼ唯一日本軍が苦戦したウエーク島攻略戦に参加したのち、ラバウル、ラエ・サラモア、ブーゲンビル、ポートモレスビー 攻略戦に活躍しました。

その後、第3水雷戦隊の解体に伴い第2海上護衛隊に転籍したが、主としてそれまでと同様、ソロモン諸島ニューギニア方面で活動を続けました。

米軍のガダルカナル島侵攻に伴い、米軍の揚陸を阻止すべく出撃した新編成の第8艦隊(外南洋警備担当)に帯同して、第一次ソロモン海戦に参加しました。その後中部太平洋方面での護衛任務の後、正式に第8艦隊所属となり、ラバウル、ブーゲンビル方面での、警備・護衛任務につきました。

ラバウルで米軍機の爆撃で被弾、内地で修理の後、再び第3水雷戦隊旗艦として中部太平洋方面艦隊所属となり、同方面での船団護衛の任務に就きます。1944年4月、ソンソル島(パラオの南西)への輸送任務から帰投中に、米潜水艦により撃沈されました。

 

平賀デザイン 第二弾! 日本海重巡洋艦の草分け 

古鷹級重巡洋艦 -Furutaka class heavy cruiser-(古鷹:1926-1942 /加古:1926-1942)  

Japanese cruiser Yūbari - Wikipedia

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Furutaka-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「古鷹級」の概観。 146mm in 1:1250 by Trident : 新世代の偵察巡洋艦として、初めて20cm主砲を搭載しました。下は「古鷹」と「加古」)

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前出の「夕張」で成功した手法を発展させ、平賀譲が設計主導をした第二陣が、この「古鷹級」巡洋艦です。

本来は、有力な火力を持つ米海軍の「オマハ級」軽巡洋艦に対抗して、これを凌ぐ重武装偵察巡洋艦として設計されました。

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(直上の写真は、「古鷹級」(奥)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりも二回りほど大きな船体を有しています)

 

そうした意味では5500トン級軽巡洋艦の強化形で、二回りほど大きな7000トン級(設計時)の船体に主砲口径を20センチとして、これを砲塔形式の単装砲架6基、艦首部に3基、艦尾部にそれぞれ3基に振り分け、中央の砲架がを一段高くすると言うピラミッド型に配置しています。

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(直上の写真は、「古鷹級」の特徴的な主砲配置。艦首部と艦尾部に、それぞれ中央部が一段高いピラミッド型の配置で装備されました)

 

雷装としては、61センチ連装発射管を船内に固定式で各舷3ヶ所に配置、都合各舷に対し6射線を有していました。

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(直上の写真は、「古鷹級」の船内に配置された連装魚雷発射管:舷側の2連の円形がそれです。各舷に3箇所、艦首部に1箇所、艦やや後部に2箇所配置されています。艦内に魚雷発射管を装備することには被弾時の魚雷の誘爆など、懸念がありましたが、同級竣工時の魚雷には上甲板からの射出時の衝撃に耐えられる強度が確保されていなかったようです)

 

船体中央部にボイラー12基からなる機関を配置し、34.5ノットの速力を発揮しました。

「夕張」で試みた誘導煙突を利用して、前後に大きな主砲用のスペースを取り、中央の機関スペースの上に艦上構造を載せる設計となっています。

さらに、後部砲塔群上の滑走台から発艦させる形式で、索敵用の水上偵察機を搭載していました。 

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(直上の写真は、「古鷹級」の誘導煙突(上段)と水上偵察機の発艦用の滑走台。発艦時には水偵の搭載台である4番砲塔を発艦向きに旋回させ、その先の滑走台もその向きに、レールに沿って移動させました。滑走台の真下あたりに魚雷発射管が見えています)

 

主砲単装砲架の話

「古鷹級」の最大の特徴は、前後に振り分け配置されたピラミッド型配置の20センチ砲単装砲架ですが、課題の多い装備だったとされています。

単装砲形式については、設計者の平賀が艦の安定性の視点で強く拘ったと言われています。その砲塔形式の単装砲架は、重量軽減の視点から本格的な砲塔ではなく、断片防御程度の軽装甲しか施されていない「砲室」でした。かつ、揚弾、装填などの作業の多くを人力に依存する構造であった為、100キロを超える砲弾を扱う本級の場合、射撃速度の維持が困難であったと言われています。

本級よりもはるか以前に設計された「伊勢級」戦艦では、日本人の体格を考慮して人力装填の副砲口径を前級「山城級」の15.2cmから14cmに下げた経緯を持つ同じ海軍で、なぜこのような決断が下され、それに拘ったのか、これこそが「不譲」と言われる平賀の性格と、誕生期の闊達さを失い官僚的になりつつあった海軍中央の課題の、現れであったと言えるかもしれません。

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この課題の単装砲架は、後に次級の「青葉級」と同様の連装砲塔形式に変更されました。この兵装の転換は大成功で、艦構造は大きな変更を行わなかったにも関わらず、射撃の安定性などに問題は生じず、用兵者側の運用は格段に優れたものになった、と言われています。

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(直上の写真は、「古鷹級」の主砲の換装前後を示したもの。竣工時の単装砲架配置から、次級「青葉級」で実績の出た連装砲塔形式への換装が行われました:1936-1939)

 

ロンドン海軍軍縮条約で生まれた「重巡洋艦」(カテゴリーA)の話

ロンドン条約では「主砲口径が6.1インチを超え、8インチ以下で、10000トン以下の艦」をカテゴリーA:重巡洋艦とすると言う定義が行われることになります。この定義は、「夕張」「古鷹級」と言う画期的なコンパクトな重武装艦を生み出し始めた日本海軍を警戒して列強が定め、「古鷹級」とこれに続く「青葉級」をカテゴリーAの総排水量の中でカウントし、その保有数に限界を持たせることを狙ったとも言われています。

同様の制約は、その他の補助艦艇に対する制約でも現れます。その一つが機雷敷設艦艇での制限で、ここでは新造される機雷敷設艦の最大速力を20ノットと制限することで、日本海軍が高速で強力な兵装を持つ、軽巡洋艦或いは重巡洋艦に匹敵するような高速機雷敷設巡洋艦保有することを制限する狙いがあった、と言われています。これも「夕張」「古鷹級」のもたらした副産物と言えるかもしれません。
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(直上の写真は、上述の機雷敷設艦津軽」:104mm in 1:1250 by Neptune  4000トンの船体を持ち、条約制限いっぱいの20ノットの速力を有していました。「津軽」は12.5cm 連装対空砲を2基を主砲として搭載していますが、準同型艦の「沖島」は軽巡洋艦と同等の14cm主砲を連装砲塔形式で2基、保有していました。ロンドン海軍軍縮条約で、機雷敷設艦等の補助艦艇には最高速力を20ノット以下とする、という制限がかかりましたが、これは、「夕張」「古鷹級」等のコンパクト重装備艦の登場を警戒した列強が、機雷敷設艦の名目で日本海軍が軽巡洋艦として運用できる強力な敷設巡洋艦を建造することを予防した、と言われています。実際に太平洋戦争では、中部太平洋ソロモン諸島方面で輸送船団の護衛や、自ら輸送・揚陸任務など、高速を必要とする水雷戦隊旗艦島の任務を除けば他の軽巡洋艦と同等に活躍しています)

 

「古鷹級」の大改装 

前掲の写真のキャプションでも少し触れましたが、「古鷹級」は1936年から1939年にかけて、次級「青葉級」の要目に準じた、大改装を受けます。その改装項目は、主砲の単装砲架から連装砲塔への換装、魚雷発射管の4連装発射管への換装と上甲板への移転、対空砲の換装(8cm 単装高角砲から12cm単装高角砲へ)、航空艤装の換装(滑走台からカタパルトへ)、機関を重油専焼形式へ統一、舷側への安定性向上のためのバルジ装着等、多岐に渡りました。

これにより同級の外観は一変し、「青葉級」と類似した外観となります。

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(直上の写真は、大改装後の「古鷹級」の概観。直下の写真は、大改装前(上段)と大改装後の「古鷹級」の概観比較。バルジの装着などでやや速度は低下しました)

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(直上の写真は、主砲搭載形式の大改装前後の比較:単装砲架から連装砲塔へ。この際に、主砲口径が正20センチから、条約制限いっぱいの8インチ=20.3センチに拡大されました)

 

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(直上の写真は、航空艤装の大改装前後の比較:大改装前の滑走台方式(上段)からカタパルト方式へ)

 

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(直上の写真は、雷装形式の大改装前後の比較:船内の連装発射管形式から上甲板の4連装魚雷発射管へ

 

その戦歴

「古鷹」:太平洋開戦時には、僚艦「加古」「青葉」「衣笠」と第6戦隊を編成し、内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛任務等に活躍しました。

1942年10月、ガダルカナル揚陸作戦に支援部隊として出撃中、サボ島沖で、米艦隊の初のレーダー索敵による奇襲を受け、同部隊の旗艦「青葉」の被弾後離脱(戦隊司令官戦死)援護のため前衛に出たところを集中射撃を受けて行動不能となり、やがて沈没しました。

 

「加古」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊の一艦として上記の「古鷹」等と行動を共にします。

1942年8月、第1次ソロモン海戦に第6戦隊の僚艦とともに参加し、記録的な勝利を収めた(戦略的には課題が多いとされますが)後、ニューギニア・ガビエンに帰投中に、米潜水艦の雷撃を受け、魚雷3本が命中し、沈没しました。

魚雷の初弾披雷から転覆沈没までわずか6分ほどであったとされ、この早期の転覆の一因として、平賀デザインの機関部の中央縦隔壁の存在が挙げられています。この縦隔壁については、設計当初から、浸水時の復元性喪失による転覆を早める恐れがある等の指摘が行われていたと言われています。

 

「平賀デザイン」の改訂版

青葉級重巡洋艦 -Aoba class heavy cruiser-(青葉:1927-1945 /衣笠:1927-1942)   

ja.wikipedia.org

Aoba-class cruiser - Wikipediaf:id:fw688i:20200506161108j:image

(直上の写真は、「青葉級」竣工時の概観。 148mm in 1:1250 by Semi-scratched based on Trident : Trident社製「古鷹級:竣工時」のモデルをベースに、主砲搭載形式、高角砲、水上偵察機搭載形式、等をセミクラッチし、「青葉級」の竣工時を再現してみました。実際には艦橋構造、煙突の形状などがもっと異なっていたようです)

 

 

「古鷹級」のいくつかの課題に改訂を加えて生まれたのが「青葉級」です。

本来は「古鷹級」の3番艦、4番艦として建造される計画だったのですが、同級の計画中に次級「妙高級」の基本設計が進められており、この内容を盛り込んだ、いわば「妙高級の縮小型」と言う性格も併せ持つ改訂となりました。

最大の変更点はその主砲を「古鷹級」の単装砲架形式から連装砲塔形式に変更したところで、この変更により、前述のように装弾系が射撃速度の維持等の点で問題のあった人力から機装式となり、格段な戦力強化につながりました。(後年、これに基づいた兵装転換が「古鷹級」にも行われ、同級の運用上の効率が向上した事は、前述の通りです)

 

「連装砲塔」の話

設計者の平賀が船体の設計上の要件から、強いこだわりを持っていた単装砲架形式での主砲搭載であったわけですが、本来同型艦であったはずの「青葉級」での、この連装砲塔形式への改定については、その承認経緯に諸説があります。既に設計が進んでいた平賀自身が携わっていた次級「妙高級」での連装砲塔採用が決まっていたことから、ようやく砲術上の要求を自覚した、とする説や、平賀の外遊中に平賀に無断で用兵側の要求に基づく設計変更が行われ、帰朝後にこれを聞いた平賀が激怒したが、既に変更不能となっていた、など、都市伝説に類するよう話まで、いろいろとあるようです。

 

また、この変更により、船体強度に無理が生じる事はなく、それに伴う重量の増加(300トン程度)にも関わらず速力が低下するような事はありませんでした。(35ノット)

その他の変更箇所としては、設計時からカタパルトの搭載を計画していた事で、これにより水上偵察機による索敵能力の強化されるはずでした。しかし、竣工時には予定していたカタパルトは間に合わず、当面は水上偵察機を水面に下ろして運用することとなりました。さらに対空兵装として、新造時から12センチ単装高角砲(当初はシールドなし)が4門搭載されました。

 

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(直上の写真は、今回製作した「青葉級」の特徴を示したもの。連装主砲塔(上段)、単装12センチ高角砲(中段)、航空艤装(下段)。舷側には「古鷹級」と同様に船体内に装備された魚雷発射管の射出口が見えています)

 

竣工時には間に合わなかったカタパルトは、1928年から29年にかけて順次装備され、水上機の運用はカタパルトからの射出により格段に改善されました。

雷装は、就役当初は「古鷹級」と同様の船内に固定式の魚雷発射管を各舷6門づつ装備していました。後に近代化改装の際に上甲板上の旋回式4連装魚雷発射管2基に改められました。

 

大改装後の「青葉級』

同級の大改装による大きな変更点は、魚雷発射管の装備形式を、竣工以来、被弾時の誘爆によるダメージに憂慮のあった船体内に装備した連装発射管6基から、上甲板上に設置した4連装発射管からの射出に改めたこと、単装高角砲をシールド付きに改めたこと、さらに、魚雷発射管上に水上偵察機の整備・運用甲板を設けたことです。

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(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観。 148mm in 1:1250 by Neptune : 写真はNeptuneの説明では1944年の「青葉」の姿、ということになっていますが、後述のように同艦は1942年の損傷修復の際に3番砲塔を撤去しており、この姿では復旧していません。併せて僚艦の「衣笠」は1942年に既に失われていますので、この形態の艦は存在しないことになります。模型の世界ですので往々にしてこういうことが・・・。まあ、「青葉」が完全修復していたら、とうことでご容赦を<<<お詫び:と書きましたが、よく調べると、サボ島沖夜戦での損傷後、一旦外されていた3番砲塔は、その後の修復の際に復旧されていました。従って、レイテ沖海戦等には、写真の姿で臨んでいます)

 

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(直上の写真は、「青葉級」(上段)と大改装後の「古鷹級」の航空艤装の比較。整備甲板とカタパルトの配置の相違がよくわかります)。ちょとわかりにくいですが「青葉級」の魚雷発射管は水偵の整備甲板の下に装備されています)

 

その戦歴

「青葉」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊旗艦として僚艦「古鷹」「加古」「衣笠」と共に内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛島に活躍しました。

その後、1942年10月の前述の「古鷹」が失われた「サボ島沖夜戦」で、米艦隊の奇襲で、艦橋に被弾し第6戦隊司令官が戦死するなど、大損傷を受けて内地に帰還し修復を受けました。その際に予備砲身のない第3主砲塔を撤去しています。

その後再びラバウルの第8艦隊所属となりますが、再び同方面で空襲により被弾、浅瀬に座礁してしまいます。

内地に帰還して再度修復後(追記:この修復の際に、3番主砲塔を復旧しています)は、第16戦隊旗艦として戦線に復帰します。速力が28ノットに落ちたこともあり主としてシンガポール方面での輸送任務に従事しました。その後、一時的に第16戦隊に編入された重巡「利根」「筑摩・などを率いてインド洋方面での通商破壊戦を行います。

レイテ沖海戦では後方での兵員輸送に携わりますが、ルソン島西方沖で米潜水艦の雷撃で大破し、三度、内地に帰還します。しかし損傷が大きく呉での修理の見込みの立たないまま、呉軍港で係留状態で浮き砲台となり対空戦闘を行いますが、1945年7月の米軍機による呉軍港空襲で被弾し、右舷に傾斜して着底してしまい、そのまま終戦を迎えました。

 

「衣笠」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊の一艦として僚艦「青葉」「古鷹」「加古」と行動を共にします。

サボ島沖海戦で僚艦「古鷹」が失われ、第6戦隊旗艦の「青葉」が損傷を受け内地に引き上げ、第6戦隊が解体された後も「衣笠」は第8艦隊の基幹戦力として、ソロモン海方面でガダルカナル島への輸送をめぐる戦闘を継続します。

1942年11月、第3次ソロモン海戦の第二ラウンドにガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃部隊(第7戦隊:重巡「鈴谷」「摩耶」基幹)の支援に出撃。砲撃成功後、合流して帰投中に、米軍機の数次の雷爆撃を受けて、中部ソロモン諸島ニュジョージア島南方で沈没しました。

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

 

このように、平賀デザインの第二弾として建造された「古鷹級」とその改訂版である「青葉級」の4隻は、軽装甲巡洋艦の強化型として世に問われ、軍縮条約の定義で新たに重巡洋艦(=カテゴリーA:重兵装軽装甲巡洋艦?)という艦種を生み出す一つの起点となりました。太平洋戦争初戦には常に第一線にあって活躍しましたが、開戦から比較的早い時期、1942年に、ガダルカナルの攻防戦に投入される中、ソロモン海で3隻が失われました。 残った「青葉」は終戦間際まで残存していましたが、終戦時には行動不能の状態でした。

 

「夕張」の技術的なチャレンジは、「古鷹級」「青葉級」で洗練され、次級「妙高級」で、名実ともに第一線級の戦力として結実してゆくわけですが、今回はここまで。

 

(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊

ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約と「平賀デザイン」

1912年に締結されたワシントン海軍軍縮条約では、主力艦(戦艦・巡洋戦艦)および航空母艦には、主砲口径と基準排水量 、そして保有数には総合計排水量で制限がかけられました。

しかし、巡洋艦以下の補助艦艇には、排水量(10000トン)と搭載主砲(8インチ)に上限が設けられましたが、保有数には制限がかけられませんでした。そのために列強各国はこの条約の抜け穴ともいうべき「準主力艦」の建造を競います。

ワシントン体制で「主力艦=戦艦」の保有数に対英米60%の保有制限をかけられた日本海軍は、大正12年度計画(1923年)で、保有制限のない補助艦艇の分野で2種類の巡洋艦の建造計画を始動します。

一つは、本稿の前回(おっと、前々回?)でご紹介した、5500トン級軽巡洋艦を強化した7000トン級の偵察巡洋艦。この船は列強の軽巡洋艦を凌駕すべく、20センチ主砲を搭載した強化型偵察巡洋艦「古鷹級」として完成します。

もう一つが、今回、本稿で取り上げる、「主力艦」を補う役割の「準主力艦」として強力な打撃力を持った重装備巡洋艦妙高級」です。

いずれも造船官平賀譲の主導のコンパクト重装備をコンセプトにおいた設計をベースとし、日本海軍は、用兵側の要求として、兵器としての実用性、有効性に自信を持ちつつあった魚雷に重点をおいた、重雷装をその特徴として付加した巡洋艦シリーズを育て上げてゆくことになります。

 

「飢えた狼」と呼ばれた艦級(フネ) 

妙高重巡洋艦 -Myoko class heavy cruiser-(妙高:1929-終戦時残存 /那智:1928-1944/足柄:1929-1945/羽黒:1929-1945)   

ja.wikipedia.org

Myōkō-class cruiser - Wikipedia

妙高級」巡洋艦は、前述のようにワシントン体制の制約の中で、日本海軍初の条約型巡洋艦として設計・建造されました。すなわち、補助艦艇の上限枠である基準排水量10000トン、主砲口径8インチと言う制約をいっぱいに使って計画された巡洋艦であったわけです。

設計は平賀譲が主導しました。これまで本稿で見てきたように、彼は既に軽巡洋艦「夕張」、強化型偵察巡洋艦「古鷹型」でコンパクトな艦体に重武装を施すと言うコンセプトを具現化してきており、ある意味、本級はその「平賀デザイン」の集大成と言ってもいいでしょう。

後に、1930年のロンドン海軍軍縮条約では、それまで保有上限を設けていなかった補助艦艇にも保有数の制約が設けられました。特に巡洋艦については、艦体上限の基準排水量10000トンについては変更されませんでしたが、主砲口径でクラスが設けられ、8インチ以下6.1インチ以上をカテゴリーA(いわゆる重巡洋艦の定義がこうして生まれたわけです)とし、日本海軍は対米6割の保有上限を課せられました。「妙高級」の竣工が1929年である事を考慮に入れると、「古鷹級」「妙高級」などの登場による日本式コンパクト重装備艦に対する警戒感が背景の一つにあったと言ってもいいでしょう。

