Encyclopedia of 1:1250 scale model ship

my collection of 1:1250 scale modelships

Imperial Japanese Navy (IJN)/大日本帝国海軍

日本における近代国家は、アヘン戦争以降の、清国での列強蚕食の惨状への危機感から成立した。その「惰弱」な清国を依然、宗主国として「無邪気」にその影響下にあり続ける朝鮮国に、隣の半島を委ねることに身をよじる程の危うさを覚えた。

日清戦争は、そのように、日本の影響下での朝鮮の独立確保が主命題であったから、遼東半島の領有は、大躍進であると言えた。

にも関わらず、直後の独・仏・露による三国干渉(1895)で、この割譲は反故にされ、あろうことかその遼東半島はロシアの租借地となった。

言うまでもなくロシアは欧州列強の中で唯一、国境を極東に接している。つまり列強の中で即座に極東に陸兵を展開できる、唯一の国、ということである。日本の危機感からすれば、最もその進出を警戒すべき相手であるロシアが、そうした事態の出現を防ぐことが目的だったはずの日清戦争の結果、念願の不凍港と、南下の拠点を、朝鮮のすぐ隣に得ることになった。

 

遼東半島租借地としたロシア帝国は、たちまち満洲を貫く鉄道を引き、鉄道警備の名目で大量の陸兵を駐屯させ、満洲全土をその影響下においた。同時にその先端の旅順港にヨーロッパ式の本格的な要塞を築きはじめ、ここをロシア太平洋艦隊の拠点とした。

この旅順を根拠地として、ロシアは近代戦艦8隻(予定)を基幹とする強大な艦隊を建造した。これに対抗すべく、日本は近代戦艦6隻、これに準じる装甲巡洋艦6隻を基幹とする、いわゆる六六艦隊計画に着手し、これを実行した。 

 

Pre-Dreadnought /Semi-Dreadnought Era

扶桑 (甲鉄艦) - Wikipedia

Japanese ironclad Fusō - Wikipedia

(1879-, 3717t, 13knot, 9.4in *4 55mm in 1:1250 by Hai)

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明治初年、海軍は、旧幕府、諸藩の寄せ集めによって設立されたと言っていい。軍艦も同様である。

そこで、戊辰戦争佐賀の乱台湾出兵西南戦争を経て、近代的な軍艦の整備が急務とされた。

明治政府は1875年、イギリスに3隻の軍艦を発注した。その一隻が「扶桑艦」である。

「扶桑艦」は竣工当初は三本のバーク型マストを持つ汽帆走併用艦であった。明治海軍として初の装甲艦で、中央の砲郭にクルップ式20口径24センチ後装式主砲四門を収納し、4000トン足らずの小艦であることを除けは、当時の列強主力艦の形式を踏襲していた。後述の「鎮遠定遠級)」の登場までは、アジア唯一の装甲艦であった。

 

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

富士型戦艦 - Wikipedia

Fuji-class battleship - Wikipedia

(1897-, 12230t, 18knot, 12in *2*2, 2 ships 97mm in 1:1250 by Navis))

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日清開戦が濃厚に予感される時期、当面の仮想敵である清国北洋艦隊は、ドイツ製の定遠級戦艦(甲鉄砲塔艦)2隻をその主力として就役させた。日本海軍は三景艦(松島・厳島・橋立)を建造し、これに対抗しようとしたが、いずれも装甲を持たない防護巡洋艦であり、劣勢は明らかであった。

この為、当時、イギリスで登場した本格的な航洋性を備えた近代戦艦の導入が計画された。しかしこの計画は、その急務であることは理解されながらも、数年の間、予算の問題から実現に至らなかった。ようやく1894年、勅命による宮廷費の削減、公務員の給与一部返納などの非常手段により、建造にこぎつけた。富士級の二隻は、そのようにして建造された。その無理にも関わらず、就役は、日清戦争後の1897年であった。その連装砲塔には、装填時に首尾線正位置に戻す必要がある、という装填機構上の課題があった

 

敷島型戦艦 - Wikipedia

Shikishima-class battleship - Wikipedia

(1900-, 14850t, 18knot, 12in *2*2, 2ships 99mm in 1:1250 by Navis)

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イギリス、アームストロング社エルジック造船所で建造された。前級の富士級に比べ、艦型は一回り大きくなり、就役当時は「世界最大の戦艦」と言われた。。敷島級4隻の中でも、本艦と「敷島」のみ、3本煙突である。富士級では、主砲装填には前後それぞれ中心線に砲塔を戻す必要があったが、本級からは、どの位置でも装填が可能な機構が採用され、射撃速度、照準に著しい改善を得た。

 

朝日 (戦艦) - Wikipedia

Japanese battleship Asahi - Wikipedia

(1900-, 15200t, 18knot, 12in *2*2 99mm in 1:1250)

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イギリス ジョン・ブラウン社製。敷島級戦艦の二番艦。

 

三笠 (戦艦) - Wikipedia

Japanese battleship Mikasa - Wikipedia

(1902-, 15140t, 18knot, 12in *2*2 99mm in 1:1250 by Navis)

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イギリス ビッカース社製。敷島級戦艦の四番艦であり、いわゆる六六艦隊計画の最終艦である。日本海軍は六六艦隊計画の実行に当たり、世界に先駆けて搭載砲口径の統一を行った。そのため六六艦隊の戦艦は全て40口径30.5センチ砲、副砲は40口径15.2センチ速射砲で統一されている。「三笠」は、日露戦争を通じ、連合艦隊の旗艦を務めた。

 

装甲巡洋艦 Armored Cruiser

日本海軍の装甲巡洋艦は、全て同一の兵装とほぼ同じ速度を持ち、一単位として行動することを前提として設計されていた。いわば、主力戦艦部隊を支援する「ミニ戦艦」として艦隊決戦に参加する事を前提に建造された「戦闘艦艇」であったと言っていい。

 

出雲型装甲巡洋艦 - Wikipedia  armored cruiser Izumo class

Izumo-class cruiser - Wikipedia

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(1900-, 9,750t 20.3knot, 2ships)(100mm in 1:1250 by Navis)

いずれもイギリス アームストロング社製。六六艦隊計画に沿って建造された艦で、この6隻は、全て45口径20.3センチ連装砲を2基を主砲とし、40口径15.2センチ速射砲を副砲としていた。

 

浅間型装甲巡洋艦 - Wikipedia

Asama-class cruiser - Wikipedia

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イギリス アームストロング社製。他の設計段階からの発注形式の艦と異なり、既製艦を購入したため、購入時は六六艦隊計画最終期でありながら、就役は最も早い艦となった。

武装は六六艦隊計画の基本通り、統一口径を採用しており、45口径20.3センチ連装砲を前後に、副砲として15.2センチ速射砲を装備している。 (1899-, 9,700t 21.5knot, 2 shipa )(98mm in 1:1250 by Navis)

  

吾妻 (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Azuma

Japanese cruiser Azuma - Wikipedia

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 (9,326t 20knot)(106mm in 1:1250 by Navis)

六六艦隊の中で唯一フランスで生まれた艦である。兵装等は他の装甲巡洋艦と統一されていた。

 

 

八雲 (装甲巡洋艦) - Wikipedia   armored cruiser Jakumo

Japanese cruiser Yakumo - Wikipedia

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 六六艦隊計画の中で、唯一、ドイツに発注された。砲装備などは、六六艦隊計画に添い、45口径20.3センチ主砲、15.2センチ副砲で統一されているが、同じ3本煙突ながら、イギリス製の出雲級と比べ、やや重厚な艦容であるように思える。

(1900, 9,695t 20.5knot )(99mm in 1:1250 by Navis)

 

春日 (装甲巡洋艦) - Wikipedia   armored cruiser Kasuga

Japanese cruiser Kasuga - Wikipedia

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春日級装甲巡洋艦は、六六艦隊計画完成後に、既述のように、開戦直前にアルゼンチンから購入したイタリア製のジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦のうちの2隻である。六六艦隊計画では、搭載砲の口径統一が行われたが、六六艦隊計画間に属さない「春日」のみは、前部主砲に40口径25.4センチ砲を採用している。この砲は、連合艦隊の艦載砲の中で最も射程が長く、旅順要塞の要塞砲の射程外から港内に砲撃が可能であった。日本海軍は旅順沖で機雷により喪失した戦艦「初瀬」「八島」の代わりに、この春日級装甲巡洋艦を第一艦隊、第一戦隊に編入した。(1904-, 7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250 by Navis)

 

日進 (装甲巡洋艦) - Wikipediaarmored cruiser Nisshin

Japanese cruiser Nisshin - Wikipedia

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「春日」同様、開戦直前にアルゼンチンから購入されたイタリア製装甲巡洋艦である。「春日」と異なり、「日進」の主砲は、前・後部共に、45口径20.3センチ連装砲である。「春日」の項に記載した通り、本艦も「春日」と共に、第一戦隊(戦艦戦隊)に編入された。このため、主要な海戦においては敵艦隊の主軸艦からの砲撃を引き受けることになり、第一戦隊の他艦以上の苦労があった。(1904-, 7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250 by Navis)

 

近代型巡洋戦艦 Pre-Dreadnought battlecruiser

筑波型巡洋戦艦 - Wikipedia

Tsukuba-class battlecruiser - Wikipedia

(1907-, 13750t, 20.5knot, 12in *2*2, 2 ships 119mm in 1:1250 by Navis semi-scrached from Ibuki

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1904年5月15日は日本海軍にとって災厄の日であった。

この日、旅順沖を哨戒航行中の戦艦「初瀬」ならびに戦艦「八島」の2隻がほぼ同時に触雷、沈没してしまった。当時、日本には戦艦は6隻しかなく、一瞬で、海軍はその主戦力の3分の1を失った。

この喪失を補充するために1904年度臨時軍事費で、急造の下命が降ったのが、筑波級装甲巡洋艦であった。

その特徴は、何と言っても、装甲巡洋艦でありながら、当時の戦艦と同じ45口径30.5センチ砲4門を主砲として装備していたことである。後に巡洋戦艦に区分されるが、主砲は前述のように戦艦と同等、速力は当時の装甲巡洋艦と同じ20.5ノットを発揮し、装甲は戦艦と同等、という、いわゆる高速戦艦の奔り、とでもいうべき優れた艦であった。

日本海軍は、本級から、艦首の衝角を廃止している。

急造の命の下、起工から就役まで2年という短期間で建造が不休で行なわれたが、就役は日露戦争後の1907年であった。

 

 

強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship

香取型戦艦 - Wikipedia

Katori-class battleship - Wikipedia

(1906-, 15950t, 18knot, 12in *2*2 & 10in *4, 2 ships 110mm in 1:1250 /3D printing by Master of Military)

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1904年、日本は迫り来る日露間の戦争に備え、香取、鹿島の両戦艦をイギリスのビッカース社とアームストロング社に発注し、起工した。2艦はイギリス戦艦キング・エドワード7世級をタイプシップとし、それまでの日本の近代型戦艦の標準主砲であった45口径30.5センチ級主砲4門に加え、45口径25.4センチ中間砲4門を装備する強力な艦で、のちに準弩級戦艦に分類される艦であった。竣工までの時期を短縮する目的で、造船所を2社に分けたにも関わらず、就役は日露戦争終結後であった。

両艦には、煙突位置に小異がある。

 

薩摩型戦艦 - Wikipedia 

Satsuma-class battleship - Wikipedia

(1910-, 19372t, 18-20knot, 12in *2*2 &10in *2*6, 2 ships 122mm in 1:1250 by WTJ)

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初の国産戦艦である。

前級の香取級に対し、砲力を格段に強化し、従来の主砲 45口径30.5センチ砲4門に加え、香取級で初めて導入した中間砲(45口径25.4センチ砲)を連装砲塔6基12門とした。

あわせて安芸には、前述の装甲巡洋艦「伊吹」でテストされたタービンを搭載しており、20ノットの優速を発揮した。機関の差、ボイラー配置の差から、外観に差異が生じ、薩摩が2本煙突であるのに対し、安芸は3本煙突である。

 

強化型近代巡洋戦艦 Semi-Dreadnought battlecruiser

鞍馬型巡洋戦艦 - Wikipedia

Ibuki-class armored cruiser - Wikipedia

(1908-, 14636t, 21.25knot, 12in *2*2 & 8in *2*4, 2 ships 119mm in 1:1250 by Navis)

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本級は、前述の筑波級装甲巡洋艦の改良型として、またこれも前述の香取級戦艦に匹敵する強力な砲力を有する高速主力艦として設計された。主砲は、筑波級と同じ日本海軍の戦艦の標準砲である45口径30.5センチ砲4門を装備し、副砲に45口径20.3センチ砲を起用し、これを連装砲塔4基に収めた。