これにより、本来は上述のように強化型偵察巡洋艦であった「古鷹級」、その改良型である「青葉級」も、「準主力艦」として建造された「妙高級」も、一括りにカテゴリーA(重巡洋艦)と分類され、その総保有数が制限されることになります。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の概観。166mm in 1:1250 by Konishi) 

 

設計と建造

妙高級」は、その設計は、前級である「古鷹級」「青葉級」の拡大型と言えるでしょう。

しかし、強化型偵察巡洋艦として、5500トン級軽巡と同様に時として駆逐艦隊を率いて前哨戦を行う可能性のある「古鷹級」「青葉級」と異なり、強力な攻撃力と防御力を併せ持つ準主力艦を目指す本級では、平賀は、用兵側が強く要求した魚雷装備を廃止し、20センチ連装主砲塔5基を搭載する、当時の諸列強の巡洋艦を砲力で圧倒する設計を提案しました。

平賀のこの設計の背景には、竣工当時の魚雷に、上甲板からの投射に耐えるだけの強度がなく、一段低い船内に魚雷発射管を設置せねばならなかったと言う事情が強く働いていたようです。平賀は艦体の設計上、被弾時の魚雷の誘爆に対する懸念から、船内への搭載に強く抵抗し、「妙高級」では用兵側の要求であった20センチ砲8門搭載を10門に増強することにより、雷装を廃止した設計を行い、用兵側の反対を受け入れず押し切ったと言われています。 

平賀にすれば、同級は20センチ砲10門に加えて、12センチ高角砲を単装砲架で6基搭載しており、「水雷戦隊を率いる可能性のある偵察巡洋艦ならまだしも、準主力艦である本級にはすでに十分強力な砲兵装が施されており、誘爆が大損害に直結する船体魚雷発射管の装備は見送るべき」と言うわけですね。

この提案は一旦は承認されましたが、軍令部は平賀の外遊中に留守番の藤本造船官に、魚雷発射管を船体内に装備するよう、設計変更を命じました。この時同時に、「青葉級」の主砲搭載形式でも、軍令部の連装砲塔搭載の要望に対し、船体強度の観点から「古鷹級」で採用した単装砲架形式を主張して譲らない平賀の設計を、やはり軍令部は藤本に命じて設計変更をさせています。用兵当事者から見れば、平賀は自説に固執し議論すらできない、融通の効かない設計官と写っており、この後、平賀は海軍の艦艇設計の中枢を追われることになります。

結局、建造された「妙高級」は、正20センチ主砲を連装砲塔で5基、12センチ高角砲を単装砲架で6基、61センチ3連装魚雷発射管を各舷2基、計4基を搭載する強力な軍艦となりました。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の主砲配置と単装高角砲の配置。かなり砲兵装に力を入れた装備ですね)

 

さらに、航空艤装としては水上偵察機を2機収納できる格納庫を艦中央部に設置し、当初から射出用のカタパルトを搭載していました。 

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の魚雷発射管。「古鷹級」と同様、当時の魚雷の強度を考慮し、船体内に搭載されています。;上段写真/ 下段写真は航空艤装。当初からカタパルトを装備していました。水上偵察機を2機収納できる格納庫はカタパルトの手前の構造物) 

 

数値的には列強の同時期の条約型重巡洋艦よりも厚い装甲を持ち、重油専焼缶12機とタービン4基から35.5ノットの最高速度を発揮する設計でした。

すでにこの時期には平賀は海軍建艦の中枢にはいませんでしたが、ある意味「平賀デザイン」の集大成であり、ロンドン軍縮条約の制約項目まで影響を与えるほど、列強から「コンパクト強武装艦」として警戒感を持って迎えられた「妙高級」ではあったわけですが、やはり実現にはいくつかの点で無理が生じていました。一つは制限の10000トンを大きく超えた排水量となったことであり、設計と建造技術の乖離が顕在化する結果となりました。併せて、連装砲塔5基に搭載した主砲だったわけですが、その散布界(着弾範囲=命中精度)が大きく、主砲を6門、同じ連装砲塔形式で搭載した前級「青葉級」よりも低い命中精度しか得られないと言う結果となりました。さらに、上記の経緯で無理をして魚雷発射管を船体内に搭載したため、居住スペースが縮小され、居住性を劣化させることになりました。

こうしたその強兵装に対する畏怖と、一方で、あらゆる兵装を詰め込んだことから生じる劣悪な居住性などへの疑問(嘲笑)から、同級を訪れた外国海軍将校から「飢えた狼」と言う呼称をもらったことは有名な逸話となっています。

 

その大改装

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の大改装後の概観。166mm in 1:1250 by Neptune) 

 

1932年からの第一次改装と1938年の第二次改装で、同級は、主砲口径を正20センチから8インチ8(20.3センチ)に拡大しました。これにより、主砲弾重量が110kgから125kgに強化されました。また高角砲を単装砲架6基から連装砲4基へと強化、さらに懸案の魚雷発射管を船内に搭載した3連装発射管4基から、上甲板上に搭載する4連装魚雷発射管4基として、各舷への射線を増やすとともに、より強力な酸素魚雷に対応できるよになりました。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時と大改装後の主要な相違点。左列は魚雷発射管の装備位置:大改装後、発射管は上甲板上に装備されました。右列は水上偵察機の搭載位置の変化:大改装後にはカタパルトが2機に増設され、整備甲板が設置されました)

 

上甲板上の魚雷発射管を覆う形状で水上偵察機の整備甲板を設置し、カタパルトを増設、搭載水上偵察機数も増やしています。

この大改装で、排水量が増加し、速力が33ノットに低下しています。

 

その戦歴

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の勢揃い)

 

妙高」:太平洋戦争開戦時、「妙高級」4隻は第5戦隊を編成し、「妙高」は同戦隊の旗艦でした。第5戦隊は第3艦隊に所属し、フィリピン攻略戦に従事しました。その後、同戦隊はジャワ攻略戦に転戦するためにダバオに集結。そこで米軍機の空襲を受け、「妙高」は修理に2ヶ月を要する損傷を受けました。これは太平洋戦争での、大型軍艦としては最初に損傷を受けた艦となってしまいました。

損傷修復後には、スラバヤ沖海戦の最終海戦に参加。その後、珊瑚海海戦には空母機動部隊の直衛部隊の旗艦を務めます。

ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦などに参加したのち、ブーゲンビル島沖海戦では、来攻する米軍を迎え撃つ襲撃艦隊を率いて戦いました。

マリアナ海戦を経て、1944年10月レイテ沖海戦には、第2艦隊(栗田艦隊)第5戦隊の旗艦として僚艦「羽黒」を率いて参加しますが、シブヤン海で米機動部隊の空襲で避雷し、艦隊から落伍してしまいました。海戦後、損傷修理のために内地への回航中に米潜水艦の雷撃により、艦尾部を切断、内地回航を諦めシンガポールに曳航され、航行不能状態のまま同地で防空艦として終戦を迎えました。

 

那智」:太平洋戦争開戦時、第5戦隊の一員としてフィリピン攻略戦に参加。損傷した「妙高」に代わり第5戦隊旗艦となり、その後のジャワ方面の攻略戦に参加します。スラバヤ沖海戦(後述します)で、連合国艦隊(いわゆるABDA艦隊)に勝利したのち、一転して北方部隊に編入され、北方部隊の基幹部隊である第5艦隊旗艦となります。

第5艦隊旗艦としてミッドウェー作戦と並行して実施されたアリューシャン作戦に参加。アッツ沖海戦、キスカ撤退作戦に参加した後、戦局の悪化に伴い、第5艦隊は北方警備から転じて、本州南部の警備に従事し、台湾沖航空戦での残敵掃討(実は米艦隊はほとんど損傷していなかったので幻の「残敵」を追うことになったわけですが)に出撃しますが、もとより残敵に遭遇することなく南西諸島・台湾方面に待機することになりました。

1944年10月のレイテ沖海戦には、第2遊撃部隊(第5艦隊、志摩部隊)旗艦として、第1遊撃部隊別働隊の西村艦隊(第2戦隊基幹)の後を追って、スリガオ海峡に突入します。が、先行した西村艦隊の壊滅時の混乱に巻き込まれ損傷して退避中の西村艦隊の重巡「最上」と衝突、指揮官の志摩中将は突入を断念し、戦場から退避を下令します。(余談ですが、この志摩中将の判断は、欧米の戦史研究では、「同海戦での、日本海軍首脳のほぼ唯一の理性的な判断」と評価が高いようです。一見、華々しい「勇戦」(=同海戦ではこの「勇戦」は艦隊をすり潰すことにほぼ等しいのですが)よりも、戦いの粘り強さ、のようなものを評価視点にするのは、文化的な差異でしょうか?それとも、「合目的性」に対する適合性という視点でしょうか?)

海戦敗北後、同艦はマニラ周辺での輸送任務に従事しますが、1944年11月初旬の米艦載機のマニラ湾空襲で爆弾と魚雷を多数受け、沈没しました。

 

「足柄」:太平洋戦争開戦時には、第5戦隊の序列を離れフィリピン侵攻作戦の主隊である第16戦隊旗艦となり、同戦隊の所属する第3艦隊の旗艦も併せて務めます。同戦隊はフィリピン攻略戦、ジャワ方面攻略戦に転戦しました。

ついで第2南遣艦隊旗艦となり、シンガポール方面の警備等に従事しました。その後、第5艦隊に所属し北方警備に従事した後、第5艦隊所属のまま、台湾沖航空戦での「残敵掃討」任務(実際には米艦隊にはほとんど損害がなかったため「残敵」などなく、空振りの出撃となりましたが)に出撃し、台湾方面に遊弋中に、志摩艦隊の一員として僚艦「那智」とともにレイテ沖海戦に参加しました。

海戦敗北後、南西方面艦隊所属となり、「日本海軍の最後の組織的戦闘での勝利」と言われる「礼号作戦」に参加した後、南方に分断された艦艇で編成された第10方面艦隊に所属しました。1945年6月、単艦で陸軍部隊の輸送任務中に英潜水艦の雷撃を受け、沈没しました。

 

「羽黒」:太平洋開戦時には、僚艦とともに第5戦隊に所属し、フィリピン作戦、ジャワ方面での作戦に参加しました。その後、第5航空戦隊の直衛として珊瑚海海戦に参加、ミッドウェー海戦を経て、ソロモン方面に進出して第二次ソロモン海戦ブーゲンビル島沖海戦等に参加しています。その後、マリアナ沖海戦では、米潜水艦の雷撃で撃沈された第1機動艦隊旗艦の「大鳳」から、小沢司令部を一時的に収容しました。

続くレイテ沖海戦では、第一遊撃部隊(第2艦隊主隊:栗田艦隊)に編入され、米艦載機の爆撃で損傷を負いながらサマール沖海戦で米護衛空母艦隊を追撃するなど活躍しました。

その後は 南西方面艦隊に所属し、シンガポール方面での輸送任務についていましたが、1945年5月、輸送任務中に英海軍機の攻撃で被弾損傷、その後、英駆逐艦隊と交戦し英駆逐艦の雷撃で沈没しました。

 

以上のように、「妙高級」はそのネームシップである「妙高」を除いて、全てレイテ沖海戦後に失われました。

 

スラバヤ沖海戦

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この海戦は、「妙高級」4隻が揃って参加した海戦です。

第3艦隊によるジャワ方面の攻略戦支援艦隊と、これを阻止しようとした連合国艦隊の間の戦いです。連合国艦隊はイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアの4カ国の巡洋艦駆逐艦で構成されていました。このABDA(America, British, Dutch, Australia)艦隊は巡洋艦5隻と駆逐艦9隻で編成されていましたが、その実態は、シンガポール、フィリピン等の失陥に伴って、拠点を失った各国海軍が周辺から行動可能な艦を寄せ集めて編成したもので、これをオランダ海軍のドールマン少将が指揮しました。

 

ABDA艦隊の編成

軽巡洋艦 デ・ロイテル (オランダ)

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HNLMS De Ruyter (1935) - Wikipedia

同艦はオランダ海軍が植民地警備のために1隻のみ建造した軽巡洋艦です。6642トンの船体に15センチ速射砲(大仰角を取ることが可能で、高角砲としても機能できる)の連装砲塔3基と単装砲1基(砲架形式)、計7門を装備し、32ノットの速力を出すことができました。

大戦直前に東インド植民地艦隊の旗艦の任につきました。 

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(直上の写真は、軽巡洋艦「デ・ロイテル」の概観。142mm in 1:1250 by ??? どこのモデルだったっけ?そびえ立つ塔構造の艦橋が、全体の印象を軽巡洋艦らしからぬ重厚さを醸しています。植民地警備に特化した本艦ならではの外観、と言っていいのではないでしょうか?実は、このモデル、やや重厚に過ぎるようにずっと思っています。ずっと適当なモデルを探してはいるのですが・・・。実はお勧めはRhenania社製の下の写真のモデル。

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ebayなどでは何度か見かけているのですが、なかなか入手できていません。写真はantics onlineから拝借しました。うーん、56£(7300円?)、しかもいつ見てもSold Out。Rhenania 1/1250 De Ruyter, Dutch cruiser, WW2 Rhe77

(直下の写真は、「デ・ロイテル」の特徴的な主砲配置。艦首部に連装砲塔と単装砲架を背負式に、艦尾部には連装砲塔を背負式に配置しています) 

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オランダ軽巡洋艦「デ・ロイテル」のリファイン版

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(直上の写真:オランダ海軍軽巡洋艦「デ・ロイテル」の概観 137mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)

 

上記の様に求めているのはRhenania社製の模型でしたが、この模型が大変希少なため、なかなか入手できません。そこで、ということで、今回、最近何かとお世話にないっている3Dプリンティングモデル(Tiny Thingamajigs社製)を入手し完成させました。

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(直上の写真は、ABDA艦隊の基幹部隊となったオランダ艦隊の軽巡洋艦「デ・ロイテル」と軽巡洋艦「ジャワ」「デ・ロイテル」はかなりスリムになったのですが、今度は「ジャワ」(Star社製)の乾舷の高さが気になりだしました。Star社のモデルは端正なフォルムで、概ね気に入っているのですが、時折、乾舷が高過ぎる傾向があります。ゴリゴリ削ってみましょうか?まあ、それはいずれまた。今回は大満足!)

 

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(直上写真は新着のTiny Thingamajigs社製モデル(左)と、従来のモデルの比較。そして直下の写真は、両モデルの艦首形状の比較:下段が今回新着のTiny Thingamajigs社製モデル。従来モデルで気になっていたモデルの「大柄さ」は改善されている様に思います。満足!)

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軽巡洋艦 ジャワ(オランダ)

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Java-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ジャワ級」軽巡洋艦の概観。125mm in 1:1250 by Star) 

 

軽巡洋艦「ジャワ」はオランダ海軍が第一次世界大戦後、植民地警備の目的で建造した軽巡洋艦です。5185トンの船体に、15センチ速射砲10門を装備し、30ノットの速力を有していました。魚雷は装備していませんでした。

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(直上の写真は、「ジャワ級」軽巡洋艦の兵装配置。単装砲架を10基搭載し、両舷に対し7射線を確保しています。軽巡洋艦としては強力な砲兵装を有しています。魚雷は搭載していませんでしたが、艦尾部にはかなり大規模な機雷敷設設備を保有しています。植民地警備に特化した本級ならではの特徴と言っていいのではないでしょうか?「ジャワ」はスラバヤ沖海戦で、艦尾に日本海軍の魚雷を受けて轟沈するのですが、これは艦尾の機雷庫の誘爆では?)

 

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(直上の写真は、スラバヤ沖海戦に参加した艦艇。「デ・ロイテル」「ジャワ」の2軽巡に加えて、アドミラル級駆逐艦「コルテノール」「ヴィデ・デ・ヴィット」)

 

重巡洋艦 エクセター(イギリス)

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York-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、重巡洋艦エクセター」の概観。138mm in 1:1250 by Neptune) 

 

エクセター」は「ヨーク級重巡洋艦の2番艦として建造されました。「ヨーク級」は、いわゆる条約型巡洋艦の一連のシリーズに属し、英国の通商航路保護の要求によって隻数を揃えるために、前級「カウンティ級」よりも装甲が強化された代わりに、連装砲塔を1基減じて、排水量を抑え、建造費用を安価にした設計でした。「エクセター」は8390トンの船体に8インチ砲6門を搭載し、53.3cm3連装魚雷発射管を2基、装備していました。速力は32ノットを発揮。

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(直上の写真は、「エクセター」の主砲配置と航空艤装。魚雷発射管の搭載位置:下段写真)

エクセター」は、第二次世界大戦開戦後、大西洋で大暴れしたドイツが放った通商破壊艦(ポケット戦艦)「グラーフ・シュペー」の追跡戦で活躍し、「グラーフ・シュペー」の11インチ砲によって大損害を受けながらも、ラプラタ河口で自沈に追い込んだことで有名になりました。

 

軽巡洋艦 パース(オーストラリア)

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「パース」は、「リアンダー級」軽巡洋艦の改良型として建造された「パース級」軽巡洋艦ネームシップです。「リアンダー級」からの改正点は、機関の配置で、これに伴い、前級「リアンダー級」が船体中央に大きな集合煙突を持ったいたのに対し、本級では二本煙突と、外観に差異が生じています。

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(直上の写真は、オーストラリア海軍「パース級」軽巡洋艦の概観。同級は、英海軍「アンフィオン級」軽巡洋艦として3隻建造され、3隻とも後にオーストラリア海軍に供与されました。135mm in 1:1250 by Neptune)

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(直上の写真は、「パース級」軽巡洋艦の前級(準同型艦)である「リアンダー級」軽巡洋艦の概観。 参考値:「リアンダー級」135mm in 1:1250 by Neptune) 

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直上の写真は、「リアンダー級」軽巡洋艦(上段)と「パース級」軽巡洋艦の概観比較。「パース級」との外観上の相違点は煙突の形式。「リアンダー級」は集合煙突形式ですが、「パース級」は機関配置を変更したため、二本煙突になっています)

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(直上の写真は、「パース級」軽巡洋艦の主砲配置(上段・下段)と艦中央部(中段)。1941年の短期間、「パース」は航空艤装を撤去している。モデルはカタパルトを装備していいないところから、その時期を再現したものかも。魚雷発射管の搭載位置は高角砲搭載甲板の下(下段))

 

同級は3隻が建造され、建造当初は英海軍に属し「アンフィオン」「アポロ」「フェートン」と言う名前で就役しました。後に3隻ともオーストラリア海軍に供与され、それぞれ「パース」「ホバート」「シドニー」と改名されました。

7000トン弱の船体に、6インチ連装速射砲4基、53.3cm4連装魚雷発射管2基を搭載していました。

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(直上の写真は、ABDA艦隊に参加した「エクセター」と「パース」の外観。「エクセター」が重巡洋艦としては、比較的小ぶりであることがわかります。英連邦艦隊はABDA艦隊にスラバヤ沖海戦には2隻の巡洋艦と3隻の駆逐艦で参加しました) 

 

重巡洋艦 ヒューストン(アメリカ)

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Northampton-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune) 

「ヒューストン」は米海軍が建造した条約型重巡洋艦の第2グループ「ノーザンプトン級」の5番艦です。前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。

航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の主砲配置と航空艤装の概観。水上偵察機の格納庫はかなり本格的に見えます(中段)。同級は竣工時には魚雷を搭載していたはずですが、既にこの時点では対空兵装を強化し、魚雷発射管は見当りません) 

 

同型艦は6隻が建造されましたが、そのうち「ヒューストン」を含め3隻が、太平洋戦争で失われました。

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(直上の写真は、ABDA艦隊参加時:スラバヤ沖海戦時のアメリカ艦隊。重巡洋艦「ヒューストン」と「クリムゾン級」駆逐艦4隻:「ジョン・D・エドワーズ」「ポール・ジョーンズ」「ジョン・D・フォード」「オールルデン」「ポープ」が参加しました) 

 

海戦の詳細は例によって他に譲るとして、この46時間の長時間にわたる海戦は、数段階に分けて行われ、その海戦前半はは第5戦隊主隊の戦隊旗艦「那智」と「羽黒」が、そして海戦後半では前半で砲弾も魚雷もほとんどを使い果たした両艦に代わり、第3艦隊旗艦として作戦全般式していた「足柄」と、爆撃による損傷の修理を終えた「妙高」が参加しました。

 

(雑感:酸素魚雷のこと)

こうして改めてその装備を見ると、この時点で、やはり日本海軍の魚雷装備が連合国の装備を凌駕していたことが、かなりはっきりと分かります。日本海軍が61cmの魚雷発射管を全ての重巡洋艦軽巡洋艦駆逐艦が装備していたのに対し、 連合国の雷装は全て53.3cmです。さらにこの時期、日本海軍は酸素魚雷を実装していましたので、その射程、威力には格段の差があったわけです。

海戦の経緯を見ると、日本艦隊はアウトレンジにこだわった戦い方をしたように見えます。これは、緒戦での軍艦に対する極度の損害恐怖症(物量で優位には立てない日本海軍は宿命的にこの損害に対する恐怖感を持っているように感じます。総力戦は、ある程度の損害は盛り込んでおかねばならないのですが、この恐怖感の為、常にどこか一歩踏み込めず、勝利を拡大する機会を失い、あるいは劣勢に対し粘りがなく、淡白になっているような気がするのですが)から来るものか、あるいは圧倒的に優位に立っている酸素魚雷の長大な射程に大きな期待を持った為か、その両者があいまった結果のような気がします。

参考までに、日本海軍の酸素魚雷(93式1型)と米海軍のMk-15(標準的な水上艦用の魚雷)の諸元を比較しておきます。

93式1型(酸素魚雷):直径61cm /炸薬量492kg /雷速40knotで射程32000m, 雷速48knotで射程22000m

Mk-15(空気式):直径53.3cm /炸薬量374kg /雷速26.5knotで射程13700m, 雷速45knotで射程5480m

炸薬の量も、射程も、圧倒的!まあ、このデータを見ると、使って威力を見てみたい、と言うのもなんとなく頷けますね。

確かにABDA艦隊の5隻の巡洋艦のうち、「デ・ロイテル」「ジャワ」の2隻は、夜戦での長距離砲戦では大した損害を受けなかったにも関わらず、明らかに遠距離から日本艦隊の放った魚雷が1本づつ命中し、行き足が止まり撃沈されています。

 

もう一つ、この海戦では上記のように酸素魚雷は大きな戦果をあげているのですが、実は同海戦の前半戦では水中から飛び出したり、自爆したりと言う不備が続発していたようです。これは一つには爆発栓(魚雷を命中と同時に起爆させる装置)の感度設定が高過ぎ、波浪で爆発してしまったことと、投射時の衝撃への耐性が想定より低かった、と言う事が原因として海戦後に解明されたそうです。

妙高級」の竣工時には魚雷の強度が不足する為に、魚雷発射管を上甲板上に設置できず、一段低い船体内に発射管を設置せねばならなかったのですが、大改装の際に、魚雷の強度が向上し上甲板の旋回式の魚雷発射管での装備に変更し、被弾時の魚雷の誘爆対策としたわけです。しかし、実戦ではやはり高速航行での発射など、まだ強度が不足する場面が生じた、と言うことでしょうか。

 

その後の、日本海軍が修めたいくつかの海戦での勝利を見ると(その全てが、巡洋艦駆逐艦主体の小艦隊同士の海戦だったと言っていいと思うのですが)、その殆どが魚雷戦での勝利であるように思われます。やはり、酸素魚雷の長射程、大炸薬量は効果的だった、と言うことかもしれません。

しかし、戦局を大きく左右する戦闘は、圧倒的な戦力を誇る米空母機動部隊の制するところであり、そのような海空戦では、魚雷の出番などあるはずもなく、日本海軍は勝利から遠のいて行くことになります。

戦局へ魚雷が大きな影響を与える事ができる可能性は、実は潜水艦戦にはあったと考えるのですが、優秀な潜水艦部隊を持ちながら、彼らが戦局を左右するような戦果を上げる事はありませんでした。

それでも、輸送船団相手の通商破壊戦での可能性で、日本海軍が構想していた艦隊決戦の前哨戦、と言う位置づけでは、ドイツのUボートが戦争中盤以降、船団相手ですらあれだけ封殺されたことを考えると、空母機動部隊相手では、20000m程度の射程では、やはりあまり効果を上げる機会はなかったかもしれませんね。

 

  (その6) 重巡洋艦の決定版登場 そして第一次ソロモン海戦

最後の条約型一等巡洋艦

期せずして、巡洋艦にカテゴリーA(重巡洋艦)と言う区分を設け、その保有数が制限されるロンドン体制のきっかけとなった「妙高級」重巡洋艦でしたが、いわゆる「平賀デザイン」巡洋艦の頂点として重武装コンパクト艦を実現する一方で、様々な課題を内包していた事は、本稿で既述した通りでした。

これに対する「解」として設計されたのが「高雄級」重巡洋艦だったわけなのですが、この艦級の建造により、日本海軍のカテゴリーA(=重巡洋艦=一等巡洋艦)の保有枠は制限一杯となり、以降の巡洋艦は全てカテゴリーB(=軽巡洋艦=二等巡洋艦)として設計されました。

つまり、本級が、日本海軍が設計した最後のカテゴリーAとなったわけです。

 

重巡洋艦の集大成

高雄級重巡洋艦 -Takao class heavy cruiser-(高雄:1932-終戦時残存/愛宕:1932-1944/鳥海:1932-1944/摩耶:1932-1944)   

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Takao-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の概観。 165mm in 1:1250 by Konishi )

 

「高雄級」重巡洋艦は、基本的に前級「妙高級」の改良型として設計されました。しかし設計は平賀譲の手を離れ、その後継者と目される藤本喜久雄(当時造船大佐)によるものでした。前回「妙高級」でも触れましたが、平賀譲は造船家として優れた設計思想をもち、その設計した軽巡洋艦「夕張」、「古鷹級」巡洋艦、「妙高級」重巡洋艦など、海外から大きな脅威として見られたシリーズ(この一連のシリーズに対する脅威から、主力艦に保有制限を設けたワシントン体制から、補助艦艇にも保有制限を設けるロンドン条約が生まれたほどです)を生み出した反面、「不譲=譲らず」の異名をつけられるほど自説に対する自信が強く、時に用兵者の要求も一顧だにせずはねつける、あるいは「完成形」を求めるあまり工数、費用、量産性などを考慮しないなど、毀誉褒貶の激しい人物でした。この為、海軍の造船中枢からは外されてしまいました。 

前級との主な差異は、主砲口径を最初から条約制限上限の8インチ(20.3cm)とし、連装主砲砲塔5基の配置形態はそのままにして、前後の配置間隔を詰めることにより集中防御を強化したこと、新砲塔の採用により主砲の仰角をあげ、対空射撃能力を主砲にも持たせ、これにより高角砲の搭載数を減じたこと、そして何より被弾時の誘爆損害が大きな懸案だった船体内に装備された魚雷発射管を上甲板上に装備する配置に変更したことが挙げられるでしょう。

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の特徴をクローズアップしたもの。巨大な艦橋(下段左)。単装高角砲と、設計時から上甲板上に設置された魚雷発射管:新型砲塔の採用で主砲の仰角を上げることで対空射撃にも対応できる設計として、単装高角砲は前級の6基から4基に減じられています(上段)。拡充された航空艤装:設計当初からカタパルトを2基搭載していました(下段右))

 

航空艤装も強化され、前級までは1基だったカタパルトを2基装備にすることにより、水上偵察機の運用能力の向上が図られました。

一方で、上記の「平賀はずし」の経緯の反動で、用兵側の要求に対する異論が唱えにくい空気が醸成されたことも事実で、それが戦隊(艦隊)旗艦業務などに対応する為の艦橋の著しい大型化などとなって現れ、高い重心から「妙高級」に対しやや安定性と速力で劣る仕上がりとなりました。

 

大改装

同級のうち「高雄」と「愛宕」は、1939年から数次にわたる改装を受けました。

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(直上の写真は、「高雄級」:大改装後の概観。by Konishi )

 

課題であった艦橋の若干の小型化とバルジの大型化による復原性(安定性)の改善、航空艤装の変更(格納庫を廃止し、基本、搭載機の甲板係留としました。整備甲板を増設し、配置を変更、水上偵察機の搭載定数を2機から3機に増加しています)、魚雷発射管の連装発射管4基から4連装発射管4基への換装、高角砲を正12cm単装砲4基から5インチ連装砲4基8門に強化したことなどが挙げられます。 

この最後の高角砲の強化については、竣工時の設計では既述のように新砲塔の採用で主砲に対空射撃能力を付与することによって高角砲の搭載数を前級「妙高級」よりも減じた同級だったのですが、8インチ主砲での対空射撃では射撃間隔が実用に耐えず、結局高角砲を強化せざるを得なかった、という背景がありました。

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の概観比較。舷側の大きなバルジの追加が目立ちます。さらに、航空艤装の構造が変更され、後檣の位置が変わっています)

 

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の変化をもう少し詳細に見たもの。左列:艦橋が小型化してます。写真ではちょっとわかりにくいのですが、かなり大幅な小型化です。一段低くし、同時に簡素化が行われた、と言う表現がいいでしょうか?時折「最上級」に倣って、と言うような表現も目にしますが、それはちょっと言い過ぎかと。右列:高角砲は連装に変更されています。主砲での対空射撃は、構想としては両用砲的な活用の発想で、意欲的ではありましたが、射撃速度と弾速が航空機の速度を勘案すると実用的ではなかったようです。そのため、高角砲自体を強化する必要があったようです。高角砲甲板の下の魚雷発射管については、配置自体には変更は見られませんが、発射管を連装から4連装に強化しています)

 

「摩耶」の防空巡洋艦

「摩耶」は上記の大改装を受けずに太平洋戦争に臨みましたが、1943年ラバウルで米艦載機の空襲で被弾大破。その修復の際に3番主砲塔を撤去し、連装対空砲を2基増設し6基12門、さらに対空機銃多数を増設し、防空巡洋艦化を行いました。この際に、復原性改善の為のバルジ増設、魚雷装備の換装なども併せて行っています。

(この状態での模型が、今、手元にありません。模型自体はNeptuneから市販されています。入手次第、公開します。ご容赦を)

 

その戦歴

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(直上の写真は、太平洋戦争開戦時の第4戦隊。手前から「愛宕」「高雄」「鳥海」「摩耶」。舷側のバルジの有無と、後檣の位置で判別できます。同級は、その設計時に旗艦設備を組み込んだ大型艦橋をもたされていたため、他の艦隊への派出が相次ぎ、なかなか4隻揃って出撃する、と言う機会がありませんでした。1944年10月のレイテ沖海戦には、第2艦隊の旗艦戦隊として、4隻揃って出撃しましたが、出航翌日、うち3隻が米潜水艦の攻撃で被雷。2隻が沈没し、1隻が戦列を離れてしまいます)

 

「高雄」:太平洋開戦時には、南方作戦全般の指揮をとる第2艦隊(近藤信竹中将)の直卒主隊である第4戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦等に参加しています。

ミッドウェー海戦では、僚艦「摩耶」と共に第4戦隊第2小隊を編成し、アリューシャン作戦に分派され、その後、ソロモン方面での第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加しています。

米艦隊によるラバウル空襲で被弾。損傷修復のために内地にひきあげたのち、マリアナ沖海戦を経て、1944年10月、栗田艦隊(第二艦隊第一遊撃部隊)の一員として、レイテ沖海戦に、同型艦4隻揃って参加しました。しかし艦隊出撃の翌日、パラワン島沖で、米潜水艦の魚雷を2発被雷し、一時航行不能になり、そのままブルネイに引き返しました。その後、シンガポールに回航され修復を行いますが、英海軍のコマンド部隊の爆破工作など(戦争末期に落日の日本軍相手に、そんな危険な作戦を行ったんですね。イギリス人のモチベーションは、時折よくわからない)で再び損傷を受け、そのまま終戦を同地で迎えました。

 

愛宕」:太平洋戦争開戦時には、緒戦の南方作戦統括の第2艦隊旗艦として参加しています。マレー作戦、蘭印攻略戦などを支援した後、ミッドウェー作戦では、ミッドウェー島攻略部隊本隊旗艦として参加。

その後、主戦場がソロモン方面に移ると、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に活躍しました。

第三次ソロモン海戦では、ガダルカナル島ヘンダーソン基地(飛行場)砲撃主隊である第11戦隊(「比叡」「霧島」)の支援部隊として参加。緒戦では、警戒中の米巡洋艦隊と第11戦隊が夜間遭遇戦を展開し乱戦の末、旗艦「比叡」が大損傷を受け砲撃は未遂に終わります。(「比叡」は翌日、米軍機の攻撃を受け自沈)

愛宕」に座乗する近藤司令長官は、直卒する第4戦隊主隊とともに「霧島」による飛行場砲撃を再起しますが、途上で阻止を狙う米戦艦隊(「ワシントン」「サウスダコタ」基幹)と再び遭遇戦となってしまいます。乱戦になり「サウスダコタ」に大損害を与えつつも、16インチ砲を装備した戦艦2隻には歯が立たず(「霧島」は14インチ砲装備)、「ワシントン」のレーダー管制射撃を浴びて「霧島」は大破、翌日、沈没します。

この乱戦中に、「愛宕」は19本の魚雷を射出しますが、命中させることはできませんでした。

第2艦隊司令長官が開戦以来の近藤中将から栗田中将に交代しますが、旗艦は引き続き「愛宕」が務めることとなりました。内地での「ラバウル空襲」で受けた損傷を修理した後、マリアナ沖海戦に参加。この海戦では、第2艦隊はそれまで連合艦隊主隊として活動してきた「大和」「武蔵」「長門」など戦艦部隊も戦列に加え、小沢中将の第3艦隊(空母機動部隊)と統合艦隊(第1機動艦隊)を編成し、小沢中将がこれを統合指揮する体制に移行しています。

マリアナ沖海戦は日本海軍がそのほぼ全力を集中して戦った、いわゆる念願の艦隊決戦だったわけですが、結果、その空母戦力を喪失(特に艦載機部隊の損耗が激しく、敗戦まで、この損害を立て直せませんでした)してしまいました。

次のレイテ沖海戦では、この空母機動部隊の残存兵力(小沢中将指揮の第3艦隊基幹。その艦載機は、実質空母1隻分程度でしたが)を囮に使い、これに米空母機動部隊が誘引される隙に水上戦闘艦隊(第2艦隊基幹:栗田中将指揮)が米上陸部隊を攻撃する、という構想の戦闘計画が実行されました。

愛宕」はこの作戦でも引き続き第2艦隊旗艦を務めました。

1944年10月、栗田中将率いる第一遊撃部隊(第2艦隊主力部隊)はブルネイを出航。戦艦5、重巡洋艦10、軽巡2、駆逐艦15からなる大艦隊でした。出航の翌日、パラワン沖で米潜水艦の雷撃を受け、4本の魚雷が命中。約20分で、沈没しました。

愛宕」は旗艦でしたので、栗田中将以下艦隊司令部が搭乗していたのですが、彼らは海中に避難後、駆逐艦を経て、「大和」に収容され、以後は「大和」が旗艦となりました。

***栗田中将はレイテ海戦前に、この作戦は、これまでの空母機動部隊主力の作戦と異なり水上戦闘艦艇が日本艦隊の主力となる戦いとなるために、旗艦を「愛宕」から、艦隊の最も新しい戦艦で、戦闘力も防御能力もさらに情報収集のための通信能力も高い「大和」に変更する希望を連合艦隊司令部に出した、と言われています。しかし連合艦隊司令部は「第2艦隊の旗艦は開戦以来「愛宕」だから」という、理由にもならないような理由でこれを却下したと言われています。

栗田中将が連合艦隊司令部から軽んじられていた、信頼されていなかった、というような穿った見方もありますが、もしこれが真実であれば、そのような評価の人物に、この重要な、ことによると日本海軍の最後の作戦となるかもしれないような作戦の指揮を任せた、というのは、どういうことなんでしょうか?

「真面目に戦ったのは、小沢と西村だけ」というような戦後評価があり、常にそうした場面で栗田中将は割りを食ってきていますが、連合艦隊司令部、あるいは軍令部が真面目に戦ったのか、という問いかけをすることが、先のような気がします。

 

「鳥海」:開戦時は第4戦隊の序列からは離れ、小沢中将の指揮する南遣艦隊の旗艦を務め、マレー攻略戦を戦いました。その後、蘭印作戦に参加した後、第4戦隊に復帰し、ミッドウェー海戦には、ミッドウェー島攻略本隊に第4戦隊第1小隊(「愛宕」艦隊旗艦、「鳥海」)として参加しています。

ラバウルに第8艦隊が新設されると、この新艦隊の旗艦として「鳥海」は再び第4戦隊を離れます。同艦隊は、既述のように新たな占領地域であるラバウルに拠点を置き、ニューギニアソロモン諸島方面(南東方面:外南洋)をその担当領域としていました。

米軍がガダルカナル、ツラギに来襲すると、この迎撃に第8艦隊が出撃します。いわゆる第一次ソロモン海戦です。この海戦で、第8艦隊は戦闘では劇的な戦果をあげるのですが、一方で作戦目的からの(戦略的な)評価では、護衛艦隊が粉砕され丸腰になった上陸船団に指一本触れなかったことから、すでに戦闘直後から、疑問の声が多く挙げられてきたことは、皆さんもよくご存知のことと思います。

***本稿前回でも少し述べましたが、ここでも日本海軍の「損害恐怖症」とでもいうようなメンタルな部分の弱点が感じられると考えています。戦果の拡大による目的の完遂よりも、艦艇の保全の方が優先される、というか・・・。持たざる国の宿命、と言ってしまえば、その通りなのですが。

その後、ガダルカナル島をめぐる攻防戦に多くは輸送部隊の支援で出撃。第二次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦にいずれも第8艦隊旗艦として参加した後、内地に帰還し損傷箇所の修理、整備を行いました。

戦線復帰後は、再びラバウル。ソロモン方面で活動し、その後、第2艦隊第4戦隊に復帰、マリアナ沖海戦を経て、レイテ沖海戦に参加します。

1944年10月、「鳥海」は僚艦3隻とともに栗田艦隊(第2艦隊基幹:第一遊撃部隊)の一員としてブルネイを出航。翌日、第4戦隊の3隻(「愛宕」「摩耶」「高雄」)が相次いで米潜水艦の雷撃で艦隊から欠けてしまいます(「愛宕」「摩耶」が沈没。「高雄」は大破の後、ブルネイに帰還)。「鳥海」は第5戦隊(「妙高」「羽黒」)に編入され、そのまま作戦を継続しました。

その後、サマール沖で米護衛空母部隊を追撃中に、米艦載機の空爆にさらされ被弾しこれによって魚雷が誘爆、戦線を離脱しました。更に数次の空襲で被弾後、大火災を発生し、味方駆逐艦によって雷撃処分されています。

 

「摩耶」:太平洋戦争開戦時には第2艦隊第4戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、蘭印作戦に従事しました。その後、第4戦隊第2小隊(「高雄」「摩耶」)としてミッドウェー作戦の一環であるアリューシャン作戦参加、アッツ。キスか両島の占領を成功させています。

ガダルカナルを巡る攻防が激化すると、同方面での第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に参加。第三次ソロモン海戦では、当初予定されていた第11戦隊(「比叡」「霧島」)による飛行場砲撃が米艦隊との遭遇戦で阻止された後、代わりにがガダルカナル海域に突入して飛行場砲撃を行っています。この砲撃からの帰途に米艦載機の空襲を受け、その際に米軍機が体当たりを敢行、火災が発生し、魚雷を投棄するほどの損害を受けました。