鞍馬は従来型のレシプロ機関を搭載したが、伊吹は、後述の戦艦安芸に搭載予定のタービン搭載試験艦となり、このため建造が急がれ、就役がネームシップの鞍馬より先行した。

一方、就役に余裕があったため、鞍馬は当時最先端の三脚前後マストを採用している。

 

Dreadnought /Super-Dreadnought Era (around WW1)

日露戦争後の艦隊整備に注力したため、弩級戦艦超弩級戦艦の整備に出遅れた。実戦経験では一級海軍でありながら、旧式装備での開戦に甘んじなければならなかった。

弩級戦艦2隻、ドイツより購入した弩級巡洋戦艦2隻超弩級巡洋戦艦2隻(2隻は建造中、大戦中に就役)で第一次大戦に臨んだが、これらの主力艦は、第一次大戦お主戦場がヨーロッパであったため、ほとんど出番がなかった。

 

弩級戦艦  Dreadnought battleship

河内型戦艦 - Wikipedia

Kawachi-class battleship - Wikipedia

(1912-, 20,800t, 20knot, 12in L50 *2*2 + 12in L45 *2*4, 2 ships)(125mm in 1:1250 by Navis)

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前級の薩摩級よりも少し大きな船体に、薩摩級では12門装備していた中間砲を廃止し、全て30.5センチとし、連装砲塔6基を6角形に配置している。この配置により、首尾線方向に6門、両舷方向に8門の主砲を指向できた。機関は前級2番艦「安芸」が搭載し好成績を示したタービン式を採用し、20ノットの速力を発揮することができた。

日本海軍念願の弩級戦艦ではあったが、その主砲には課題があった。艦首尾砲塔の30.5センチ砲が50口径であったのに対し、舷側砲塔は45口径であり、二種類の砲身長、初速の異なる主砲を装備していた。厳密には弩級戦艦の「同一口径の主砲による統一した射撃管制指揮に適している」という要件を満たしていなかった。

実際に、その主砲の斉射にあたっては艦首尾砲塔は弱装火薬を用いることによってこれらの不都合を解消しなくてはならなかった。これでは、50口径の長砲身を持つ意味がなかった。

さらに、河内級が採用した50口径砲自体にも問題があった。この砲は英アームストロング社製で、イギリス海軍の戦艦でも採用されていた。しかし、同社の技術を持ってしても、砲身に大きなしなりが発生し命中精度が下がること、併せて砲身寿命が短いなど、高初速に起因する欠点があり、このことが、英海軍がオライオン級戦艦から34.3センチ砲を採用する動きの一因となった。

 

 

弩級巡洋戦艦 Dreadnought battlecruiser

河内級戦艦の建造と並んで、「旧式艦ばかりの二流海軍」からの急遽脱却を図るべく、海軍は欧米列強の既成弩級戦艦の購入を模索し始めた。

あわせて、より深刻な要素として、当時、各国の海軍で導入されていた装甲巡洋艦の高速化への対応が、検討されねばならなかった。すなわち、当時の日本海軍が保有する主力艦の中で最も高速を有するのは装甲巡洋艦巡洋戦艦)「伊吹」であったが、その速力は22ノットで、例えば膠州湾青島を本拠とするドイツ東洋艦隊のシャルンホルスト級装甲巡洋艦(23.5ノット)が、日本近海で通商破壊戦を展開した場合、これを捕捉することはできなかった。

これらのことから、特に高速を発揮する弩級巡洋戦艦の導入が急務として検討され、その結果、弩級巡洋戦艦「蓼科」「劔」の購入が決定された。

「劔」「蓼科」は、2 艦で巡洋戦艦戦隊を構成し、この戦隊の発足がシュペー提督のドイツ東洋艦隊の本国回航を決意させた遠因となったとも言われている。

 

弩級巡洋戦艦「蓼科」(独装甲巡洋艦ブリュッヒャー2番艦改造)

ブリュッヒャー (装甲巡洋艦) - Wikipedia

Battlecruiser Tateshina(Fictional: Based on armoerd cuiser SMS Blücher. IJN purchaed 2nd ship of her class under cinsruction and remodled to battle cruiser)

SMS Blücher - Wikipedia

(1912-, 16,500t, 25.4knot, 12in *2*3)(127mm in 1:1250 by Navis)

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ドイツ海軍の装甲巡洋艦ブリュッヒャー」の2番艦を巡洋戦艦に改造、導入したものである。

ブリュッヒャーは、従来の装甲巡洋艦の概念を一掃するほどの強力艦として建造されたドイツ帝国海軍の装甲巡洋艦である。装甲巡洋艦におけるドレッドノートと言ってもいいかもしれない。主砲は44口径21センチ砲を採用し、戦艦並みの射程距離を有し、搭載数を連装砲塔6基として12門を有し、また速力は25ノットと、当時の近代戦艦(前弩級戦艦)、装甲巡洋艦に対し、圧倒的に優位に立ちうる艦となる予定であった。

しかしながら、同時期にイギリスが建造したインヴィンシブルは、戦艦と同じ、30.5センチ砲を主砲として連装砲塔4基に装備し、速力も25.5ノットと、いずれもブリュッヒャーを凌駕してしまったため、ドイツ海軍は急遽同等の弩級巡洋戦艦建造に着手しなければならず、ブリュッヒャー中途半端な位置づけとなり、後続艦の建造が宙に浮いてしまうこととなった。

日本海軍はこれに目をつけ、この2番艦の建造途中の船体を購入し、「蓼科」と命名、これを巡洋戦艦仕様で仕上げることにした。主な仕様変更としては、主砲をオリジナルの44口径21センチ砲12門から、日本海軍仕様の45口径30.5センチ連装砲塔3基および同単装砲塔2基、として計8門を搭載した。この配置により、首尾線方向には主砲4門、舷側方向には主砲7門の射線を確保した。機関等はブリュッヒャー級のものをそのまま搭載したところから、ドイツで建造した船体をイギリスで仕上げる、といった複雑な工程となった。が、狙い通り就役は「河内級」とほぼ同時期であった。

速力は25ノットの、当時の日本海軍主力艦としては、最も高速を発揮したが、装甲は装甲巡洋艦ブリュッヒャーと同等の仕様であったため、やや課題が残る仕上がりとなった。

 