内地で損傷修理後、一転して「摩耶」は北方部隊に編入されます。同方面でアッツ島守備隊への物資輸送をめぐり発生したアッツ島沖海戦に参加しました。この海戦は、輸送を阻止しようとする米艦隊と、これを護衛する日本艦隊の巡洋艦同士の砲撃戦でしたが、日本海軍が米海軍に対し優位にあると自信を持っていた遠距離砲撃の精度が、同等、もしくはそれ以下であったという実例を示すという結果となりました。双方に大きな損害はなかったものの、日本海軍の輸送目的は阻止され、北方占領地の防備強化はできないまま、アッツ島守備隊の玉砕を迎えてしまいます。

「摩耶」は海戦後、南方戦線に向かいますが、到着直後、米艦載機によるラバウル空襲で被弾大破し、内地で修復を受けます。この際に前述の防空巡洋艦化の改装を受け、3番主砲塔を撤去し連装高角砲を2基追加、同時にそれまで搭載していた単装高角砲を全て連装に改めたり、その他にも多数の対空機銃を装備し、併せて「高雄」「愛宕」には開戦前に行われた復原性改善の為のバルジ増設や魚雷発射管の連装から4連装への換装なども実施しています。

修復後は第2艦隊(栗田艦隊)に復帰しマリアナ沖海戦を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に参加しました。栗田艦隊のブルネイ出航の翌日、パラワン島沖で、米海軍潜水艦の雷撃を受け、4本の魚雷が命中。わずか10分そこそこで沈んでしまいました。

 

このように、日本海軍最後の一等巡洋艦「高雄級」は、ネームシップの「高雄」を除いて全てレイテ沖海戦で失われました。前級である「妙高級」も併せて、いわゆる諸列強が羨望した条約型重巡洋艦である「妙高級」「高雄級」は、奇しくも両級のネームシップが、シンガポールで、行動不能の状態で残存する、という状況で終戦を迎えることとなりました。

 

第一次ソロモン海戦

第一次ソロモン海戦は、今回ご紹介した「高雄級」重巡洋艦の3番艦である「鳥海」が旗艦となり参加した海戦です。

当時、日本が飛行場建設中だったソロモン諸島南部のガダルカナル島と、その向かいにありこちらも海軍の陸戦隊が占領したてのツラギ泊地に、米軍が突如来襲し、ツラギ守備隊は瞬時にほぼ全滅、飛行場建設中の設営隊は周辺の山に逃げ込む、という状況で、米軍が飛行場を押さえてしまった、という状況に対し、急遽、殴り込みをかける、という戦闘でした。

 

例によって、海戦の経緯等は別の優れた文献にお願いすることとします。

ja.wikipedia.org

日本艦隊については、既にご紹介した艦級ばかりなので、簡単に触れるとして、同時期の米海軍の巡洋艦について触れるいい機会かな、と考え、そちらのご紹介を中心にしたいと考えています。

 

日本海軍第8艦隊の海戦時の戦闘序列

日本側の「鳥海」以外の参加兵力は、いずれもこれまでにご紹介してきた「青葉級」重巡洋艦2隻と「古鷹級」重巡洋艦2隻から編成されている第6戦隊と、軽巡洋艦「夕張」と第18戦隊の軽巡洋艦「天龍」、第2海上護衛隊に所属する軽巡洋艦「夕張」と駆逐艦「夕凪」(「神風級」駆逐艦)でした。これらをラバウルに新編成されたばかりの第8艦隊として三川中将が率いていました。

第8艦隊そのものが新設で、上記の構成も見ていただいても、編成の艦種バランスなど考慮されているとは思えません。ともかく米艦隊の来攻は看過できない、という一点で周辺の稼働兵力をかき集めた、という寄せ集め感満載です。

こういう、現地主義感は決して嫌いではないですね。臨場感があるというか・・・。特に、「天龍」「夕張」「夕凪」については、第18戦隊司令官が懇願した為編成に入れた、という話もあるくらいで・・・。

 

重巡洋艦「鳥海」(旗艦)

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(直上の写真は、「高雄級」の概観:3番艦「鳥海」は第8艦隊の旗艦を務めました。「鳥海」は大改装を受けずに太平洋戦争を迎え、その後も前線で稼働し続けたため、ほぼ竣工時の状態のまま、太平洋戦争を戦い通しました)

 

「古鷹級」重巡洋艦(「古鷹」「加古」)

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(直上の写真は、大改装後の「古鷹級」の概観)

 

「青葉級」重巡洋艦(「青葉」:第6戦隊旗艦、「衣笠」) 

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(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観)

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

 

軽巡洋艦「天龍」 

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦)

初めてギヤードタービンを搭載し、前級の筑波級防護巡洋艦の倍以上の出力から、33ノットの高速を発揮することができました。艦型は前年に就役した「江風級」駆逐艦を拡大したもので、当初から駆逐艦戦隊(水雷戦隊)を指揮することを目的とした嚮導駆逐艦的な性格の強い設計でした。

主砲には14センチ単装砲を中央線上に4門装備し、両舷に4射線を確保しました。日本海軍の巡洋艦としては初めて53センチ3連装魚雷発射管を搭載しました。この発射管は当初は発射時に射出方向へ若干移動して射出する方式採っていましたが、運用面で機構状の不都合が生じ、装備位置を高め固定して両舷に射出する方式に改められました。舷側装甲は、アメリ駆逐艦の標準兵装である4インチ砲に対する防御を想定したものでした。太平洋戦争では、既に旧式艦となりながらも、開戦当初2隻で第18戦隊を構成し、南方作戦で活躍しました。

 

軽巡洋艦「夕張』

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

「夕張」は、 元々、5500トン級軽巡洋艦の9番艦(「球磨級」5隻に続く「長良級」第1期の4番艦)として建造予定だったものを、折からの不況の影響を受け予算の逼迫等の要因から、設計変更したと言う経緯で建造されました。

設計の基本骨子は、5500トン級と同等の兵装と速度を3000トン弱の船体で実現すると言うものでした。すべての主砲を船体の中心線上に配置、前後それぞれ単装砲と連装砲の背負式として、5500トン級に比べると主砲の搭載数は1門減りましたが、両舷に対し5500トン級と同様の6射線を確保しました。同様に連装魚雷発射管を中心線上に配置することにより、発射管搭載数は半減したものの、両舷に対して確保した射線4は、5500トン級と同数でした。

 

駆逐艦「夕凪』 

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(直上の写真は、「夕凪」が属する「神風級」駆逐艦の前級である「峯風級」駆逐艦特型駆逐艦出現までの艦隊駆逐艦の形状の始祖となったと言えると思います。同級は太平洋戦争時には、既に旧式化していたため、主として日本近海での船団護衛任務などに投入されました。準同型艦の「野風級」も含め、15隻中10隻が失われました。本級の改良型である「神風級(II)」(「後期峯風級」と言われることもあります)は、9隻中7隻が戦没しています)

  

迎え撃つ米豪艦隊の編成

一方、上陸部隊を護衛する米豪艦隊は、以下のような編成でした。

第62任務部隊(リッチモンド・K・ターナー米海軍少将指揮)

サボ島南水路警戒部隊(クラッチレー英海軍少将指揮)

重巡洋艦オーストラリア・重巡洋艦キャンベラ(いずれもオーストラリア海軍):ケント級

重巡洋艦シカゴ:ノーザンプトン級 +駆逐艦2隻(「パターソン」「バックレイ」)

サボ島北水路警戒部隊(リーフコール米海軍大佐指揮)

重巡洋艦ヴィンセンス、重巡洋艦クインシー、重巡洋艦アストリア :ニューオーリンズ級 +駆逐艦2隻(「ヘルム」「ウィルソン」)

サボ島南北水路哨戒隊:駆逐艦2隻(「ラルフ・タルボット」「ブルー」)

ツラギ島東方警戒部隊(スコット米海軍少将指揮)

軽巡洋艦サン・ファン :アトランタ級

軽巡洋艦ホバート(オーストラリア海軍):パース級 +駆逐艦2隻(「モンセン」「ブキャナン」)

上記のうち、実際に戦闘に参加したのはサボ島南水路警戒部隊とサボ島北水路警戒部隊、サボ島南北水路哨戒隊でした。

 

ケント級重巡洋艦:オーストラリア、キャンベラ

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County-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ケント級」の概観。 「オーストラリア」「キャンベラ」はこの艦級に属していました。152mm in 1:1250 by Neptune )

 

「ケント級」重巡洋艦は、英海軍が建造した条約型重巡洋艦カウンティ級重巡洋艦の第一グループで、条約制限内での建造の条件を満たし、かつ英海軍の巡洋艦本来の通商路保護の主要任務に就く為、防御と速力には目を瞑り火力と航続力に重点を置いた設計としています。8インチ砲8門を装備し、31.5ノットを発揮しました。

今回上述の「高雄級」の主砲に関する記述でも触れましたが、本級でも主砲の仰角をあげ高角砲との兼用についての試みが行われましたが、やはり射撃速度が対空射撃に及ばず実用的ではありませんでした。

魚雷は53.3cm魚雷を上甲板に搭載した発射管から射出する形式でしたが、就役当時の魚雷には投射の衝撃に対する耐性がなく、新型魚雷の開発まで、実装は待たねばなりませんでした。

7隻が建造され、そのうち「オーストラリア」と「キャンベラ」の2隻が、オーストラリア海軍に供与されました。

 

ノーザンプトン重巡洋艦:シカゴ

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Northampton-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune) 

「シカゴ」は米海軍が建造した条約型重巡洋艦の第2グループ「ノーザンプトン級」の4番艦です。前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。

航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。

 

同級については、本稿の「日本海巡洋艦開発小史(その5)」で記述しています。そちらをご覧下さい

日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊 - 相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

 

ニューオーリンズ重巡洋艦:ヴィンセンス、クインシー、アストリア

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New Orleans-class cruiser - Wikipedia 

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の概観:「アストリア」「ヴィンセンス」「クインシー」はこの艦級に属していました。142mm in 1:1250 by Neptune) 

 

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の特徴を示したもの。艦橋の構造を、前級までの三脚前檣構造から塔状に改めています(上段)。航空艤装の位置を改めて、運用を改善(中段)。この艦級に限ったことではないですが、アメリカの建造物は理詰めで作られているためか、時として非常に無骨に見える時がある、と感じています(下段)。フランスやイタリアでは、こんなデザインは、あり得ないのでは、と思うことも。「機能美」と言うのは非常に便利な言葉です。でも、この無骨さが良いのです)

 

米海軍の条約型重巡洋艦としては第四段の設計にあたります。

主砲としては8インチ砲3連装砲塔3基を艦首部に2基、艦尾部に1基搭載するという形式は「ノーザンプトン級」「ポートランド級」に続いて踏襲しています。魚雷兵装は、「ポートランド級」につづき、竣工時から搭載していません。航空艤装の位置を少し後方へ移動して、搭載設備をさらに充実させています。

乾舷を低くして艦首楼を延長することで、米重巡洋艦の課題であった復原性を改善し、32.7ノットの速力を発揮することができました。

 

同型艦は7隻が建造されましたが、そのうちこの海戦で参加した3隻全てが撃沈されてしまいました。

その後も、ソロモン海域での戦闘では常に第一線で活躍し、サボ島沖夜戦では同級の「サンフランシスコ」が旗艦を務める艦隊がレーダー射撃によって、日本海軍の重巡「青葉」を大破させ、「古鷹」を撃沈する戦果を上げています。一方で、第三次ソロモン海戦では、同じく艦隊旗艦を務めた「サンブランシスコ」が「比叡」「霧島」との乱打戦で大破していますし、ルンガ沖夜戦では、日本海軍の駆逐艦部隊の輸送任務の阻止を試みた同級の「ニューオーリンズ」「ミネアポリス」が、日本駆逐艦の放った魚雷で大破する、といったような損害も被っています。

 

米海軍の「ヤラレ役」を一身に背負った感のある緩急ですが、それだけ「切所」を踏ん張った、と言うことだと考えています。

 

アトランタ級軽巡洋艦:サン・ファン

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Atlanta-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「アトランタ級軽巡洋艦の概観。131mm in 1:1250 by Neptune) 

 

当初は「オマハ級」軽巡洋艦の代替として、駆逐艦部隊の旗艦を想定して設計がスタートしましたが、設計途上で防空巡洋艦への設計変更が行われました。6000トン級の船体に、主砲とし38口径5インチ両用砲の連装砲塔を8基搭載し、併せて53.3cm魚雷の4連装発射管2基も搭載し、当初設計の駆逐艦部隊の旗艦任務にも適応できました。速力は32.5ノットを発揮することができました。

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(直上の写真は、「アトランタ級軽巡洋艦の細部をアップしたもの。なんと言っても全体をハリネズミのように両用砲塔が覆っているのがよくわかります。第一次ソロモン海戦では、持ち場が主戦場から離れていたため(ツラギ東方警備)、戦闘には参加しませんでしたが、こののち、ソロモン海での海戦にはたびたび登場します。前掲の「ニューオーリンズ」級とは一転して、やや華奢な優美な艦形をしています)

 

8基の両用砲塔の搭載により、やや復原性に課題が見出され、5番艦以降では、砲塔数を2基減じて、復原性を改善しています。

同型艦は11隻が建造され、艦隊防空の中核を担いました。

 

パース級軽巡洋艦ホバート

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ホバート」は、「リアンダー級」軽巡洋艦の改良型として建造された「パース級」軽巡洋艦の1隻です。同級は、英海軍「アンフィオン級」軽巡洋艦として3隻建造され、3隻とも後にオーストラリア海軍に供与されました。

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(直上の写真は、オーストラリア海軍「パース級」軽巡洋艦の概観。135mm in 1:1250 by Neptune)

同級については、本稿の「日本海巡洋艦開発小史(その5)」で記述しています。そちらをご覧下さい

日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊 - 相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

 

バグレイ級駆逐艦:「パターソン」「バックレイ」「ヘルム」「ウィルソン「ラルフ・タルボット」「ブルー」

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Bagley-class destroyer - Wikipedia

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(直上の写真は、「バグレイ級」駆逐艦の概観。主戦場となった南北のサボ島水路に展開していたのは、全てこの艦級の駆逐艦でした。1600t弱の船体に、5インチ砲4門と53.3cm4連装魚雷発射管を4基搭載し、38.5ノットの高速を発揮することができました。太平洋戦争に参加した米海軍の艦隊駆逐艦としては、やや古参の部類に属します。同型艦は20隻。83mm in 1:1250 by Neptune) 

 

リヴァモア級駆逐艦:「モンセン」「ブキャナン」

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Gleaves-class destroyer - Wikipedia

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(直上の写真は、「リヴァモア級」駆逐艦の概観。主戦場には展開していなかったため、戦闘には参加していません。米海軍の艦隊駆逐艦としては、主力となった高名な「フレッチャー級」への導入となった量産型の駆逐艦と言っていいでしょう。いくつかサブグループがあったり、建造順で名称が異なったりしますが、ここでは「リヴァモア級」と言うことで一括りにしておきます。まあ、模型があるかどうか、も大きなファクターですが。1630tの船体に、5インチ砲4門と53.3cm4連装魚雷発射管を4基搭載し、37.4ノットの高速を発揮することができました。同型艦64隻 86mm in 1:1250 by Neptune) 

 

海戦の概要としては、第8艦隊は深夜11時43分ごろサボ島南水路から進入し、まず南水路警戒部隊と交戦。わずか8分の間に「キャンベラ」に魚雷2本と8インチ砲弾28発を命中させ、行動不能に陥れます(翌朝、沈没)。続いて「シカゴ」に魚雷1本と多数の命中弾を浴びせ、駆逐艦「パターソン」とともにを大破させました。

次に「鳥海」が艦首左舷方向に別艦隊(サボ島北水路警戒部隊)を発見し、11時53分「アストリア」に向け砲撃を開始、命中弾多数を与え、これを沈黙させました。(翌朝、沈没)次に目標を「クインシー」に変更し砲撃を開始し丁度0時ごろに火災を発生。戦列が乱れ、別働していた「古鷹」「天龍」「夕張」が炎上する「クインシー」を反対舷側から攻撃を開始。「天龍」「夕張」の魚雷が「クインシー」に命中し、0時35分ごろ転覆し沈没しました。第8艦隊は最後に「ヴィンセンス」に砲火を集中し、「ヴィンセンス」もこれに反撃しますが、「鳥海」「夕張」の魚雷が都合4本命中し、0時直後に航行不能となりました。(0時50分に転覆沈没)

最後に水路哨戒隊の「ラルフ・タルボット」と交戦し、これを撃破(大破)しました。

ここまで、第8艦隊の各艦は大きな損害を受けたものはなく、混乱した艦列を修正するために、いったんサボ島北側に集結しました。この際に水路哨戒隊の「ラルフ・タルボット」と遭遇、これに砲撃を加え、「ラルフ・タルボット」は大破しながら離脱します。

これを最後に戦闘は終結し第8艦隊は隊列を整えるのですが、この時に、艦隊司令部では、攻撃を継続するか撤収するかの、ある種「有名」な議論があったとされています。「丸腰となった輸送船団を攻撃するために反転すべき」(早川「鳥海」艦長)という意見と、「上空援護が期待できず、空襲を避けるために早期に撤退すべき」(大西艦隊参謀長、神艦隊先任参謀)という意見が対立したわけです。

結局、三川司令長官が後者の意見を容れて、艦隊は帰途につきます。

この決断は、海戦の直後からその可否についての議論が絶えません。が、日本海軍の常として、上層部ほど「後」の議論を積極的に行う傾向があるように感じています。連合艦隊司令部、あるいは軍令部あたり。かと言って、次の作戦で事前に明確な指示を出すわけでもないのです。「現場判断尊重」の名目で、解釈に幅のある曖昧な作戦目的を前線に伝え、後に現場判断に対する批評を行う傾向があるように思うのです。うがった見方をすれば、これも「損害恐怖症」の片鱗かと。自身が明確な指示を出すことによって生じる損害に対して責任を取りたくない、ということでしょうか?

これはどうやら、真珠湾作戦当初から延々と繰り返される日本海軍の「性」とでもいえるかもしれません。

戦闘では確かに圧勝したが、そもそも作戦の目的はなんだったのか?