弩級巡洋戦艦「劔」(独弩級巡洋戦艦 フォン・デア・タン2番艦改造)

フォン・デア・タン (巡洋戦艦) - Wikipedia

Battlecruiser Tsurugi (Fictional: Based on battlecruiser SMS Von Derr Tann. IJN purchaed 2nd ship of her class under cinsruction and remodled to battle cruiser with 12in L50 )

(1912-, 19,800t, 25.5knot, 12in L50 *2*4)(136mm in 1:1250 by Navis)

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弩級巡洋戦艦「蓼科」の保有に成功した日本海軍であったが、上記のように、本来は装甲巡洋艦であったために、その防御力にはやや課題が残った。併せて、河内級のイギリス製の50口径主砲がやはり前述のような課題があったため、日本海軍は当時50口径砲の導入に成功していたドイツを対象に、もう一隻、弩級巡洋戦艦の購入を模索することにした。

白羽の矢が立ったのは、ドイツ海軍初の弩級巡洋戦艦「フォン・デア・タン」の2番艦で、すでにドイツ海軍の上層部の関心が、より強力な次級、あるいはさらにその次のクラスに向いてしまったため、やはり宙に浮いていたものを計画段階で購入することにした。

ブリュッヒャー級2番艦の場合と異なり、今回はその基本設計はそのままとし、主砲のみ、既に戦艦ヘルゴラント級で搭載実績のある1911年型50口径30.5センチ砲に変更し、船体強度などに若干の見直しを行った。同砲では河内級でイギリス製の50口径砲に見られたような問題は発生せず、ドイツの技術力の高さを改めて知ることになる。

主砲の口径の拡大と、それに伴う構造の変更があったにも関わらず、速力はオリジナル艦と同等の25.5ノットを確保することが出来た。

同艦は1912年に就役し、弩級巡洋戦艦「劔」と命名された。

 

超弩級戦艦  Super-Dreadnought battleship

日本海軍の超弩級戦艦整備状況

第一次大戦開戦当初、日本海軍は、特に弩級戦艦超弩級戦艦の整備で諸列強に大きく出遅れた。

本稿でも触れたが、例えば開戦時の主力艦の保有数をみれば、イギリスは弩級超弩級戦艦を22隻、巡洋戦艦を9隻、前弩級戦艦を40隻保有していたのに対し、ドイツ帝国はこれに次いでそれぞれ14隻、4隻、22隻で、名実ともに当時の雌雄であった。これに次ぐのはアメリカ海軍で、それぞれ12隻、0隻(アメリカは何故か、巡洋戦艦に興味を示さなかった)、23隻、さらに、かつての大海軍国フランスは、それぞれ3隻、0隻、17隻であった。一方、イタリア海軍は3隻、0隻、8隻、オーストリアハンガリー海軍は4隻、0隻、9隻で、地中海で対峙していた。

日本海軍を見ると、弩級戦艦2隻(河内、摂津)、超弩級戦艦なし、巡洋戦艦2隻(金剛、比叡:大戦中に榛名、霧島2隻が就役)、前弩級戦艦17隻で、そのうち第一線級の戦力とみなされるものは、金剛級巡洋戦艦だけであった。超弩級戦艦の整備が切望された。

 

初の超弩級戦艦 扶桑級、その改良型伊勢級の建造

金剛級超弩級巡洋戦艦と対をなす超弩級戦艦として、扶桑級戦艦は建造された。

主砲は金剛級と同じ14インチ砲で、これを連装砲塔6基12門搭載。艦首部と艦尾部は背負い式配置として、残り2基をを罐室を挟んで前後に振り分けた。軍艦史上初めて30,000トンを超える大鑑で、日本海軍の念願の超弩級戦艦は、一番艦の扶桑完成の時点では、世界最大、最強装備の艦と言われた。

艦型全体で見ると、6基の砲塔はバランス良く配置されているように見えるが、実はこれが斉射時に爆風の影響を艦上部構造が全体に及ぼすなどの弊害を生じることが完成後にわかった。また罐室を挟んで砲塔が配置されたため、出力向上のための余地を生み出しにくくなっていることもわかった。さらに欧州大戦でのユトランド海戦での長距離砲戦への対策としては、水平防御が不足していることが判明するなど、世界最大最強を歌われながら、一方では生まれながらの欠陥戦艦とみなされた。

扶桑型戦艦 - Wikipedia

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(1915年、30,600トン: 35.6cm連装砲6基、22.5ノット) 同型艦2隻 (165mm in 1:1250 by Navis)

 

扶桑級戦艦は完成後、前述のような欠点を持っていることが判明したため、扶桑級の3番艦、4番艦の建造に待ったがかかった。設計が根本から見直され、主砲配置、甲板防御、水雷防御などが一新し、全く異なる艦型の戦艦となった。これが伊勢級戦艦である。設計の見直しに併せて、主砲装填方式の刷新、方位盤の射撃装置の採用なども行われ、より強力な戦艦となって誕生した。

一方で、砲塔の配置転換などにより居住区域が大幅に削減され、乗組員は劣悪な居住性に甘んじなければならなかった。

伊勢型戦艦 - Wikipedia

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(1917年、29,900トン: 35.6cm連装砲6基、23ノット)同型艦2隻 (166mm in 1:1250 by Navis)

 

高速戦艦 長門級の誕生

扶桑級伊勢級、ともにその計画は第一次世界大戦前に遡り、一部大戦の戦訓を盛り込んだとはいえ、十分なものではなかった。併せて前述のように競合列強は次々にこれらを凌駕する強力な戦艦を建造しており、日本海軍としては、さらにこれを上回る艦の建造を求めた。 

列強の諸艦に対しては、世界初の16インチ砲を採用しこれを圧倒することとし、この巨砲群の射撃管制のための巨大な望楼構造の前檣を採用し、その最頂部に大型の測距儀を設置した。併せてユトランド沖海戦からの戦訓として、防御力の拡充はもちろん、高速力の獲得も目指された。計画当初は24.5ノットの速力が予定されていただが、ユトランド沖海戦から、機動性に劣る艦は戦場で敵艦をとらえられず、結果、戦力足り得ない、との知見を得て、26.5ノットの高速戦艦に設計変更された。

長門型戦艦 - Wikipedia

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(竣工時の長門級。当初、前部 煙突は直立型であったが、前檣への排煙の流入に悩まされた。煙突頂部にフードをつけるなど工夫がされが、1924年から1925年にかけて、下の写真のように前部煙突を湾曲型のものに換装した)