 

そしてこの海戦には、もう一つ日本海軍にはありがたくない「おまけ」がついていました。

早めの離脱の指示で、安全に、米軍の空襲域を脱出できた第8艦隊だったのですが、泊地到着寸前で米潜水艦の雷撃を受け、重巡「加古」を失います。

 

こうしてこの海戦は終了しましたが、実はこれがソロモン海での底無しの消耗線の始まりでもありました。

 

(その7) 条約型巡洋艦の建造

条約下の巡洋艦

本稿では、このシリーズの前回で触れたように、ワシントン・ロンドン体制で定められたカテゴリーA(=重巡洋艦)の保有枠を、日本海軍は「高雄級」4隻の建造で、使い切ってしまいました。このため、日本海軍が以後建造する巡洋艦は、全てカテゴリーB(=軽巡洋艦:主砲口径6.1インチ以下、排水量10000トン以下)として設計されることになります。

この時点で、日本海軍の持っていたカテゴリーBの保有枠は51000トン弱だったため、8500トンのカテゴリーB(軽巡)6隻の建造が計画されました。

具体的には、今回ご紹介する「最上級」「利根級」の2つの艦級は、15.5cm(6.1インチ)砲を機装式3連装砲塔に搭載し、一方で軽快に駆逐艦隊を率いるそれまでの軽巡洋艦とは異なり、8500トン級の大きな十分な防御力を有する船体をもち、攻撃力でも条約型の重巡洋艦と打ち負けない砲力を有する設計でした。

日本海軍の軽巡洋艦の常として、この両艦級は重巡洋艦に付けられた「山」の名前ではなく、いずれも軽巡洋艦の艦名である「川」の名前を艦名として与えられました。

  

条約の申し子

最上級巡洋艦 -Mogami class cruiser-(最上:1935-1944/三隈:1935-1942/鈴谷:1937-1944/熊野:1937-1944)    

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Mogami-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「最上級」の就役時の概観。163mm in 1:1250 by Konishi)

 

「最上級」軽巡洋艦は、上記のような背景で設計された、将に「条約の申し子」とでもいうべき巡洋艦です。

繰り返しになりますが、同級はそれまでの日本海軍の軽巡洋艦とは異なり、37ノットのずば抜けた機動性に加え、十分な防御力を備えた大型の船体を持ち、これにそれまでの軽巡洋艦の倍以上の火力を搭載して敵を圧倒する、と言う設計思想で建造されました。

 

採用された主砲は、3年式60口径15.5cm砲で、この砲をを3連装砲塔5基に搭載することが計画されました。

(直下の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔郡の配置)

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この砲は27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。

75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありましたが、毎分5発程度の射撃速度では、対空砲としての実用性には限界がありました。

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 列強の条約型巡洋艦

同様の経緯で、米海軍、英海軍ともに同様の条約型巡洋艦を建造しています。

米海軍の条約型軽巡洋艦

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Brooklyn-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:「ブルックリン級」の概観。157mm in 1:1250 by Neptune )

ほぼ「最上級」と同じ設計思想で作られた米海軍の軽巡洋艦です。条約開け後も主砲は換装されることはありませんでした。

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(直上の写真は、速射性の高Mark 16 15.2cm(47口径)速射砲の3連装砲塔を5基搭載しています。対空砲として5インチ両用砲を8門搭載していますが、後期の2隻はこれを連装砲塔形式で搭載していました。このため後期型の2隻を分類して「セントルイス級」と呼ぶこともあります)

 

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Cleveland-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:「クリーブランド級」の概観。157mm in 1:1250 by Neptune。主砲塔を1基減らし、対空兵装として、連装5インチ両用砲を6基に増やしし、対空戦闘能力を高めています )

上掲の「ブルックリン級」の対空兵装強化版。対空兵装を倍にする代わりに、主砲を1基減らしています。

 

英海軍の条約型軽巡洋艦

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Town-class cruiser (1936) - Wikipedia

タウン級軽巡洋艦は、実は以下の3つのサブクラスを持っています。

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グロスター級」軽巡洋艦

 今回ご紹介するのは「マンチェスター」。第二グループの「グロスター級」の一隻です。

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(直上の写真:「グロースター級」軽巡洋艦の概観 144mm in 1:1250 by Neptune) 

グロスター級」はこの艦級の第一グループである「サウサンプトン級」の装甲強化型であり、この強化に伴い、機関も見直されています。

 

英海軍が軍縮条約の制限に準じて建造した軽巡洋艦です。設計の背景は日本海軍の「最上級」、米海軍の「ブルックリン級」とほぼ同じです。英海軍は、歴史的に海外植民地との間の長大な通商路の警備、保護を巡洋艦の主要任務としているため、長期間の航海に耐えられるよう、武装を若干押さえつつ居住性に配慮した設計になっています。

 

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Fiji-class cruiser - Wikipedia

前傾の「タウン級軽巡洋艦タイプシップとして、数を揃えるためにやや小型化した軽量版です。

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(直上の写真:「クラウン・コロニー級」の概観。145mm in 1:1250 by Neptune )

(直下の写真は、速射性の高いMk XXIII 15.2cm(50口径)速射砲の3連装砲塔を4基搭載しています。)

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主砲の換装、そして名実ともに重巡洋艦

ワシントン・ロンドン体制は、1936年に失効し、保有制限がなくなったこの機会に「最上級」各艦は主砲を50口径20.3cm連装砲に換装しました。こうして重巡洋艦を越えるべく建造された「最上級」は、名実共に重巡洋艦となりました。

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(直上の写真:主砲を20.3cm連装主砲塔に換装した「最上級」の外観:by Neptune)

 

 主砲換装の是非

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(直上の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔(上段)と20.3cm連装砲塔への換装後(下段)の比較。換装後の2番砲塔の砲身は、1番砲塔と干渉するため、正正面で繋止する際には一定の仰角をかける必要がありました(下段))

 

本来、「最上級」に搭載されていた3年式60口径15.5cm砲は、重巡洋艦との砲戦でも撃ち負けない様に設計されただけに、射程も重巡洋艦が搭載する20.3cm砲に遜色はなく、砲弾一発当たりの威力では劣るものの、「最上級」はこれを3連装砲塔5基、15門搭載し、その高い速射性も相まって、1分あたりの投射弾量の総量では、20.3cm連装砲塔5基を上回っていました。さらに60口径の長砲身を持ち散布界が小さい射撃精度の高い砲として、用兵側には高い評価を得ていました。

これを本当に換装する必要があったのかどうか、やや疑問です。

筆者の漁った限りの情報では、貫徹力でどうしても劣る、というのが主な換装理由ですが、その後のソロモン周辺での戦闘を見ると、あるいはこれまでの日本海軍の戦歴を見ると、速射性の高い砲での薙射で上部構造を破壊し戦闘不能に陥れる、という戦い方も十分にあり得たのではないかな、と。

あるいは、米海軍を仮想敵として想定した場合に、その艦艇の生存性の高さ、あるいは後方の修復能力の段違いの高さから、必殺性が求められた、ということでしょうか?(日本海軍の場合、損傷艦の自沈、あるいは海没処分、というのが目立つのですが、米海軍では、そのような例はあまり見かけません)

また、前述の様に米海軍も英海軍も同様の設計の巡洋艦を建造していますが、いずれも換装した例はありません。

 

主砲換装は計画されていたのか?

「最上級」の主砲塔配置は、それまでの「妙高級」「高雄級」重巡洋艦の砲塔配置とは少し異なっています。「妙高級」「高雄級」では艦首部の3砲塔を中央が高い「ピラミッド型の配置としていました。これは砲塔間の間隔を短くし弾庫の防御装甲範囲を小さくし重量を削減するのに有効でしたが、一方で3番砲塔の射角が左右方向のみに大きく制限されました。

「最上級」の主砲塔配置は、砲身の短い15.5cm砲に合わせた設計になっており、20.3cm砲に換装した際に2番砲塔の砲身が1番砲塔に干渉してしまい、正正面で固定する場合、砲身に一定の仰角をかける必要がありました。このことから、従来定説であった条約失効後の換装計画が設計当初から決定されていたか、と少し疑問に思ってしまいます。

一方で、15.5cm3連装主砲塔の重量は、20.3cm連装主砲塔よりも重く、第4艦隊事件などで、重武装を目指すあまりに全般にトップヘビーの傾向が見られた艦船設計に対する改善策としては、理にかなった選択だった、とも言えるのではないでしょうか?

  

 その戦歴

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(直上の写真:第7戦隊の勢揃い。手前から、「最上」「熊野」「鈴谷」「三隈』)

 

「最上」:太平洋戦争海戦時には、同級の僚艦とともに、第7戦隊を編成し、南遣艦隊の基幹部隊として南方作戦に従事しました。マレー作戦、欄印作戦で活躍しました。バタビア沖海戦では、米重巡洋艦「ヒューストン」オーストラリア軽巡洋艦「パース」などの撃沈に参加しています。

ミッドウェー海戦には、ミッドウェー攻略部隊の第2艦隊の前衛支援部隊(第7戦隊基幹)として参加。機動部隊(空母機動部隊)の壊滅後も、機動部隊の残存兵力(水上戦闘艦艇)や、主隊による米艦隊との夜戦の機会を求めて、その支援のため、第7戦隊にはミッドウェー島の飛行場砲撃の任務が与えれました。このため第7戦隊は進撃を継続しましたが、結局、夜戦の戦機なしとの判断から、連合艦隊司令部からの撤収命令に従い反転しました。撤収中に、米潜水艦による接触を受け、回避行動中に僚艦「三隅」と衝突し艦首が圧壊し一時行動不能に陥りました。応急処置により、同じく損傷した「三隅」とともにトラック島へむけての退避航行を開始したものの、翌日、米軍の基地航空機、空母艦載機の空襲により、僚艦「三隅」は沈没、「最上」も5発の爆弾を被弾し、後部の4番・5番両砲塔に大損害を受けました。

なんとか第2艦隊に合流し、内地に帰還後、「最上」はその修復の際に、大損害を受けた艦後部の4・5番砲塔を撤去し、艦後部を全て航空甲板とするという大規模な改造を受け、11機の水上偵察機を搭載可能な航空巡洋艦として生まれ変わりました。

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(直上の写真:ミッドウェー海戦での損傷修復後、航空巡洋艦となった「最上」:by Konishi。艦後部に11機の水上偵察機の繋留ができる航空甲板を設置しました)

 

第7戦隊に復帰後、主として中部太平洋で行動しますが、ラバウルに進出した際に、ラバウル空襲に遭遇し、再び被弾してしまいます。

損傷回復後、マリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊の第3部隊(西村艦隊)の一員として戦闘に参加しました。西村艦隊はスリガオ海峡へ突入しますが、米艦隊の砲撃で「最上」は炎上、更に後続の第二遊撃艦隊(志摩艦隊)の旗艦「那智」と衝突し損傷を大きくしてしまいました。

翌朝、米軍機の空襲をうけ、味方駆逐艦の魚雷で処分されました。

 

「三隅」:前掲の「最上」同様、太平洋戦争緒戦では、第7戦隊の一員として、マレー作戦、欄印攻略戦で活躍しました。

その後参加したミッドウェー海戦では、これも前掲のように機動部隊壊滅後の夜戦支援のためのミッドウェー島砲撃任務からの反転中に僚艦「最上」と衝突しました。この時点では、損傷は「最上」が大きく、「三隅」は軽微でした。第7戦隊司令部は、両艦にトラック島に退避するように指示を出しましたが、翌日、相次ぐ空襲を受け一説には被弾20発と言う大損害を受け、最後には魚雷が誘爆し失われました。

同艦は太平洋戦争で失われた最初の重巡洋艦となりました。

 

「鈴谷」:太平洋戦争開戦からミッドウェー海戦まで、第7戦隊の一員として、寮艦とほど同様の戦歴を辿りました。

ミッドウェー後は、僚艦「熊野」とともに インド洋での通商破壊戦に従事した後に、ソロモン諸島方面での作戦に投入されます。

第7戦隊は第3艦隊(新編空母機動部隊)に編入され、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に機動部隊として参加した後、ソロモン方面での作戦を担当する第8艦隊に編入されてガダルカナル方面への輸送作戦、支援作戦(ヘンダーソン飛行場砲撃)などに従事します。

ラバウル空襲で大損害を受けた新編第2艦隊のトラック後退し、中部太平洋での活動を行った後、マリアナ沖海戦に参加。

そして1944年10月、レイテ沖海戦に第1遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加しました。サマール島沖海戦で、米護衛空母部隊と交戦し、どう空母部隊艦載機の爆撃を受け至近弾により魚雷が誘爆し航行不能となってしまいます。その後も火災が収まらず、さらに魚雷と高角砲弾の湯爆も始まり、やがて沈没してしまいました。

 

「熊野」:太平洋戦争緒戦から、「最上級」4隻で構成される第7戦隊の旗艦を務めました。前掲の通りマレー作戦、蘭印作戦、ミッドウェー海戦、インド洋での通商破壊戦等を転戦した後、第3艦隊に編入されますが、当時、機関の故障が続出し、第7戦隊旗艦を「鈴谷」に譲り、第7戦隊の序列を外れました。第2次ソロモン海戦への参加を経て、南太平洋海戦では機動部隊本隊の直衛を務めましたが、米艦載機の爆撃で至近弾を被弾し損傷。内地で損傷を復旧した後、再びソロモン方面での戦闘に従事しました。

ガダルカナルからの撤退以降、戦場は中部ソロモンに移っていましたが、「熊野」は再び第7戦隊の旗艦を務めます。当時の主戦場であったニュージョージアコロンバンガラ方面での夜戦で、夜間空襲を試みた米海軍機の雷撃で避雷し、再び内地で修理を受けました。

復帰後、第2艦隊に編入されマリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月レイテ沖海戦に参加します。

レイテ沖海戦では第1遊撃部隊(栗田艦隊)の第7戦隊の旗艦を務めました。

シブヤン海では米機動部隊の艦載機の空襲を受け、艦隊は戦艦「武蔵」を失うほどの損害を受けました。「熊野」も被弾しますが、幸いにも不発弾で、その後も作戦参加を続行しました。その後の米護衛空母部隊と交戦したサマール島沖海戦では、空母部隊直衛の駆逐艦から雷撃を艦首に受け、艦首を喪失して戦列から脱落しています。

マニラ帰着後、11月に損傷の修復のため本土帰還を目指したが、度重なる空爆で失われた。

 

こうして「最上級」重巡洋艦は1944年11月までにすべて失われました。

  

最優秀巡洋艦の呼び声 

利根級重巡洋艦 -Tone class heavy cruiser-(利根:1938-終戦時残存/筑摩:1939-1944)    

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Tone-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「利根級」の概観。162mm in 1:1250 by Konishi)

 

日本海軍は早くから航空機による索敵に注目していました。すでに5500トン級軽巡洋艦から、航空索敵の能力付与についての模索は始まっていました。

しかし、具現化については米海軍が常に一歩先をゆき、例えば5500トン級と同時代の「オマハ級」軽巡洋艦はすでにカタパルトを2基搭載し、水上偵察機も2機搭載していました。その後も米海軍お優位は続き、米海軍の条約型重巡洋艦は4機の水上偵察機搭載を標準としていたのに対し、日本海軍の重巡洋艦は2機乃至3機の搭載に甘んじていました。

一方で、常に劣勢に置かれる主力艦事情を覆すべく構想された空母の集中運用、いわゆる空母機動部隊の構想においては、航空索敵の必要性はさらに高まり、「利根級巡洋艦は、それを具現すべく設計された、と言って良いと思います。

利根級巡洋艦は今回の冒頭でも触れた様に、設計時点では、ワシントン・ロンドン体制の制限下で、すでにカテゴリーA(重巡洋艦)の保有枠を使い切っており、8500トンの船体をもち、15.5cm砲を主砲として搭載したカテゴリーB(軽巡洋艦)として計画され、艦名も「川」の名前を与えられていました。

その艦型は大変ユニークで、「最上級」と同じ3年式60口径15.5cm砲を主砲としてその3連装砲塔を「最上級」よりも1基減らして4基、12門をすべて艦首部に搭載し、艦尾部は水上偵察機の発艦・整備甲板として開放されていました。水上偵察機を6機搭載する能力を持ち、日本海軍は念願の空母機動部隊の目として運用することになります。

(直下の写真は、「利根級」の特徴のクローズアップ。前部主砲塔群(上段)と艦後部の水上偵察機の発艦・整備甲板)) 

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着工後の1936年に軍縮条約が失効したことを受けて、建造途中から主砲を重巡洋艦の標準主砲であった50口径3年式20.3cm砲に変更、完成時には重巡洋艦として就役しました。

主砲塔をすべて艦首部に集中したことで、集中防御の範囲を狭め十分な装甲を施すことができ、また航続力も巡洋艦の中で最長で、高い航空索敵能力も併せて、最優秀巡洋艦の評価も聞かれたようです。

 

もっとも、速度の遅い水上偵察機による敵機動部隊索敵は、比較的早い時期に効果に疑問がもたれ、米海軍などは一部の艦上爆撃機を索敵機として部署し運用し始めていました。

 

その戦歴

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(直上の写真は、第8戦隊の「利根」(手前)「筑摩」:by Neptune

「利根」:太平洋戦争開戦時、「利根」は僚艦「筑摩」と共に、第8戦隊を編成し、空母部隊である第1航空艦隊の直衛として第1特別講堂部隊(南雲機動部隊)に編入され、真珠湾奇襲に参加します。「利根」搭載の索敵機はいわゆる「真珠湾奇襲」の1時間前に真珠湾を偵察、気象状況や湾内の様子などを伝えたと言われています。

続いてウェーク島攻略戦、ラバウル攻略戦、ポート・ダーウィン空襲、インド洋作戦に南雲機動部隊に帯同して参加した後、内地に帰還しました。

ミッドウェー海戦でも南雲機動部隊に参加、「利根」の搭載機はここでも機動部隊の目として航空索敵を担いますが、有名な「利根4号機」の不調が、米空母部隊の発見を遅らせ、敗北の一因となったと言われています。(一方で、発進の遅れが、「米機動部隊の発見」に繋がった、とする見方もあるようです)

ミッドウェーの敗北後、いったん内地で修理、整備を行なった後、第8戦隊は新編成の空母機動部隊である第3艦隊に編入され、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦などに参加、常に前衛にあって索敵、対空戦闘等に従事しました。

その後も概ね空母機動部隊の側にあってその行動を支援しました。

1944年に入ると、第8戦隊は解体され「利根」は僚艦「筑摩」と共に第7戦隊に編入されました。一時期はインド洋で通商破壊戦に従事しました。この際に、この作戦指揮を執っていた南西方面艦隊から穂陵の処刑指示が発令され、「利根」では通商破壊戦によって得た捕虜約80名に対する処刑が行われました。

この後、マリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に第一遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加。サマール沖海戦では米護衛空母を追撃し、砲撃で一隻を撃沈しています。一方で、米護衛空母の艦載機の反撃で艦後部に被弾し損傷しました。

作戦終了後、ブルネイに一旦退避後、輸送任務と修理のために内地に帰還。海軍兵学校練習艦として呉に停泊中に空襲により被弾損傷。さらに数次にわたる空襲で被弾が相次ぎ、大破着底状態で終戦を迎えました。

 

「筑摩」:太平洋戦争緒戦、「筑摩」は僚艦「利根」と共に第8戦隊を編成し、その戦歴はほぼ「利根」に準じています。

ミッドウェー海戦にも、「利根」と同じく南雲機動部隊の一員として参加。米機動部隊の索敵に「筑摩」からは2基の水上偵察機が参加しますが、このうち「筑摩1号機」は米機動部隊の上空を通過しながらも雲に阻まれて発見できず、また、米艦載機と接触したにも関わらず報告をせず、海戦敗北の一因となった、と言われています。

米機動部隊の一部は前出の「利根4号機」によって発見されますが、「筑摩5号機」が「利根4号機」を引き継いで米機動部隊との接触を継続し、南雲機動部隊の主力空母被弾後、一隻だけ残った「飛龍」が放ったの攻撃隊を米機動部隊に誘導した後、未帰還となっています。

海戦後、内地で修理・整備の後、「筑摩」は第8戦隊の一員として、新編成の空母機動部隊(第3艦隊)の編入されました。第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加し、南太平洋海戦では米艦載機による攻撃で艦橋付近に命中弾、至近弾による浸水、さらには魚雷発射管付近への命中弾を受けるなどして、一時は戦闘不能状態となりました。

 内地で損傷箇所の修理後、中部ソロモンでの作戦活動に復帰、機関の不調を内地で修理するため戦列を離れた「利根」に代わり第8戦隊旗艦となり第2艦隊を期間に編成された水上打撃部隊(遊撃艦隊:第2艦隊司令長官栗田中将指揮)に編入され、ラバウルに進出した直後、米機動部隊のラバウル空襲により損傷。比較的損傷の軽かった「筑摩」はトラック泊地に退避後、内南洋(トラック諸島周辺)に留まり周辺での作戦行動を続けました。

その後、いったん内地で損傷修理、整備を行った後、「筑摩」は僚艦「利根」と共に南西方面艦隊に編入され、インド洋での通商破壊作戦に従事しました。

マリアナ沖海戦参加を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に、第一遊撃部隊(栗田艦隊)第7戦隊(旗艦「熊野」)の一員として参加します。

サマール島沖海戦では米護衛空部部隊を追撃し砲撃を加えますが、護衛空母艦載機の雷撃攻撃で艦尾に避雷し、舵故障と速度低下で部隊から落伍してしまいました。その後、再度米軍機の空襲を受け、艦中央部に複数の命中弾を受け、味方駆逐艦「野分」により雷撃処分されました。