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(1920-, 33,800t, 41cm *2*4, 26.5knot, 2 ships: 176mm in 1:1250 by Hai)

(直上の二点の写真は、1925年ごろのもの。1924年から1925年にかけて、前部煙突を湾曲型のものに換装した)

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(日本戦艦の発達:下から、扶桑級伊勢級長門級

 

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(日本戦艦の発達:手前から、扶桑級伊勢級長門級

 

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 (三海軍超弩級戦艦、艦型比較:上から、日本海軍:長門級、米海軍:ニューメキシコ級、英海軍:クイーン・エリザベス級)

 

最終改装時(1941年次)の長門級戦艦

その改装はバルジの装備、装甲の強化、対空兵装の強化などの重量増加に対し、速度低下を招かないような機関換装が行われた。

(1941 43,500 t, 26.5 knot, 16in *2*4, 2 ships, 182mm in 1:1250 by Neptun)
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(直上:改装後の長門(手前)と陸奥(奥))

 

日本海軍の整備計画

第一次大戦への関与の度合いは欧米諸国よりは低かった日本ではあったが、大戦終了後の景気後退等不況の影響は大きく、さらに大戦終了時から行われたシベリア出兵などの出費からくる厭戦気分から、せっかく英米の譲歩を勝ち得た条約下での主力艦建造の継続に対する世論は、必ずしも支持的と言える状況ではなかった。

しかし、これを一変する状況が、日清・日露両戦争、更には第一次世界大戦中、その後のシベリア出兵を通じて、一貫して実質支配権確立に努めてきた満州で発生する。(ちょっと仮想小説的になってきてしまいますが)

満州北部の北満州油田(史実では大慶油田として1959年に発見)、満州南部の遼河油田(史実では同呼称の遼河油田として1973年発見)の発見である。もちろんこれらの油田発見は、即、本格操業というわけには行かないのではあるが、これに既存の鞍山の鉄鉱山を加え、日本は有力な財政的な基盤を得た。

一方で、北満州油田は新生ソ連との国境が近く、その防衛も含め、日本は満州の日本傀儡下での独立を画策していくことになる。

ともあれ、これにより、日本海軍は、条約締結時にすでに進水していた加賀級戦艦2隻の建造をそのまま継続し、1925年に艦齢10年を迎える扶桑級に代えて紀伊級戦艦の紀伊尾張を、1927年には伊勢級2隻の代替艦として、改紀伊級の相模、近江を就役させる計画を立て、これを推進した。

 

加賀型戦艦 - Wikipedia

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前級長門級戦艦を強化した高速戦艦である。16インチ砲を連装砲塔5基10門とし、搭載主砲数に対応して大型化した艦型を持ちながら、速力は新型機関の採用で長門級と同等の26.5ノットとした。長門級で取り入れられた集中防御方式を一層強化し、さらに傾斜装甲を採用するなど、防御側面の強化でも新機軸が盛り込まれた。

長門級では前檣への煙の流入に悩まされたが、加賀級でも同様の課題が発生し、二番艦土佐では新造時から長門型で一定の成果のあった湾曲煙突が採用された。しかし、長門と異なり新機関採用により前檣と後檣の間隔を短くしたため、今度は後檣への煙の流入が課題となってしまった。結局、大改装時の新型煙突への切り替えまで、加賀・土佐共に煙の流入に悩まされることになった。

(39.979t, 26.5knot, 16in *2*5, 2 ships, 185mm in 1:1250 semi-scratched based on C.O.B. Constructs and Miniatures /3D printing model)

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(就役時の加賀級戦艦2隻:加賀(手前)と土佐:土佐は就役時から前檣編煙流入対策として長門級で採用されていた湾曲型煙突を採用していた)

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最終改装時(1941年次)の加賀級戦艦

バルジの追加、装甲の強化、艦橋構造の変更に加え、従来から課題とされてきた梅園の流入対策のために煙突の換装が行われた。これらの重量増加への対応として、機関の換装も行われたが、基本設計に機関の増強等に対する余裕が十分でなく、結果として速度は低下してしまった。

そのため大戦中は、主力艦隊の序列を離れ、主としてシンガポールにあって西方警備の任務に当たった。

(1941: 47,500t, 25 knot, 2 ships, 187mm in 1:1250 semi-scratched based on C.O.B. Constructs and Miniatures /3D printing model)

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(直上:改装後の土佐(手前)と加賀(奥))

 

紀伊型戦艦 - Wikipedia

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1925年に艦齢10年を迎える扶桑級戦艦に対する代替艦として建造が進められた。紀伊級の2隻の完成により、扶桑級戦艦2隻は、練習戦艦籍に移され、舷側装甲の撤去、砲塔数の削減等が行われた。

紀伊級戦艦は、防御方式等は前級の加賀級戦艦の経験に沿いながらも、加賀級を上回る高速性を求めたため、その基本設計は条約締結時に計画破棄となった天城型巡洋戦艦に負うところが多い。巨大な機関を搭載し、艦型はそれまでの長門級加賀級とは異なり長大なものとなった。

主砲としては加賀級と同様、16インチ連装砲塔5基10門を搭載し、29.5ノットという高速を発揮した。当初、同型艦を4隻建造する計画であったが、建造途上で、米海軍の新戦艦サウスダコタ級が、16インチ砲を三連装砲塔4基12門搭載、という強力艦であることが判明し、この設計では紀伊尾張の2隻にとどめ、建造途中から次級改紀伊級の設計と連動して建造が進められた。

長門級加賀級で悩まされた煙の前檣、あるいは後檣への流入対策として、本級から集合煙突が採用され、煙対策もさることながら、艦型が整備され、優美さを加えることとなった。
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(1926-, 42,600t, 29.5knot, 16in *2*5, 2 ships, 202mm in 1:1250 semi-scratched based on Team Blue Games  with funnel by Digital Sprue /3D printing model )

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(就役時の紀伊級戦艦2隻:紀伊(手前)と尾張

 

1933年次 第一次改装時の紀伊級戦艦

紀伊級戦艦は、以降に建造された戦艦群が、その高い機密性保持のために表舞台に登場できなかった事情から、連合艦隊の象徴的存在として長門級とともに長く国民に親しまれ、また海外にも紹介された。

このため比較的若い建艦年次から数度にわたる改装を受けた。

第一次改装においては、防御装甲の強化に加え、前檣、後檣の上部構造を近代化し、あわせて対空装備の強化、航空艤装の追加などが行われた。機関の改善も行われたが、速度はやや低下した。