「筑摩」乗組員は雷撃処分に当たった駆逐艦「野分」に収容されましたが、「野分」も後に米艦隊に撃沈され、生存者は海戦時には索敵発進し、そのまま地上基地に向かった水上偵察機の搭乗員を除くと、「野分」に救助されず、米艦隊に救助された1名と撃沈された「野分」から救助された「野分」「筑摩」の生き残り1名、計2名と言われています。

 

 

こうして、軍縮条約の制約から、本来は軽巡洋艦として生まれながら(あるいは「生まれる予定」ながら )条約終了後、重巡洋艦として就役した「条約の落し子」巡洋艦を今回は紹介してきたわけですが、彼女等は、航空機の発達に伴う海戦様式の変更から、なかなか本来の重巡洋艦としての打撃力を生かした活躍の場を見出せなかった、と言っても良いのではないでしょうか?しかし「利根級」はその設計の先見性から、その砲装備以外のところで、空母時代に適応した一定の活躍をした、と言えるでしょう。

重巡洋艦にならず、つまり主砲を換装せず、軽巡洋艦として圧倒的な火力を保持した新時代の水雷戦隊の中核としてソロモン諸島での夜戦に活躍する「最上級」や「利根級」の姿も見てみたかったなあ、と思ってしまいます。

 

(その8) 新型軽巡洋艦の建造 -後半に海防艦もご紹介

このミニ・シリーズでは、 これまで、日本海軍の巡洋艦の建造の推移を見てきましたが、簡単にまとめると、黎明期の日本海軍の主力を構成し、やがては育成された主力艦の補助戦力となった防護巡洋艦の時代。それに続き、魚雷の性能向上と駆逐艦の高速化の流れの中での軽装甲巡洋艦軽巡洋艦)への発展が見られました。そして軽巡洋艦を凌駕しこれを制圧するべく重装備巡洋艦重巡洋艦)が現れ、この高性能化がやがては軍縮条約の条項追加へと結びつき、その制約下で条約型巡洋艦が設計されました。

これらの条約型巡洋艦として生まれた巡洋艦群は、条約の破棄後は重巡洋艦となりました。

今回は、その最終回として、その後、日本海軍の終焉までに建造された巡洋艦をご紹介していきます。

 

最後の水雷戦隊旗艦

阿賀野級巡洋艦 -Agano class cruiser-(阿賀野:1942-1944/能代:1943-1944/矢矧:1943-1945/酒匂:1944-終戦時残存)    

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日本海軍では、高速化する駆逐艦と、その搭載する強力な魚雷に大きな期待を寄せ、 水雷戦隊をその中核戦力の一環に組み入れてきました。そしてこの戦隊を統括し指揮する役目を軽巡洋艦に期待してきたわけです。

その趣旨に沿って建造されたのが、一連の「5500トン級」軽巡洋艦でした。この艦級は初期型5隻(1917年から順次就役)、中期型6隻(1922年から順次就役)、後期型3隻(1924年から順次就役)、計14隻が建造されその適応力の高さから種々の改装等を受け適宜近代化に対応してきましたが、1930年代後半に入るとさすがに特に初期型の老朽化は否めず、艦隊の尖兵を構成する部隊の旗艦としては、砲力、索敵能力に課題が見られるようになりました。

 

そこで計画されたのが、「阿賀野級軽巡洋艦でした。

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(直上の写真は、「阿賀野級」の就役時の概観。138mm in 1:1250 by Neptune)

 

阿賀野級」は、それまでの「5500トン級」とは全く異なる設計で、6650トンの船体に、軽巡洋艦としては初となる15.2cm砲を主砲として採用し連装砲塔を3基搭載していました。この砲自体の設計は古く、名称を「41式15.2cm 50口径速射砲」といい、「金剛級巡洋戦艦、「扶桑級」戦艦の副砲として採用された砲でした。

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同砲は、主砲を単装砲架での搭載を予定していた「5500トン級」軽巡洋艦では人力装填となるため日本人には砲弾が重すぎるとして、少し小さな14cm砲が採用されたという、曰く付きの砲でもあります。しかし。列強の軽巡洋艦は全て6インチ砲を採用しており、明らかに砲戦能力での劣後を避けたい日本海軍は、新造の「阿賀野級」では、この砲を新設計の機装式の連装砲塔で搭載することにしました。

同砲は21000メートルの射程を持ち、砲弾重量45.5kg (14cm砲は射程19000メートル、砲弾重量38kg)。連装砲塔では毎分6発の射撃が可能でした。さらに新設計のこの連装砲塔では主砲仰角が55度まで可能で、一応、対空射撃にも対応できる、とされていました。

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(直上の写真は、「阿賀野級」の細部。主砲として採用された41式15.2cm 50口径速射砲の連装砲塔(上段)。高角砲として搭載した長8cm連装高角砲(左下):この砲は最優秀高角砲の呼び声高い長10cm高角砲のダウンサイズですが、口径が小さいため被害範囲が小さく、あまり評価は良くなかったようです。水上偵察機の整備運用甲板とカタパルト(右下))

 

対空兵装としては優秀砲の呼び声の高い長10cm高角砲を小型化した新型の長8cm連装高角砲2基搭載していました。

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雷装としては61cm四連装魚雷発射管2基、艦中央部に縦列に装備し、両舷方向に8射線を確保する設計でした。

航空偵察能力は「5500トン級」よりも充実し、水上偵察機2機を搭載し射出用のカタパルト1基を装備していました。

最大速力は、水雷戦隊旗艦として駆逐艦と行動を共にできる35ノットを発揮しました。

 

その戦歴

阿賀野」:同艦は1942年11月に空母機動部隊の直衛戦隊である第10戦隊の旗艦となります。

当時はガダルカナル島の攻防戦の最中で、第10戦隊はニューギニア作戦の上空警戒部隊(第2航空戦隊)の直衛として派遣されました。その後、ガダルカナル撤退作戦支援に参加の後、内地での整備を経て第3艦隊(空母機動部隊)の一員としてトラック、ラバウル方面で活動しました。南東方面部隊に編入されブーゲンビル島沖海戦に参加の後、米機動部隊の艦載機によるラバウル空襲で艦尾に魚雷を受け艦尾を失い、損傷修復のためにトラック島へ回航中に今度は米潜水艦の雷撃で避雷、航行不能となりました。「能代」「長良」等による曳航でトラック島に帰投後、工作艦「明石」による応急修理で航行能力を回復し、1944年1月、今度は本格的修理を行うために内地への回航を目指しますが、トラック泊地を出港した直後、米潜水艦の雷撃を受け沈没しました。

 

能代」:1943年7月、第11水雷戦隊の旗艦を一時努めた後、第2水雷戦隊の旗艦に就役、連合艦隊主力を護衛してトラック島に向かいました。第2艦隊に編入されラバウルに進出しますが、米艦載機によるラバウル空襲により第2艦隊主力の多くが損傷しラバウルを引き上げましたが、損傷のなかった「能代」はラバウルに残留しブーゲンビル島への逆上陸作戦に支援隊として出撃しました。

米艦載機が再びラバウル空襲を実施し、残留していた水上部隊はトラックに引き上げます。トラック方面で活動した後、ニューアイルランド島への陸軍増援部隊の輸送任務に出撃しました。同輸送部隊は揚陸完了後に米機動部隊の空襲を受け、「能代」も至近弾5発、直撃弾1発を受け損傷しました。内地で損傷を修理した後、ビアク島救援作戦(渾作戦)に第1戦隊(「大和」「武蔵」)の護衛部隊として参加しましたが、米軍のサイパン来攻で戦局が大きく展開し、作戦は中断され、渾作戦部隊は第1機動艦隊(小沢機動部隊)に合流し、マリアナ沖海戦に参加しました。

1944年10月、レイテ沖海戦に第1遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加。作戦を通じ対空戦闘や米護衛空母部隊の追撃戦(サマール島沖海戦)などに従事しますが、作戦中止後帰投途上で、米機動部隊の艦載機の攻撃を受け、魚雷1発が命中し航行不能となりました。本隊が退避したため、「能代」は米艦載機の集中攻撃を受け、さらに魚雷1本を受け沈没しました。

 

「矢矧」:1944年10月、竣工と共に第10戦隊に編入され、損傷修復のために内地に回航される途中で米潜水艦尾雷撃で撃沈された同型1番艦「阿賀野」に代わり同戦隊の旗艦となりました。シンガポール及びリンガ泊地周辺で、空母機動部隊主力の第1航空戦隊(空母「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」)と共に訓練の後、マリアナ沖海戦に参加。第1機動艦隊主隊である上記の第1航空戦隊の直衛として戦闘に従事しました。

レイテ沖海戦では、第1遊撃部隊(栗田艦隊)の所属し、シブヤン海海戦で米機動部隊の艦載機の空襲により至近弾を受け艦首に穴が開く損傷を受けますが、その後も戦列に止まり、ついで米護衛空母部隊とのサマール島沖海戦にも参加し、米護衛空母を追撃中に護衛の米駆逐艦の砲弾を被弾するなど、さらに損傷を受けました。海戦からの帰途でも、米艦載機の空襲で至近弾を被弾しています。

海戦後、旗艦「能代」を失った第2水雷戦隊に編入され、栗田艦隊の残存主力(「大和」「長門」「金剛」)と共に内地に帰還します。(その途上、米潜水艦の雷撃で「金剛」が失われています)

損傷回復後、1945年4月、「矢矧」以下の第2水雷戦隊は、米軍の沖縄侵攻を受けて天一号作戦に出撃します。この作戦は、いわゆる「大和」以下の沖縄海上特攻作戦で、日本海軍稼働水上艦艇による最後の組織的作戦と言っていいでしょう。「矢矧」は、作戦艦隊旗艦「大和」に次ぐ大型艦であった為、米艦載機の集中攻撃を受け、第一派の空襲で魚雷を2発受けて航行不能となり、「大和」以下の主隊から落伍してしまいました。続く第二波の空襲でさらに命中弾が相次ぎ、最終的には魚雷6本(7本かも)爆弾10発以上を被弾して、沈没しました。

 

「酒匂」:1944年11月に竣工し、第11水雷戦隊旗艦となりました。この戦隊は新造艦の早期戦線投入と兵員の即成を主任務とした部隊でした。

上記「矢矧」が参加した1945年4月の天一号作戦には、「酒匂」も参加する予定でしたが、直前に参加は取り止めとなりました。

以降、既に、戦局は日本海軍の水上艦艇の作戦行動を許す状況ではなく、「酒匂」も空襲の相次ぐ呉から舞鶴に根拠地を移し、同地で終戦を迎えました。

終戦後は武装を撤去し、特別輸送艦に指定され、外地からの復員輸送に従事しました。

その後、戦艦「長門」など共に、米軍の「クロスロード作戦」の標的艦となり、ビキニ環礁での核実験に供され沈没しました。

 

このように、同級は水雷戦隊旗艦として設計されながらも、戦線に投入された時点では航空主導の情勢に戦術が移行しており、そのような水上艦艇による戦闘機会はごく稀で、「阿賀野」のブーゲンビル島沖海戦、「能代」と「矢矧」によるサマール島沖海戦など、数えるほどでした。

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潜水艦隊旗艦のはずが・・・

 軽巡洋艦「大淀」-Oyodo- (1943-終戦時、横転擱座状態で残存)

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Japanese cruiser Ōyodo - Wikipedia

 

設計と戦歴

日本海軍は米海軍を仮想敵とし、艦隊決戦には、両者の物量の差をを勘案した場合、太平洋を渡洋してくる米主力艦部隊に対する漸減邀撃作戦を展開し、ある程度その戦力を削いだ上で主力艦同士の決戦に移行する必要があるという構想を立てていました。

潜水艦はその邀撃の重要な担い手で、その潜水艦部隊を指揮、誘導する旗艦として有力な航空索敵能力を持ち強行偵察が可能な偵察巡洋艦の建造を計画していまいした。その構想の元「大淀」は建造されました。

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(直上の写真は、「大淀」の概観。就役時ではなく、連合艦隊旗艦への転用以降の姿を現しています。153mm in 1:1250 by Neptune)

 

当初設計案では航空偵察能力に重点がおかれ、主砲も魚雷も搭載しない設計でしたが、その後、強行偵察を考慮し主砲のみ装備することとなりました。主砲には、本稿前回でご紹介した「最上級」巡洋艦が竣工当初搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔を転用することが決まり、これを2基搭載しました。ja.wikipedia.org

この砲は27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。

75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありました。

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(直上の写真は、「大淀」の主要部。主砲:「最上級より転用された3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔(上段)。高角砲として搭載された長 10cm高角砲(左下)。艦後部の航空艤装:就役時には、高速水上偵察機「紫雲:の射出用に、艦後部の航空艤装甲板に甲板のほぼ全長に匹敵する長大なカタパルトを装備していました(右下))

 

併せて対空砲として、日本海軍最優秀対空砲として評価の高い長10センチ高角砲を盾付きの連装砲架で4基、巡洋艦として唯一搭載していました。

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その主装備である航空偵察には、当初、新型の長大な航続距離を持ち、戦闘機も振り切ることができる高速を発揮できる水上偵察機「紫雲」が予定され、その運用のために、「大淀」は艦中央に航空機格納庫を持ち、さらにその後部に呉式2式1号10型という形式の圧縮空気型カタパルトを搭載していました。このカタパルトは6tまでの機体を40秒間隔で射出することができましたが、全長44メートルの巨大なものであり、大淀も当初、艦の後部約3分の1を割いて、このカタパルトを巨大なターンテーブルに搭載していました。

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しかし1943年の就役時点で、「紫雲」が想定の性能に到達せず、また戦術が航空戦力主導に移行したことから、想定された主力艦部隊同士の決戦とその前段としての潜水艦による漸減邀撃が成立しなくなっており、就役当初は輸送任務、あるいはその支援に従事しました。

その後「大淀」は航空機格納庫を会議室や通信機器の収納スペースに改造、大型カタパルトを通常のカタパルトに変更するなどの手が加えられ、1944年5月から、指揮専用艦として連合艦隊旗艦となりました。

しかし連合艦隊の指揮専用艦としては、司令部施設が狭く、1944年9月、連合艦隊司令部が陸上に移ると、「大淀」は第3艦隊(空母機動部隊:小沢艦隊)に編入され、レイテ沖海戦に参加します。「大淀」は当初、小沢機動部隊の艦隊旗艦を予定されていましたが、小沢長官の「空母機動部隊の指揮は空母で」という希望で旗艦は「瑞鶴」となりました。

米艦載機との交戦で、「大淀」は小型爆弾などを被弾しますが、大きな損害はなく、主砲・高角砲を動員して対空戦闘に持ち前の高い対空戦闘能力を発揮して活躍しました。やがて旗艦「瑞鶴」が被弾傾斜し指揮が困難になると、小沢長官は「大淀」に移乗し、指揮を続けました。

海戦後、奄美大島に帰着し艦隊が解隊された後、「大淀」はフィリピン方面に進出します。途中、砲弾補給などを受けながらリンガ泊地に移動。次いで第2水雷戦隊旗艦となり、ミンドロ島での戦闘支援のための礼号作戦に参加します。この際、米軍機の夜間爆撃で爆弾2発を被弾しますがいずれも不発弾でした。この作戦は第5艦隊(志摩中将)隷下の第2水雷戦隊司令官木村昌福少将(キスカ島撤退作戦に指揮など、最近になって、評価の高い指揮官ですね)の指揮により実施されましたが、木村司令官は作戦直前に旗艦を駆逐艦「霞」に変更しています。水雷戦隊に新加入の「大淀」より水雷戦隊時代から馴染みのある艦を選んだ、と言われていますが、いずれにせよ、投入された部隊は残存艦艇の寄せ集め、でした。「帝国海軍の組織的戦闘における最後の勝利」とも言われますが、実際の戦果はそれほど大きくはなく、さらに既に局地戦での「勝利」が、戦況に大きな影響を与えられる状況ではありませでした。

その後、北号作戦(南西方面に残置された残存稼働艦艇による本土への物資輸送作戦)に参加して内地に帰還しました。

1945年3月から7月までの数次の米艦載機による呉空襲で、当初は対空戦闘を実施したものの、複数弾を被弾し、最後は横転着底した姿で、終戦を迎えています。

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(「大淀級」は計画当初は2隻建造される予定でした。2番艦は「仁淀」に艦名も決まっていたようです。上の写真は「大淀級」の2隻)・・・・まあ、これも模型の世界ならではの楽しみ、と言うことで・・・。

 

「香取級」練習巡洋艦 -Katori Class Cruiser-  (香取 :1940-1944/鹿島 :1940-終戦時残存/香椎 :1940-1945)

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Katori-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「香取級」の就役時の概観。103mm in 1:1250 by Neptun)

 

「香取級」練習巡洋艦は、それまで日露戦争時代の装甲巡洋艦練習艦任務に用いていた日本海軍が、初めて設計した練習艦任務に特化した巡洋艦です。350名の少尉候補生を収容できるよう、商船形式の船体を採用することにより居住性に配慮された広い空間を有していました。反面、武装、速度は控えめで、14センチ連装砲2基と12.7センチ連装高角砲1基、連装魚雷発射管2基、それに加え水上偵察機射出用のカタパルト1基を有し、最高速力は18ノットでした。

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(直上の写真は、「香取級」の細部。主砲として14cm砲の連装砲塔を搭載(上段)艦橋前にはおそらく5cm礼砲が再現されています。連装魚雷発射管(左下)。艦尾の高角砲と主砲(右下))

 

同級3隻のうち、実際に練習艦任務に従事する機会があったのは「香取」「鹿島」の2隻で、両艦は練習艦隊を組み1935年に一度だけ練習航海を行いました(昭和15年度練習航海)。

太平洋戦争開戦以降は、その広い船内と高い居住性から、方面警備艦隊旗艦、潜水戦隊旗艦などに用いられました。

 

その戦歴

「香取」:太平洋戦争開戦時には、「香取」は潜水艦戦を総覧する第6艦隊旗艦を務めてマーシャル諸島クェゼリン環礁に進出し、そこから真珠湾作戦に参加した配下の潜水艦の指揮を取りました。同環礁に停泊中に、米空母部隊(「エンタープライズ」「ヨークタウン」)の空襲を受け、至近弾数発を受け損傷、艦載機の機銃掃射で第6艦隊司令長官(清水光美中将)が負傷しています。内地での損傷修復後、トラック島に進出し、そこから潜水艦戦の指揮を取りました。その後もトラック島、クェゼリン環礁、ルオット島などに泊地を変えながら、一貫して第6艦隊旗艦を務めました。

1944年2月、第6艦隊旗艦の任を解かれ、海上護衛総隊編入され、トラック島から内地に向かおうと準備する最中、米機動部隊のトラック空襲に遭遇。多数の爆弾と魚雷を受け、大火災を起こしたところを、米水上艦艇の砲撃で沈没させられました。

 

「鹿島」:太平洋戦争開戦時には、内南洋警備を担当する第4艦隊(井上成美中将)の旗艦を務め、トラック島からギルバート諸島攻略、ウェーク島攻略、ラバウル占領などの諸作戦を指揮しています。

その後、第4艦隊旗艦としてラバウルに進出し、珊瑚海海戦を指揮、海戦後再びトラック島に戻りガダルカナル島での飛行場建設などの指揮を取りました。その後、ニューギニア・ソロモン方面を担当する第8艦隊の新設により、第4艦隊は本来の中部太平洋警備の任務に戻り、「鹿島」はトラック泊地、クェゼリン環礁を移動しながら、輸送支援任務等に当たりました。

第4艦隊旗艦を軽巡洋艦「長良」に譲った後、「鹿島」は練習戦隊に一旦編入され輸送任務や練習任務にあたりました。

1945年、新編の第1護衛艦隊第102戦隊の旗艦となり、対潜掃討艦として対空・対潜兵装を強化し、海上輸送の護衛任務に従事し、終戦を迎えました。

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(「鹿島」と「香椎」は対潜掃討艦への改造を受けました。直上の写真は対潜掃討艦としての「鹿島」の概観 by Delphin)

(直下の写真は「鹿島」の主要改造部:艦橋周り:対空機関砲を追加(上段)。魚雷発射管を撤去し、高角砲を設置(左下)。艦尾には対潜戦闘用の爆雷戦装備を搭載(右下))