(1933, 46,600t, 27.5knot, 16in *2*5, 2 ships, 202mm in 1:1250 semi-scratched based on Team Blue Games  with funnel by Digital Sprue /3D printing model )  

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(第一次改装時の紀伊級戦艦2隻:紀伊(手前)と尾張

 

最終改装時(1941年次)の紀伊級戦艦

1941年次の改装においては、バルジの追加、対空兵装の強化、装甲の強化はもちろん、機関の大換装も行われ、あわせて艦首部の延長、艦尾の延長など、艦型の見直しも行われ、速度を新造時にまで回復することができた。

長く連合艦隊旗艦の任にあって、通信設備、旗艦設備が充実したため、大戦中も旗艦の任を継続した。

(1933, 50,600t, 29.5knot, 16in *2*5, 2 ships, 208mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs /3D printing model )  

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(最終大改装時の紀伊級戦艦2隻:紀伊(手前)と尾張

 

改紀伊型・相模型戦艦(参考:十三号型巡洋戦艦) - Wikipedia

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1927年に艦齢10年を迎える伊勢級戦艦に対する代替艦として建造が進められた。相模級の2隻の完成により、伊勢級戦艦2隻は、扶桑級と同様の措置の後、練習戦艦籍に移された。

相模級戦艦は、前述のように本来は紀伊級の同型3番艦、4番艦として建造されるはずであったが、米海軍が建造中のケンタッキー級(サウスダコタ級1920)戦艦が16インチ砲12門搭載の強力艦である事が判明したため、改紀伊級として設計が見直された。

まずは備砲が見直され、三連装砲塔開発案、連装砲塔6基搭載案、連装砲塔複合による4連装砲塔の新開発など、種々の案が検討されたが、いずれもケンタッキー級を凌駕する案とはなり得ず、最終的には新開発の2年式55口径41センチ(16インチ)砲と称する新型砲を連装砲塔で4基搭載する、という案が採択された。(それまでの16インチ砲は45口径であった)

この新砲搭載と、これまでの高速性を維持するため、艦型は紀伊型を上回り大型化し、実質は条約制限を上回る44,000トンとなったが、これを公称42,000トンとして建造した。

本級は最高軍事機密として厳重に秘匿され、さらに長く建造中と称して完成(1929年)が伏せられ、その完成が公表されたのは条約切れの後(1932年)であった。

ここには日本海軍の詐術が潜んでいた。2年式55口径41センチ砲は、実は18インチ砲であった。他の条約加盟国は、このクラスの建造(特に主砲口径)に強い疑惑を抱いており、これも条約更新が行われなかった要因の一つとなったと言われている。

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(1932-, 44,000t(公称 42,000t), 28.5knot, 18in *2*4, 2 ships, 219mm in 1:1250 semi-scratched based onTeam Blue Games with funnel by Digital Sprue /3D printing model)

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(就役時の改紀伊級・相模級戦艦2隻:相模(手前)と近江)

 

最終改装時(1941年次)の相模級戦艦

初の18インチ主砲装備艦として、最終改装時には、その艦橋構造を行動を共にするであろう同じ18インチ手法を装備した大和級に準じたものに換装し、バルジの追加、垂直装甲の強化、 対空火器の強化、機関の換装が行われた。

(1932-, 53,200t), 28.5knot, 18in *2*4, 2 ships, 219mm in 1:1250 semi-scratched based onTeam Blue Games with funnel by Digital Sprue /3D printing model)f:id:fw688i:20190420165539j:image
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(最終大改装時の相模級戦艦2隻:相模(手前)と近江)

 

奇しくも、ようやく八八艦隊のうちの戦艦8隻の装備が完了し、日本海軍はこれに第一線戦力として、旧式ながら高速の金剛型巡洋戦艦4隻を加えた、高速艦による八四艦隊を完成させた。

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(1928年頃の日本海軍の主力艦8隻:左上段 長門級長門陸奥)、右上段 加賀級(加賀・土佐)、左下段 紀伊級(紀伊尾張)、右下段 相模級(相模・近江))

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八四艦隊の戦艦4クラスの艦型比較(上から、長門級加賀級紀伊級、相模級)

 

日本海軍の新型戦艦

 満州における資源確保で、ある程度の経済基盤を保有したかに見える日本であったが、やはりその国力を考えると、米国には遠く及ばず、従ってその主力艦状況でも物量的に米海軍を凌ぐことは不可能であることは明白であった。

そのため、新型戦艦には、これまで通り個艦の性能で米艦を上回ることが求められ、その設計の帰結が大和級戦艦となって具現化した。

大和型戦艦 - Wikipedia

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相模級戦艦で実績のある18インチ砲ではあったが、同級は新設計の砲を新設計の三連装砲塔に搭載した。さらに27ノットの高速で機動性にも優れる戦艦として設計された。高い機動性と強力な砲力で常に相手に対し優位な位置からのアウトレンジを実施し、相手を圧倒することを実現できることが目指された。

(1941-: 64,000t, 27 knot, 18in *3*3, 3 ships, 215mm in 1:1250 by Konishi/Neptun)

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大和級の2隻:武蔵(手前)、大和。就役時には、副砲塔を上部構造の前戯左右に4基配置した。同級には同型艦として信濃が建造されたが、同艦は、当初から対空兵装強化型として装備を見直されたため、就役当初から外観が異なる艦となった。大和、武蔵の2隻も、この後、同様の対空装備強化が行われる) 

大和級戦艦の改装

大和級戦艦はその新造時の設計では、6インチ三連装副砲塔を4基、上部構造の前後左右に配置した設計であったが、既述のように一連の既存戦艦の近代化改装の方針である対空戦闘能力の向上に則り、両舷の副砲塔を撤去し、対空兵装に換装した。

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同級3番艦の「信濃」は新造時から対空兵装増強型で建造され、かつその対空砲として新型の長10センチ連装対空砲を採用した。

(直下の写真は大和級戦艦3隻:手前から信濃、武蔵、大和 の順。信濃は上記のように当初から対空兵装強化型として建造され、対空砲として新型の長10センチ連装砲を採用していた)

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大和級戦艦:播磨級(播磨・伊予)の建造

大和級の建造によって、日本海軍は個艦の性能で米戦艦に凌駕する戦力を保有することに成功したが、いずれは米海軍が18インチ砲搭載艦を建造することは明白であった。事実、既述のようにアイオア級の5番艦以降、改アイオア級(イリノイ級)で米海軍の18インチ砲搭載艦は実現する。

この予見される脅威への対抗策が、A-150計画であった。

 

超大和型戦艦 - Wikipedia

en.wikipedia.org

A-150計画では、米海軍が建造するであろう18インチ砲搭載艦を打ち破るために更なる大口径砲の20インチ(51センチ)砲を搭載することが計画された。日本海軍は、2インチ毎の口径拡大を目指すのが常であった。12インチ(前/凖弩級戦艦弩級戦艦)、14インチ(超弩級戦艦)、16インチ(八八艦隊)、18インチ(相模級、大和級)、20インチ(播磨級))

艦型は時勢の展開を考慮して短縮を目指し、前級である大和級の基本設計を踏襲した強化型、発展型として計画が進められた。

当初、新設計の21インチ砲を大和級同様、三連装砲塔形式で3基9門を搭載する予定であったが、その場合、90,000トンを超える巨艦となることが判明し、当時の日本にはこれを建造する施設がなかった。さらに言えば、18インチ砲三連装砲塔以上の重量の砲塔を回転させる技術もなく、短期間での完成を目指す日本海軍はこれを諦めた。

さらにいくつかのデザイン案の模索の後、21インチ砲を採用して連装砲塔3基搭載であれば、既存の大和級の艦型をほぼそのまま使用し建造期間を短縮できるということが判明し、同案が採用された。

(1943-: 66,000t, 27 knot, 20in *2*3, 2 ships, 217mm in 1:1250 by semi-scratched based on Neptune)

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(直上の写真は播磨級戦艦2隻:手前から伊予、播磨の順。両艦ともに、当初から対空兵装強化型として建造され、対空砲として新型の長10センチ連装砲を採用していた)

 

大和級戦艦:駿河の建造

前級播磨級において、日本海軍は念願の21インチ砲搭載戦艦を建造したが、その設計過程には無理が多く、結局、時勢の流動への対応から、大和級の船体を流用し、建造を急いだことから、主砲射撃時の散布界が大きく、さらには搭載数が6門では 単艦での運用では十分な射撃精度が得られないことが判明した。

このため米海軍が建造する18インチ砲搭載艦への対応に、大和級の設計をベースとして、18インチ主砲の搭載数を増加させる案が検討された。

駿河級は計画では2隻が建造される予定であったが、日米開戦により1隻、駿河のみ建造された。

18インチ主砲を大和級と同様、三連装砲塔に装備し、大和級よりも1基増やし、4基12門搭載とした。砲塔の増設によって船体は大型化し排水量も大幅に増加したが、機関を強化し、大和級と同速の27ノットを確保した。射撃管制システムも新型が搭載され、改良された装填機構の採用などにより、発射速度を大和級よりも早めることができた。射撃試験の結果、良好な散布界を得ることなどが検証され、日本海軍の最強艦となった。

(1945-: 71,000t, 27 knot, 18in *3*4, 220mm in 1:1250 by 3D printing: Tiny Thingajigs)

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富士級高速戦艦:富士・劔の建造

大和級の建造と併せて、この18インチ砲搭載戦艦の時代にふさわしい前衛支援艦が必要と考えられた。高速で展開するこの前衛艦は、後続する主力艦隊に敵艦隊の速度、運動等の詳細なデータを送信し、射撃管制を高める役割が期待された。

当初、大和級と同じく18インチ砲を搭載する相模級の2隻をこれにあてる予定であったが、やはり前衛には敵艦隊に肉薄、あるいは捕捉から逃れる高速力が必要とされることが明らかとなり、この目的のためには相模級を上回る速度を保有するこれに専任する艦が新たに設計された。

 

建造期間を短縮するために、ここでも装備類は大和級から流用されることが求められた。機関には大和級と同じものが使用されることが決められ、33ノットの速力が期待されるところから、船体の大きさが逆算された。また、同級は大和級と行動を共にすることが想定されるところから、主砲には同じく18インチ三連装砲塔の搭載が決定された。

これらの要件を満たすために、これまでの主力艦とは一線を画する特異な設計となった。艦隊前部に主砲塔を集中装備し、その後方に機関を配置、後部には副砲塔等と航空装備、という奇しくも仏海軍のリシュリュー級に似た配置となった。射撃管制機器、上部構造等を大和級と共通化したために、遠距離からの視認では、大和級に実に似通った外観を示している。

(1945-: 38,000t, 33 knot, 18in *3*2, 2 ships, 197mm in 1:1250 by semi-scratched based on Hansa) 

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(直上の写真では、船体後部に航空兵装、副砲塔等が集中しているのがよくわかる)

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(直上の写真は富士級高速戦艦2隻:手前から「劔」、「富士」の順。両艦は対空兵装で異なる装備を有していた。2番艦の「劔」は、建造時期がジェット航空機の発展期に当たったため、当初から対空兵装強化型として実験的に自動砲を採用していた)

 
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(直上の写真は大和級 18インチ砲搭載艦の系譜:左から富士級高速戦艦大和級、播磨級、駿河の順。大和級の系譜は、18インチ砲の強烈な反動を受け止めるため艦幅を広く取っている。一方で水線長を抑え、装甲を効果的に配置するなど、全体的にコンパクト化に成功していると言っていいだろう)

 

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(直上の写真は日本海軍の高速戦艦巡洋戦艦)の系譜。:左から、金剛級(比叡)、畝傍級、高千穂級、富士級の順。高速化への模索の取り組みとして、艦幅と水線長の工夫が興味深い)

 

 

超弩級巡洋戦艦 Super-Dreadnought battlecruiser

金剛型戦艦 - Wikipedia

Kongō-class battlecruiser - Wikipedia

(1913-, 26,330t, 27.5knot, 14in *2*4, 4 ships)(173mm in 1:1250 by Navis) 

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日清、日露の戦訓から、欧米列強に対し基本的な国力が劣る状況が改善されることは想定しにくく、物量で凌駕できない条件の元でも、機動力において常に仮想敵を上回ることができれば、勝利を見いだせることが、日本海軍の確信となった。