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戦後は、武装を撤去し、便乗者用の仮設居住施設を設置するなどの改装を施し、12回の復員者輸送に活躍しました。

 

「香椎」:「香椎」は「香取級」練習巡洋艦の中で唯一就役後一度も練習任務につくことなく、実戦に投入されています。太平洋戦争開戦時は南遣艦隊(小沢治三郎中将)旗艦としてサイゴンにありました。開戦後、同艦隊旗艦は重巡洋艦「鳥海」に変更されましたが、「香椎」は同艦隊に留められ、上陸支援、輸送支援、警備活動などに従事しました。

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(対潜掃討艦となった「鹿島」と「香椎」)

一連の南方作戦終了後、「香椎」は第1南遣艦隊の旗艦に復帰し、シンガポールにあって同方面の輸送支援や警備に従事しました。

一旦内地に帰還し整備後、「香椎」は海上護衛総司令部部隊に編入され、前出の「鹿島」同様、対潜掃討艦への改造を受け、対空・対潜戦闘能力を強化しました。この改造は魚雷発射管を撤去し、対空砲を設置、艦尾の司令官室の爆雷庫への改造、などでした。

この改造後、「香椎」は第一海上護衛隊に編入され、主として内地とシンガポール間の航路を往復し輸送船団の護衛任務につきました。これらの護衛任務は各艦が船団司令部につど編入されるという形式で運用されており、その編成は流動的なものでした。

やがて固定編成の第101戦隊が編成されると「香椎」はその旗艦となり、内地とシンガポール間の輸送護衛を担当します。1945年1月仏印サン・ジャックから内地に向かうヒ86船団を護衛中に南シナ海に侵入していた米機動部隊の艦載機の空襲を受け「香椎」は爆弾5発、魚雷2本を受け沈没しました。

(直下の写真は、ヒ86船団護衛についた第101戦隊(上段):「香椎」を旗艦とし、海防艦「鵜来:鵜来型海防艦」「大東:日振型海防艦」「海防艦27号」「海防艦23号」「海防艦51号」(いずれも丙型海防艦)で構成されていました。下段は、日振型海防艦(奥)と丙型海防艦(手前)を比較したもの:海防艦は、その量産性を求められたため、建造時期が後になるほど次第に艦型が小型化、直線化し簡素化してゆきます)

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余談ですが、光岡明さんの「機雷」という小説は、冒頭、このヒ86船団の話から始まります。主人公は海防艦に乗り組む中尉(だったかな)であり、彼は「香椎」の沈没を目の当たりにします。

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 実はこの小説、私の最も好きな小説の一つです。「海防艦」が冒頭現れるのもその魅力の一つですが、主人公が終戦を挟んで静かに生きてゆく姿に感動します。興味のある方は是非。

 

海防艦という艦種

海防艦(新海防艦と言った方がいいでしょうか)は、実は筆者が最も好きな艦種の一つです。華々しい活躍こそありませんが、来る日も来る日も船団に寄り添って、目を真っ赤にしながら海面や空を通る黒点に目を凝らす、その様な正に海軍のワークホースとでも言うべき姿に、いつも胸が熱くなるのです。

本稿でも、下記の回に少しだけ登場してもらいました。本稿は八八艦隊計画を具体化した辺りから、少し架空戦記っぽい手触りになってゆくのですが、下記もその体現化と受け止めて楽しんでいただければ、と思います。

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今回は、初稿では、海防艦はもっと小さな扱いだったのですが、やはり思いが募って、結局、新海防艦のご紹介的なミニコーナーにしてしまいました。

 

甲型海防艦(「占守型:同型4隻」択捉型:同型14隻」)

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(直上の写真は、甲型海防艦:「占守型」(手前)と「択捉型」(奥))


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(直上の写真は、甲型海防艦「占守型」の概観。64mm in 1:1250 by Neptune: 平射砲を主砲とし、なんとなく平時の警備艦の趣があると思いませんか?)

 

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(直上の写真は、甲型海防艦「択捉型」の概観。64mm in 1:1250 by Neptune: 「占守型」と外観位は大差はありません。南方航路の警備・護衛を想定し、爆雷の搭載数が定数では「占守型」の倍になっています)

 

当初、海防艦は、北方で頻発していた漁業紛争への対応を目的として整備されました。漁業保護、紛争解決に主眼が置かれたため、武装は控えめで、高速性も求められないかわり、経済性が高く長い航続力を有していました。こうした経済性と長い航続力は、船団護衛には最適で、ほぼ北方専用に設計された「占守型」の設計を引き継いで、南方での運用も視野に入れた「択捉型」が建造されました。国境での紛争解決等を想定したため、主砲は平射砲を装備し、南方の通商路警備をもその用途に含めたため若干の対潜装備を保有していました。870トンの船体にディーゼルエンジン2基を主機として搭載し、19.7,ノットの速度を出すことができました。

 

乙型海防艦甲型海防艦(「御蔵型:同型8隻」「日振型:同型9隻」「鵜来型:同型20隻」)**実は設計時には「乙型」と言う分類でしたが、完成時には「甲型」に分類されました。従って、乙型海防艦は記録上は存在していないかもしれません。しかし明らかに設計の主目的等が変更されているので、なぜ、同分類としたものか疑問です。どなたか、理由をご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。とりあえず、便宜的に「甲型改」とでも呼んでおきましょうか。「甲型改」は正式名称ではないので、ご注意を。

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(直上の写真は、甲型改(乙型海防艦:「御蔵型」(手前)と「日振型」(奥):「日振型」には建造工程を簡素化した準同型艦の「鵜来型」がありました)

 

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(直上の写真は、甲型改(乙型海防艦「御蔵型」の概観。63mm in 1:1250 by Neptune: 主砲が高角砲となり、艦尾部の対戦兵器が充実しています。この艦級のあたりから、船団護衛の専任担当艦の色合いが濃くなってゆきます)

 

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(直上の写真は、甲型改(乙型海防艦「日振型」の概観。63mm in 1:1250 by Neptune.:基本的な外観は「御蔵型」と変わりませんが、建造工数の簡素化が図られ、工数が57000から30000へと大幅に減少、工期が9ヶ月から4ヶ月に短縮したと言われています)

 

戦争が深まるにつれ、南方の通商路での船舶の戦没が相次ぎ、航路護衛には潜水艦、航空機に対する戦闘力を求められるようになり、主砲を高角砲に変更、あわせて対潜装備が充実してゆきます(乙型海防艦甲型海防艦「御蔵型:同型8」「日振型:同型9」「鵜来型:同型20」)。あわせて、数を急速に揃える要求から、艦型は次第に小型化し、建造工程の簡素化が模索されます。写真を掲げた「日振型海防艦」は、940トンの船体に、12cm高角砲を艦首に単装砲架で、艦尾に連装砲架で装備し、加えて25mm3連装機銃を2基、艦尾に爆雷投下用の軌条を二本、爆雷投射機を2基搭載し、爆雷120個を搭載していました。ディーゼルエンジン2基を主機として、19.5ノットの速度を出すことができました。ヒ86船団の護衛隊には「大東」が参加しており、「鵜来型」のネームシップである「鵜来」は準同型艦でした)

 

丙型海防艦:同型56隻

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(直上の写真は、「丙型海防艦」の概要。54mm in 1:1250 by Neptune:簡素化はさらに進み、艦型が直線的になっています。船体は小型になり、武装は高角砲が1門減りましたが、対潜装備は投射機など充実しています

戦争後半、米潜水艦の跳梁は激化し、海防艦の量産性はより重視されるようになります。「丙型海防艦」では艦型の小型化、簡素化がさらに進み、艦型もより直線を多用したものになってゆきます。エンジンも量産性を重視して選択され、「日振型」同様ディーゼルエンジン2基の仕様ながら、速力は16.5ノットに甘んじました。甲型乙型よりも一回り小さな745トンの船体を持ち、武装は12cm高角砲を単装砲架で艦首、艦尾に各1基、25mm3連装機銃を2基を対空兵装として搭載し、爆雷投射機を12基、投下軌条を一本装備して、爆雷120個を搭載していました。同型艦は56隻が建造されています。艦名はそれまでの様に日本の島嶼名ではなく、番号に改められました。「丙型海防艦」は全て奇数の艦番号が割り当てられました。ヒ86船団の護衛隊には「23号艦」「27号艦」「51号艦」がが参加していました。

 

丁型海防艦:同型67隻

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(直上の写真は、「丁型海防艦」の概要。56mm in 1:1250 by Neptune:「丙型」と武装等は変わりませんが、主機が変更になり、煙突の位置、形状が変わっています。排水量は変わりませんが、やや全長が長くなっています) 

再三記述していますが、海防艦には量産性が求められましたが、一方でディーセルエンジンの生産能力にも限界があることから、上掲の「丙型海防艦」と並行して蒸気タービンを機関として搭載した「丁型海防艦」も建造され、こちらは偶数番号が割り当てられました。同型艦は67隻。船体の大きさ、武装には「丙型」「丁型」で大差はありませんが、主機の違いから、速力は「丙型」よりも早い17.5ノットでしたが、ディーゼルに比べると燃費が悪く、「丙型」のほぼ倍の燃料を搭載しながら、航続距離が2/3程度に下がってしまいました。

 

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(直上の写真は、「海防艦」の艦級瀬揃い。手前から「占守型」「択捉型」「御蔵型」「日振型」「丙型」「丁型」:実際には「日振型」の準同型「鵜来型」がありました)

 

海防艦は171隻が建造され、71隻が失われました。

 

再び、「香取級」練習巡洋艦と若干模型の話

「香取級」は、時局柄、本来の建造目的であった練習艦としての平時業務はほとんど従事できなかった不幸な艦級と言えるでしょう。

しかし、戦時にはその低速から、確かに水上戦闘艦としての華々しい任務には不向きでしたが、その余裕のある船型を生かした後方司令部としての任務や、低速な輸送船団に寄り添う護衛任務などに活躍しました。

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(もう一つ余談。どうかお付き合いを。 直上の写真は、「香取級」の就役時(左列:by Neptune) と対潜掃討艦への改造時(右列:by Delphin)。ここでお伝えしたいのは、同スケールと言えどもメーカーが異なると、かなり差異が生じる、という見本ととなれば、と。外観の仕上げは、おそらく明らかにNeptune社の方が優っています。その分、価格も高価です(ほぼ倍?)。しかし、では手放しでNeptuneが優っているかというと、そうでもないかと思います。下段の写真ではその裏面を示しています。右列の裏面写真(Delphinのモデルの裏面)に左列では認められないパーツの接合穴が見ていただけると思います。つまりDelphin社のモデルは、パーツへの分割が行いやすく、パーツ取り、改造等には向いていると考えています。筆者も何かを制作したい、改造したい、などの際には、必ずDelphin社製の近しいモデルが入手できそうかを検討します。上記のように価格も手頃なので、大変ありがたい。つまり、純粋に1:1250スケールの艦船コレクションを楽しみたい方には、可能な限りNeptune(系列のNavis社も含めて)で統一されることをお勧めします。しかし、仕上がりももちろん大事だけど、ちょっと色々と手を加えたりして遊びたい方(筆者がそうなのですが)には、そのベースとしてDelphin社のモデルはとてもありがたい相棒になりうる、と考えています、ご参考になれば。*今回、本当に書きたかったのは、これかも)

 

一応、今回で日本海軍の「既成の」巡洋艦についてのミニ・シリーズは終了です。

「既成の」という微妙は表現した理由は、数回前にご紹介した防空巡洋艦のような架空艦や、マル六計画での計画艦のストックや建造途上モデルがいくつかあるので、「それらをまとめて」の番外編を設けてもいいかな、と考えているからです。そちらは、また準備が整い次第、随時ということで。

 

(番外編)  未成巡洋艦、架空巡洋艦

今回は日本海軍の巡洋艦小史の番外編、ということで、未成艦・架空艦のご紹介です。

 

日本海軍は、これまでご紹介したように、太平洋戦争には「天龍級」(2隻)、「5500トン級」(14隻)の軽巡洋艦、「古鷹級」(2隻)、「青葉級」(2隻)、「妙高級」(4隻)、「愛宕級」(4隻)、「最上級」(4隻)、「利根級」(2隻)の重巡洋艦、「香取級」(3隻)の練習巡洋艦の陣容で臨みました。大戦中に「阿賀野級」(4隻)、「大淀」の計5隻の軽巡洋艦を就役させました。

これに加えて、重巡洋艦2隻を建造中でしたが、これらはミッドウェー海戦の敗北、主力空母機動部隊の壊滅により、急遽、転用され軽空母として建造されることとなりました。これ艦級は「伊吹級」軽空母として知られています。結局、この軽空母は重巡洋艦からの転用工数がかかりすぎるところから、軽空母としても未成に終わりました。

 

今回、最初のご紹介は、この「伊吹級」が当初の計画のまま重巡洋艦として建造された場合、を再現した物です。

 

未成艦:「伊吹級」重巡洋艦(改鈴谷級重巡洋艦) ー同型艦2隻 (伊吹、鞍馬)

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(直上の写真:「改鈴谷級」重巡洋艦の概観:163mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)

 

史実上、日本海軍が建造に着手した最後の重巡洋艦です。「伊吹級」重巡洋艦と言う呼称の方が通りが良いかもしれません。また、「改鈴谷級」の名称の通り、「鈴谷級」巡洋艦の改良型で、後部マストの位置の違い程度しか外観上の区別はありません。装備上では「鈴谷級」の3連装魚雷発射管4基から4連装魚雷発射管4基に、雷装が強化されています。着工後、航空艤装を排して5連装発射管5基装備にさらに雷装を強化したと言われています。

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(直上の写真:「最上級」(上段)と「改鈴谷級=伊吹級」(下段)の比較。建造期間を短縮するために、「最上級」の設計を踏襲しています。相違点は後部マストの位置と後橋でしょうか?下の写真:「最上級(上)と「改鈴谷級=伊吹級」(下)の艦型比較)

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1番艦は「伊吹」と命名され、1942年4月に起工され、1943年5月に進水、その後、ミッドウェー海戦での機動部隊主力空母の喪失を受けて急遽航空母艦への改造が決定されましたが、既に重巡洋艦として進水を迎えていた本艦の転用改造の工事は工数が多く、工事途中で終戦を迎えています。

wikiwiki.jp

 

今回入手した3D printingモデルは、「改鈴谷級」の原案をモデル化したもので、航空艤装は装備したままの姿を再現したものです。

制作社は、本稿で紹介した艦船では日本海軍の「5500トン級」軽巡洋艦や「レキシントン級巡洋戦艦などでお世話になっているTiny Thingamajigsで、その細部の再現等には信頼を置いています。

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(直上の写真:「改鈴谷級」重巡洋艦の概観:下地処理をした状態です。この後、塗装をし、マストのトップ部分をプラロッドなどで仕上げれば完成、かな?)

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(直上の写真:今回はSmooth Fine Detail PlasticとWhite Natural Versatile Plasticの2素材で出力を依頼しました。2隻共、重巡洋艦仕様で仕上げていこうか(その場合には「伊吹」と「鞍馬」かな?)、あるいは1隻は条約型巡洋艦の名残りという設定で、主砲を3年式60口径15.5cm砲として、軽巡洋艦仕様で仕上げてみましょうか?(その場合には、「川」の名前を考えねば))

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 架空艦:「九頭竜級」軽巡洋艦ー「改鈴谷級:伊吹級」の軽巡洋艦仕様仕上げ

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(直上の写真:「改鈴谷級=伊吹級」の派生形「九頭竜級」軽巡洋艦の概観:163mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)

 

前述のように、今回、3D printingモデルを2点入手したため、一つは条約型巡洋艦の延長として「改鈴谷級」を軽巡洋艦仕様で完成させた場合を想定した仕上げにしてみました。

日米間に不穏な空気が漂い始めた頃、艦隊決戦において漸減戦術の一つの要と想定されていた水雷戦隊による魚雷攻撃を率いるべき軽巡洋艦群の多くが既に旧式化しており、旗艦巡洋艦の整備もまた急務だった、というような想定から、「改鈴谷級:伊吹級」重巡洋艦の後続艦を軽巡洋艦仕様で完成させた、というようなカバー・ストーリでしょうか?

主砲は、もちろん「最上級」条約型巡洋艦に搭載されていた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔とし、これを「最上級」に準じて5基、15門搭載します。さらに雷装は「改鈴谷級」に準じ4連装魚雷発射管4基とします。

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(直上の写真および直下の写真:「改鈴谷級=伊吹級」重巡洋艦(上段)と「九頭竜級」軽巡洋艦(下段)の比較。同一設計の船体に搭載主砲が異なります。下の写真:「改鈴谷級=伊吹級」重巡洋艦(上段)と「九頭竜級」軽巡洋艦(下段))

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主砲の話:3年式60口径15.5cm砲か3年式50口径20cm砲か

3年式60口径15.5cm砲の諸元は、弾重量:55.9kg、最大射程27,400m、射撃速度毎分5発、これを3連装砲塔5基に搭載していましたので、1分あたりの発射弾重量は約4.2トン。

一方、3年式50口径20cm砲の諸元は、弾重量:125.9kg、最大射程29,400m、射撃速度毎分3発、これを連装砲塔5基に搭載していましたので、1分あたりの発射弾重量は約3.8トン。

両者を比較すると、単位時間あたりの射撃回数、投射弾量、発射弾数共に15.5cm砲の方が上回り、1発当たりの弾重量、つまり命中弾が出た場合の打撃力を除くと15.5cm砲の方が有利とも考えられるわけで、どちらを主砲として採用するかは、用兵者の判断ということになります。

筆者としては「手数」の多いほうを採用するのも面白いと考えるのですが、日本海軍は条約失効時に「最上級」でわざわざ15.5cm砲を20cm砲に換装していますので 、命中弾当たりの打撃効果を取ったということでしょうね。

 

この艦級が旗艦となって水雷戦隊を率い、ソロモン海あたりで夜戦に投入されていたら、どんな活躍をしたのでしょうね?ちょっと見てみたい。

 

ミニ・コラム(その1):艦名の話

日本海軍では巡洋艦の場合、一等巡洋艦大型巡洋艦重巡洋艦)には「山」の名前を、それ以下の巡洋艦には「川」の名前を命名する、という大原則が用いられてきました。

その顰みに倣うと、「改鈴谷級:伊吹級」の3, 4番艦を水雷戦隊旗艦として軽巡洋艦仕様で仕上げた、という想定なら、重巡洋艦らしく「山」系の艦名でも良かったのですが、設計を分けた、というところで、軽巡洋艦らしく「川」系の艦名にしてみました。「九頭竜」「四万十」という感じなんですが、どうでしょうか?あまりにも「架空艦」ぽいかな、と筆者も思っているのですが、「鶴見」「黒部」というのも考えてはみたのですが、いかにもな感じもしまして・・・。

 

ミニ・コラム(その2):排水量の話

艦船の大きさは排水量で語られることが多いのですが、基準排水量、常備排水量、満載排水量など、いくつかの排水量定義があり、ちょっと混乱してしまいます。少しここで整理を。

艦船は、その船体や装備の重量以外に、乗組員の数(定数かそれ以外の状況か)、弾薬の積載量、燃料、食糧、水など、活動に必要な消耗品を積載しています。

まず、「満載排水量」。これはその表現の通り、乗組員定数、弾薬、食糧、水、燃料などをいっぱいに積載した場合の重量を表現しています。近年、多くの海軍が艦船の諸元としてこの数字を公表しているようです。

「常備積載量」。これは満載積載量から、食糧、燃料、水などの消耗品を2/3の状態にした状況での重量で、主として戦場に到着した状態(戦闘直前)を表す数値として使われていました。国によって若干消耗品にかける係数が異なることがあったようです。

そして「基準排水量」。これは主として軍縮条約(ワシントン・ロンドン体制)の制限の定義に用いられた排水量の定義です。上記の満載排水量から燃料・水を差し引いた重量とされています。これは、軍縮条約の制限に「平等性」を付与するために、想定戦場や艦船の活動範囲を広域に想定する(つまり、燃料や予備缶水の量が多い)国の不利を排除するために用いられた定義、と言えます(具体的には英・米の不利防止ですね)。軍縮条約の発効しない状況では、あまり有効な定義とは言えず、現在ではこの定義で使用している国はないようです。日本の海上自衛隊では艦船の諸元の数値として「基準排水量」という名称を使用していますが、この場合の「基準排水量」には乗組員、食糧、弾薬、水、燃料などが全て含まれておらず、いわゆる建造時の艦船の重量、を表現する数値となっています。

  

日本海軍の防空巡洋艦の計画ーマル5計画(あるいは改マル5計画)

防空巡洋艦建造の計画:815号型防空巡洋艦

日本海軍には「815号型軽巡洋艦」という防空巡洋艦の設計案が昭和17年度艦船補充第1期計画(通称マル5計画)において計画されていました。

815号型軽巡洋艦は、主力艦直衛の防空巡洋艦という設計で、5800トンの船体に65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)を連装砲塔で4基搭載するという設計だったようです。

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「マル5計画」自体がミッドウェー海戦の敗北で見直され、この計画は立ち消えになったのですが、その主要な仕様は、「秋月級」駆逐艦へと継承されたと考えられます。

 

架空艦:「高瀬級」軽巡洋艦防空巡洋艦

さて、今回ご紹介する「防空巡洋艦」は「阿賀野級軽巡洋艦よりはひと回り小ぶりな外観をしており、上記の「815号型軽巡洋艦」では計画に盛り込まれていた水上偵察機2機搭載の航空艤装や魚雷装備が廃止された代わり65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)を連装砲塔で12基も搭載するという、より艦隊直衛に特化した設計になっています。日本海軍が常に拘った雷装が放棄された辺りの割り切りも含め、やはり「架空艦」と言っていいように思います。www.shapeways.com

 

ということで、まずは艦級名の話を。

同級は艦隊防空の専任艦として設計され、**年度艦船補充計画(正史でいけば17年度ですが、本稿のやや後ろ倒しで始まった太平洋戦史に則れば19年度でもいいのかも)で、10隻の建造が決定されました。慣例として二等巡洋艦軽巡洋艦)には、「川」の名前が与えられたとこところから、1番艦には「高瀬」の名が与えられました。以後、同型艦には「鳴瀬」「綾瀬」「早瀬」「平瀬」「嘉瀬」「初瀬」「白瀬」「渡良瀬」「水無瀬」などが予定されていました。

 

ということで、艦級名は「高瀬級」

ここからは「架空艦」ならではの「if」ストーリー。

「高瀬級」軽巡洋艦では、対空砲兵装の充実のために、前述のように航空艤装や雷装が廃止され、他の構造物はできるだけ軽量化が図られ、例えば艦橋構造は、駆逐艦の様な簡素な塔構造とされています。

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(直上の写真は、防空巡洋艦「高瀬級」の概観を示したもの。138mm in 1:1250  C.O.B Constructs and Militarys製 素材はSmooth Fine Detail Plastic)

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(直上の写真は、「高瀬級」と「阿賀野級」の概観比較。「阿賀野級」が一回り大きい。「阿賀野級」141mm in 1:1250 by Neptune :「高瀬級」では、上部構造物が簡素化され、軽量化への工夫が見て取れます)


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(直上の写真は、「高瀬級」と同様の設計思想で建造された「秋月級」防空駆逐艦の概観比較。

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やはり軽巡洋艦だけあって「高瀬級」の大きさが目立ちます。艦橋構造は類似しているのが見ていただけると思います。「秋月級」防空駆逐艦:   117mm in 1:1250 by Neptune)

 

65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)

同級の最大の特徴は、その主砲を、高角砲機能を中心に据えた両用砲としたところにありますが、搭載する65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)は、日本海軍の最優秀対空砲と言われた高角砲で、18700mの最大射程、13300mの最大射高を持ち、毎分19発の射撃速度を持っていました。これは、戦艦、巡洋艦、空母などの主要な対空兵装であった12.7cm高角砲(八九式十二糎七粍高角砲に比べて射程でも射撃速度でも1.3倍(射撃速度では2倍という数値もあるようです)という高性能で、特に重量が大きく高速機への対応で機動性の不足が顕著になりつつあった12.7cm高角砲の後継として、大きな期待が寄せられていました。

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同様の艦隊防空と言うコンセプトで米海軍が建造した「アトランタ級軽巡洋艦の主砲であったMk 12  5インチ両用砲と比較してみると、射程でも射高でもこれを上回り、射撃速度はほぼ同等、しかし口径の差から弾丸状量が長10cm高角砲の13kgに対し、5インチ砲は25kgとほぼ倍で、両用砲搭載艦同士の砲戦となった場合には、射程を利用した最大射程での命中弾を期待するしかなく、不利は否めなかったと言わざるを得ないでしょう。

 

同級の建造と、設計変更

ここからは「架空艦」ならではの「if」ストーリー。f:id:fw688i:20200524120213j:plain

上掲の写真のように、12基の連装対空砲塔を、艦首部に3基、艦中央に6基、艦尾部に3基と、多数配置し対空兵装の充実を目指した「高瀬級」でしたが、しかしどう贔屓目に見ても兵装過多、トップヘビーで、高速で転舵などすると、傾斜が想定以上に大きく、射撃等にも影響が出るなどの事象が発生し、次期改装期には艦首部の1番、および艦尾部の12番砲塔を撤去するなどの対策が検討されていました。未成に終わった5番艦・6番艦では最初から主砲塔を2基減じた設計に変更されていた、とも言われています。

 

更に、戦況が進むにつれ、水雷戦隊旗艦を務めていた「5500トン級」軽巡洋艦の中から戦没艦が生じ始めます。それ以前に「5500トン級」軽巡洋艦は開戦当時すでに旧式化しており、特にその搭載主砲は旧式な単装砲郭式であり、かつ対空戦闘能力も低く、昼間の出撃では「5500トン級」は 戦闘に耐えないとして、旗艦を駆逐艦に変更する戦隊指揮官も現れるほどでした。これを補うのが「阿賀野級軽巡洋艦だったのですが数が揃わず、すでに2隻が完成し、6隻が着工、あるいは起工寸前だった「高瀬級」も、この候補として検討され始めます。

しかし、既述のように、同級の主砲、長10cm高角砲は対水上艦戦闘では非力と言わざるを得ず、また水雷戦隊旗艦としては雷装を保有しないのは適性が低いなど、用兵側から、同級の搭載砲等の兵装に対する見直しが要求されます。こうして、「改高瀬級」汎用軽巡洋艦が設計されることになります。

 

架空艦:「改高瀬級」汎用軽巡洋艦=「渡良瀬級」軽巡洋艦 

同級は船体や機関など「高瀬級」の基本設計はそのままに、高角砲(両用砲)の搭載数を半分にして、水上戦闘にも耐えるように主砲として3年式60口径15.5cm砲を連装砲塔3基に搭載することが計画されました。

この砲は元々はワシントン・ロンドン体制で重巡洋艦保有数を制限された日本海軍が、列強の重巡洋艦の8インチ砲にも対抗できるように「最上級」軽巡洋艦の主砲として開発された砲で、「最上級」が条約切れに伴い8インチ砲に主砲を換装した後は、「大和級」戦艦の副砲に転用されました。27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。「最上級」「大和級」では、これを3連装砲塔で搭載していましたが、「高瀬級」の船体に合わせて、新たな連装砲塔が開発されました。

75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありましたが、毎分5発程度の射撃速度では、対空砲としての実用性には限界がありました。

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加えて「5500トン級」軽巡洋艦に代わる水雷戦隊旗艦としての運用に期待を寄せる用兵側の強い要求で、魚雷装備が復活され、61cm4連装魚雷発射管を2基、自発装填装置付で搭載することとなりました。

優れた基本設計で、なんとかこれらの要求には応えたものの、この辺りが限界で、流石に航空艤装の搭載は諦めざるを得ませんでした。f:id:fw688i:20200524115833j:image

(直上の写真は、「改高瀬級=渡良瀬級」軽巡洋艦の概観を示したもの。基本設計は「高瀬級」の設計に準じたものの、射撃管制等により艦橋がやや大型化しているのが分かります。138mm in 1:1250  C.O.B Constructs and Militarys製 素材はWhite Natural Versatile Plastic)

 

設計決定後、同級の建造は最優先となり、「高瀬級」の建造は4隻でいったん休止されます。こうして建造された1番艦には「高瀬級」の艦名予定リストから「渡良瀬」の名が与えられました。

 

「渡良瀬級」と命名

艦名は「渡良瀬」「水無瀬」とされました。

本来の計画では、「高瀬級」は10隻が建造される予定で、うち8隻が着工、4隻が「高瀬」「成瀬」「綾瀬」「早瀬」として就役、最も着工の遅かったの2隻が大掛かりな設計変更の末「改高瀬級=渡良瀬級」として建造を優先的に継続され、「渡良瀬」「水無瀬」として完成されました。

着工済みだった残りの2隻は、「渡良瀬級」に準じて設計を変更するには工事が進みすぎており、中間的な位置付けの設計変更での対応を模索する中、戦況の激化で完成されませんでした。 

 

(直下の写真は、「高瀬級」防空巡洋艦(左列)と「渡良瀬級」軽巡洋艦(右列)の主要箇所比較。上段:艦首部の主砲配置の比較。中段:艦橋構造と中央部の対空砲配置の比較(「渡良瀬級」の艦橋が射撃管制等の必要性から大型化しているのが分かります。下段:艦尾部の比較(「渡良瀬級」では魚雷装備が復活されました。艦中央部の上部構造物内に次発装填機構が組み入れれれています)

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こうして完成された「渡良瀬級」軽巡洋艦は、兵装面だけをみると「阿賀野級」よりもはるかに強力で、これを「阿賀野級」よりもひと回り小さな船体に搭載し、原型である「高瀬級」同様に船体重心を下げるために極限まで簡素化された上部構造を持ったため、その居住性は劣悪だったろうなあ、と想定されます。それでもやはりトップヘビーは避けられず、そのため次期の改装では6基の高角砲のうち2基を機銃座に換装し軽量化を図るなどの対策が検討されていた、とか。

また、現場の運用場面では、夜戦想定の出撃の場合には、高角砲の砲弾を定数の6割程度に抑えて軽量化を図り出撃した、とも。

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(直上の写真では、「渡良瀬級」軽巡洋艦(手前)と「阿賀野級軽巡洋艦の概観を比較。「渡良瀬級」がひとまわり小さいことがよく分かります。

直下の写真では、両級の主要な部分を比較しています。上段:前部主砲塔と艦橋の配置(「渡良瀬級」の搭載主砲の方が新しく強力です。一方、艦橋は「渡良瀬級」では簡素化され、一見、駆逐艦の艦橋構造のようです)中段:艦中央の構造比較(「渡良瀬級」では航空艤装に代えて対空兵装を充実しています)下段:艦尾部の比較(「阿賀野級」では魚雷兵装は搭載水上偵察機の整備甲板の下に設置されています))

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「渡良瀬級」汎用軽巡洋艦の製作

当初から、防空巡洋艦のバリエーション制作の予定で、加工適性の高いWhite Natural Versatile Plastic製のモデルを発注しておきました。f:id:fw688i:20200516145042j:image

(上掲の写真の奥がm加工適性の高いWhite Natural Versatile Plastic製のモデル。下のリンクは)

 

併せて、主砲の換装用に、15.5cm連装砲塔も入手しておきました。

(今回使用した3年式60口径15.5cm砲連装砲塔は左)

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www.shapeways.com

これらの加工工程が以下です。

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まず、上段の写真がオリジナルのモデル。中段では、艦首部と艦尾部の主砲塔群を切除。そして下段では、前後の砲塔群の跡に15.5センチ連装砲塔を搭載、そして小さなパーツをちょこちょこ追加。まあ数時間でこの程度の作業ができちゃうところが、筆者のように時間がない者にとっては(場所もないのですが)、とっても嬉しいところ。(下段写真の少し黄色っぽく見える部分は、砲塔群切除の際にやや削りすぎた上甲板部をパテで補修した跡です)

この後、サーフェサーを塗布し下地処理をした後、塗装しています。まさに「戦時急造艦」ですね。

 

マル6計画での重巡洋艦

通称マル6計画、正式名称第6次海軍軍備充実計画は、昭和19年(1944年)から25年にかけての7ヶ年間の海軍軍備の整備計画で、その中には重巡洋艦8隻の建造が含まれていました。この計画艦については、マル6計画自体が開戦等があり潰れたため、詳細な資料を見つけることができていませんが、World of Warshipsというゲームに登場する日本海軍の重巡洋艦のほぼ最終形態、集大成「蔵王級」重巡洋艦として登場しています。

 

架空艦:「蔵王級」重巡洋艦

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(直上の写真:「蔵王級」重巡洋艦の概観:178mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)

 

 World of Warshipsに登場する「蔵王級」重巡洋艦は基準排水量14000トンの大型巡洋艦で、8インチ主砲を3連装砲塔4基、12門搭載し、対空兵装としては長10センチ高角砲の連装砲塔を6基、都合12門搭載、更に雷装としては5連装魚雷発射管を各舷2基、計4基搭載し左右両舷に対し、それぞれ10射線を確保している、という設定です。それまでの日本海軍の重巡洋艦に比べ重装甲を有している設定ですが、速力は34.5ノットを発揮する、という、まさに日本重巡洋艦の集大成として登場しているようです。

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(直上の写真:「高雄級」(上段)と「蔵王級」(下段)重巡洋艦の比較:大型化した船体と、コンパクトな艦橋、艦中央部に配置された強力な対空砲がよくわかります。下の写真:「高雄級」(左)と「蔵王級」(右))

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最後にせっかくなので、日本海軍の重巡洋艦の艦型の比較をしておきましょう。

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(直上の写真:日本海軍の重巡洋艦一覧。下から「古鷹級」「青葉級」「妙高級」「高雄級」「最上級」「利根級」「改鈴谷級=伊吹級」「蔵王級」の順)

 

超甲巡」(超甲型巡洋艦

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(直上の写真は、「超甲巡」の概観。198mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:  マストをプラロッドで追加した他は、(珍しく?)ストレートに組み立てました。元々が素晴らしいディテイルで、手をいれるとしたら「65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲):いわゆる長10センチ高角砲」のディテイルアップくらいですが、少し大ごとになりそうなので、そちらはいずれまた)

 

65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)の話

65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)は、日本海軍の最優秀対空砲と言われた高角砲で、18700mの最大射程、13300mの最大射高を持ち、毎分19発の射撃速度を持っていました。これは、戦艦、巡洋艦、空母などの主要な対空兵装であった12.7cm高角砲(八九式十二糎七粍高角砲に比べて射程でも射撃速度でも1.3倍(射撃速度では2倍という数値もあるようです)という高性能で、特に重量が大きく高速機への対応で機動性の不足が顕著になりつつあった12.7cm高角砲の後継として、大きな期待が寄せられていました。

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上記、射撃速度を毎分19発と記述していますが、実は何故か揚弾筒には15発しか搭載できず、従って、15発の連続射撃しかできなかった、ということです。米海軍が、既に1930年台に建造した駆逐艦から、射撃装置まで含めた対空・対艦両用砲を採用していることに比べると、日本海軍の「一点豪華主義」というか「単独スペック主義」というか、運用面が置き去りにされる傾向の一例かと考えています。

 

モデルのディテイルアップの話に戻すと、正直にいうと、現時点で筆者にとって満足のいくディテイルが再現された「長10センチ高角砲」は、Neptune社製の「秋月級」駆逐艦に搭載されているものくらいしか、思い当たりません。

実はこれまでにも、本稿では「架空防空巡洋艦」の回などで、同砲は「架空防空巡洋艦」の主砲として登場しています。

fw688i.hatenablog.com

同艦は長10センチ高角砲の連装砲塔を12基搭載しており、併せて準同型艦として同回に紹介した「汎用軽巡洋艦」も同連装砲を6基搭載しています。これらも含めディテイルアップのために換装しようとすると、Neptune製の「秋月」を7隻つぶさねばならず、ちょっと現実的な対処法ではない。

既に皆さんもある程度予想がつくと思いますが、筆者の場合、こういう時は「困った時のShapeways 」ということになるのですが、なんと、実は Shapewaysにはちゃんと連装砲塔のセットがあるのです。

www.shapeways.com

16砲塔で1セットですのでこれが2セットあれば、良い、という計算です。

ということで、早速入手してみたのですが、今度はNeptune製「秋月」の砲塔よりかなり小さい。かつ、砲身を自作しなくてはなりません(まあ、砲身の自作の方はプラロッドか真鍮線でチマチマと作れば良いので、時間はかかりますが、なんとかなりそう(楽しいしね)なのですが)。何れにせよ、全砲塔の換装を視野に入れると、少し結論を先延ばし、ということで。

 

超甲巡」の話

行きがかり上とはいえ、話が同艦級の搭載した「長10センチ高角砲」に終始しましたが、そもそも「超甲巡」についても少しご紹介しておきましょう。

超甲巡」とは「超甲型巡洋艦」の略称で、いわゆる「甲型巡洋艦重巡洋艦」を超える性能の「巡洋艦」を意味します。

マル五計画、マル六計画で建造が計画されたいわゆる「If艦」です。一応、設計スケッチは残っているようなので「未成艦」と言っても良いのかもしれません。3万トン級の船体に30センチクラスの主砲を3連装砲塔で3基搭載し、対空砲は長10センチ高角砲を連装砲塔で8基という強力な火力を誇っています。33ノットの速力を発揮する予定だった、ということだから、空母機動部隊の直営としても活躍できたでしょうね。

 

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そもそもの同艦級の設計構想は、日本海軍の「艦隊決戦」構想の一環として、本稿でも何度も取り上げている「漸減邀撃作戦」での水雷戦隊による夜戦の中核艦とするものでした。

同作戦構想では、敵主力艦隊に対し日本海軍自慢の酸素魚雷を搭載した重巡洋艦部隊、水雷戦隊、総数約80隻を展開し夜戦が展開されます。この際にこれらを総指揮し、あるいは敵主力艦隊の前衛の警戒戦を突破する有力な砲力を有した艦として、当初「金剛級高速戦艦が当られる予定でした。しかし同艦級は、ご承知のように日本海軍の主力艦の中では最も艦齢が古く、優れた基本設計のために数次の改装を経て、なお一線の高速戦艦として有力な存在ではあったものの、25年の艦齢を考慮すると、これに代わる有力艦級の整備は急務でした。

こうして生まれたのが「超甲巡=超甲型巡洋艦」の設計構想で、水雷戦隊に帯同できる高速性と「艦隊決戦」の仮想敵である米艦隊が急速に整備しつつあった大型の重巡洋艦軽巡洋艦を凌駕する砲戦力とこの砲戦に耐えられる防御能力を有した艦となる予定でした。

同時期に各国海軍が建造した「シャルンホルスト級」「ダンケルク級」、とりわけ米海軍が建造した「アラスカ級大型巡洋艦絵を強く意識したもので、6隻が建造される予定でした。

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(直上の写真:「超甲型巡洋艦超甲巡」の新型31センチ主砲(上段)と65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)

その後、海軍戦力の重点が航空優位に移行し、従来の「艦隊決戦」のあり方に変化が現れると、同艦級は「金剛級高速戦艦同様、その高速性から空母機動部隊の直衛戦力としての期待をも担うことになります。

こうして有力な新設計の31センチ主砲(設計上は「金剛級」の36センチ主砲を凌駕する性能だったと。製造されていないので、実力の程はわかりませせんが)と並び、帝国海軍の最優秀対空砲である「長10センチ高角砲」が搭載されました。

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 (直上の写真:巡洋艦の艦型比較。下から「改鈴谷級=伊吹級」重巡洋艦、「蔵王級」重巡洋艦、「超甲型巡洋艦超甲巡」:「超甲巡」の主砲の大きさが目立ちます)

 

ということで、日本海巡洋艦開発小史、おしまいです。