これらの背景から、超弩級巡洋戦艦「金剛」級は生まれたと言っていい。

上記の劔の項で示した様な海外技術の導入の必要性から、1番艦「金剛」は英ビッカース社で建造された。

2番艦以降は、「比叡」横須賀海軍工廠、「榛名」神戸川崎造船所、「霧島」三菱長崎造船所、と、国内で生産され、特に民間への技術扶植がおこなわれ、ひいては造船技術の底上げが図られた。4隻は1913年「金剛」、14年「比叡、」15年「榛名」「霧島」と相次いで就役する。

英海軍のライオン級巡洋戦艦タイプシップとして、27.5ノットを発揮し、主砲口径は当初は50口径30.5センチ砲連装砲塔5基を予定していたが、前述のようにこの砲には命中精度、砲身寿命に課題があったため、当時としては他に例を見ない45口径35.6センチの巨砲連装砲塔4基に装備することにした。

強力な砲兵装と機関により、排水量27,000トンを超える巨艦になった。 

第一次大戦当時、金剛級4隻は世界最強の戦隊、と歌われ、諸列強、垂涎の的であった

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八四艦隊の前衛を務める金剛級4隻(手前から、金剛、比叡、榛名、霧島)


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写真は1927年ごろの霧島。前檣の構造がやや複雑化しつつある。

 

金剛級は高い機動性と優れた基本設計により、数字の改装を経て、なお、1941年次にあっても高速戦艦として 現役にとどまることができた。

その改装要目は多岐にわたり、バルジ等の装着による防御力向上、対空兵装の強化、艦橋構造の変更、航空艤装の装備等による重量の増加を、機関の換装、完備の延長等により、速度をより優速の30ノットに向上させた。

(1941-, 32,000t, 30knot, 14in *2*4, 4 ships)(178mm in 1:1250 by Neptun) 

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(直上:Kongo:1941)

 

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(直上:Hiei:1941)


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(直上:Kirishima:1941)

 

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(直上:Haruna 1941)

 

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(榛名と霧島は、丸みを帯びた主砲等を装備していた)


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(金剛、比叡、霧島は後檣に傾斜がある)


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(比叡では、大和級の前檣の試作として艦橋の特徴がある)

 

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(榛名は傾斜のない後檣を装備していた)

 

 

 金剛代艦計画

ワシントン軍縮条約下で、日本海軍は英米海軍に対し数的な優位には立てないことが確定した。このため高い機動力による戦場での優位性を獲得するために、条約制約下で速力に劣る扶桑級伊勢級の4戦艦を破棄し、最も古い金剛級巡洋戦艦を残すという選択をしなくてはならなかった。

金剛級巡洋戦艦は、その優速性ゆえ貴重で、その後数次の改装により、防御力の向上等、近代高速戦艦として生まれ変わっていくが、如何せんその艦齢が古く、いずれは代替される必要があった。

こうして金剛代艦計画が進められることになる。

 

この計画には、文字通り海軍艦政の中枢を担う艦政本部案と、当時、海軍技術研究所造船研究部長の閑職にあった平賀中将の案が提出された。

ja.wikipedia.org

 

平賀案:畝傍級巡洋戦艦

海軍技術研究所造船研究部長平賀中将の設計案で、40,000トンの船体に16インチ砲を10門搭載、30ノットを発揮する高速戦艦として設計された。(ちょっと史実とは異なります)副砲を砲塔形式とケースメイト形式で混載。集中防御方式を徹底した設計となった。

 

畝傍級巡洋戦艦高速戦艦)として採用され、当初4隻が建造される予定であったが、設計変更が発生し、「畝傍」「筑波」の2隻のみ建造された。

(1936-, 40,000t, 30knot, 16in *3*2+16in *2*2, 2 ships, 185mm in 1:1250 semi-scratched based on C.O.B.Constructs and Miniatures /3D printing model)

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徹底した集中防御方式を意識したため、上部構造を中央に集中した艦型となった。初めて艦橋を塔構造とし、その塔構造艦橋の中層に高角砲を集中配置するなど新機軸が取り込まれ、その結果、やや重心が高くなってしまった。

結果、操艦と射撃精度にやや課題が発生する結果となった。

そのため当初4隻の建造予定が見直され、2番館までで建造を打ち切りとし、3番艦・4番艦に対しては設計変更が行われた。これらは高千穂級巡洋戦艦として建造された。

 

艦政本部案 巡洋戦艦 信貴

海軍艦政本部藤本少将が中心となって設計した。このため藤本案と呼ばれることもある。40,000トン、30ノット等、設計の基本要目はもちろん平賀案と同様である。

平賀案と異なり、比較的広い範囲をカバーする防御構造を持ち、主砲は3連装砲塔3基9門、副砲はすべて砲塔形式とした。

 

「信貴」1隻が試作発注され、同型艦はない。兵装・機関配置等、後に大和級戦艦の設計に影響があったとされている。

(1936-, 40,000t, 30knot, 16in *3*3, 190mm in 1:1250 semi-scratched based on C.O.B.Constructs and Miniatures /3D printing model)

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高千穂級巡洋戦艦高速戦艦):改畝傍級

畝傍級には、上述のような課題が発見され、 特に上部構造の改修に力点が置かれた設計の見直しが行われた。

こうして、畝傍級3•4番艦は高千穂級として建造された。両艦は「高千穂」「白根」と命名された。

 

主要な設計要目は畝傍級と同じで、40,000トンの船体に16インチ砲を10門搭載し、船体配置の若干の見直しにより、より大型の機関を搭載することができ、速力は32ノットを発揮することができた。副砲は畝傍級同様、砲塔形式とケースメイト形式の混載としたが、後に対空兵装の必要性が高まるにつれ、対空兵装への置き換えが行われた。

(1939-, 40,000t, 32knot, 16in *3*2+16in *2*2, 2 ships,, 193mm in 1:1250 semi-scratched based on Superior)

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(直上:新造時の高千穂級)

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 (直上:改装後の高千穂級:副砲塔を撤去し、対空兵装を集中装備した)

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 (高千穂級高速戦艦2隻:白根(手前:対空兵装強化後の姿、高千穂(奥:新造時))

 

こうして金剛級代艦は都合5隻が建造された。

いずれも条約切れ後の就役となったため、最終的に金剛級の4隻との代替とはならず、金剛級もその持ち前の高速性能から第一線にとどまるべく数次に渡る改装を経て現役にあり、結果、日本海軍は都合9隻の巡洋戦艦高速戦艦)を保有することになった。

奇しくも、この時点で八八艦隊計画は、当初の形とは異なる形ではあったが、八九艦隊として一応の完成を見た。